Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

14.ためらい 2

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 数日、調子の悪い日が続いた。

 電車の乗り継ぎがとても良かった。その日は七時からの貸し切りだったのに、僕は六時半よりも少し早くリンクについた。
 今から一般営業で滑ろうか……。最近調子が悪いから、できればもう少し滑った方がいい……。
 チケット売り場の前で立ちすくんだ。たった三十分であっても料金は一日分だ。
 中は混んでいるだろうか。せっかく入っても混んでいてはできることが限られる。
 こんなこと、モミの木だったら悩まずにすむことだった。
 僕はこれまでいつだって「滑りたい」と感じた時にだけ滑ってきた。友達が一杯いて、にぎわってて、誘われて。チケットを買うよりも何よりも先に、リンクの魅力がまず目に入ってきた。あの雰囲気がなかったら、僕はスケートなんか絶対にやっていなかっただろう。
 なぜか気持ちが揺れた。

 僕が悩んでいるのは、今お金を払って滑るかどうかということのはずだった。なのに、頭に浮かぶのはモミの木で過ごした風景ばかりだった。ずっと自分を歓迎してくれていた場所からいつの間にか随分遠のいてしまっていた。このまま僕はあの場所を手放すことになってしまうのではないか。そんな不安が、僕の中をよぎっていた。

 駄目だ。とにかく今はここで滑ることを考えよう。あそこでシングルをやっていくかどうかは、またゆっくり考えればいい。よし! 払おう!
 そう決意して鞄から財布を出した時だった。
「何してんの? もうすぐ貸し切りじゃん。払わなくていんじゃね?」
 上本と平野だった。仲良くなれそうにないと一時は思ったものの、男子が少ない中で一緒に練習しているうちにそれなりに話せるようになっていた。悪い奴らではなかった。ただ、ちょっと軽い。
「え? マジで? でも今日は滑ろうと思ってんだけど」
 いいのかな……?
「でももう、何分もないじゃん」
 そう言いながら彼らは定期を出した。このまま彼らについて改札を通過してもいいのだろうか。

 その時、突然現れた人物が上本と平野の頭をはたいた。
「いーわけねーだろ。適当なこと言うな」
「わっ。南場さん」
「わーい。南場さんだ。ちわーす」
 がたいの良い、短髪の高校生位の男。滅多に会わないもう一人のレッスン生だった。

「お前らなぁ、一円の物だったら万引きしていーわけ? ったく、ちょっとは考えろよ」
 彼は軽いノリでそう言うと、僕の方をちらっと見て「君もね」と言った。
 二人は「いやー、まずかったかなー」といったような苦笑いをした。やっぱりまずかったのか。この人が通りかかってくれて良かった。僕はすぐにチケットを買った。彼も続いてチケットを買った。

「今はここでしか練習してないみたいだから、定期買うといいよ。夏場なんかは幾つかのリンクを使う時があるから、そうなると割に合わなくなるので要注意」
 僕には定期を買う予定はなかったけれど、彼はそう教えてくれた。更衣室に着くと平野が彼に尋ねた。
「南場さん、明後日の近畿大会出るんですか?」
「出ない、出ない。俺、受験生だって! じゃ、なんでこんな所にいんのって話だけど」
 南場さんは自分でそう突っ込んで笑った。
「あれ? 推薦じゃないんですか? あ、天宮は知らないだろうけど、南場さんは去年全日本まで行ったすごい人なんだぜ」
 上本はそう言って僕の方に話を振った。南場さんは僕の方を見ると困ったように
「全日本ジュニアね。行っただけだから」
 と静かに言った。
「結果、下から数えた方が早かったし。あれで推薦はないっしょ。大学はちゃんと身になるものをと思って、真面目にどっか外部受けるわ」
 口調は軽かったけど、内容は固かった。

「でも、スケートやめるわけじゃないから。大学入ったらもう一個級取って、シニアでも全日本目指せれば、とは思ってる」
 なんかすごいな、この人。他の二人とは全然雰囲気が違う。
「俺のことはいいから、他の奴は?」
 彼は明るく二人に切り返した。
「あ、きょーちゃん先輩が六級取れたの、知ってます?」
 上本が答えた。
「おー! マジか! 頑張ったじゃん」
 南場さんは声高に喜んだ。
「きょうって高一だっけ? そっかー。良かったなぁ。あとで声かけとくわ。他の奴らは? 高一っつったら――」
 突然、南場さんの視線が僕にぶつかった。
「陽向は?」
「え? 陽向さん、シングルやってるんですか?」
 もうダンスしかやっていないものだと思い込んでいた。そんなことを僕に聞かれても、僕からは驚きの言葉しか出ない。
「やってたよ。……だけど、そんなこと聞いてるんじゃないんだけど? 俺はお前に聞いてんの。近畿には出れんのかって」
「え?」
 それってつまり、アイスダンスのことを聞いているのか……? 出れるわけがない。この前始めたばかりなのだから。

「あれ? 出ないの? それとも予選免除とか?」
 その南場さんの言葉に平野が反応する。
「予選免除! なんかすげー」
 いやいやいやいや、何言ってんだ、こいつら。ほんとに、まだ始めたばかりだよ? そういう方向に持ってかれても困るんだよ。
「地方大会の予選免除くらいで、びびんなっつーの。陽向さんだぜ。あの人、国際大会にも出てんだから」
「……え?」
「近畿なんか目じゃないって。全日本で何位取れるか、世界で何位取れるかって話だろ?」
 ちょっと待て。陽向さんって、そんなにすごい人だったのか?

 言われてみれば確かに、陽向さんはただ滑っているだけでも他の人たちとは何かがまったく違っていた。よく考えてみると、それ以外にも思い当たる節はいくつもあった。僕につけられたあだ名の件、あれは金銭的な意味だけではなかったということか。僕たちのレッスンを邪魔した生徒が異常に気を使っていた件も、あれも先生を怖れてのことではなかったということか。最初にここに来た時、先生が僕のことを相手にしようとしなかったのも、当たり前すぎるくらい当たり前だったということか――?
 僕はそれまで自分が上達することしか頭になく、陽向さんがどんな人かなんて考えたこともなかった。パートナーであり、その上、練習の費用まで出してもらっているのに、随分な呑気者のんきものだと自分でもあきれた。

「何驚いたような顔してるの?」
 南場さんがいぶかしむような目で僕を見た。
「いや、僕は……その……」

 陽向さんがそこまですごい人だとして、僕は彼女に一体何を求められているのだろう。級を持っていない僕が相手じゃ、地方大会に出ることすらできない。
「そういう大会に出るのって、級とか……いるんですよね……?」
 今更そんなことを聞くなんてどうかしている、そう思いながらも、僕は恐る恐る聞いた。
「いるよ。プレシルバー」
「え? プレシルバー?」
 どういうことだ!? 近畿大会に必要なのは六級じゃなかったのか?

「プレシルバーって……? 陽向さんが受けたいと言っているシルバーと何か関係が……?」
 その問いにあきれたように上本が答えた。
「シルバーの一個前がプレシルバーだよ。ダンスの級。なんでお前そんなことも知らねーの? 陽向さん、お前がここに来るちょっと前に先生と取ってたけど? だから今度はシルバーなんだろ?」
 先生と? 昇級試験って、先生と受けれるもんなのか? 僕がいないと受けられないんじゃ……。
「いいな~。相手が級持っていればそんなすごい大会にも連れてってもらえるなんて。それも陽向さんみたいな人と」
 !?
 相手が級を持っていれば? すごい大会のくせに、片方が資格持ってるだけで出れるのか!?
「じゃあ、お前やればよかったじゃん」
 上本が平野にふざけたようにそう言うと、平野は間髪入れず「え? やだよ。ダンスなんて」と悲鳴のような声を上げた。

「ははは。だろうね~。それに陽向さんの相手はそう簡単じゃないと思うよ? どれだけ頑張らされるか。この前も、自分は五月生まれだから他の人よりも早くシニアになっちゃうって、焦ってたしね。プレシルバーで通用するのはジュニアのうちだけみたいだから。早くプレゴールド取らないとって」
 着替えが終わり廊下に出てからも、僕は呆然ぼうぜんと上本と平野のやり取りを眺めていた。
「何、ほうけてんの? もしかして何も知らなかったとか?」
 南場さんが僕に声をかけた。

 知らなかった。陽向さんのレベルも、バッジテストの持つ意味も。
 明後日の大会に出る資格が僕たちにはあったんだ。だけど、出場するだなんて話は聞いていない。今思えば、陽向さんは今年の課題のヴィニーズワルツをやりたいと言っていた。資格だけあったってだめだったんだ。きっと、あれが間に合わなければ。
 だけど僕はヴィニーズワルツを頑張ろうなどとは言われなかった。一年頑張って来シーズンの試合に出ようって、そう言われただけだ……!

 僕は悪くない。僕は何も。
 僕の中は弁解したい気持ちで一杯だった。だけどどんな言いわけをしても、自分の立場を知ろうともしなかった呑気さを逆に責められそうな気がした。
「お前さあ、大丈夫?」
 南場さんが眉を寄せた。
「俺、結構長いこと滑ってるんだけどさ、ジュニアでもノービスでも天宮制覇なんて名前、聞いたことないんだよね」
「……」
 僕は大会なんかには一切出たことがない。南場さんは僕が先生についていなかったこともどうやら知らないようだった。僕のレベルの低さは、きっと彼の想像以上だ。
 南場さんの険しい表情を目にして、僕は視線を床に落とした。

「別にこれまで無名だからって、いびろうとか思ってるわけじゃねーから。やる気があるんならね。あいつは――陽向は、聞いての通り結構な功績の持ち主だ。なのに、あいにく成果が出始めたと思った時期に怪我が続いてね、しばらくシングルに出ることができなかった。アイスダンスを始めたのはリハビリとしてだったんだよ。アイスダンスでもやらせておかないと、氷に戻ってきた瞬間からガンガンジャンプ跳んでまた再発させるような奴だからね。だけどね、きっかけは何であれ、あいつは『もうシングルには出られないからダンスでいいや』なんてぬるいことを考えるような奴じゃないから。お前が何考えてダンスやってんだか知らないけど、もしダンスをマイナー競技だと思ってなめてるんだったら、早めに目、覚ましといてくれる?」
 きつい調子でそう言われた。南場さんが悪意で僕を責めているのではないことは明らかだった。
 陽向さんの目が高い所を見ていることは、僕だって会った時から気付いていた。そうだ、ただプログラムをこなして試合に出ればいいってもんじゃないんだ。陽向さんのレベルに合う結果を出さないと。だから先生も陽向さんも今年の出場をあきらめたんだ。

「ちょっと、天馬君。人のパートナーに勝手にプレッシャーかけないでくれる?」
 突然現れた陽向さんは、そう言って南場さんをにらみつけた。
「私は私のペースでやってるから」
 いつもにこやかな陽向さんの、こんな姿は初めて見た。
 上本と平野は静かにその場から消えた。
「お前が頑張ってんのは知ってるよ。だけど、一人で頑張ったってどうしようもないだろ? 相手の要ることなんだから」
「いいの」
 陽向さんは南場さんのもっともな意見を突っぱねた。
「制覇君も天馬君の言うことなんか気にしないで、制覇君のペースで頑張ったらいいからね。パートナーとはいっても、別々の人間なんだから」
 陽向さんは僕にそう言ってくれた。そしてまたすぐ南場さんに向き直った。
「天馬君も、口で何を言ったところで自分以外の人間を思い通りに動かすことはできないの、分かってるでしょ? 制覇君は私に付きあってくれてる。それだけでも私は感謝してるんだから!」
「そんな呑気なこと言ってて、結果がついてこなくても、お前は平気でいられるのか?」
 南場さんの真剣なその問いかけに、陽向さんは悠然ゆうぜんと答えた。
「大丈夫よ。私は私でやるべき練習は続けてるわ。シルバーも、間に合わなければまた先生と取ればいいだけのことよ」

 その言葉に、僕は愕然がくぜんとした。

 よく考えてみれば、当たり前かもしれなかった。それだけのポジションにいる陽向さんが、当てになるかも分からない僕のような人間に、自分の未来を手放しでゆだねるなんてあり得ない。陽向さんが僕に優しく振る舞えるのは、彼女自身が努力を続けていて、自分の自信を維持し続けているからなのだ。たとえ僕への投資が無駄になっても、彼女は自分の夢を失うことはない。他の相手を見つけるまでだ。最初からそう言われていた。
 陽向さんの言葉は、南場さんの言葉よりよっぽど効いた。こんなことを言われて、悠長ゆうちょうにしていられる男がいるのだろうか。
「陽向さん!」
 先を行っている上に努力も上回っているような人間に追いつくには、生半可なまはんかな意気込みではだめだ。
「シルバーも来年の試合も、期待に添えるようちゃんとやります! それから、試合には連れて行ってもらうんじゃなくて、自分でそれまでに級を取ります!」

 気がつくと僕はできるかどうかも分からないことを勢いだけで口走っていた。
 それに対して陽向さんはにっこり笑った。そしてつかつかと僕の隣までやって来ると、僕の腕にすっと自分の腕を通した。
 南場さんは複雑な表情を浮かべた。
 陽向さんは勝ち誇ったようななほほえみを南場さんに向けた。
 そして「じゃ、ね」と言い残すと、腕組みした僕を引っ張ってリンクへ連れて行った。

「制覇君。級が取りたいんだったら、いったん外してもらったプレブロンズまでの課題、やっぱり練習に入れてもらうように先生に言ってあげようか?」
 氷に乗るなり陽向さんがそう言った。いつも通りのやわらかい表情に戻っていた。そして、こちらに向かって小首を傾げた。
「プレブロンズまでの課題? ……あー!」
 宿題のように課された六課題のことを思い出した。以前聞いても分からなかった先生の説明の意味が、この段階になってやっと分かった。

 近畿大会出場に必要なプレシルバー。いくら欲しくても、いきなり取ることはできないんだ。下の級から順に取っていかないと。あの六課題は下の方のバッジテストに必要な課題だったのだ。試合に出られるだけの級を望むのであれば、覚える必要がないと思っていたあれらの課題も覚えなくては。

「今はいいです。先に今やっているものの目処をつけましょう!」
 苦笑いして誤魔化ごまかした。今、あれをやると言われても、まるっきり覚えていない。
「そう? ならいいんだけど」
 そう言うと陽向さんはスタート個所に向かって滑って行った。

 僕は陽向さんの隣に立つと右手を差し出した。陽向さんはその上にそっと左手を置いた。そして僕の方へその視線を向けた。僕はそれが滑り出しの合図だと分かった。僕たちは一緒に滑り始めた。
 久しぶりに随分まともに滑れた。
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