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復縁
しおりを挟む衝動のまま握り潰した小切手は、結局引き出しの奥に仕舞われることとなった。
小切手を返すことを口実に会いに行くことも勇気がなくてできない。かと言って破り捨ててしまうことも、彼から最後に貰ったものだと思うとできなかった。心の傷を抉るだけの思い出の品だ。そう分かっていてもどうにも意気地がなくて先に進めない。アルバートに出会う前の自分に戻ってしまったようだった。
だが時は止まってくれることはなく、季節が一つ過ぎ去った。アルバートに新しい恋人ができたとか、あちこちで酒を飲み歩いているだとか、口さがない人たちの言葉が風に乗ってジゼルのところにも届くようになった。
だけどジゼルには何もできることはない。正直に言えば、恋人ができたと聞いた時は涙が溢れてしかたなかった。もう自分のことなど、彼は忘れてしまったのだと突きつけられた。『男娼』ではなく恋人だと呼ばれるということは、新しい恋人は自分よりはずっとまともな相手なんだろう。美しい女性かもしれないし、才気あふれる青年かもしれない。いずれにせよジゼルにできることはアルバートの幸せを祈ることだけだ。
ようやくそう思えた頃、ジゼルは新たな学年へと進級する時期を迎えた。
ふわ、と暖かく穏やかな風が頬を撫でる。赤茶けたレンガの敷き詰められた、学校から家へと続く道を、ただひたすら俯いて足を動かす。もうすっかり歩き慣れたはずの道のりなのにひどく長く感じた。
道すがらに頭に浮かぶのはアルバートのことばかりだ。少し前までは、アルバートに釣り合いたい一心で通った学校は、一気に色褪せてしまった。彼の負担になりたくない、あわよくば優秀だと褒められたい。そんな下心で奨学金まで勝ち取ったけれど、アルバートにそれを伝える前に捨てられてることとなるとは。やはり不純な気持ちで取った行動は報われることはないんだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
貴族が多く通う上級学校では特に親しい友人もいない。このままどこか遠くへ行って消えてなくなってしまっても誰も気がつかないだろう。
……なら、いっそもう、学校も辞めてしまおうか。
母は泣くだろうけど、目的もないまま通い続けるのも全てが虚しい気がした。こんな気持ちで卒業まで奨学金を貰い続けられるかも分からない。
学校を続けようが辞めようが、ジゼルに明るい未来なんてないし、どのみちアルバートに愛されることはないのだから。それなら日銭を稼ぎに出たほうがマシなのかもしれない。
だが鬱々とした気持ちを抱えながら家へとたどり着くと……どこかで見たことのある馬車が家の前に停まっていた。
まさか。
いや、そんな筈はない。
ありえない。
……アルバートの馬車に似ている気がするけど、そんなことはありえない。
だって自分は縁を切られたのに。
期待と不安に跳ねそうになる心臓を無理やり押さえつけて、家の扉をくぐると、普段は伏せっている母が駆け寄ってきた。
「ジゼル、あなた一体なにをしたの」
「なにって?」
「アルバート様がいらっしゃって、ジゼルはどこにいるのかって仰って……。酷くお怒りのようなのよ」
急かされるままに自室へと向かう。マナー違反だと分かっていながら、そっと薄く扉を開くと。もう二度と会えないと思ったアルバートが立っていた。
久しぶりに見る彼は、相変わらず堂々とした男らしい美しさがあって、ジゼルはため息を吐きそうになるのを押し殺した。
彼はジゼルがこっそりと覗き見ていることには気が付かず、決して広くはない室内で佇んでいる。なぜかジゼルのライティングデスクの前に立ち、どこか苦しそうな顔をして、腕を伸ばしてその古ぼけた机を指先で撫でていた。父から引き継いだ机はジゼルによって更に使い込まれ、決して美しいものではない。そもそも元からさほど高価なものではなかった。それなのに彼は、まるでその机が大切なものかのように繰り返し撫でていた。
どうしてあんなに……切なそうな顔をして触れているんだろう。
アルバートの不可解な行動をただぼんやりと眺めていると、ジゼルの視線に気がついたのか、不意に彼は顔を上げた。
「……ジゼル」
ああ、しまった。覗き見をしていたことがバレてしまった。
自分の部屋ではあるけれど不躾なことをした気まずさにぎくりと肩が跳ねる。だがアルバートも同じように気まずそうな表情で腕を机から離すと、ひとつ咳払いをして険しい顔をつくった。
気のせいだろうか、少しやつれた気がする。噂では公私共に充実しているはずなのに。忙しすぎるんだろうか。
「アルバート様、その、お久しぶりです」
恐る恐る部屋へと踏み入り、なんて声をかけたらいいのか分からないまま言葉を口にする。
ジゼルの挨拶が気に入らなかったのか、彼は無言で眉をぴくりと跳ね上げた。
じっと睨めつけられて背筋に嫌な汗が流れる。ただでさえ美形のアルバートに睨まれると緊張するのに、今みたいに不機嫌をあらわにされると、その迫力に逃げ出したくなる。
「……なぜだ」
彼が怒っている、ということは母から聞いていた。つまり友人として会いにきたわけでも、よりを戻しに来たわけでもないことは分かっていた。期待することもなかった。あるとすれば、ジゼルが別れた後も何かしらアルバートの気に食わないことをして怒らせて、その文句を言われることくらいだろう。軽蔑して捨てた相手だ。
「なにが、ですか?」
急に『なぜ』と言われても分からず尋ね返すと、大きな舌打ちが聞こえる。本当にただ思い当たることがなかったのだけど、察することのできない自分の愚鈍さに更に身を縮こまらせた。
「手切れ金を渡しただろう」
アルバートは厳しくジゼルを睨んだままそう呟いた。
……手切れ金。
そうだ、受け取ったままにしてしまっていたんだ。
やっぱりあんな大金を渡すなんて無駄だと気が付いたのか。『なぜ』返しにこないのか、ということか。
破り捨ててしまわなくて良かったと息を吐く。すぐに返します。そう言おうと肩の力を抜いた時。アルバートは扉の前に立ち尽くしていたジゼルの方へと足を進めてきた。
「なんで使わない。学費はどうやって用意したんだ」
「へ? え、あ、」
苛立ちを隠さないまま、アルバートはつかつかと側へと近寄ってくる。近い距離で睨まれて思わず後ずさると、両手で肩を掴まれた。
「その、今学期は必要がなくて……」
付き合っている時には見たことのない乱暴さに背筋が震える。青い顔をしてつかえながら答える。だがその答えを聞いたアルバートは、より一層ぴりぴりした空気を体から立ち上らせた。
「必要ない……? 簡単に工面できる額じゃないだろう。まさか、他に支援する者でも見つけたのか」
ぎらぎらと光る瞳で睨み付けられる。掴まれた肩に彼の指先が食い込んで痛む。だけど彼の発した言葉の衝撃に、そんなことは吹き飛んでしまった。
「な、そんなこと、」
あるわけない。
たしかにアルバートに支援してもらっていた。でもそれは本当に偶然に彼と恋に落ちて、彼からの申し出に甘えて助けてもらっていたのだ。決して助けてもらいたくて彼と付き合ったわけじゃない。同じく、ジゼルは他の誰かにも、助けを請うつもりはなかった。
……だけどやはりアルバートの目には、ジゼルは噂の通り男娼のように映っていたのか。アルバートに捨てられたから、別の誰かを探したんだと思われたのか。
もうすでに別れているのにまるで追い討ちをかけるような言葉に、心がぎしりと痛んだ。
「アルバート様には関係のないことです」
歯を食いしばってそう告げる。心をこれ以上踏み荒らされたくなかった。
涙がこぼれそうになるのを耐えて、掴まれた腕を振り払おうと身を捩る。もう放っておいてほしい。そう叫ぼうかと思って視線を上げると、苦しそうな顔をしたアルバートと目があった。
「関係ある。くそ、何の為に俺が手を引いたと思ってるんだ」
彼の口から小さく罵る言葉がいくつか吐き出される。
手を引いたとは、どういうことだろうか。何から。それになんでこんなに辛そうなんだろうか。
「その相手とはすぐに手を切ってこい。そもそもどこの誰なんだ。そいつは、お前が俺と付き合っていたことを知ってお前に手を出しているのか。……いや、いい。どのみち、お前を弄ぼうとしている薄汚い男だ。誰であろうと許す気はない」
手を切ってこい?許す気はない?なんで別れた相手にそんなことを言われなければいけないんだ。ジゼルが別れて早々に他の人間に尻尾を振っては、アルバートの評判が下がるとでも思っているのか。
「ジゼル、聞いているのか?」
「聞いています。けど、迷惑はかけないから放っておいてください」
「駄目だ」
肩を握るアルバートの力はますます強くなり、押さえつけようとする勢いで壁に押しつけられる。
「いいか、立場を利用してお前を好きにする奴なんて碌な人間じゃない。ジゼルは義理堅いから、優しくされなら相手に申し訳ないなんて思って断れないだろう。だがな、大人の男は下心をいくらでも巧妙に隠せるんだ」
「は……?」
突然説得するように滔々と告げられる。なんでそんな事を言われるのか分からなくて、そうですか、と間抜けな言葉が口から溢れた。
「学費は俺からの手切れ金で賄えるだろう。足りなければまた用意する。他に困っていることがあれば俺が助けるから、新しい相手とは別れるんだ」
そこまで一息に言ったアルバートは、でないと、と苦しげに眉を寄せた。
「ジゼルがどれだけ必死に努力してきたかも知らないような人々に、また好き勝手言われてしまう。そんなのは耐えられないだろう」
だからしっかりと手を切るんだ。
そんなことをともすれば必死に見えるほど繰り返し告げるアルバートに、ジゼルはしばらく呆然として、それから少し戸惑いながら口を開いた。
「別に他人に何を言われても僕は気にしません。噂に真実が含まれていないことは、よくあることですから」
「そんな訳にはいかない。学校内で悪評が立ったらどうする。ジゼルの将来に関わるかもしれないんだ」
「悪評なんて……もう退学してしまおうかと思ってたので、それこそどうでもいいことです」
ジゼルの言葉にアルバートは大きく目を見開く。そして信じられないとでもいいたげに掠れた声をだした。
「退学……そんな、なぜ」
肩に食い込んでいた指先の力が抜ける。動揺を隠すこともできない男に、ジゼルはゆっくりと言葉を紡いだ。
「さっき大人の男は下心があると仰ってましたよね。僕も男ですから同じです。あなたに釣り合いたくて、負担になりたくなくて必死に勉強してたんです。別に勉強が好きな訳じゃなくて。だからアルバート様に捨てられてしまった今になっては、もうどうでもいいことなんですよ」
母に請われて入った学校だけど、いつからかアルバート様が理由になっていた。もし彼がいなかったら、もっと早く辞めてしまっていただろう。それに学校だけでなくジゼルの生活の全てはアルバートがいなければどうでもいいことになっていた。
「駄目だ……駄目だよ、ジゼル。若くて優秀なおまえには、いくらでも未来があるんだから」
「アルバート様が居なければ、未来なんてないのと一緒です」
アルバートに会わなければ、どのみち未来なんてなかったんだから。そう心から思っているのに、アルバートはどこか青ざめた顔で、狼狽したように首を何度も横に振った。
そんなことを言ってはいけない。俺なんかに搾取されてはいけない。ジゼルはまだ子供だから分かっていないんだ。いつか俺のことが汚点になる。だがそうなっても離してやれなくなってしまう。
まるでうわ言のように呟くアルバート。その言葉の意味は……まるで彼がジゼルのために別れを選んだみたいで。勘違いかもしれない。だけど、と唾を飲み込んだ。
「アルバート様……その、僕は自惚れてもいいんでしょうか。あなたが僕の為を思って別れたんだって」
その言葉にびくりとアルバートの肩が跳ねる。その狼狽た顔で光る瞳は、ジゼルに無感情に冷たく別れを告げた時の彼とは全く違って、まだジゼルと付き合っていた頃……毎日のように好きだと囁いてくれていた頃のような優しさがあった。そのことに背中を押されて言葉を重ねる。
「もしアルバート様が僕に愛想が尽きて捨てたなら諦めます。でもそれならもう学校は辞めます。どこかの悪い人と付き合うかもしれません、さっきあなたが言ってたみたいな。それでもアルバート様は気になさらないですよね。捨てた相手なんですから」
試すような言葉。生意気だと思うようなそれにも、アルバートは眉を下げて、駄目だ駄目だと口の中で小さく呟いていた。
「僕のことが嫌いになったんじゃないなら、そばにいさせて下さい。アルバート様がいれば、僕は将来なんていらないんですから」
思い切ってそう言うと、アルバートは暫く苦悩するように唇を噛み締めて、それから大きなため息と共に肩の力を抜いた。
「俺は、今ならまだ手を切っててあげられたのに……後で悔いてももう別れられないからな」
弱ったような、だけどほんの少し暗いものを隠し持ったような声で囁かれた。
手を切ってあげないのはこちらの台詞だりどれだけ切ろうとされても、また繋ぎ直してしまおう。あなたが僕のことを好きな限り。
そう思って、彼の首へと腕を回した。
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わ~!Mikiさん!ありがとうございます♡
とんでもないです!わわ!そう言ってくださって嬉しいです…🥰
何度も読み返していただけるの、本当に作者冥利につきます。本当にありがとうございます…!!!
すれ違いにキュンキュンしました💓
ありがとうございます☺️キュン🫰としていただけて嬉しいです!