Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第一部

23.目覚め 2

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 そして滑り出したキャナスタタンゴは、非常にユルいものだった。エッジは浅い、速度は遅い。陽向さんと日頃ぎりぎりのところでやっているプレシルバーなんかとは比べ物にならないくらい滑りやすかった。それでも男女が隣り合うポジションを取っている以上、問題が発生しがちな箇所は明らかに存在した。
 あ、ここだ、と思った時は遅かった。こんなにゆるく滑っているのに、僕はパートナーに歩調を合わせるのを失敗していた。いや、むしろゆるかったからこそ失敗したのだ。自分の方が大回りだと思って強めに出たけれど、吉田さんのエッジがあまりに浅いため、そこまでの速度は必要なかったのだ。勢い余った速度を、途中で落とすことはできない。そのスピードは次の一歩に受け継がれる。その一歩は、僕が内回り。しかも外回りの吉田さんはスライドシャッセ、加速して僕に追いつくには厳しいステップだった。このままでは僕が吉田さんを抜いてしまうのは避けられないだろう。
 ところが、僕は吉田さんを抜かなかった。吉田さんのホールドにはばまれて、彼より前に進むことが出来なかったのだ。

 そのまま僕たちは二周回った。僕は二人の位置関係が崩れないよう速度を微調整し続けていたけれど、その効果とは考えられないくらい僕たちはベストなポジションを保ったまま滑り終えた。そのからくりは、実はホールドにあった。
 さっき吉田さんを抜くと思った瞬間に抜かなかったように、ある方向から力をかけられると、女の子は絶対に先走れない。逆に違う形で力をかけられると、遅れることもできない。滑りやすいと感じていたのも、結局はユルいだけが原因ではなかったのだ。僕はずっとベストなポジションをキープできるよう、コントロールされていたのだ。
 これまで先生がどこでどう体の向きを変えろとか、どう手を出せとか、力を入れろとか言っていた意味が初めて飲み込めた。

「僕も同じ場所で、教わったように力だってちゃんと入れていたのに。ツボを外してるっていうのは、こういうことだったのか」
「分かっていただけましたか。僕は前からこの競技は、相手の立場に立つことが上達への近道なんじゃないかと考えていたんです。やっぱり相手のポジションで滑ってみるのは効果があったでしょう」

 そう言うと吉田さんは幸せそうにすらすらと話を続けた。
「スケートは慣性力に強く支配されていますから、それを考慮しないと駄目なんですよ。慣性で動いている物体は力を加えないと速度を変えることが出来ませんから、男女の位置が不ぞろいになりそうになったら、どちらかの運動エネルギーをどちらかに移さなくてはならない。そこでホールドが重要になるんです。ホールドを通して自分のエネルギーを相手に受け渡すことで相手を運んだり、相手のエネルギーを受け止めることで相手を抑えて自分を加速させたりするわけです。そうすれば二人でそろって進むことができる。アイスダンスのリードには、そういうホールドが必要なんです。この時のポイントは、お互いの重心と進行方向を見計らって、適したポジションで力のやり取りをしなくてはならないということですね。それを見誤るとせっかく力を伝えようとしてもどちらかの体が回ってしまったり、関節の一部を曲げるだけで終わってしまう。ここがまあ難しいんですけどね。あなたと陽向さんは、上手すぎてお互いの滑走力とエッジワークだけで速度をある程度合わせてしまっていたために、このポイントを外していることが今一つ表面化して来なかったんでしょうね」

 僕は目を丸くしたまま聞いた。
「……すみません、まるっきり理解できません」

 僕がそう言うと吉田さんはさも残念そうな顔をした。
「そうですか? どの辺が分かりにくかったですか? 紙持ってきましょうか? 図とか式とか書いた方が良いですかね?」
 僕は両手を前に上げてぶんぶんと首を横に振った。
「いえっ! すいません、僕中学生なんで難しいことはちょっと。でも、多分大事なことは分かったと思います。力の向きとかかけ方とか、もうちょっと考えてやってみます! ありがとうございました!」
 難しい話が始まったりしては厄介なので、僕は早々にその場を逃げ出そうとした。
「そうですね。理屈で考えるより、やってみて覚えた方がいいかもしれませんね。要は、もっと相手を運んだり止めたりしてあげるようなイメージでリードしてくださいってことなんです。相手が思った場所に来てくれること待つとか、相手の来るところに自分で行くとかではなく。あ、次はフォーティーンですよ。ここからは覚えているんですよね。では、実際誰かとやってみてはどうでしょう」

 突然そんなことを言われても、知らない人ばかりの所で、誰を選べばいいのかもどう頼んだらいいのかも分からない。
「じゃあ、まず相手に声をかけるところからやってみましょうか」
 僕が困惑しているのを読み取ってくれた吉田さんは、相手の決まっていなさそうな女性の前に僕を連れて行った。まずは見本を見せてくれるという彼が選んだのは、さっきのおばさんの中の一人だった。

「すみませーん」
 吉田さんは明るい声をかけると、おばさんの斜め前にすっと姿勢を正して立ち、軽く笑いかけた。
「お相手、願えませんか?」
 彼はそう言って会釈えしゃくをした。僕は鳥肌が立つのを感じた。
 ――それを僕にやれと!?
 僕は愕然がくぜんとその場に膝をついた。無理だ。無理過ぎる。

「どうしました~?」
 頭の上から僕を面白そうに覗きこむ吉田さんの声がした。
「いえ、ちょっと目まいが……。もう大丈夫です。……かな?」
 僕は何とか立ち上がった。とりあえず吉田さんが、「この少年と組んでいただけますか」と話を振ってくれたおかげで何とか一回目は恥ずかしい言葉を言わずに組むことができたけれど、この先どうなるのだろう。そうキリキリしていたせいで、おばさんとは何も記憶に残らないうちに滑り終わっていた。
 ところがラッキーなことに、滑り終わっておばさんが「ありがとう」と笑って僕の前を去った瞬間、相手の方から声がかかった。

「あの……、いいですか?」
 栗色の優しい瞳と、同じく栗色のやわらかな髪を持つ、色白の清楚せいそな感じの女性が、恥ずかしそうに僕に笑いかけていた。年は二十歳くらいだろうか。大人なのに珍しく僕よりも背が低い。クリーム色のタイトなセーターに、膝まである薄紫の巻きスカートを身につけていた。
「あ、は、はい」
 こんな人もいたのか。確かにリンクをよく見ると、子供はいないものの、比較的若い社会人だか女子大生だかと思われる人もちらほらいる。

 僕はズボンの脇で手を拭きながらスタート位置まで移動した。
 スタート地点で右手を差し出すと、彼女はその上にふわっと手を置いた。陽向さんよりずっとやわらかい気がした。僕はどきどきしながら曲を聞きつつスタートを待った。前の人たちが数小節分進んだ所で、僕は隣に目をやった。彼女もこちらを見て、にこっと目を細めた。そこで僕たちは一歩を踏み出した。僕の夢見心地はそこまでだった。
 この人の滑走力の無さ。吉田さんの比ではなかった。

 助走の段階から、僕は自分の位置取りに頭を悩ませた。彼女を自分より前に押し出してあげないことにはワルツホールドを組むことからして無理そうだ。おばさんおばさんと馬鹿にしていたけれど、さっきのおばさんがいかに上手かったかが分かった。
 この滑走力のないお姉さんを置き去りにしないのは至難の技だ。僕は氷を押す足の力をなるべく抑えると同時に、ふんわりと握っていた手をしっかりと握り直した。一回のストロークの間にも、手の角度をあちこちに変えて力の伝わる点を探る。吉田さんの話だと、ツボをちゃんと押さえれば滑る力をやり取りできるという話だったけれど、つないだ手から伝わってくるのは彼女の腕のふにゃりとした感覚で、どうも力が伝わるようには思えない。
 ところがある所で、不意に手に重みを感じた。助走はちょうどコーナーに差しかかるところだった。ここからは、お姉さんに外側から僕を追い越してもらわなくてはならない。手応えを頼りに、いつもより少し後ろから彼女を押し出してみる。彼女はそのまま僕の前へと回り込むように滑っていき、小さなターンでこちらに振り返った。僕たちは正面に向かい合った。彼女の手を取り直して、ワルツホールドになる。
 ぴたり、と何かがはまったようなひらめきがあった。助走はここまでだ。パターンの最初の一歩が始まる。僕は向かい合った相手を連れて、最初の一歩を滑り出した。

 その後も僕は彼女のために力を尽くした。思った以上にホールドに力がかかるのが分かった。最初はバラつきがちだった二人の流れが、だんだんと揃っていく。ウェーブがかった彼女の髪が、流れに沿ってなびいた。うっとりと滑る彼女。彼女の夢見心地は、僕の努力と共に存在した。

 二周目を滑り終えると、僕たちはハンドインハンドに戻ってダンスの輪から抜けた。
「今日はとても上手く滑れた気がします。どうもありがとう」
 手をつないだ先の彼女が、気持ち良さそうにほほえんだ。うっすらと色づいた頬から、彼女の高揚感が伝わってくる。息が切れていた僕は、疲れたような表情のまま笑い返してしまった。
 きっとこの人一人では、このテンポに乗ってあのスピードで滑るなんてできなかったに違いない。この人がこんなに満たされたような顔をしているのは、全ては僕の働きの成果なのだ。そう思うと気持ちが良かった。

 僕が組んでいい相手だと分かると、その後も次々と女性の方から勝手に寄って来てくれた。それもそのはず、男の数は女性に比べて圧倒的に少なかった。おかげで僕は恥ずかしい台詞を言わずにすんだ。
 それから僕は色々な人と組んだ。自分を上手いと思い込んでいる偉そうな勘違いお嬢様とか、ステップを間違える度にゴメンなさいを連発するメガネ女子とか、めちゃめちゃ気合いの入った練習着ですっかりなりきっちゃってる美魔女みたいな人とか、あとはまあ……フツーにおばさんとか?

 そうするうちに、僕は二人の位置関係をコントロールする方法をかなりつかんでいった。栗色の彼女と滑った段階でもコツをつかめた感触はあったのだけれど、次の人と同じようにやってみてもばっちりとはいかなかった。それが、身長や滑走力や滑る癖の異なる相手と次々と組んでいるうちに共通性が見えてきて、リードの本質的な部分がはっきりと分かるようになっていった。結局、これまで先生を除くと一人としか組んでいなかったというのが悪かったのかもしれない。

 セッションも終わりに近づいたころ、ヴィニーズワルツが始まった。僕を含め多くの人が壁の花になった。
 僕は先生以外の人と滑る陽向さんを初めて見た。陽向さんのヴィニーズワルツはなんと、ワルツだった。当たり前のことだけれども、なんとワルツだった。
 僕はワルツが何かなんて正確には知らなかった。でも、これはワルツだと確信した。軽やかな三拍子の音楽に合わせて、陽向さんはにこやかに華やかに振り返ってみせた。
 これはあれだ、どこかのお城で踊っているあれだと思うと僕は不思議な感じがした。僕がやっているパターンダンスにもワルツと名前の付いたものはある。だけど、それがああいうものと同じものだとはこれまで思ったこともなかった。

 ヴィニーズワルツは僕が思っていたよりもかなり難しいエッジの組み合わせでできていた。こんな難しいステップを頑張れば出来るのではないかと思っていた時があったなんて、無知にもほどがあると一人笑ってしまった。
 そのステップを陽向さんはしっかり踏みながら、曲に合わせて踊っているように見えた。アイスダンスというものを、そういうことができるものだとは全く思っていなかったので、驚きだった。次のチャチャコンゲラードでは、ヴィニーズワルツとは全く違った軽快さで陽向さんは滑った。音楽に合わせたフットワークの効いたメリハリのある気持ちのよい滑り。
 アイスダンスって、ダンスなんだ……。
 そんな当たり前のことに感動しながら、僕は彼女の滑りを眺めた。

「どうでしたか?」
 壁伝かべづたいで吉田さんが隣までやって来た。
「あ、何となく分かった気がします。ありがとうございました~」
 上機嫌でそう答える。
 すごく楽しい時間だったな。
 僕の気分は滑る前とはすっかり変わっていた。滑る前のことを、僕はきれいさっぱり忘れ去っていた。そう、滑る前のことを、僕は……

「あ~!!!」
 僕は大変なことまで忘れていたことに気がついた。今日の目的はパートナーとの距離問題じゃない!
「どうしよう。バッジテストのステップ、覚えられなかった……」
 吉田さんのせいですよ。僕はそういう目で、吉田さんに訴えた。
 吉田さんは困ったなというような笑いを浮かべて言った。
「ちょっと部長に聞いてみないと分かりませんが、もし良かったらうちの部の貸し切りで練習しませんか。最近部員減ってるんで、多分参加してもらうこともできると思います。そこでなら見てあげられますし。ちょっと聞いてみますね」

 そう言うと吉田さんは、誰かにメールを送るためにリンクサイドへと上がった。しばらくして了解が取れたと言って戻ってきた彼は、どこかで見た覚えのあるウィンドブレーカーを羽織っていた。
「あの……、部長さんって北大路さんですか?」
 そう問うと、吉田さんは不思議そうに笑った。
「そうですよ? ご存知なんですか?」
 やっぱり。この人は理子さんの後輩だ。なぜか妙に納得がいった。僕がモミの木のことを話すと吉田さんは嬉しそうにうなずいた。

「ああ。元々はあのリンク使ってたんですか。あのリンクでも貸し切り取ってますよ」
 そう言うと吉田さんは携帯を確認した。
「あ、ちょうど明日の朝ですね。明日じゃいきなり過ぎますか?」
 急であることより、あまりモミの木には近寄りたくない心境の方が僕には問題だった。
「うちの貸し切り、時間も場所も色々なんで、参加しやすいやつに来てください。そしたら覚えるまでお手伝いしますんで。携帯持ってます? 予定を転送したいんですけど?」
 僕が携帯を持っていないと言うと、今時珍しいと言いながら吉田さんは予定を紙に書き写してくれた。そうするうちにセッションの時間が終った。

 スケジュール表を僕に渡しながら吉田さんが言った。
「そうそう、DVD見てステップ覚える時なんですが、どうやって見てますか?」
「どうって?」
「座ったまま見てるんじゃないですか」
「あ、はい。そうですけど」
「では、少し体を動かしながらやってみると良いですよ。こんな感じで」
 吉田さんはその場で足踏みをしたり足を振ってみせたりした。家でDVDを見るだけでも勇気がいるのに、そんな変なことまでやれるわけないよと思いながら僕は冷ややかにその様子を見ていた。そこに、陽向さんがやって来た。

「制覇君、このあと時間ある?」
 何だろうと思ってそちらを見ると、陽向さんがDVDを顔の横にかざして見せた。
「全日本ジュニアの映像が手に入ったの。今日は家まで送るし、一緒に見て行かない?」

 彼女は鋭い目を輝かせたまま笑った。
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