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第二部
52.対決 1
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大会二日目の午前中は公式練習だった。三組で早朝のリンクに入る。
南場さんから聞いた話が、予想外に堪えていた。陽向さんの勝負に対する思いをあらためて知って、新たな緊張が増していた。
最初の試合以外、国内では常に勝ち続けてきたという陽向さん。僕も彼女の熱心に練習する姿をこれまで日々目にしてきた。
アイスダンスでも高い所を目指して、それに見合う努力をしてきたのだ。この試合は、その結果のかかった試合なんだ――
「制覇君! 膝が硬くなっているわよ。少し力を抜いて!」
先生の声が遠くから聞こえる。
「リラックス、リラックス!」
隣から明るく声をかけられる。
でも、リラックスなんてしてる場合だとは到底思えなかった。とはいえ膝が硬くなっていてはできることもできない。僕は大きく深呼吸をした。リラックスまでとは言わなくても、日ごろの力を出すことは考えなくては。
ちゃんと演技できないことには、3・24の差をひっくり返すなんて話にはならないのだから。
練習が終わると、先生は男子シングルの練習を控えている南場さんの元に向かった。僕はベンチで靴を脱ぐと、裏返してエッジの先を触り、いつもと変わりがないことを確認した。ブレードを揺らし、ビスの具合に異常がないことも確認し終えると、少し気持ちが落ち着いてくるような気がした。
「制覇君。私も先に先生と行ってるね」
陽向さんが僕を気遣うように言った。
一人残された僕がしばらくして鞄に荷物を詰め立ち上がると、壁際に並べられたベンチの下をのぞき込んでまわっている神宮路さんに気づいた。何かを探しているようだった。
「どうかしましたか?」
「大切な子を探しているんです。これくらいの電子メトロノームさんなのですが」
彼女は親指と人差し指で、小さなコの字を作ってみせた。
「公式練習が始まるまではいらしたのに、気がついたら家出をなさってました」
荷物を置いていたというあたりを一緒に探して、ベンチと壁の隙間に落ちているメトロノームを見つけた。
「よかった。これで気持ちが落ち着きます」
神宮路さんはほっとしたような笑顔でメトロノームにイヤホンを差し、それを聞き始めた。
あ、この子、笑うんだ。
これまでリンクサイドではなんだか難しい顔で、流斗と細かいことを言い合っている姿しか見たことがなかったけど。
それにしてもこれで気持ちが落ち着くって……
「メトロノームでですか?」
「そうなんです。これを聞きながら、こうやって振り子が行ったり来たりするのを想像するんですよ」
神宮路さんはそう言うとにっこり笑って、顔の前に人差し指を立てて右に左にと倒した。その様子はとてもかわいらしかったけど、とても変わった人であることは確かだった。神宮路さんって、こういう人だったのか。
「ピアノを習い始めたばかりの頃、メトロノームが揺れるのにいつもわくわくしてました。こうやっていると、あの頃の気持ちが蘇ります。この膨らんだ気持ちで、演技に向かいたい……」
「あ、そうなんですね」
ちょっと僕には分からない感覚だ。
神宮路さんは「どうもありがとうございました」と言うと、「今日はいい作品ができるといいですね」と続けて、僕の前から去ろうとした。
「え? 作品?」
何の話か分からずにいると、美少女は軽やかな声で言った。
「演技のことですよ。素晴らしい演技ができるといいですね」
そして僕の顔を見てにっこり笑った。
これから競い合う相手だというのに、彼女からは僕に対する敵対心のようなものは欠片も感じられなかった。誰の演技であっても、それが素敵なものになることを願っているように見えた。
こんな人もいるのか。
ずいぶんのんきな人がいるもんだ。目の前に迫る真剣勝負のことを、作品と呼ぶなんて。
僕と別れた彼女はすぐにイヤホンの世界に入り、「ああ、このテンポ、このテンポ」と嬉しそうにうなずいていた。
こんな人が、あの闘争心に溢れた流斗の相手なのかと思うと不思議な気がした。
そして、本番がやってきた。練習滑走を終え、僕たちの滑走順は一番。
「あなたたちのフリーは素晴らしいわ。よく滑れているし、とてもよく踊れている。安心して滑ってらっしゃい」
先生が陽向さんの頭を撫でる。
「必ず、勝ってみせます!」
陽向さんは先生の手を両手で握った。
流斗が僕たちの優勝を阻むつもりでも、気の毒なことにその相手は楽しく発表会気分でこの試合に臨んでいる。でもそれも仕方がない。ここは全日本という頂上対決の場でありながら、競技者に恵まれないさみしい試合なのだから。
でも僕たちは違う。
本気で勝つためにやってきたんだ。
陽向さんと同じように、僕も意気込んでスタートを切った。練習でやってきたことを思い浮かべながら一つ一つの技に気持ちを集中させる。
スピンOK。ステップOK。プログラムが進んで疲れてきても、テンポに遅れて軽やかさを失ってはいけない。そんなワルツ、かっこ悪い。でもこの日はそんな心配は不要だった。何かが爆発したかのようにエネルギーが湧き、いつものような疲れを感じることはなかった。
三分三十秒の曲が終了した時、ワルツという響きからは想像できないほど息が切れていた。ほんの少しだけど温かい拍手が聞こえる中、決められた姿勢を数秒保つ。一呼吸置いて一歩を踏み出した時、体はしんどいのに自然と笑っていた。陽向さんもいい顔をしていた。
電光掲示板に点数が出る。見上げて見える二日間の総合得点は、106・04。
どうだろう、この得点。西日本での得点をわずかに上回っているけれど。
滑り終えたことによる達成感というか満足感というかそんなものが体に広がる一方で、先の分からなさに対する緊張も残っていた。
二番滑走である笠井・児島組は総合得点80・26で演技を終えた。勝負の行方は、神宮路・蒼井組の結果次第というところまできた。
舞台の上のメンバーが入れ替わった。
流斗と共に、演技のことを作品と呼ぶ少女が氷に乗った。
二人は、リンクの外で見る時とはまるで別人のようだった。姿かたちは同じなのに、表情豊かに寄り添っていて、どんだけ仲いいんだよって思うくらい。演技でここまでできるものだろうか。
静けさの中、弦楽器の低音が響き始める。神宮路さんは流斗からの無言の呼びかけに応えるように、しなやかにその体を動かし始めた。まるで見えない力が二人の間にあるようだった。そして次第に力強さを増す音楽と、ターンを繰り返しながら速度を上げていく二人の間にも見えない繋がりがあるかのようだった。耳に響く音楽と目に映る演技が一つになって僕を取り込む。
なんだこれ。
西日本で見た流斗たちのフリーって、こんな感じだっただろうか……。
よく伸びる滑り。踏み込んだ時の様子からは想像できないほどに、よく伸びる。なぜだろう、じっと流斗を見ても、神宮路さんを見ても、不可解でしかない。あの踏み込みから、ここまで伸びるなんて。
この前は手に取るように彼らのやることが理解でき共感できたのに、今はいくら目を凝らして見ても二人の動きが理解できない。
繋いだ手で引かれ合うようにして、大きく大きくステップを繋げていく二人。
その二人の巧みな技の連鎖は、僕の目をとらえて離さなかった。それは次々と倒れていくドミノのようにも見えたし、いつまでもやり取りを楽しんでいるテニスのラリーのようにも思えた。
これはなんだろう。この、見飽きることのない面白さは。二人で一つの生き物のように動いている。音楽のうねりに乗って。
気がつくと神宮路・蒼井組の演技が終わっていた。大きな拍手が鳴っていた。電光掲示板に映し出された数字を見た時、はっと我に返った。
南場さんから聞いた話が、予想外に堪えていた。陽向さんの勝負に対する思いをあらためて知って、新たな緊張が増していた。
最初の試合以外、国内では常に勝ち続けてきたという陽向さん。僕も彼女の熱心に練習する姿をこれまで日々目にしてきた。
アイスダンスでも高い所を目指して、それに見合う努力をしてきたのだ。この試合は、その結果のかかった試合なんだ――
「制覇君! 膝が硬くなっているわよ。少し力を抜いて!」
先生の声が遠くから聞こえる。
「リラックス、リラックス!」
隣から明るく声をかけられる。
でも、リラックスなんてしてる場合だとは到底思えなかった。とはいえ膝が硬くなっていてはできることもできない。僕は大きく深呼吸をした。リラックスまでとは言わなくても、日ごろの力を出すことは考えなくては。
ちゃんと演技できないことには、3・24の差をひっくり返すなんて話にはならないのだから。
練習が終わると、先生は男子シングルの練習を控えている南場さんの元に向かった。僕はベンチで靴を脱ぐと、裏返してエッジの先を触り、いつもと変わりがないことを確認した。ブレードを揺らし、ビスの具合に異常がないことも確認し終えると、少し気持ちが落ち着いてくるような気がした。
「制覇君。私も先に先生と行ってるね」
陽向さんが僕を気遣うように言った。
一人残された僕がしばらくして鞄に荷物を詰め立ち上がると、壁際に並べられたベンチの下をのぞき込んでまわっている神宮路さんに気づいた。何かを探しているようだった。
「どうかしましたか?」
「大切な子を探しているんです。これくらいの電子メトロノームさんなのですが」
彼女は親指と人差し指で、小さなコの字を作ってみせた。
「公式練習が始まるまではいらしたのに、気がついたら家出をなさってました」
荷物を置いていたというあたりを一緒に探して、ベンチと壁の隙間に落ちているメトロノームを見つけた。
「よかった。これで気持ちが落ち着きます」
神宮路さんはほっとしたような笑顔でメトロノームにイヤホンを差し、それを聞き始めた。
あ、この子、笑うんだ。
これまでリンクサイドではなんだか難しい顔で、流斗と細かいことを言い合っている姿しか見たことがなかったけど。
それにしてもこれで気持ちが落ち着くって……
「メトロノームでですか?」
「そうなんです。これを聞きながら、こうやって振り子が行ったり来たりするのを想像するんですよ」
神宮路さんはそう言うとにっこり笑って、顔の前に人差し指を立てて右に左にと倒した。その様子はとてもかわいらしかったけど、とても変わった人であることは確かだった。神宮路さんって、こういう人だったのか。
「ピアノを習い始めたばかりの頃、メトロノームが揺れるのにいつもわくわくしてました。こうやっていると、あの頃の気持ちが蘇ります。この膨らんだ気持ちで、演技に向かいたい……」
「あ、そうなんですね」
ちょっと僕には分からない感覚だ。
神宮路さんは「どうもありがとうございました」と言うと、「今日はいい作品ができるといいですね」と続けて、僕の前から去ろうとした。
「え? 作品?」
何の話か分からずにいると、美少女は軽やかな声で言った。
「演技のことですよ。素晴らしい演技ができるといいですね」
そして僕の顔を見てにっこり笑った。
これから競い合う相手だというのに、彼女からは僕に対する敵対心のようなものは欠片も感じられなかった。誰の演技であっても、それが素敵なものになることを願っているように見えた。
こんな人もいるのか。
ずいぶんのんきな人がいるもんだ。目の前に迫る真剣勝負のことを、作品と呼ぶなんて。
僕と別れた彼女はすぐにイヤホンの世界に入り、「ああ、このテンポ、このテンポ」と嬉しそうにうなずいていた。
こんな人が、あの闘争心に溢れた流斗の相手なのかと思うと不思議な気がした。
そして、本番がやってきた。練習滑走を終え、僕たちの滑走順は一番。
「あなたたちのフリーは素晴らしいわ。よく滑れているし、とてもよく踊れている。安心して滑ってらっしゃい」
先生が陽向さんの頭を撫でる。
「必ず、勝ってみせます!」
陽向さんは先生の手を両手で握った。
流斗が僕たちの優勝を阻むつもりでも、気の毒なことにその相手は楽しく発表会気分でこの試合に臨んでいる。でもそれも仕方がない。ここは全日本という頂上対決の場でありながら、競技者に恵まれないさみしい試合なのだから。
でも僕たちは違う。
本気で勝つためにやってきたんだ。
陽向さんと同じように、僕も意気込んでスタートを切った。練習でやってきたことを思い浮かべながら一つ一つの技に気持ちを集中させる。
スピンOK。ステップOK。プログラムが進んで疲れてきても、テンポに遅れて軽やかさを失ってはいけない。そんなワルツ、かっこ悪い。でもこの日はそんな心配は不要だった。何かが爆発したかのようにエネルギーが湧き、いつものような疲れを感じることはなかった。
三分三十秒の曲が終了した時、ワルツという響きからは想像できないほど息が切れていた。ほんの少しだけど温かい拍手が聞こえる中、決められた姿勢を数秒保つ。一呼吸置いて一歩を踏み出した時、体はしんどいのに自然と笑っていた。陽向さんもいい顔をしていた。
電光掲示板に点数が出る。見上げて見える二日間の総合得点は、106・04。
どうだろう、この得点。西日本での得点をわずかに上回っているけれど。
滑り終えたことによる達成感というか満足感というかそんなものが体に広がる一方で、先の分からなさに対する緊張も残っていた。
二番滑走である笠井・児島組は総合得点80・26で演技を終えた。勝負の行方は、神宮路・蒼井組の結果次第というところまできた。
舞台の上のメンバーが入れ替わった。
流斗と共に、演技のことを作品と呼ぶ少女が氷に乗った。
二人は、リンクの外で見る時とはまるで別人のようだった。姿かたちは同じなのに、表情豊かに寄り添っていて、どんだけ仲いいんだよって思うくらい。演技でここまでできるものだろうか。
静けさの中、弦楽器の低音が響き始める。神宮路さんは流斗からの無言の呼びかけに応えるように、しなやかにその体を動かし始めた。まるで見えない力が二人の間にあるようだった。そして次第に力強さを増す音楽と、ターンを繰り返しながら速度を上げていく二人の間にも見えない繋がりがあるかのようだった。耳に響く音楽と目に映る演技が一つになって僕を取り込む。
なんだこれ。
西日本で見た流斗たちのフリーって、こんな感じだっただろうか……。
よく伸びる滑り。踏み込んだ時の様子からは想像できないほどに、よく伸びる。なぜだろう、じっと流斗を見ても、神宮路さんを見ても、不可解でしかない。あの踏み込みから、ここまで伸びるなんて。
この前は手に取るように彼らのやることが理解でき共感できたのに、今はいくら目を凝らして見ても二人の動きが理解できない。
繋いだ手で引かれ合うようにして、大きく大きくステップを繋げていく二人。
その二人の巧みな技の連鎖は、僕の目をとらえて離さなかった。それは次々と倒れていくドミノのようにも見えたし、いつまでもやり取りを楽しんでいるテニスのラリーのようにも思えた。
これはなんだろう。この、見飽きることのない面白さは。二人で一つの生き物のように動いている。音楽のうねりに乗って。
気がつくと神宮路・蒼井組の演技が終わっていた。大きな拍手が鳴っていた。電光掲示板に映し出された数字を見た時、はっと我に返った。
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