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■人目の被害者

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 こつこつ、かりかり、ごきごき。

 小さな音が響いている。
 
 一体何の音だろうと心細く思いながら、私は夜道を進んでいく。

 野良犬がごみでも漁っているのだろうか。
 それとも、ネズミだろうか。

 ネズミは嫌だ。何でも食べる。
 それに、汚い。

 はやく帰らなくては。
 今日は、授業のあと先生に呼びだされて、帰りが遅くなってしまった。
 きっと、お母さんが心配している。

 そういえば、咲子様があの日から学園にいらっしゃらない。
 神秘の力を持っていて、可愛らしくて皆の憧れだった。
 意地悪で、役に立たないお姉さんがいて、咲子様はいじめられているとおっしゃっていた。

 けれど……あんなふうに、お姉さんを怒鳴って。
 そして、玉藻様まで馬鹿にするようなことを言って。
 だから、ばちがあたったのかもしれない。

 あの日、私は一緒にいた。
 咲子様のお側に侍ることができるのは、名誉なこと。お友だちにさそわれて、一緒に喫茶店に行けるなんて、嬉しかった。

 でも、あんなことになって。
 
 なにがあったのかと、先生に色々聞かれた。まるで、尋問みたいだった。
 宵ヶ丘学園の生徒は素行が悪いと、苦情がきたそうだ。

 玉藻様にはむかった。ひどい、あばずれだと。

 私はなにもしていない。
 皆と一緒にいただけなのに。

 咲子様の話をすると、先生は私を嘘つきだと言った。
 八十神家から預かっている大切なお嬢様が、悪い言葉を口にするはずはない。
 そう言って、信じてもらえなかった。

 だから、ひたすら謝って。
 何もしていないのに、自分が悪いのだと言った。
 
 それで、こんな時間になってしまったのだ。

 かりかり、ごりごり、ぐちゃ。

 薄暗い帰路には、誰もいない。もう少しで家に辿りつく。

 家と家の間の路地に、ふと視線を送った。
 そこには、誰かがうずくまっている。

 黒い大きな野良犬かと思う。
 けれど、それにしてはずいぶん大きい。

 背中が、私に向いている。
 野良犬は怖い。人を襲うこともある。
 二、三歩後退ると、靴底が何かを踏んだ。

 それは、鞄だった。化粧品やハンカチなどの中身が、道路に散乱している。

「あ……」

 黒い獣が顔をあげる。
 てらてらと、口元がなにかの液体で濡れている。

 それは、男だった。
 知らない男だ。何か特徴的な見たことのある――警邏隊のような、服装をしている。
 血走った、正気を失ったような目が、虚に私を見据える。

 焦点が結ばれた時、男の口元がにたりと、笑みを浮かべた。

 その口には、牙がある。
 牙や唇や顎に、光っているのは――赤い。

 血――。

 ◇

「……っ」

 ぱちりと目を開く。一瞬、今がいつか、私はどこにいるのか分からなかった。
 心臓がうるさいぐらいに鳴っている。
 うまく息がつげなくて、私は寝衣の前合わせをぎゅっと掴んだ。
 
 布団から、飛び起きたらしい。
 掛け布団が乱れている。明け方だろう。障子の向こう側は少しだけ明るいけれど、まだ薄暗い。

「薫子?」
「由良様……っ」

 私の隣で横になっていた由良様が上体を起こして、私の体を支えるようにしてくれる。
 由良様の体に縋りつくように抱きついて、私はその胸に顔を埋めた。

「どうした」
「……ごめんなさい、起こしてしまって」
「そんなことはいい。何かあった? 怖い夢を?」

 あれは、夢なのだろうか。
 夢としか、言えない。

 でも――まるで私が、別の誰かの中に入ってしまったように、あまりにも現実味を帯びている。
 人喰いの話を聞いたから、妙な夢を見てしまったのだろうか。

「なんでもありません。ごめんなさい、心配をさせてしまって」
「薫子。隠さず、話して欲しい。どんな些細なことでもいい。俺は君のことが知りたい」
「……ありがとうございます」

 由良様の手が、優しく私の髪を撫でている。髪を、背中を、腰を。
 少しくすぐったくて身じろぐと、こめかみに唇が落ちた。

「話せるまで、待っているよ。……大丈夫、俺はここにいる。落ち着いて」
「……はい」

 由良様の腕の中は、こんなに、安心できるのに。
 指先が冷えて、心臓が冷たい。

 暗い路地で男と目が合って、男がにたりと笑った瞬間、私は――死を悟った。
 逃れられない死が、生と死の境界線が、私の前にはっきりと横たわっていたのだ。

「夢を見ました。ただの、夢です、きっと」
「どんな夢だった?」
「……私は、女学生でした。先日、咲子さんと一緒にいた女学生のうちの一人。女学校の帰りが遅くなって、夜道を一人で歩いていました」
「うん。それで?」
「それで……音が、して。野良犬が、ごみを漁るような音がして。……ふと、路地を見ると男の人が。……人を、食べていたのです」

 震える体を、由良様が強く抱きしめる。
 骨が軋むほど強く抱きしめられて、私は眉を寄せた。

「薫子。……その男の顔を見たか?」
「はい。でも、知らない顔でした。……警邏隊のような、服を着ていて」
「そうか」

 由良様の声音は、怖いぐらいに真剣だった。
 ただの夢だと笑って、慰めてくれるのかと思っていた。
 けれど、そうではない。

「……神癒の巫女は、古の時代は、人を喰らうもののけどもの贄にされてきた巫女の家系。その体には強い霊力が宿り、怪異を鎮めるための贄になる。つまり、最も死に近い生を生きていた」

 私は頷いた。贄など――今では考えられないけれど。
 かつては、そんな時代もあったのだろう。

「……そうなのですね。贄に……」
「あぁ。特に力の強い巫女は、死を見ることができたようだ。人の死を見る、死者の目と呼ばれる力。死者の恐怖が、助けを求める感情が、巫女に届くのだそうだ」
「で、では、今からあの女学生を、助けられるのですか……!?」
「いや。……死者の無念が形となり、君に届く。その命はもう終わっている。助けることはできない。だが、行き場のない霊体を鎮めて、空に返すことはできる」

 由良様の言葉を信じるのならば――つまり、あの女生徒は、もういない。

 死んでしまった。
 ――殺されて、食べられた。

「っ、ふ、ぅう……」

 心が、散り散りに千切れてしまいそうだった。
 あの子は、母親のことを考えていた。
 早く帰らないと、お母さんが心配をすると、家路を急いでいた。
 
 もう、助けることができない。

「……薫子。その死に、君の責任は一つもない。だが、死者が助けを求めている。君を呼んでいるのは確かだ。まだ、できることはある」
「はい……」
「落ち着くまで、こうしていよう。泣いていい。大丈夫」
「はい……っ」

 流れた涙が、由良様の寝衣を濡らした。

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