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手切れ金
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「手切れ金ならくれてやる。今すぐ出て行け」
いつもは柔らかく響く彼の声が、まるで鋭利な刃物のように胸を突き刺した。
その言葉を聞いた瞬間、久しぶりの逢瀬に浮かれていた僕の心はびしりと音を立てて固まってしまった。
◇◇◇◇◇
貴族の端くれに生まれたものの、ジゼルの人生はあまり恵まれていたとは言い難いものだった。父は幼い頃に事故で亡くなり、母は病弱で床に伏せがち。祖父母も頼れる親戚もおらず、傾きかけた屋敷をほんのわずかな蓄えでなんとか維持している、そんな家に生まれた。
商家のほうがよほど暮らし向きが良いだろう。それでもなんとかやり繰りしていたが、ジゼルか上級学校に通うことになり、いよいよ生活が立ち行かなくなった。学校なんて行かなくていいとどれだけ言っても、父と同じところに行かせたいのだと母に泣かれると強く反論も出来なかった。
だが先立つものがなくては食事すら用意できない。背に腹は変えられないと、父が生前に買った絵画を美術商に売りにいくことを決めたのも、ちくりと胸を刺すことではあったがしょうがないことだった。
古びた店の奥、太った店主に頭の天辺から爪先までをじろじろ眺められた後、あまり多くない金額を告げられる。そんなものかと少しの落胆を感じながら頷くと……ふわりと甘い香りとともに低い声が響いた。
『––あまり、阿漕な商売は感心しないな』
かつ、と革靴の底が床に打ち付けられる音とともに現れたのは、ジゼルよりも頭二つほど背の高い美丈夫だった。
黒豹を思わせる、撫で付けられた黒髪に深い緑の瞳。仕立ての良い服に覆われた分厚い体からは、自信が満ち溢れているようだ。
見るからに上質な男に唐突に声を掛けられて、ただ固まっていると、彼は店主に厳しい視線を向けた。ジゼルの存在を気にしないかのように交わされる彼らの話の内容で、どうやら先ほど提示された金額は、相場の一割にも満たない額だったらしいとようやく気がついた。
『余計なお世話かもしれないけど、君さえよかったら、その絵を買い取らせてくれないか?』
店主とひとしきり話した彼は、くるりとジゼルの方を向くとそう告げた。その穏やかだけど男らしい笑顔に、僕は惚けたように頷くしかできなかった。
アルバートと名乗った彼に、まごつきながらジゼルと名前を告げる。ただ絵画を買うだけかと思ったアルバートは、ごく自然にジゼルの身の上話を聞き出した。絵が父の形見であることを知ると少し目を見開いて、それなら彼の屋敷まで見にくるといいと言ってくれて。その言葉を真に受けて何度か彼のもとを訪れているうちに……体の関係ができていた。
それまで誰かと手を繋いだことすらなかった。人を好きになることなんて、恋をすることなんて物語の中のできごとのようだった。だけどアルバートと出会って、とめることが出来ないほど他人に惹かれるということを知った。自分の心が制御できないという感覚は、生まれて初めてだった。男同士で、しかも彼と自分では見た目も立場も全く釣り合わない。彼は若く美しく、また貴族の中でもとりわけ裕福だった。アルバートのことを知れば知るほど彼に惹かれ、同時にはじめての恋が実る可能性などないのだと絶望に打ちひしがれた。
––だというのに。想うことすら失礼だと心を押し込めていたのに、アルバートに抱かれてしまって、あまつさえ恋人という称号すら与えられたのだ。彼が何を思って自分に手をつけたのか、本気で恋人だなんて思っているのか分からなかったけれど、彼に甘い声で好きだよと囁かれると全てがどうでもいいと思えた。たとえ遊びでも気まぐれでも、触れ合えた夜は喜びでおかしくなってしまいそうだった。
それが一年と少しの前の話だ。
彼はいつも優しく、ジゼルの家の窮状を知ってからは惜しみなく援助をし、また年長者としてジゼルを見守ってくれていた。
……なのに。
「聞こえてるのか? 二度とここへは来るな。もう顔も見たくない」
駄目押しのように冷たい言葉を重ねられ、夢から覚めたように彼の顔を仰ぎ見た。今までに見たことのない冷ややかな視線。憎らしいとでも言うような刺々しい雰囲気。つい数日前までは甘く愛を囁いていた恋人と、とても同じ人とは思えないほど。
その態度を見て、背筋にひやりとしたものが走った。
……あの噂を聞いてしまったんだろうか。
真っ先に脳裏に浮かんだのは、最近、口さがない人々の間で囁かれている噂のことだった。
『没落貴族の息子が、体を使ってアルバート様を誑かしている』
たしかそんなものだった。人によってはジゼルが狡猾な男娼のように言われていたり、また別の人にはアルバートが少年に見境なく手を出す色狂いのように言われていたり。どれも愉快なものではなかったから、耳を塞ぎ聞かないようにしていたのに。まさか彼のもとまで噂が届いてしまうなんて。
違います。僕は決して、不純な想いであなたに近づいたわけじゃない。本当にあなたをお慕いしていたから、だから……。
そう言いつのろうとして、だが口から言葉が出てこなかった。
だって何が違うと言うのだ。彼と関係をもってから、アルバートはジゼルを過剰なほど目を掛けて甘やかしてくれた。それは優しい言葉や触れ合いだけじゃなくて、ジゼルの家への支援もそうだ。今だって身につけているジェストコールもその下のジレだって彼から贈られたものだ。ねだったつもりはなかったけれど、みすぼらしい格好で彼の周りをうろついて、わざとらしいと思われていたのかも知れない。愛を証明するなら、今すぐに支援された金を返せと言われてもそれもできない。
父のいないジゼルがのうのうと学校に通っていられるのは、全てアルバートのお陰だった。少しでも彼の負担を減らしたいと猛勉強し、来年からは奨学金が得られることになったけれど、今まで与えられた恩を返せるのはまだ何年も先のことだ。なんで彼がそれまで待ってくれていると思えたんだろう。自分の呑気さに嫌気がさす。噂を聞いた彼が目を覚ましてしまってもおかしくはない。
「ご、ごめんな、さい……」
謝罪の言葉が嫌に軽く響いた気がした。本当に心から謝りたいのに、自分には空虚な言葉を吐き出すしかできない。心から、あなたを真摯に想っていたんです。そう告げたくても気持ちを証明することもできず、そのことが悲しかった。
本当に彼を騙すために近づいた男娼にでもなった気分だ。いや、散々与えられるだけ与えられて、男娼と何が違うというんだ。何も返すことができない存在なのは真実なのだから。
「分かったら早く立ち去ることだな。馬車は用意してやる」
鼻で嗤うように告げられて、のろのろと頭を下げると扉へと足を進めた。指先が酷く冷えていて、何度も開けたことのある扉がいつもよりも重く感じた。
せめて最後に一目だけ、と彼の方を振り向いたけれど、背を向けられていて顔を見ることはかなわなかった。もうこちらを見たくもないということか。そのことに、痛む胸が更に血を吹いたようだった。
この一年のことは夢だったのだと、すっきりと諦められたらどれだけ楽だろう。もとから長く続くような関係じゃなかった。男同士で立場に差があって。いっときでも恋人と呼ばれることの方が奇跡のようなものだったんだ。なのにあまりに幸せでそのことをすっかり忘れていた。
油断すると涙がこみ上げてきそうで、固く唇を引き結ぶと、長い廊下を早足で進んだ。
本当に好きだったんです。打算も計算もなく。あなたに出会えて、諦めかけていた人生を捨てずにいられたんです。迷惑をかけるつもりも、普段になるつもりもなかったんです。そう言いたい。でもそのことを伝えることすらできない。彼にとってはジゼルなんて花に群がる虫のような存在で、最後に別れる時に軽蔑されることになってしまった。言い訳すらできず、それが悲しくて悔しくて泣き出してしまいそうだ。
「ジゼル様、どうぞこちらに」
俯いたまま足を進めていくと、玄関ホールの前でアルバートの従者が静かに立っていた。ああ、馬車を用意してくれると言っていた。こんな時に優しさなんて見せず、犬でも捨てるかのように叩き出してくれればいいのに。でないと未練がましく彼のことをいつまでも想ってしまいそうだ。
「送りは不要です。歩いて帰ります」
「私がアルバート様に怒られますので」
従者の横をすり抜けて帰路に着こうとするが、やんわりと、だがはっきりとした口調で行く手を阻まれる。汚い顔で泣きながらアルバートの屋敷を飛び出して、これ以上の醜聞になったら困るとでも思っているんだろうか。アルバートの迷惑になるような真似をするつもりはないけれど、喉の奥までせり上がった嗚咽を家まで我慢できるとは思えなくて、立ち塞がる従者の顔を見ないまま小さく頷いた。
彼とともに何度も乗った馬車に一人で……ましてもう二度と乗ることは無いのだと思いながら座るのは拷問のようだ。家に帰したくない、屋敷に部屋を用意するから住んでしまえばいい、学校を卒業したらこちらに移って欲しい。アルバートに甘く囁かれたその言葉たちを真剣に受け取っていたわけじゃない。寝物語、その場限りのことだと分かっていた。だけどほんの僅かに期待していたことは事実で、もう顔を見ることすらできなくなるなんて、その時は考えてもいなかった。
ぎしりと重たい音と共に馬車が止まった。断頭台へと歩くような重い足取りで、夢から現実へと足を向ける。なんとか涙を堪えたまま馬車から這い出ると、苦い顔をした従者が外で待っていた。
「アルバート様からです」
小さな封筒を渡される。まさか最後に手紙をしたためてくれたのか。
慌てて受け取り、彼の心の片鱗だけでも感じられればと封を開けて……今日はもう何度目か分からない落胆に打ちひしがれた。中から出てきたのは別れの言葉ですらなく、見たこともないほどの数字の並ぶ小切手だった。
ああ、そう言えば手切れ金を渡すと言われていた。それで精算してやると。
少しでも彼が、自分に対して『恋人』として向き合ってくれたと、手紙を贈ってくれるなど、なぜこの期に及んで期待したのか。彼は確かに告げていたじゃないか。ジゼルと彼の間には心の繋がりなんてない、と。見知らぬ人々が囁く噂こそが、真実だと。
「いりません」
震える声で従者に返そうとすると、彼は固い顔で首を横に振る。
……こんな大金、自分にそれ程の価値があるとは思えない。書き記された金額は、それこそ卒業するまでの学費と生活費を賄える程のものだった。
だけどそもそも、自分がこの金額の小切手を換金しようとしても、盗難か偽造かを疑われるのがオチだろう。アルバートを確認のために呼ばれて、より一層気まずい思いをお互いにするだけだ。彼は金も立場もない人間がどんな扱いを受けるか知らないんだろう。
馬車を断ることすらさせてくれなかった従者が小切手を返させてくれるはずもなく、掌には虚しく数字が並ぶ紙切れだけが残された。
これを返すということを口実に、もう一度だけ会えないだろうか。……そんなことをしても、嫌われるだけと分かっているのに。あまりに未練がましい心を押さえつけて、掌の中の紙をくしゃりと握り潰した。
いつもは柔らかく響く彼の声が、まるで鋭利な刃物のように胸を突き刺した。
その言葉を聞いた瞬間、久しぶりの逢瀬に浮かれていた僕の心はびしりと音を立てて固まってしまった。
◇◇◇◇◇
貴族の端くれに生まれたものの、ジゼルの人生はあまり恵まれていたとは言い難いものだった。父は幼い頃に事故で亡くなり、母は病弱で床に伏せがち。祖父母も頼れる親戚もおらず、傾きかけた屋敷をほんのわずかな蓄えでなんとか維持している、そんな家に生まれた。
商家のほうがよほど暮らし向きが良いだろう。それでもなんとかやり繰りしていたが、ジゼルか上級学校に通うことになり、いよいよ生活が立ち行かなくなった。学校なんて行かなくていいとどれだけ言っても、父と同じところに行かせたいのだと母に泣かれると強く反論も出来なかった。
だが先立つものがなくては食事すら用意できない。背に腹は変えられないと、父が生前に買った絵画を美術商に売りにいくことを決めたのも、ちくりと胸を刺すことではあったがしょうがないことだった。
古びた店の奥、太った店主に頭の天辺から爪先までをじろじろ眺められた後、あまり多くない金額を告げられる。そんなものかと少しの落胆を感じながら頷くと……ふわりと甘い香りとともに低い声が響いた。
『––あまり、阿漕な商売は感心しないな』
かつ、と革靴の底が床に打ち付けられる音とともに現れたのは、ジゼルよりも頭二つほど背の高い美丈夫だった。
黒豹を思わせる、撫で付けられた黒髪に深い緑の瞳。仕立ての良い服に覆われた分厚い体からは、自信が満ち溢れているようだ。
見るからに上質な男に唐突に声を掛けられて、ただ固まっていると、彼は店主に厳しい視線を向けた。ジゼルの存在を気にしないかのように交わされる彼らの話の内容で、どうやら先ほど提示された金額は、相場の一割にも満たない額だったらしいとようやく気がついた。
『余計なお世話かもしれないけど、君さえよかったら、その絵を買い取らせてくれないか?』
店主とひとしきり話した彼は、くるりとジゼルの方を向くとそう告げた。その穏やかだけど男らしい笑顔に、僕は惚けたように頷くしかできなかった。
アルバートと名乗った彼に、まごつきながらジゼルと名前を告げる。ただ絵画を買うだけかと思ったアルバートは、ごく自然にジゼルの身の上話を聞き出した。絵が父の形見であることを知ると少し目を見開いて、それなら彼の屋敷まで見にくるといいと言ってくれて。その言葉を真に受けて何度か彼のもとを訪れているうちに……体の関係ができていた。
それまで誰かと手を繋いだことすらなかった。人を好きになることなんて、恋をすることなんて物語の中のできごとのようだった。だけどアルバートと出会って、とめることが出来ないほど他人に惹かれるということを知った。自分の心が制御できないという感覚は、生まれて初めてだった。男同士で、しかも彼と自分では見た目も立場も全く釣り合わない。彼は若く美しく、また貴族の中でもとりわけ裕福だった。アルバートのことを知れば知るほど彼に惹かれ、同時にはじめての恋が実る可能性などないのだと絶望に打ちひしがれた。
––だというのに。想うことすら失礼だと心を押し込めていたのに、アルバートに抱かれてしまって、あまつさえ恋人という称号すら与えられたのだ。彼が何を思って自分に手をつけたのか、本気で恋人だなんて思っているのか分からなかったけれど、彼に甘い声で好きだよと囁かれると全てがどうでもいいと思えた。たとえ遊びでも気まぐれでも、触れ合えた夜は喜びでおかしくなってしまいそうだった。
それが一年と少しの前の話だ。
彼はいつも優しく、ジゼルの家の窮状を知ってからは惜しみなく援助をし、また年長者としてジゼルを見守ってくれていた。
……なのに。
「聞こえてるのか? 二度とここへは来るな。もう顔も見たくない」
駄目押しのように冷たい言葉を重ねられ、夢から覚めたように彼の顔を仰ぎ見た。今までに見たことのない冷ややかな視線。憎らしいとでも言うような刺々しい雰囲気。つい数日前までは甘く愛を囁いていた恋人と、とても同じ人とは思えないほど。
その態度を見て、背筋にひやりとしたものが走った。
……あの噂を聞いてしまったんだろうか。
真っ先に脳裏に浮かんだのは、最近、口さがない人々の間で囁かれている噂のことだった。
『没落貴族の息子が、体を使ってアルバート様を誑かしている』
たしかそんなものだった。人によってはジゼルが狡猾な男娼のように言われていたり、また別の人にはアルバートが少年に見境なく手を出す色狂いのように言われていたり。どれも愉快なものではなかったから、耳を塞ぎ聞かないようにしていたのに。まさか彼のもとまで噂が届いてしまうなんて。
違います。僕は決して、不純な想いであなたに近づいたわけじゃない。本当にあなたをお慕いしていたから、だから……。
そう言いつのろうとして、だが口から言葉が出てこなかった。
だって何が違うと言うのだ。彼と関係をもってから、アルバートはジゼルを過剰なほど目を掛けて甘やかしてくれた。それは優しい言葉や触れ合いだけじゃなくて、ジゼルの家への支援もそうだ。今だって身につけているジェストコールもその下のジレだって彼から贈られたものだ。ねだったつもりはなかったけれど、みすぼらしい格好で彼の周りをうろついて、わざとらしいと思われていたのかも知れない。愛を証明するなら、今すぐに支援された金を返せと言われてもそれもできない。
父のいないジゼルがのうのうと学校に通っていられるのは、全てアルバートのお陰だった。少しでも彼の負担を減らしたいと猛勉強し、来年からは奨学金が得られることになったけれど、今まで与えられた恩を返せるのはまだ何年も先のことだ。なんで彼がそれまで待ってくれていると思えたんだろう。自分の呑気さに嫌気がさす。噂を聞いた彼が目を覚ましてしまってもおかしくはない。
「ご、ごめんな、さい……」
謝罪の言葉が嫌に軽く響いた気がした。本当に心から謝りたいのに、自分には空虚な言葉を吐き出すしかできない。心から、あなたを真摯に想っていたんです。そう告げたくても気持ちを証明することもできず、そのことが悲しかった。
本当に彼を騙すために近づいた男娼にでもなった気分だ。いや、散々与えられるだけ与えられて、男娼と何が違うというんだ。何も返すことができない存在なのは真実なのだから。
「分かったら早く立ち去ることだな。馬車は用意してやる」
鼻で嗤うように告げられて、のろのろと頭を下げると扉へと足を進めた。指先が酷く冷えていて、何度も開けたことのある扉がいつもよりも重く感じた。
せめて最後に一目だけ、と彼の方を振り向いたけれど、背を向けられていて顔を見ることはかなわなかった。もうこちらを見たくもないということか。そのことに、痛む胸が更に血を吹いたようだった。
この一年のことは夢だったのだと、すっきりと諦められたらどれだけ楽だろう。もとから長く続くような関係じゃなかった。男同士で立場に差があって。いっときでも恋人と呼ばれることの方が奇跡のようなものだったんだ。なのにあまりに幸せでそのことをすっかり忘れていた。
油断すると涙がこみ上げてきそうで、固く唇を引き結ぶと、長い廊下を早足で進んだ。
本当に好きだったんです。打算も計算もなく。あなたに出会えて、諦めかけていた人生を捨てずにいられたんです。迷惑をかけるつもりも、普段になるつもりもなかったんです。そう言いたい。でもそのことを伝えることすらできない。彼にとってはジゼルなんて花に群がる虫のような存在で、最後に別れる時に軽蔑されることになってしまった。言い訳すらできず、それが悲しくて悔しくて泣き出してしまいそうだ。
「ジゼル様、どうぞこちらに」
俯いたまま足を進めていくと、玄関ホールの前でアルバートの従者が静かに立っていた。ああ、馬車を用意してくれると言っていた。こんな時に優しさなんて見せず、犬でも捨てるかのように叩き出してくれればいいのに。でないと未練がましく彼のことをいつまでも想ってしまいそうだ。
「送りは不要です。歩いて帰ります」
「私がアルバート様に怒られますので」
従者の横をすり抜けて帰路に着こうとするが、やんわりと、だがはっきりとした口調で行く手を阻まれる。汚い顔で泣きながらアルバートの屋敷を飛び出して、これ以上の醜聞になったら困るとでも思っているんだろうか。アルバートの迷惑になるような真似をするつもりはないけれど、喉の奥までせり上がった嗚咽を家まで我慢できるとは思えなくて、立ち塞がる従者の顔を見ないまま小さく頷いた。
彼とともに何度も乗った馬車に一人で……ましてもう二度と乗ることは無いのだと思いながら座るのは拷問のようだ。家に帰したくない、屋敷に部屋を用意するから住んでしまえばいい、学校を卒業したらこちらに移って欲しい。アルバートに甘く囁かれたその言葉たちを真剣に受け取っていたわけじゃない。寝物語、その場限りのことだと分かっていた。だけどほんの僅かに期待していたことは事実で、もう顔を見ることすらできなくなるなんて、その時は考えてもいなかった。
ぎしりと重たい音と共に馬車が止まった。断頭台へと歩くような重い足取りで、夢から現実へと足を向ける。なんとか涙を堪えたまま馬車から這い出ると、苦い顔をした従者が外で待っていた。
「アルバート様からです」
小さな封筒を渡される。まさか最後に手紙をしたためてくれたのか。
慌てて受け取り、彼の心の片鱗だけでも感じられればと封を開けて……今日はもう何度目か分からない落胆に打ちひしがれた。中から出てきたのは別れの言葉ですらなく、見たこともないほどの数字の並ぶ小切手だった。
ああ、そう言えば手切れ金を渡すと言われていた。それで精算してやると。
少しでも彼が、自分に対して『恋人』として向き合ってくれたと、手紙を贈ってくれるなど、なぜこの期に及んで期待したのか。彼は確かに告げていたじゃないか。ジゼルと彼の間には心の繋がりなんてない、と。見知らぬ人々が囁く噂こそが、真実だと。
「いりません」
震える声で従者に返そうとすると、彼は固い顔で首を横に振る。
……こんな大金、自分にそれ程の価値があるとは思えない。書き記された金額は、それこそ卒業するまでの学費と生活費を賄える程のものだった。
だけどそもそも、自分がこの金額の小切手を換金しようとしても、盗難か偽造かを疑われるのがオチだろう。アルバートを確認のために呼ばれて、より一層気まずい思いをお互いにするだけだ。彼は金も立場もない人間がどんな扱いを受けるか知らないんだろう。
馬車を断ることすらさせてくれなかった従者が小切手を返させてくれるはずもなく、掌には虚しく数字が並ぶ紙切れだけが残された。
これを返すということを口実に、もう一度だけ会えないだろうか。……そんなことをしても、嫌われるだけと分かっているのに。あまりに未練がましい心を押さえつけて、掌の中の紙をくしゃりと握り潰した。
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