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レナードとワイアット
しおりを挟む朝になるまでに、ここから逃げよう。
けれど、逃げて──どうしよう。
私の持ち物もお金も、あの屋敷の中にあった。一人で何年間かは暮らしていけるのには十分だった。
けれど全てレナードが燃やしてしまって、今の私には何もない。
もう、ルーファスさんはいないのに。
それでもどこかに──と、思い、扉を開ける。
すると、扉の前には護衛兵が数人立ちはだかっていた。
「リュミエル様、今夜はお休みを」
「窓から抜け出すこともできません。窓の下にも、見張りの兵がいます」
レナードは私が逃げることを予想していたのだろう。
私は大人しく部屋に戻った。ややあって侍女たちが来て、ドレスから寝衣に着替えさせてくれる。
目を閉じてもまるで眠れそうになかったけれど、『眠れ、リュミ。明日に備えろ』という囁きが聞こえた気がして、いつの間にか微睡んでいた。
翌日、シモン家は朝から慌ただしかった。
レナードと私の婚礼の儀式は、来賓者を呼ぶことなく密やかに執り行われることになっている。
私は白い婚礼着に着替えさせられて、美しく髪や体を宝石で飾り付けられていた。
逃げる機会を伺ってはいるものの、私の傍には常にぴったりと護衛や侍女たちが張り付いていた。
時間が私を置き去りにして、どんどん勝手に通り過ぎていくようだ。
ルーファスさんと過ごした時間が夢のようでもあり、こうしてリュミエル・シモンに戻った今の時間が夢のようでもあった。
準備を整えられた私は、シモン家の一角にある教会に連れていかれる。
そこにはレナードがいて、家の者たちがいる。義両親はもういない。
「あぁ、なんて美しい……リュミエル、この日をどれほど夢に見てきたか。これからはあなたの傍に僕がずっといます。あなたは何も考えず、僕に守られていればいい」
「……レナード、やっぱりこんなのは、間違っているわ」
「そのうち、あなたも認めるでしょう。時間があなたを正気に戻してくれるはずだ」
私はずっと、正気だ。
婚礼着を着たレナードの隣に並んだ私の前には、儀式の言葉を紡ぐ神父様がいる。
これから手を取り合い、健やかなるときも病める時も──という言葉が、耳を滑る。
「それでは、誓いの口づけを──」
神父様の言葉に、レナードは嬉しそうに私の腰を抱いた。
唇が近づいてくる。私は逃げようともがき、思い切り背筋を逸らせた。
耳元でルーファスさんが『浮気者』と言い続けている気がしてならない。
ふと、もしやこれが呪いなのかと思う。
ルーファスさんなんてはじめからいなくて、私はあの廃墟で幽霊に呪われていた。
魔法の力なんて幻で、あの屋敷はずっと廃墟のままで。サーラムさんの手記も、封じられていた心臓も。なにもかもが、私の頭の中だけで起こっていたことではないのか。
この思慕は、幻に向けるもの……?
もう、ルーファスさんが存在していたことを証明するものは、何一つ残っていない。
唇が触れ合いそうになった瞬間、大きな音を立てて教会の扉が開いた。
「リュミエル!」
光の差し込む教会の扉から、私を救いに来た勇者のように現れたのは──ワイアット様だった。
「……ワイアット様」
私は。
がっかりした。
こういう時、物語などでは本当に好きな人が現れるものでしょう、普通、常識的に考えて……。
ワイアット様なんて。
昔、好きな人だったけれど。今はもう、どうとも思っていないというか──浮気、したわよね?
そう、冷静に考えて、私は浮気をされたもの……!
そして性癖の不一致でアイリーン様に逃げられた、ちょっと間抜けで緊縛趣味のあるサディスト。
顔がいいからといっても、それを上回って余りありすぎる欠点がある。
『お前の周りの人間は、ろくでなしばかりだ』
──そう、ルーファスさんは言ったのだったわね。
割と、本当に、その通りなのかもしれない。
「リュミエルをもらい受けにきたぞ、レナード!」
「……殿下、リュミエルは僕と結婚をします。殿下はアイリーン様に謝罪をするべきだ。そして、二人で幸せにくらしてください。リュミエルを捨てたのはあなたです」
「捨ててなどいない。婚約は解消したが、それは正式な手順を踏んでのものだっただろう。だが、アイリーンはもういない。私の妃に相応しいのはリュミエルだ。レナード、人殺しの子供であるお前が、リュミエルと結婚できるとでも? 私に逆らうつもりか」
奪い合いをされている気がするけれど──なんだか、もう、どうでもいい。
だって、二人とも好きじゃないもの……!
「リュミエル、僕と結婚をしましょう」
「リュミエル、私の元に来い」
私は、私は──。
「私は、初夜に媚薬を使う弟も、私のことを縛って慰み者にする殿下も、どちらも嫌です……!」
あの夢が現実と繋がっているとして、両方嫌だ。
そもそも好きでもない人と、あんなことはしたくない。
「ルーファスさんの馬鹿! 自分勝手! 私に恋をさせておいて、勝手にいなくなって! 会いたい、声が聞きたい、自信満々に笑っていて欲しい、馬鹿……っ」
誰にも見えない人に、どこにもいない人に向かって泣き叫ぶ私は、きっとおかしくなったように見えただろう。
それでもいい。なんでもいい。
ルーファスさんは確かにいた。それを証明できるのは、私だけだ。
「──ふふ、はは、ははは!」
聞き覚えのある高笑いが、私の耳にだけではなく、実際に、教会の中に響き渡る。
突風が吹き、竜巻が起こり、教会の屋根が吹き飛ばされる。
レナードもワイアット様も、それから家の者たちも、飛ばされないように椅子や柱にしがみついた。
その中で、私だけが無事だった。
見えない何かに守られるように、風圧からも飛んでくる木片や石からも、私は守られていた。
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