Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

16.そして進み始めた 1

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 一つ、流斗に聞き忘れたことがあった。
 お前の相手は一体誰なんだ――。

 その問いは僕の心の奥底をゆるやかに流れていた。とても重要なことのようでもあり、どうでもいいことであるような気もした。そんなことより僕にはっきりと自覚できていたのは、今は陽向さんとともに勝つことを考えるべきだということだった。
 陽向さんがより大きな大会に勝ち進んでいくためには、僕はどこかであいつを打ちやぶらなくてはならない。


 学校が終わると、西日本の話をするため僕は急いでリンクへと向かった。あのパンフレットは何だったのか。
 いつもより少し早い時刻、一般営業の最中に僕はリンクに着いた。先生はリンクの中央で数人の小学生たちのスピンを見ていた。小学生たちはとても楽しそうに回っていた。先生もいつもと変わらずいきいきとしていた。前日のことで怒っているようにはとりあえずは見えない。僕はリンクサイドから先生の様子をしばらく眺めた。上本がやって来た。

「珍しいね。八時からの貸館なのに一般営業に来るなんて」
 彼はそう言うと、「この前は大丈夫だった?」といつになく落ち着いた調子で聞いてきた。
「この前?」
「南場さんのこと。お前のことからかってるんだと思ってたら、途中からマジになってるし。陽向さんまで乱入してくるし」
「ああ、あのことか。あれはいいんだけど」
 僕は、思わずため息をついた。

「うーん。なぜエントリーされてたのかは分からないけど、多分昨日の大会には出るつもりはなかったと思うよ?」
 僕が心配事を打ち明けると、上本は考えるように言った。

 彼が言うには、課題であるヴィニーズワルツができていなかったというのはもちろん、貸し切りの時に曲かけをしていなかったのも出場するつもりだったにしてはおかしいのだそうだ。
「曲、かけてたけど?」
「ああいう練習のために曲を垂れ流してるのは、曲かけとは言わないんだよ。試合の前には普通、最初の振り付けからラストまでをちゃんと通してやるもんなんだよ。本番通りに衣装着たりして。近畿の前に、出場する奴らがやってただろ?」

 確かにそうだった。思い返してみると、試合に出る選手はそれなりの準備を整えていた。
「お前さあ、バッジテストのこともろくに知らなかったみたいだけど、もうちょっとスケートのこと勉強した方がいいんじゃね?」
 そう言うと上本は突然いいことを思いついたというように調子づいた。
「あ、俺色々教えてやろーか。一応先輩だし」
「……いや、いーよ。別に」
 悪い奴ではないんだけど、なんか平気で嘘とか教えてきそうな気がする。
「あ、何その態度? お前俺のことなめてない?」
「そんなこと……」
 あるけど。


 一般営業の終わりを知らせる音楽が聞こえ始めた。僕は上本と別れて、再び先生の様子をうかがった。
 レッスンを受けていた子どもたちがお辞儀をし、それぞれ別の場所へと散っていった。先生はリンクを上がり、自動販売機の前で足を止めた。僕は彼女に近寄ると西日本の話を切り出した。

「あら、ごめんなさい。言ってなかったかしら。来年を目指しましょって」
 返ってきた答えは予想通りのものだった。でも、だったらなぜあのパンフレットに名前が載っていたのだろう。
「締め切りがね、異常に早かったのよ。あなたがどのくらい滑れるかを判断する間もないくらいの時期でね。それで念のため申し込んでしまったの」
 先生はさらっとそう言った。
「プログラムもないのに、出られるわけないじゃない。馬鹿ねぇ」
 先生はわずかに頬を緩めると、ひかえ室に向かって歩き出した。

「プログラムって、ヴィニーズワルツのことですか? それが間に合わなかったのが、まずかったんですか」
 僕は先生を追いかけた。
「ヴィニーズワルツができたところで、それはリズムダンスの一部にしかならないでしょ」
 でしょ、と言われても。

「試合にはね、それ以外にもう一本フリーも必要なのよ。あなたと会ったのが九月という時点で、プログラムを用意するのは実はかなり厳しかったの。それでも私は、陽向ちゃんのチャンスをどうしても諦めることができなかったの。ごめんなさいね」
 先生は足を止めると、凛々りりしい笑顔を僕に向けた。

「本命は来年だから気にしないで。と言ったって、今のあなたには一年あっても時間が足りないくらいよ。気合いを入れて頑張りましょ」
「あの」
「何?」
「リズムダンスとフリーってなんですか」


 よく考えてみると僕は別に、スケートについて勉強する気がないわけじゃなかった。だけど説明を聞いたところで知らないことが多すぎて、理解しきれなかったのだ。

 色々教えてやろうかと偉そうに言った上本は、先生やまわりの生徒のスケート歴なんかには詳しかったけれど、肝心のスケートについては知識がかなり曖昧あいまいだった。シングルならまだしも、アイスダンスのことなんてほぼ何も知らないに等しいということがその後分かった。

 僕は先生や陽向さんの言葉の端々を少しずつつなぎ合わせては、アイスダンスについて理解するようになっていった。一回聞いただけでは分からないことも相変わらず多かったけれど、しばらくして試合の形式くらいは理解できるようになった。

 リズムダンスとフリーダンス。
 アイスダンスの勝負は、この二つのプログラムを滑った得点で競われるという。

 試合に出るにはまず、この二つのプログラムを独自に用意する必要がある。
 両者の違いは、入れるべき要素や演技時間だ。どちらもできることだけを入れて好きに作るという訳にはいかず、リズムダンスの一部には、例のヴィニーズワルツといったようなパターンダンスを組み込まなくてはならないというようなことが決まっていた。他に、ツイズル、リフト、ステップシークエンス、ダンススピンなど、リズムダンスとフリーダンスそれぞれで入れなくてはならない要素エレメンツが決まっているという。
 これらの入ったプログラムを滑ることで、ジャッジにより得点がつけられる。ということは、入れたエレメンツの出来具合を評価され、それで勝ち負けが決まると思われる。

 まだどのエレメンツにも取り掛かれていない僕に、西日本なんて無理な話だったのだ。今やっている簡単なパターンダンスなんてさっさとクリアして、試合の課題のような難しいパターンダンスに早く突入して、その他のエレメンツも(どんなものだか知らないけど)余裕でやれるようにならないと。
 やっと少しだけ、試合に向けてのとっかかりが見え始めた。

 僕は平日の一般営業にも出るようになっていった。陽向さんがバレエや他の習い事で来れない日も、僕は一人で練習した。ほんのわずかな時間のために電車代と滑走料がかかるのはありがたくはなかったし、陸トレにも価値を感じてはいたのだけれど、さっさとシルバーに突入するくらいの勢いで頑張りたかった。陽向さんは夏前にはシルバーを取りたいと言っていた。その後、夏頃から大会に向けた練習が本格化すると言っていた。でもやったこともないエレメンツのことを思うと、そんな時期から大会の練習を始めたのでは間に合う気がしなかった。早めにシルバーを取れるものならそうしたかった。


「そうそうそう。いい感じいい感じ」
 辛口だった先生からも随分いい言葉がもらえるようになってきた。
「何も考えずに適当にやっていた時とは、まるで違うでしょう? あなたは荒ささえ取れてしまえば、アイスダンス向きだと思うわ。無法地帯で育ってきただけのことはあって、逆方向にも強いしね」

 逆方向というのは、リンクを時計回りに滑ることをいう。普通のリンクには、一般営業中は反時計回りにしか進んではならないというルールがあり、それが順方向と呼ばれていた。
 アイスダンスでは逆方向に進むこと自体はないのだけれど、順方向ではあまり使わないようなエッジもステップの中に頻繁に登場した。これが順方向ばかりをやってきた人には最初ハードルになるらしい。その点においては僕は有利だった。
 無法地帯と言われるモミの木にも、もしかすると同様のルールはあったのかも知れない。でも僕は理子さんに逆らって好き勝手していたから、全然気にしたことがなかった。そんなことを気にしていては、鬼ごっこを楽しむこともできなかったので。

 いずれにしても、そう言ってほめられるのはスケーティングやターンといった基礎的な練習だけだった。相変わらずパターンダンスでは僕は苦戦を続けていた。
 理由は明らかだった。未だに二人の息が合わないのだ。
 一人一人別々ならもちろん上手く滑れる。二人で組んでも、部分的な練習ならほぼOKをもらえる。それなのに一曲を通すとどこかイマイチなのだ。曲のどこかしらで上手く組んでいる感じがふっと途切れ、二人の距離が不ぞろいになる瞬間が何ヵ所もあった。

「そこそこ。制覇君、よく曲聞いて、しっかりコース取っていって! 陽向ちゃん、しっかり合わせて!」
 一般客の合間をすり抜けながら滑る僕たちの後ろを、先生がプレーヤーを持ってついてまわる。プレーヤーから流れる曲に合わせて大声で拍を取り、要所要所でそれにも勝る声を出した。
 僕たちは先生の声に注意を向けた。正しいコースは決まっている。しっかり拍を取ってきっちりリードすれば、陽向さんなら合わせてくれるはず。そのはずなのに。
「ほら! 引きずられてる! 引きずられてる!」
 別に本当に引きずられているわけではない。二人の位置関係が悪すぎて、見た目としてそういう印象になってしまうのだ。

 先生は僕たちをリンクの端に寄せると、厳しい調子で言った。
「これだけ基礎ができているんだから、ちゃんとやれば出来るはずよ」
 そう言われても。僕も陽向さんもそれぞれに努力して、ベストな状態まで持ってきた結果がこれなのだ。
 ここで何とかしてくれるのが、先生なんじゃないのか……?

 しかし先生が言うには、ダンスが上手くいかないのはすべて男のせいなのだそうで、二言目には「男が悪い」と何でも僕のせいにした。
「男性がね、もっとちゃんと曲を聞いていかないとだめなのよ。その上で、進む、進まないの合図をしっかり伝えないと」
 僕はつないだ手を通して、タイミングや進んでいく方向を陽向さんに伝えた。

 目を見ればスタートのタイミングが分かるのと同じように、ダンスではつないだ手のちょっとした動きで相手と意思疎通をすることができる。スタートの状態から重ねた手を少し動かすだけで、滑り出して組む姿勢に入ったり、途中で違う形のホールドに組み替えたり。
 もっとしっかりリードする必要のある個所では、相手の肩や腰に回している手に力をこめて彼女を引き寄せたり、押してあげたりする。手だけではなく腰などお互いのボディが接触している面があればそこを使うように言われることもあった。

 しかしそうやって精一杯リードしているのに、どうしても息が合わない。
 「ちょっと、制覇君! そんな露骨に女の子を引っ張らないで! 以心伝心よ、以心伝心」
 その言葉に引っ張るのをやめると、「もっとしっかりリードして!」と怒られる。
 じゃあしっかりリードせねばと思ったら「だめだめ。陽向ちゃんが踊るのを邪魔しちゃ。男性はサポートよ、サポート」。

 ……。
 僕、リードすればいいんですかね? サポートすればいいんですかね?
 矛盾しているとしか思えない指示に、毎日悩まされた。

「でも、ずい分良くなってきた気がします」
 陽向さんは鋭い目を輝かせながら楽しげにそう言った。彼女は自分の進歩を楽んでいた。
「ね。もうちょっとでつかめそうだよね」
 いや、そう笑いかけられても、僕はちっともつかめそうな気がしませんが……と、そう思ってもそんなこと言えるはずもなかった。
 陽向さんはただ僕を励ましさえすれば良いと思っているわけではなかった。今やっているパターンダンスなんて僕と出会うよりも前にクリア出来ていたような人なのに、彼女は彼女で再度先生の指導を受け、僕と合わせるためにかなりの努力をしてくれていた。

 アイスダンスには、それ特有の難しさがある。
 例えば男女が隣り合わせで滑っていると、二人の描くカーブの大きさは内と外では異なるものになる。また男女が入れ替わる場所ではどちらかが大回りしなくてはならない。だから同じペースで滑っていると、どちらかがどちらかに追いつけなくなってしまう。しかしそれに追いつこうと大股に踏み出しては評価が下がるし、まして一歩をつけ足すなどはあり得ないのがアイスダンスなのだ。
 そのため男性は、自分が内側にいる時には外を回る女の子が遅れないようにホールド組み方を利用し補助をしてあげて、自分が外を回るときには置いていかれないように気を配らなくてはならない。そんなことは僕だけでなく陽向さんも何回も聞かされていて、充分に分かっていた。

 陽向さんの滑走力は普通の女の子とは違った。彼女は自分が遅れてしまいそうな個所では、僕の補助だけに頼らず自分の力でスピードを上げていた。逆に僕より前に出てしまいそうな時には、力を抜いていた。
 僕がホールドに気を配っているところに陽向さんのその努力も加わって、そして僕自身はちゃんと自分の速度調整もしているのだから、二人の距離感はもっと安定しても良いように思われた。
 それなのになぜ上手くいかないのか。僕は不思議でならなかった。

「なんだかすごくちゃかぽこしていて、見るに堪えない感じだわ。陽向ちゃん、ちょっと代わってくださる?」
 見かねた先生が陽向さんの代わりに組んでくれることもあった。
「いい? この箇所ではね、そのままだと女の子が抜いてしまうから、肩と腰をこっちに向けてホールドをしっかり……」
 先生は組みながら説明してくれた。指示通りに動くと、明らかに陽向さんと組む時と違って、二人の距離が安定する感じがあった。僕はちゃんとそれと同じように陽向さんに対しても動いた。それなのにやっぱりしっくり来ないのだった。

 そのうち二人の努力が極端になり過ぎて、これまで僕が置いて行かれていたような場所で逆に抜いてしまうような、逆転現象が起こり始めた。
 こうなってくると、二人がぴったりにそろうなんて努力でどうこうできることではなく、偶然でもない限りあり得ないことなのではないかという気すらしてきた。

「少し時間が必要なのかも知れないわね」
 と、先生が言った。
 ため息しか出てこない。こんなことで本当に来年、陽向さんと西日本にいけるんだろうか。
 先生ははきはきと前向きな態度で言った。
「ここで全てを停滞させるという意味ではないのよ。一朝一夕にはいかないものもあるというだけのことよ。パターンダンスばかりをやっていないで、平行して他のことをやっていきましょう。そろそろそうしても良いだけの力はついてきているから」

 釈然しゃくぜんとしないまま、それでも僕たちは思いがけず一歩進むことが決まった。
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