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第一章 マユラ、錬金術師になる
海の底にたゆたうもの
しおりを挟むわだつみの祝福亭は、港の傍にある食堂だ。
かつて騎士団に所属していたグウェルが食堂を開いたのは今から六年前のこと。
両親亡き後一人で食堂を切り盛りしていたエナと出会い、快活で世話好きなエナに惚れ込んで求婚をした。
エナは騎士を嫌っていた。なぜなら、エナの兄も騎士だったからだ。
庶民の兄は努力の末に騎士団に入ったものの、身分が低い者は危険な任務につかされて、こき使われる。
エナの兄は魔物討伐の際に先兵として使われて、あっさり死んだ。
「さして強くもない癖に、口ばかりは大きなことをいう兄だった」と、エナは呆れたように語っていた。
「すぐ死ぬ騎士なんか嫌いだよ。結婚なんてしたら不幸になるだけだ」と、グウェルの求婚を突っぱねたエナに、グウェルは「それなら騎士をやめる。料理を覚える。食堂を手伝わせて欲しい」と申し出た。
あまりの熱心さにエナは折れた。
グウェルは約束通りに騎士団をやめて、わだつみの祝福亭で働き始めた。
グウェルはヒルデバラン伯爵家の次男であり、その当時はルクスソラージュ騎士団の第一部隊副団長を務めていた。
名誉ある立場であったが、それを捨てて庶民と結婚をしたグウェルを、ヒルデバラン伯爵家は認めなかった。
勘当同然の結婚だったが、グウェルは気にもしていなかった。
そんなことよりも、エナと結婚することや食堂を手伝うことのほうがグウェルにとってはずっと幸せだったのだ。
エナはすぐにニーナを身籠もり、グウェルはわだつみの祝福亭で働きニーナを育てていく決意を新たにするために、右肩に魚のマークを入れた。
これは、近隣にある有名レストラン、オクトーを象徴するタコのマークに対抗するためである。
わだつみの祝福亭は庶民的で安価。オクトーは金持ち向けの高価な店だ。
だが、味では負けていないつもりだ。グウェルは元々野営地での調理が得意だった。
ニーナに教えてもらうと、すぐに魚料理を覚えた。わだつみの祝福亭で料理を作るのはグウェルの担当になった。
それは存外、騎士よりもグウェルに向いていて、剣を包丁に、そして釣り竿に変えての日々は、グウェルにとっては楽しいものだった。
市場で仕入れていた魚も、安い船を買って自分で釣るようになった。
夜も明けやらぬうちに釣りに出て、その日提供する料理に使う。
それの繰り返しが、グウェルの毎日になったのである。
だから高熱を出すことになった日の朝も漁にでかけて──魚を釣っていた。
そして──。
「なんだか、様子がおかしいと思ったんだ。魚はまるで釣れないし、朝日がのぼっているはずなのに海は妙に暗い。帰ろうと港に向かっていると、女のすすり泣きみたいな声が聞えてな」
「……お父さん、怖い」
「ニーナは聞かなくていいよ。耳をふさいでなさい」
「うん」
ニーナがエナにぎゅっと抱きつく。
エナはニーナの両耳を、両手でふさいだ。
マユラは怖い話は苦手ではない。なんせ呪いの屋敷に率先して住んでいるぐらいだ。
ただ、グウェルの語り口が真に迫っていて雰囲気に飲まれてしまい、やや寒々しさを感じた。
だから抱き上げている師匠を震える手で強く抱きしめる。
師匠は特に怒ることもなく、そもそも痛覚がないと言っていたので握られている感覚もないのかもしれないが、『怯えるな、話しを聞け』素っ気なく言っただけだった。
「女のすすり泣きというと、セイレーンか何かでしょうか」
「セイレーンは相手に催眠をかけて船から海に落とし、落ちた人間を喰らう魔物だ。病気になるなどと効いたことはないな」
「そうですね、確かに」
レオナードは冷静に、グウェルと状況を確認している。
レオナードは化け物の類いではなく、魔物の仕業だろうとはじめから思っているようだった。
「それに、俺が見たのは──黒い犬の姿だった」
「……海の中に、犬?」
「そんな魔物、いましたっけ?」
腕を組むレオナードに、マユラは尋ねる。
マユラの知識の中にも、海の中にいる黒い犬というものはない。
『なんだ。お前たち、そんなことも知らんのか。海の中にたゆたい、運悪く出会った者に病魔を振りまく黒い犬。本体は、女と犬と魚の魔物、スキュラだ。その病魔はスキュラの呪い。スキュラを倒すまで、治らん』
師匠が呆れたように、そしてどこか得意気に言った。
マユラはぱちりと目を見開くと「あぁ!」と、声をあげる。
スキュラというのは、セイレーンよりも知名度が低い海の魔物だ。
出会った者に、海の呪いをかけると言われている。
海の呪いとは、端的に言えば病魔の呪いである。
スキュラに出会った者はその姿の恐ろしさから高熱を出し、悪夢の中を彷徨ってやがて死ぬ。
船を沈めるセイレーンよりも危険度が低く出会う確率も低い。
それに、討伐しようにも普段は海の中をさまよっているために、見つけることが難しく、討伐対象にならずに捨て置かれている場合が多い。
スキュラに出会ってしまったら、運が悪かったと思うしかない。
「お父さん、なおらないの……?」
「熱は解熱のポーションでさげられる。大丈夫だ、ニーナ」
途中から話を聞いていたらしいニーナが、不安げに言う。
グウェルは微笑んでニーナの頭を撫でたが、その声音には諦観と諦めが滲んでいた。
「──大丈夫です、任せて下さい。スキュラの討伐、してきます」
「マユラが、かい? 錬金術師のあんたに、そんなことを頼めないよ」
「なんとかします。なんとかできるように、頑張ってみます。しばらくは解熱のポーションで頑張っていてください」
ニーナや、グウェルやエナを放っておけない。
目の前の困った人を助けるのが、錬金術師としてのマユラの役目だ。
それに、縁を切ったとはいえマユラはレイクフィアの娘。魔物討伐で名を馳せた家の出身だ。
もう少し調べて、対策を考えれば──何か方法がみつかるはず。
「俺も手伝おう」
「レオナードさん、いいんですか?」
「あぁ。グウェルさんたちを放っておけない。君が頑張ると言っているのに、見捨てて一人で帰るわけにはいかないだろう?」
「ありがとうございます、レオナードさん」
マユラはレオナードに深々と礼をした。
エナは「マユラ、レオナード君、いつでも食堂においで。あんたたちには無料で食事を提供するよ。その気持ちだけでも、本当にありがたい」と言って、瞳を潤ませた。
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