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第二部

49.前哨戦 2

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 ミュージカル、オペラ座の怪人に合わせたグレーのグラデーションの衣装で氷に立つ二人。惹きつけられるその整った姿に、去年DVDで二人を初めて見た時を思い出す。ゆっくりとした低音で始まる曲に合わせて動き出した二人は、ターンをいくつか繰り返しながらスピードを上げていく。
 ああ、上手いな。
 そう思った。ホールドの形もいいし、多少弱弱しくはあるけれどエッジも乗っている間はとてもきれいに安定している。でも、乗り換えの瞬間はわずかに不揃いでぎこちない。二人のタイミングを合わせるのも、エッジを保つのも難しい瞬間だ。同じようなことにこの一年取り組んできた僕には、小さなところに現れる彼ら二人の苦労が手に取るように感じられた。

 はるかに遠いところにいるんじゃないかと恐れていた流斗だけれど、もしかすると僕はもう案外あいつのすぐそばにいるのかもしれない。そんな気がした。

 彼らの動きが止まると会場に拍手が響き、ここでもまたいくつかの花が投げられた。そして電光掲示板が明るく光った。

  Performed Technical Score   25.24
  Program Component Score   27.38
  SD 42.36  FD 52.62  Total  94.98
  RK 1

 総合得点94・98? 確か僕たちは、100を超えていたはず……。
 ってことは、僕と陽向さんはあいつらよりも高く評価されたってこと?
 直接対決したわけじゃないけれど、でも同じ日に同じジャッジに点数をつけられたのだ。つまり、そういうことなんじゃないか?

 流斗はというと、リンクの上で笑顔で観客席に手を振っていた。隣の美少女と一緒に。そのまま二人で並んでリンクサイドに上がってくる。二人の顔に浮かぶのは笑顔。あいつは自分の点数を見なかったのか? それとも僕の点数を知らないのか?

 氷から上がると、美少女から突然笑顔が消えた。彼女は不思議そうな顔で、指先でエッジについた氷を払い落とし、澄んだ声で小さくつぶやいた。

「どうしてあの時、いつもとポジションが少し違っていたのかしら」
「あの時って?」
「あの時と言ったらあの時、ですよ。あなたは気になりませんでしたか?」

「気に入らないところははっきり言ってくれないとわからないけど? 超能力者じゃないんだから」
 冗談めかした調子で流斗は言った。
「私が気に入らないというのとは違うんですよ。よい出来ではなかったように思うんです。先生に教えていただいたものからは遠いことをしてしまったように思います。そんな重大なことなのに、気に、なりませんでした?」
 美少女はまっすぐな瞳で流斗を見た。いったいどうしたんだろう。何か、失敗でもあったんだろうか。

「とにかく、どこなのかはっきり言ってくれるかな」
 なんで煽ってるんだよ、そこはとりあえず謝っとけよ。
 この二人、何だかはらはらする。

 終わってしまった試合の直後にどこが悪かったかなんて話をしだしたら、空気が悪くなるに決まっている。そういうことは日を置いて先生と一緒にやればいいじゃないか。流斗の奴、日頃は誰とでも適当に上手くやり過ごしてるくせに、いったいどうしたんだ。

 美少女は流斗の言葉に従って、気になっている箇所をはっきりと告げた。
「二十二小節目です」
 って、その答え方、はっきりしすぎだろー。

「ああ、二十二小節目ね」
 わかるんだ!?
「……って、どこ?」
 やっぱ、わかんないよな。

「二十二小節目といえば、二十二小節目です」
「……ダダダダン ダダダダンっていうところあたりかな?」
 その音程は見事に外れていた。
「ごめんなさい、よく分からないです。どこを歌ってらっしゃるのですか?」
 美少女は真顔で流斗に問った。
 あ、そこを突っ込んじゃうんだ、この子……。
 音痴――それは流斗の数少ない弱点の一つだった。

 わざと嫌味を言うような子には見えないのだけれど。天然……なんだろうか。どきどきしながら成り行きを見ていると、二人の前に美少女にそっくりな女性が現れて、タブレットPCを差し出して消えていった。
 美少女はタブレットを手に、「続きは向こうでしましょうか」と流斗に向かって言った。
「そうだね。お互いの感覚だけで言い合ってても意味ないしね」
 流斗は僕の方も見ずエッジケースを手早くはめると、二人でベンチの方へと移動していった。

「難しいステップをちょこちょこ入れすぎなのよね。だから納得いかない結果になるのよ」
 と姫島先生が言った。
「仲が悪いのかしら?」
 陽向さんは不思議そうに二人の後ろ姿を眺めていた。
「ごめんなさい、ちょっとプロトコル見せてもらってくるわ」
 先生はそう言うと、ジャッジ席の方に小走りに駆けて行った。

 しばらくして、表彰式が始まるという案内が流れた。そこへと向かう途中、先生は何度も「何を言われても気にしないのよ」と念を押してきた。完全に流斗を警戒していた。
 でも僕に流斗を無視なんてできるはずがない。むしろ僕はこの表彰式で、あいつがどんなことを言ってくるだろうと、期待にも近い思いを抱いていた。

 先生が確認してきたプロトコルで、僕たちは総合でなんと9・42も流斗たちを上回っていた。試合前からこちらの方がレベルの高いエレメンツを入れているとは聞いていたけれど、実際にそれに見合うだけの点差を出すことができたのだ。
 流斗、あいつはこの結果に対してどんな顔をするだろう。

 東日本の表彰が終わって、流斗が表彰台から下りてきた。
「大したもんだね」
 昨日あんなことを言った流斗がそう言った。

「レベルの高いエレメンツをいくつも入れてきて。運動能力の高い奴はうらやましいよ」
 流斗の言葉は表面上は称賛で、でも十点近くも差をつけられても、彼は余裕で笑っていた。

「だけど、君はどういうつもりか知らないけど、隣のお姉さんは世界を狙うつもりなんでしょ? だったら昨日も言ったけど、もう少しちゃんと考えた演技をした方がいいんじゃない? あんな演技してたんじゃ、先が知れてるよ」
「なんだよ、それ。何が言いたい」
「あんなので世界に出られたら、アイスダンスの地位を上げるどころか逆効果だよ」
「はい?」
「制覇君、次は西日本の番よ。表彰台におあがりなさい」
 表彰台の脇に立てられたマイクの横で、役員の人が次の表彰を待っている。流斗との話に足を止めてしまっている僕を、先生が急かす。

「君たちが日本のアイスダンスを変えてくれる選手じゃないっていうんじゃ、全日本で優勝してもらうわけにはいかないでしょ? となるとそれを阻止する人間は決まってくるわけだよね。まいったな。これは全日本まで相当がんばらないと」

 それは、かつて果歩のスケーティングをこのままでは行き詰まると言ったあの時の流斗のようだった。友だちに対して厳しいことをさらっと言ってのける流斗に、あの時の僕は反発しかなかったけれど、あとから考えてみれば流斗には現実が見えていたのだ。
 もしかすると今の流斗にも、点差以上の何かが見えているのかもしれない。

「制覇君!」
 僕は先生に引っ張られ、表彰台に乗せられた。
 西日本に出たメンバーは、表彰台の一番上と二段目に四人で乗った。二人で乗った台の上で、陽向さんは笑って僕を振り返った。
「次は全日本ね。今度も頑張ろうね」

 表彰台を下りると、流斗の姿は消えていた。陽向さんのためにプレゼントや花を持ってきたたくさんの女の子に、僕たちは取り囲まれた。
 シングルの時からのファンだと告げてくる子もいた。みんな陽向さんを素敵だったとほめて、アイスダンスを見るのが楽しみになったと口々に言った。

 陽向さんはもらった花を、僕にわけてくれた。
「私たちにくれた花よ」
 陽向さんは言った。だけど僕は、陽向さんに贈られた花だと思った。
 二人でカップルを組んでいるとは言っても、僕と陽向さんではまるで違う。そんな感覚が、その時の僕にとっては当たり前だった。


 南場さんは十二位で、全日本ジュニアへ進出することが決まった。試合が終わって外に出ると、辺りはもう暗くなっていた。
 出口に果歩がいた。
 僕はまた陽向さんと別れて果歩の隣を歩くことになった。

 帰り道、果歩は女子シングルの演技に興奮したという感想をしゃべり続けた。アイスダンスへの感想は、出てこなかった。僕のパフォーマンスに対しても、流斗との点差に対しても何も言ってくれなかった。

「それにしてもやっぱり大きい大会はいいねぇ」
 電車の中でも果歩はひたすら「大会」と言う名のシングルの話を続けた。
 そんな果歩が、受験が終わったらまた六級にチャレンジしたいとはしゃいで言ったので、もうそれでいいやと思った。

 駅に下り、懐かしい道を歩いているうちに、果歩の家が見えてきた。芝生の庭に建つ、おじさんの事務所も入った四角い家。仕事中なのか、一階の一部屋だけから灯りが漏れていた。
 門の掛け金を外すと、果歩は言った。

「全日本も応援に行くから」
「全日本は、東京だぞ?」
「分かってるよ」
 分かっててわざわざ日帰りで行くんだそうだ。そんなに流斗の応援がしたいんだろうか。

「東京って所にはね、一度行ってみたいと思ってたから」

 果歩が門を閉めると、玄関までの道に小さな明りがいくつも灯った。家の中から彼女の帰りを待ちわびていたアレックスの歓声が聞こえてきた。普通の受験生にしばらくの間戻っていく果歩の背中を僕は見送った。


 翌日から全日本に向けた練習が始まった。プロトコルを参考に反省点が洗い出される。

「制覇君のパターンダンスはぜんぜんレベルが取れていないわね」
 僕のキーポイントにはすべてNの文字がついていた。ステップが正しく踏めているとは認められないという印だ。つまり全滅。
 キーポイントで下手をした気はまったくしない。それなのに認めてもらえないとは、聞いていた通り評価の基準が厳しい。

 パターンダンスが評価されないというのは、アイスダンスの基礎ができていないと言われているようなものかもしれない。流斗が僕の技術に不服がありそうだったのも、もしかするとこういうところのせいなのかもしれない。
 陽向さんはいくつかNではなくYのチェックをもらっていて、僕たち音川・天宮組の得点源が僕よりも彼女のおかげであることは明らかだった。
 でもこうやって自分に足りないものが明確に分かっているというのは、ありがたい。全日本ジュニアに向けて、前向きに攻めていける。

「それから。ぼーっとしていても正しいステップが踏めるくらいまで、動きを体に叩き込んでちょうだいよ。本番で間違えるなんて、言語道断ですからね」

 全日本ジュニアまでの一ヶ月、僕はひたすら練習に打ち込んだ。直接対決に向けて。

 流斗に何が見えていたとしても、僕は僕で点を伸ばす努力をすればいい。あいつが何を言おうが全日本ジュニアでは、当日点を上げた方が勝つ。それだけは確かなのだから。
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