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幸福な夢、残酷な現実
しおりを挟む――ねえさま、ねえさま、と声がする。
たどたどしいが、張りのある声だ。
琥珀は庭に視線を向けた。
秋晴れのあたたかい日差しの差し込む庭は、赤や黄色に色づいた落ち葉が絨毯のようにしきつめられている。
庭から、艶やかな黒い前髪と後ろ髪を真っ直ぐに切りそろえた、愛らしい日本人形のような少女が駆け込んでくる。
走るたびに、黒を基調とした白いレースが施されているワンピースが、ひらひらと揺れた。
「ねえさま、瑠璃のねえさま、今日もお元気そうで何よりです!」
少女は庭先から軽々と縁側を抜け、琥珀の居る和室へと上がる。
庭から続く森には、道がない。
背の高い草が生い茂り、幼い少女が一人で抜けるには大変だっただろう。
瑠璃のワンピースには葉っぱが纏わりつき、艶やかな髪も乱れている。
それでも彼女はここに辿り着くまでの苦労を一切感じさせることなく、嬉しそうに笑っている。
「瑠璃、ここに来たら、駄目」
瑠璃が来てくれて嬉しい。会えて嬉しい。
そう思ってしまうことは、琥珀にとっては禁忌に触れているように感じられた。
だから、せっかく妹が忍び込んできてくれても、そんな風に返す事しかできない。
「ねえさまに会いに来て、何が悪いというのです。ねえさまは瑠璃のたった一人のねえさまなのですよ」
「瑠璃、森は危ない。怪我をするかもしれない」
「だから何だというんです、怪我の一つや二つ、大したことはありません」
瑠璃は琥珀の手をぎゅっと掴む。
体温の高い、小さな手だ。
「瑠璃がねえさまを、ここから出してあげますからね。瑠璃と一緒にこんな村は出ましょう」
「それは、駄目。私が居なくなったら、皆困ってしまう」
「ねえさまを閉じ込めているひとたちなんか、困らせてやれば良いのです」
幼い故の無謀さできっぱり言い切ると、瑠璃は琥珀の手を引っ張って無理やりに立ち上がらせる。
二つ年下の妹は、琥珀よりも一回り小柄だった。
はきはきとものを言える瑠璃のくるくると良く変わる表情を見ているのが、琥珀は好きだった。
駄目な事だとは知りながら、瑠璃の手を振り払うことが出来ない。
「ねえさまは何も心配しないで大丈夫ですよ。瑠璃は村から出る道を知っています、たくさん歩きますが、疲れたら瑠璃が背負ってあげますからね」
「瑠璃、私は此処を、出られない」
「それは思い込みというものです。瑠璃がここに入って来れたのですから、ねえさまも外に出られるのですよ」
ぐいぐいと、瑠璃が手を引っ張る。
縁側の方へと引きずられていき、手を繋いだままの瑠璃が庭へとぴょんと降りた。
それから困ったように足元を見る。
「ごめんなさい、ねえさま、靴がなくて……ねえさまは足袋ですけれど、足袋は底が硬いから、少しの間は大丈夫、でしょうか。村から出たら、すぐに靴を探しましょうね」
申し訳なさそうに瑠璃は言った。
琥珀は首を振る。ここからは、出られない。
瑠璃の手を、離さなければいけない。
琥珀が再度一緒に行けないと言おうとしたとき、庭の奥から音もなく男が現れ、瑠璃を小猫のように持ち上げた。
「いい加減になさい、瑠璃様。琥珀様が困っているでしょう」
「影虎! 邪魔をするのですか! 私とねえさまの間を引き裂くなど、鬼の所業ですよ!」
「琥珀様も、お遊びはこれでおしまいです。中に戻ってください。外に出たとしても、すぐに連れ戻されることぐらい分かっているでしょう」
元より琥珀には外に出る気は無かったのだが、影虎に言われてこくりと頷いた。
影虎にに抱えあげられた瑠璃は、暴れながら「鬼! 悪魔!」と騒いでいる。
「瑠璃、ありがとう、でももう来たら駄目」
瑠璃が怒られるのが不憫でそう言うと、彼女は怒った顔をして琥珀を睨んだ。
「馬鹿ですねねえさま! ねえさまは馬鹿です!」
「瑠璃様、琥珀様を困らせるのはやめなさい」
「馬鹿だから馬鹿だと言ったのです! 瑠璃は、私はどんなに怪我をしようと怒られようと、影虎に邪魔をされようとも、姉さまに手を伸ばすことをやめたりしません!」
暴れる瑠璃を持て余したのだろう、影虎はとうとう彼女を肩に担ぎあげた。
影虎の肩から顔をあげると、瑠璃は大きな声でそういう。
琥珀は困惑して眉根を寄せた。
「私は、瑠璃が痛い思いをするのは、嫌」
「葉っぱで足を切る事ぐらい、ねえさまに会うためなら何でもありません。姉さまがどんなに駄目だといっても、私はねえさまを諦めません! それは私の勝手です、私がそうしたいから、そうするのです!」
「それは我儘というのではないですか、瑠璃様」
「影虎はうるさいですよ、今私は私がどんなにねえさまが好きかを、ねえさまに分からせるため、気持ちを伝えている良い処なのですよ!」
「相変わらず恋愛小説ばかり読んでいるようですね、瑠璃様」
帰りますよ、と影虎が言う。
連れ戻される間も、瑠璃は「ねえさままた会いに行きますからね!」と何度も言い、影虎に文句を言い続けていた。
ねえさまは馬鹿だという言葉が、耳に残って、琥珀は暫くその場に立ち尽くしていた。
――その後どうなったのかを、琥珀は知っている。
瑠璃はそれきり、来ることはなかった。
琥珀を連れ出そうとしたことが、流石に問題になったのだろう。
それまでは忍び込んで少し話すと満足して、影虎にみつかる前に彼女は帰っていったが、連れ出そうとしたのは初めての事だ。
幼いながらに、琥珀が閉じ込められている理由を知って、どうすれば良いのか考えたのだろう。
助けるためには一緒に逃げるしかないと。
琥珀にはその気持ちが有難かったが、それよりも瑠璃が自分なんかの事で咎められるのが嫌だった。
できる事なら、瑠璃には幸せになってもらいたい。
その為には、自分には関わらない方が良い。
瑠璃が来なくなったことに安堵したことを覚えている。
しかし、琥珀が眠り、目覚めると、瑠璃が庭から走ってくる。
それは昨日と同じ。昨日と全く同じ光景だった。
繰り返される光景に、はじめのうちは琥珀は気づかなかった。
しかし、瑠璃に馬鹿だと言われて、その言葉の意味を悩むうちに徐々に違和感に気づいた。
「瑠璃は、昨日も来た?」
琥珀がそう尋ねると、瑠璃は不思議そうな顔をする。
「何を言っているんですか、ねえさま。そんな事より、今は逃げる方が先ですよ」
ぐいぐいと、瑠璃が手を引っ張る。
激しい違和感を感じ、琥珀は頭を抑えた。
どんなに否定しても、一緒に来ると言ってきかなかったのは誰だっただろうか。
『これは、俺の我儘だから』という言葉は、琥珀が気に病まないようにするための優しさだ。
瑠璃が琥珀に馬鹿だと言ったのと、それは、同じ。
大切なことを、忘れている気がする。
『生きて欲しい』と祈る様に、言ってくれたのは誰だっただろう。
遠く苦し気なうめき声が聞こえた気がした。
手を引く瑠璃の温かい体温が、「ねえさま」と繰り返し呼ぶ声が、このままこの繰り返しの中にいても良いのだと甘く囁いてくる。
――けれど、違う。
琥珀はもう小さな子供ではなかったし、もうこの屋敷にはいない。
それに気づいた途端、ガラスが割れるように風景が壊れた。
瑠璃も、落ち葉だらけの庭も、畳敷きの部屋も、崩れ落ちていく。
琥珀は柔らかい寝台の上に座っている。
隣にいるのはカグツチで、ここはカグツチの薄暗くそれでいて煌びやかな牢獄だったことを思い出す。
琥珀は目を見開く。
――寝台から少し離れた床の上に、片腕を失った涼が蹲り苦しみ呻いていた。
「涼……!」
涼の名を呼び駆け寄ろうとするが、体が動かない。
カグツチは此方を見ると、愉し気に目を細めた。
「自力で起きたのか、珍しい事もある。それともお前の夢は、単調でつまらないものだったのか?」
「カグツチ様、涼に何を……酷いことは、やめてください……!」
琥珀はカグツチの腕を掴むと、どうかもうやめてと訴えた。
涼は声に気づいたのか顔をあげると、痛みに顔を歪ませながら、それでもはっきりとした口調で言う。
「俺は、大丈夫。一緒に帰ろう、琥珀」
「駄目、どうして……どうして、私は大丈夫だから、だから」
かつて琥珀は瑠璃に帰る様に繰り返し言った。
関わらないようにと、繰り返し言った。
喉がひりつく。
「帰って」と言おうとした琥珀の言葉を遮り、涼は言う。
「琥珀、俺は自分勝手だから、琥珀に生きて欲しい。絶対に連れて帰る。琥珀が嫌だと言っても、絶対に」
「私は、私のせいで、涼が傷つくのは、嫌……!」
「右腕がなければ、左腕を伸ばす、し、腕が無くなれば、足を使うよ。足が無くなったら、這ってでも、助けに行く。俺は琥珀を諦めない」
痛いのだろう、掠れた苦し気な声で、涼が言った。
カグツチは声をあげて笑う。
「それは良い。望み通り、両腕を亡くしてやろう」
カグツチの言葉が終わるや否や、涼の左腕は燃え上がり、付け根の部分から黒く焼け焦げぼろぼろと崩れた。
涼は声にならない声をあげて、支える両手を亡くして床に倒れ込む。
額を床に押し付けて、苦しみに喘ぎ、激しい呼吸を繰り返す。
琥珀は口元に手を当てて悲鳴を抑える。
カグツチに縋りつき、もうやめてと訴えたが、じゃれつく猫の相手をするかのように、うるさそうに片手で払われた。
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