Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

17.そして進み始めた 2

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 十一月に入り、果歩のバッジテストの日が訪れた。
 テストはモミの木リンクが一般の営業を終えた夜の九時からだった。僕はその日練習を休んでモミの木へ行った。こんな遅い時間にモミの木に行くのは初めてだった。
 すでに閉まっている店も多いのか、建物は全体的に薄暗かった。ガラス張りの面から、リンクを囲む二階の飲食街だけが明かりをともしているのが見えた。

 久しぶりに目にしたリンクは、しんと静まり返っていた。
 片方のリンクではスピードの人たちが練習していた。もう片方のリンクには、誰の姿もなかった。
 誰もいないリンクのすぐそばを、これから滑ると思われる人たちがそわそわとうろついていた。その近くにコートを羽織った人が数人、ほぼ動かずに寄り集まっていた。人が大勢いるのに、笑い声が響いていなかった。
 近寄り難い……。
 大阪のリンクに初めて入った時の感覚を思い出した。

 僕は果歩と、そしてなぜか流斗の姿を探しながらおずおずとリンクへ近寄った。
 その時、目の前に果歩が現れた。
「制覇っ!」

 その姿ときたら。
 袖に白い線の入った鮮やかなブルーのウィンドブレーカーに、ひらひらした水色の短いスカート。肌と同じ色のスパッツ。そこに、さらさらとしたスポーティーなショートカットがよく似合って、颯爽さっそうと決まっていた。

 あまりの女の子ぶりに、驚いた僕は思わず声が裏返った。
「女装!?」
「誰が女装だ!」
 スケート靴を履いた果歩の回し蹴りが飛んできた。
「うわっ。やめろ、やめろ! マジ、あぶないから!」
 すんでのところで足を止めた果歩が言った。
「大丈夫! エッジケースつけてるから。って、そんなことはどうでもいいのよ!」

 と、突然果歩はすがるような目になった。
「理子先生見なかった?」
「見てないけど」
「いないのよ! もうすぐ始まるってのに!」
 手続き的なことででも困っているのだろうか。
 こんな時にいなくなるなんて、理子さんは相変わらずちゃらんぽらんだ。

「探して来ようか?」
「ううん。もういい。時間無いから。代わりに制覇、頼みがあるんだけど」
 深刻な表情でそう言うと、果歩は僕の目の前にタブレットPCを差し出した。
「これで私の動画、撮ってくれないかな?」
 それが血相変えて言うことか!

 あまりのくだらなさに驚きつつも、僕はタブレットに手を伸ばした。
「ありがとう! お願いね! 制覇が来てくれて助かったわ!」
 果歩は晴々とした笑顔を僕に向けると、くるっと向きを変えて受験者の輪に戻って行った。

 リンクでバイトをしている北大路さんが、書類を抱えてリンクサイドを小走りに行き来していた。僕に気がつくと声を潜めて「やあ」と言ってくれたけれど、忙しいようでそのまますぐにどこかに消えて行った。失踪している観月理子の分まで働かされていると思われた。


 間もなくテストが始まった。
 小さな女の子がたくさんいた。陽向さんと同じように、みんな髪の毛をきれいにまとめていた。色とりどりのウィンドブレーカーとスカートを身につけていた。細くて長い脚の先に、白い靴が重そうだった。

 さっき見かけたコートの人たちが、クリップボードを手に普通の靴のまま一列に氷に立っていた。受験者たちは名前を呼ばれると、広いリンクの中に一人一人滑り出し、彼らジャッジに近いところでジャンプやスピンを行った。受験者のエレメンツを見ては、ジャッジは静かに何かを書き込んだ。
 随分簡単な技をやっている子もいれば、難しいことをやっている子までいた。どうやら受験級が様々のようだった。難易度からして下の級だと思われるのに、ものすごい回転速度で回っている子もいた。中には滑り出しから足が震えているような子もいて、やっぱりうまく跳べずに肩を落としていた。
 すごい緊張感だ。これがバッジテストなのか。見ているこっちまでドキドキしてくる。

 果歩の課題はループまでのダブルジャンプとレイバックだった。果歩なら余裕の内容だ。それでも僕は落ち着かなかった。こんな緊迫した空気の中では出せる力も出せないかも知れない。
 僕はタブレットの画面を見ながら、上手くいくよう心の中で祈った。
 結果、やっぱり余裕だった。果歩は特に緊張した様子もなく、きれいに決めていた。心配して損したと思った。

 この頃になっても流斗の姿は見当たらなかった。シングルには興味がないということなのだろうか。

 全員が滑り終わり、これでテストは終わりかと思いきや、続いてステップのテストが始まった。そのあとには曲をかけて滑るフリーのテストもあるらしい。
 一旦リンクから上がった受験生は、受験級ごとに順番にリンクに入っていった。
 果歩が受ける四級はかなり上の級らしく、果歩の番までにほとんどの子が滑り終わった。
 果歩は数人の女の子と一緒にリンクに入ると、短い辺の壁に沿って待機した。そこから反対の辺まで、ステップで一人一人進んでいった。

 果歩の順番が来た。
 果歩が始めたステップは、以前この五階で僕が理子さんを待っていた時に見たものだった。以前は分からなかったステップの構成が、いつの間にか分かるようになっていた。それはチョクトーというターンとスリーターンの繰り返し。そのチョクトーも、普段遊んでいるような時には絶対にやらないタイプのものだった。
 そんな特殊なターンなのに、果歩は二ヶ月前とは比べ物にならないくらい上手くなっていた。

 果歩の次に滑った子なんてひどいものだった。一見きれいに滑っていたけど、チョクトーにはなっていなかった。一人のジャッジが若いジャッジを連れて、その子が氷に残した軌跡トレースを見に行った。年配のジャッジが腰をかがめ、ボールペンでトレースを指し示しながら何か言っていた。
 トレースなんて見るまでもない、どう考えてもさっきの子は乗れてなかった。不思議なことに、なぜか遠くから見ているだけでもそう思った。

 ステップのテストはもう一種類あった。四級の受験者が一通り滑り終わったところで、次の課題が僕の耳に入ってきた。
「今からツイズルのスタートについて説明します」

 ツイズル……どこかで聞いた気がしたけれど、すぐには思い出せなかった。しばらくしてそれがダンスのエレメンツと同じ名前だと気がついた。意外な所で僕はツイズルの正体を知ることになった。
 果歩がスタート地点についた。
「え? これがツイズル?」
 思わず声が漏れた。
 僕が見たのは、自分もかつて幾度となくやったことのあるものだった。
 単に片足でくるくると一、二回回りながら進む、ただそれだけのものだ。どんな難しいものかと思って覚悟していたのに、こんな程度のものだったとは。こんなものは、暇な時にフラフラとやっていた。
 果歩も難なくツイズルを繰り返しながらリンクの端までたどり着いた。

 そして最後の課題であるフリーのテストが始まった。
 下の級から順番に曲をかけていく。果歩の番がまわってくるまでの間、僕たちはリンクのフェンスにもたれかかって一緒に受験者の演技を見た。
 知らない子ばかりなのに、彼らがエレメンツを決める度に嬉しくなって僕らは一緒に拍手をした。

 果歩は僕の専属解説者になっていた。何級に必要なエレメンツはなんだとか、演技時間は何分だとか、時間オーバーは何秒までだとか、僕の隣で教えてくれた。
 スピンは六回転以上しなくてはならないんだと言って、僕の隣で一、二……と演技に合わせて小さな声で回転数を数えては、嬉しそうに拍手をしたり残念そうに嘆いたりして、「採点ユルいと良いんだけどね」などと困ったような笑顔を僕に向けた。

「こういうの、生で見るの初めてだよ」
「面白い?」
「うん」

 目の前で繰り広げられているのはテレビなんかで見るのとは違って、たった一回転やそこらのジャンプしか跳ばない大したことのない演技だった。それでも確かに僕は、面白いと思った。すると果歩は嬉しそうに
「良かった」
 と言った。

 おだやかな気分だった。果歩の合格を確信していたからかも知れないし、ダンスのエレメンツの正体が一つ判明したからかも知れなかった。
「こんなにできる奴がいるなんて、知らなかったよ。それとも最近増えたの?」
 気になっていたことを聞いてみた。
 果歩は一瞬僕の方を見て不思議そうな顔をした。それから「ああ」と思い当たったように説明してくれた。
「ここにいるのはみんな、近くのリンクから来た子たちよ。今日モミの木から受けてるのは私一人だけ。ここをテスト会場として提供するから一緒に受けたい人いますかって理子先生があちこちに呼びかけてまわったのよ」
 上手い奴が突然大量に増えて、モミの木の景色が変わってしまったなんてことではなさそうだった。


 果歩は出番が近づくと再びタブレットの電源を入れ、カメラのアプリを立ち上げ僕に手渡した。そしてイヤホンをはめると建物の隅の方に行き、出番までうろうろと歩き回っていた。

 果歩の名前が呼ばれた。
 果歩は氷に乗ると、ウィンドブレーカーを脱いでリンクのフェンスに掛けた。
 下に着ていたのはコスチュームではなく、色気のないただの白いTシャツだった。他の子はみんな華やかな衣装だったというのに。でもだからといって、それがどうしたというのだろう。こんな女らしさもない奴のコスチューム姿なんか、見たいとも思わない。
 それともそんな奴だからこそ、どんな衣装を着るのか気になったのだろうか……。

 果歩はコスチュームの上にTシャツを着ているらしかった。ウェストの高さで端を結わえたTシャツから、わずかにコスチュームの水色が透けていた。

 音楽が始まり、果歩が滑り出した。僕はカメラで追った。そして間もなく、僕の穏やかな時間は終わった。タブレットを構えた僕に押し寄せたのは、そこはかとないむなしさだった。
 画面に映っている果歩は、僕の知っている果歩ではなかった。彼女はとてつもなく「上手そう」になっていた。
 エッジの乗りは二ヶ月前と何も変わっていなかった。以前の僕には分からなかったけれど、果歩のエッジワークは残念ながら「そこそこ」のレベルでしかなかった。もっと押せるだろうと思うところでしっかり押せていなかった。エッジが保てず両足に乗ってしまう瞬間も多かった。そんなところは変わっていないのに、見た目が全然変わっていた。

 氷から離れた足は膝からつま先まできれいに伸び、首は長くすっきりと見えた。そして背中のラインを魅せるように美しさを保って動いていた……それは僕がダンスを始めて間もなく徹底的に指導された内容を思い出させた……。

 さっきまで穏やかな気持ちでいた自分が馬鹿に思えてきた。この程度のエッジの乗りなのに、なぜあんなに綺麗なチョクトーが短期間のうちに出来るようになってしまったのか。なぜこの前学校で突然僕をにらみつけてきたのか。そう言えばあの日は流斗に、西日本のパンフレットを見せられた日だったじゃないか。そもそもなぜあの日二人は一緒にいたというのか。
 今、目の前で上手そうに滑っている果歩とそれらが無関係とは思えなかった。以前からうすうす疑っていたことを全てが裏付けているような気がした。

 ふと気になる動きが目に入った。僕は目の前の世界に突如呼び戻された。
 バックアウトターンがぎこちない。このターンのあとは大体、続けてダブルループを跳ぶ。果歩の場合、ターンがイマイチだとジャンプも失敗することが多かった。
 せっかく今まで良い調子だったのに、こんなところで失敗すんなよ!
「果歩! がんばれ!」
 僕はタブレットに向かって叫んだ。
 本番中だというのに僕は何を余計なことを考えていたんだろう。

 果歩は真剣な面持ちで、踏み切りに備えていた。
 祈るような気持ちで見守る中、果歩が踏み切った。
 予想通り、良い踏切ではなかった。回転不足でおりたのを、適当にターンして誤魔化ごまかした。

 せっかくここまで良い調子だったのに……。絶対合格できると思ってたのに……。

「がんばれ!」
 ノーミスじゃないと合格できないんだろうか。1回でもミスをしたらもうダメなんだろうか。

 僕はそのあともひやひやする度に、何度も何度も叫んでいた――。
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