Hand in Hand - 二人で進むフィギュアスケート青春小説

宮 都

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第二部

53.対決 2

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 106・97……?
 確か僕たちも、106点台だったはず。その下の桁の数字は……。

 流斗と美少女はリンクから出てくると、笑顔のコーチとそれぞれ交互に抱き合った。三人の笑顔に息がつまる思いがした。
 ああ、僕は負けたんだ。
 目をそらそうとした時だった。先生から離れた美少女が、少し首をかしげたような気がした。
「今日も何だか上手くいったような気がしませんでした」
「えー? どのへんが? 今日は気持ちよく滑れたと思ったんだけど?」
 流斗はわけが分からないという声を上げた。僕もわけが分からなかった。あの滑りをしても、この美少女は満足できないのか。
 彼女は勝者の顔をしていなかった。さっき感じた不思議で親しげな雰囲気も、今の彼女からは消えていた。

 試合を作品と呼ぶだなんてなんて気楽なと思ってしまったけれど、本当にそうなんだろうか。
 彼女の表情は、ひたむきに何かを探し求めているように見えた。
 この子も陽向さんと同じ。ずっとずっと高い所を見ているんだ……。

 神宮路さんは、不満なのか疑問なのかわからない言葉をぽろぽろとこぼしながら、ベンチへと歩き出した。流斗はふざけているのか真面目なのかわからない受け答えをしながら、彼女の隣を並んで歩いていった。

 ふと横を見ると、さっきまでいたはずの陽向さんが消え、先生までがいなくなっていた。南場さんに聞いた陽向さんの過去の話が頭をよぎる。慌てて陽向さんを探しに行こうと思ったその時、突然首筋に温かいものが触れた。というか、これは温かいというより……
「あっつー!」
 振り返るとすぐそばに陽向さんがいた。それと缶コーヒー。
「これ、先生から」
 そう言って飲み物を差し出された。
 いたずらを楽しむ子どものように陽向さんはくすくすと笑った。彼女の隣には先生がいた。二人はプロトコルを見たあと、飲み物を買ってきたのだと言った。
 僕たちは暖房室に移動した。その間、先生はずっと陽向さんの肩に腕を回していた。陽向さんは今日の結果に怒るでもなく、泣くでもなく、ただ先生に寄りかかるようにして歩いていた。その二人の様子を直視するのは、なんだか怖かった。

 僕と陽向さんは並んでベンチに座った。
「今回はとても力が拮抗きっこうしていたみたいなの。どちらが勝ってもおかしくなかったと思うわ」
 先生は僕たちの前にかがむと、片方の手で陽向さんの髪をなで、反対の手を僕の肩に置いた。
「どこがどう足りなかったのかを検討できるアイスダンスの試合なんて、これまでの国内にはほとんどなかったことよ」
 先生は座った僕と目の高さを合わせてそう言った。でも僕は自分の手の中にある飲み物の蓋だけをずっと見つめていた。暖房室を暖めているストーブの音が、低くうなっていた。

 どこをどう見たら拮抗していたなんて言えるんだろう。僕たちは圧倒的に負けていたじゃないか。昨日のリズムダンスを見た時からそんな気は薄々していたけれど、やっぱり何かが全然違っていたじゃないか――。

「プロトコル、見る?」
 静かにうなずく僕の前に、先生がプロトコルを出した。そこに並んだ数字に僕は完全にやられた。
 びっしり並んだ3の文字。ちらほらと4の文字も混ざっている。神宮路・蒼井組の各エレメンツのできばえに対する七人のジャッジの加点だった。
 僕たちの表に並んでいるのは、主に0と1、そしてほんのわずかな2。
 彼らはそれだけではなく、演技構成に関する点数もずいぶん伸ばしていた。

「丁寧な滑り、二人の調和、曲のニュアンスにそぐった身のこなし、世界観。技術的なレベルは彼らの方が足りていなかったにも関わらず、ずいぶん見ごたえのある演技をされてしまったわね。あなたたちの方が持つべきものを持っていたはずなのに勝たせてあげられなかったなんて、私も猛省もうせいしなくてはならないわ」

 西日本から一ヶ月。エレメンツでは僕たちの方が上にいたというのに、流斗はそんなことに惑わされることなく、この日まで徹底的に演技を磨き上げてきた。
 それがこの点数を生んだのだ。


 陽向さんと観客席に移ると、ジュニアの男子シングルがもう第二グループに入っていた。競技を見る陽向さんの横に座ると、ウィンドブレーカーの襟元から伸びた彼女の細い首が、なんだか寒そうに見えた。何をしゃべっていいのかまったく分からなくて、僕はずっと黙っていた。
 西日本の時には写真だの花だのといったことで陽向さんを訪ねてくる子がたくさんいたのに、ここには誰も来なかった。会場を手伝っている人の中にも、知った人はいなかった。とても遠い世界に切り離されたような、なんだか寂しい時間だった。

 神宮路さんの手作りクッキーというものがなぜかどこからか回ってきた。
「よくこんなもの作る時間があったわね」
 陽向さんはつまらなそうにつぶやくと、クッキーの入れ物を次の人に渡した。本当に。どうして、神宮路さんはそんなものを作る時間があったんだ。

 陽向さんはきっとお菓子なんて作らない。毎日のほとんどの時間をスケートやバレエにつぎ込んで、他のことにかける時間なんてないんだから。
 どうしてこんな陽向さんのような人が、負けなくちゃならなかったんだろう。

 僕のせいとしか思えなかった。
 陽向さんは誰にも負けていない。僕が彼らに負けたのだ。
 もしも相手が僕でなかったら、この人は今日勝つことができただろう。そして、絶対にその先に進むことができていた。
 それが僕のせいで。

 陽向さんは時おり観客席からリンクに向かって選手の名前を大きな声で叫んだ。大きな音楽が広い会場に響いているのに、彼女の声はその空間にぽつんと静かに響いているように感じた。

 そのうちに陽向さんが僕の方に振り返って言った。
「早く帰って、次の練習がしたくなってきたね」
 彼女は笑っていた。僕は迷子になりかけていたところで、手をぎゅっと握られたかのような気がした。

 この人は僕を責めてはいない。

 確信をもってそう思った。
 そうだ。早く帰って次の練習をしよう。今感じているこの苦しさを、次で一緒に晴らせるように。
 疲れているはずなのに、無性に体を動かしたくてうずうずしてくるのを感じた。

 僕の中に湧き出てくる彼女と共にがんばりたいという膨らむような想いは、それまで感じてきた「やらなくては」という思いとは似ているようで少し違っていた。


 表彰式が始まった。
 エッジケースで二位の表彰台を踏みしめる。
 女の子を前にして立つように言われ、僕は一歩後ろに下がった。表彰が終わるまでの間、黙って立っていると自分の中が空っぽな感じがして、寂しいような気がした。でもその一方で、熱い何かが僕の空になった体の中に吹き込んでくるような感覚もしていた。

 表彰が終わると、隣の壇上から流斗が自慢げに一位の賞状をぺらっと差し出してきた。僕はいつの間にか手にしていた花束で、それを払い除けた。
「リュート!」
 流斗のコーチから注意が飛んできた。流斗は壇の上からへらっと謝った。
「俺みたいに運動能力の低い奴には、簡単に勝てると思ってたでしょう?」
 表彰台を下りながら流斗はご機嫌で話しかけてきた。
「よかったな」
「アイスダンスを好きで長くやってきた人間の意地を見せられたかな?」

 なんだよ。好きでやってきた人間の意地って。
 今日のあの演技。あんな細部にまでこだわって、丁寧に丁寧に完成度を高めた「作品」。
 ブロック大会から今日までの短期間のうちにあそこまで仕上げたのは、勝つためを思ってのことじゃないのか。
 それをまるで勝つためにやってきたんじゃないみたいな言い方をして。

 流斗と神宮路さんの演技がリアルに頭に蘇る。
 引き込まれる演技だった。これまでいくつもの動画で世界の選手の演技を見てきたけれど、どの演技よりも惹きつけられた。といっても、今回評価されたという二人の調和だとか曲のニュアンスだとかだって、僕がこれまで画面の上で見てきた選手たちに比べたら大したものじゃないはずなのに。
 でも僕はこの全身に、彼らの演技を感じた。

 彼らはふたりでいることによって、彼らはひとりでは決して生み出すことのできないものを創り出していた。会場にあふれる音楽と溶けあって。

 もしかするとあれこそが、流斗が僕に見せたかったものなのかもしれない。

 そう考えると、確かに僕がやっていたのはつまらないダンスだったかもしれない。
 僕はテクニック面で、陽向さんに並ぶことしか考えていなかった。それで点を取り勝つのだという発想しかなかった。
 陽向さんはただ高いテクニックを持っているだけではないというのに。彼女ならアイスダンスの世界で頂点を取ってもおかしくないとまで思っていたのに。

 素晴らしい演技をする彼女と共に舞台に上がって、僕は一体、何者でいるつもりだったんだろう。

 僕たちの話が途切れると、神宮路さんが流斗の袖口を後ろからそっと引いた。きっとまだ今日のプログラムについての話をしたいのだろう。彼女からの問いかけに耳を傾ける流斗。その姿が、なぜか優しく見えた。二人は仲が悪いのではと思ったこともあったけれど、たぶんそれは違うのだ。
 この二人は、二人で作品を作るために向き合っている。

 僕はまだまだアイスダンスというものを、分かってないんだろうな。
 でも、これからだよ。これから。

 台を下りると「どれだけお行儀が悪いのかしら、あなたたち」と、姫島先生に嘆くように言われた。
「でもそんなことをしあえる仲間がいるだなんて、本当に素晴らしいわ」
 極上の笑顔でそう言う岡崎さんに、先生は「お恥ずかしいわ」と困ったような笑顔を返した。
「アイスダンスは練習をするだけでも大変でしょう? それが今年は表彰台が埋まるだなんて、なんて素晴らしいのかしら。この調子で選手が増えて四組になったら、表彰台に一組だけ乗れなくなってしまうわね。もう全員を乗せてあげたいくらいなのに」
 かわいそうだわ、と言いながら岡崎さんは楽しみでたまらないといった顔をしていた。岡崎さんのまわりを、さっきまでライバル同士だったはずの先生たちが囲んで楽しそうに話を始めた。今シーズンの戦いが終わってしまったことを告げる風景だった。
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