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たりないもの
しおりを挟む肉の焼ける嫌な匂いと、涼の抑えきれずに漏らした苦痛に満ちた声に、琥珀の体はがたがたと震えた。
涼の傍らに風伯がしゃがみこみ、泣きだしそうな顔でその体を抱きしめている。
「カグツチ、漆間はただの人間だ。もうやめろ、俺ならどれ程切り刻んでも構わない……!」
耐えきれなくなったように、尽が言う。
切り刻むという単語に琥珀は目を見開き、どうして、と呟いた。
何故そんな事をする必要があるのか、働かない頭で懸命に考える。
無闇に他者を傷つける理由など、わからないし理解できない。
「八津房、お前は自らの死や痛みに耐えることは容易いが、他者の傷には敏感だ。自己犠牲が得意なのは、琥珀によく似ている。漆間が傷つけられるのは、お前たちにとって、一番辛いだろう?」
「下種が……!」
「魂を返してもらうには、相応の対価が必要だろう。もっと足掻き、苦しんでもらわなければつまらない。人が最も美しいのは、困難を乗り越えた時だ。それは急流を昇る魚のようなものだ」
閉じ込められ、退屈をしているから遊びたいと、カグツチは言っていた。
人が苦しみ、踠き、悲しみ、怒るさまが彼にとってのたのしみになるのかと思うと、嫌悪感とともに哀れみを覚える。
――琥珀は瑠璃の笑った顔が大好きだった。
ねえさまと呼んでくれた拙く幼い声が大好きだった。
瑠璃には言ったことがないけれど、瑠璃との思い出は心の奥底に宝物のように大切にしまっている。
だから、カグツチの鳥籠の中で瑠璃の夢を見たのだろう。
きっと神楽は、森の奥で那智と再会する夢を見ていた筈だ。
しかしそれがただの夢であると気づいた時、残るのは虚無感と、心を無理やり暴かれたような羞恥心だけ。
カグツチの言う優しさは、残酷さと変わりない。
琥珀は瑠璃に、笑っていて欲しいと思う。
覡の家から開放されて、自由に幸せになって欲しいと思う。
誰かの苦痛や苦悩を楽しいと感じるということは、誰かの幸せを願うことができないということに、似ている。
カグツチは、自らの強大な力で、誰かに幸福を与えたいと思ったことはないのだろうか。
それとも、幽閉されて歪んでしまったのだろうか。
どちらにせよ、――それはひどく、かなしい。
「八津房、俺は、大丈夫……だから、」
小さな声で、涼が言う。
尽は頭を振って、一歩前に踏み出す。
「足を落とされ、臓腑を引きずり出されたら、人の身では気が触れる。カグツチの言うとおり、死にはしないだろうが、精神に負った傷は元に戻らない」
「そう人を弱いものだと決めつけるのは良くない。案外耐えるかもしれないぞ。お前の言うとおり、次は足を落とそう」
「やめろ!」
カグツチが言い終わらないうちに、尽が制止の言葉を叫ぶ。
床を蹴り駆ける彼の右腕が、一瞬膨れ上がったように見えた。
肩口から、上着の袖が散り散りに裂ける。
尽の肩から先には黒い螺旋状の文様が現れ、螺旋の文様が集まるように、鋭利な黒色の尖った刃物のようなものが、手の代わりに肘の関節の先から生えた。
「那智の力だな。とうとう、人をやめ、百足の眷属になったことを認めたのか」
揶揄するように言うカグツチに、何も言わずに尽は跳躍すると、刃の切っ先を振り下ろす。
しかしそれは彼には届かず、片手で簡単に阻まれた。
刃を何食わぬ顔で掴んだカグツチは、そのまま自らの手ごと尽の腕に炎を纏わりつかせる。
腕が焼け爛れるのを気にせずに、尽は瞬時に左腕を振り上げる。
それは右腕と同じように鋭利な刃に姿を変え、カグツチの左肩に突き刺さり、肉を抉り取った。
しかし、血を流すこともなく、カグツチの抉られた肩は肉が盛り上がり一瞬で修復される。
カグツチは掴んだまま燃えていた尽の右腕を離した。
再度振り下ろされた左腕の刃をおもむろに掴み、ぼきりとへし折る。
尽は痛みに僅かに呻いたが、折られた腕の付け根は何か別の生き物のように柔らかくうねり、黒い触手のようにいくつかに分離してから螺旋状に捻れ、また刃の形に戻る。
焼け爛れた右腕も、脱皮でもするように元の状態に戻った。
「こうして歯向かってくる者と相対するのは、いつぶりだろうな、無駄だと分かっているのに、健気な事だ」
「神の癖に牢から出られないんだろう! 所詮お前は神とは名ばかりの、人を甚振る事にしか楽しみを見出せない低俗な虜囚だ!」
「犬のように、よく吠える」
カグツチは僅かに苛立ったようだった。
浮かべていた笑みを消し、刃を振り上げて襲い掛かろうとしている尽の腹部に右手を突き出すと、炎の塊が掌から溢れて、尽の全身を覆いつくするように広がる。
尽が体勢を立て直すため一度離れると同時に、床から何本もの火柱があがった。
炎は轟音と共に燃え上がり、床を破壊しながらぐるぐると回転する。
瞬く間に尽の体を囲い、一瞬にして炎の壁で彼を包んだ。
炎が静まった床の上に、尽は膝をつき倒れこむ。
焼け焦げた体は再生を始めているが、深刻な傷を負っているのは明白だった。
「や、めて、やめて! お願い!」
泣くまいと思っていても、勝手に涙が溢れてぼろぼろと溢れる。
カグツチは琥珀をちらりと見て、不機嫌そうな表情を再び笑みの形に変えた。
「さぞ気分が良いだろう、お前のために命をかけてくれている人間を見るのは」
「そんな風に、思うわけがない!」
琥珀はカグツチを睨む。
瑠璃がかつて言ったように、自分は馬鹿だったと琥珀は思う。
これは自分が中途半端に逃げ続けた結果だ。
瑠璃も、涼も、手を伸ばし続けてくれていたのに、その手を取らなかった。
尽の嘘にどこかで気づいていたのに、真意を探ろうとしなかった。
もっと良い方法があった筈なのに、目を伏せ耳を塞いできた。
生きたいと、本当は皆と一緒に生きてみたいと、望むだけで何か変わっていたかもしれないのに。
それをせずに、逃げた愚かな弱い自分の招いた事だ。
彼らが救おうとしてくれようとする程、自分の価値のなさを痛感して逃げたくなるのは変わらない。
けれど――今はせめてその気持ちに応えられる程度には、強くありたい。
「あなたが幽閉されたのは、正しい判断だった。あなたは、残酷だ」
「痛みや苦しみに耐え抜いたら、お前を返す約束だ。俺は嘘はついていない、対価を払えば望みを叶える、現世に関わろうとしない他の神よりも、人間には優しいだろう」
「あなたは檻から出たいのに、閉じ込められた理由を知ろうとしていない。それじゃあ、何も変わらない!」
カグツチは眉間にしわを寄せると、徐に琥珀の首を掴んだ。
ぎりりと締め上げられ、琥珀は息苦しさにカグツチの手を離そうと踠いたが、琥珀の両手は締め上げる指を掴んだだけで、その手はびくともしない。
「知ったようなことを。喉を潰し、二度と口がきけないようにしてやろう」
「あなたは残酷で、足りなくて、可哀想……っ」
切れ切れに、苦しげに紡がれた琥珀の言葉に、締め上げる力が強くなる。
息ができない。
瑠璃と一緒に、街を歩いてみたかったと思う。
瑠璃の好きだと言う恋愛小説を一緒に読んだり、一緒に食事をしたり、してみたかった。
少しだけで良いから、そうして共に過ごしてみたかった。
それに――できるなら、涼ともっと話をしてみたい。
涼の飾らない真っ直ぐな言葉が無ければ、きっと琥珀はただ何もできずに、カグツチの隣で泣いていただけだっただろう。
尽の事はわからないことの方が多いけれど、何故かその声を聞くと安心する。
尽がいなければ今頃、誰とも交わらず、湖の底へ沈んでいた。
もう少し、生きたい。
もう少し。
生きたい――そう、思うと、驚く程に心が欲求で溢れた。
もう少し早くそれを望んでいれば、差し伸べられた手を受け入れていたのなら。
こんなことにはならなかった筈だ。
間違えてしまった。
そのせいで、沢山の人を傷つけてしまった。
自分の罪は自分で償わなければならないと、苦しさに喘ぎながらもカグツチをじっと見据える。
カグツチはどういうわけか僅かばかり、締め上げる手を緩めた。
「足りない、と言ったな。その通り俺には足りないものがあるらしい。そのせいでこの忌々しい冥府から外に出ることが出来ない。俺に足りないものとはなんだ、言ってみろ」
「……教えたら、傷を癒して、二人を助けてくれる、のですか」
「取引か、良いだろう。お前の言葉が当たっているとは限らないからな、それは俺が冥府から出ることが出来るまで、お前が俺の傍に居るという取引だ」
「あなたの傍にいるくらいなら、死んだ方がずっと良い。……けれど、分かりました」
何とか声を振り絞りそういうと、琥珀の首を絞める手から解放されて寝台にどさりと落とされる。
咳き込みながらも、琥珀は言葉を紡ぐために口を開いた。
「……カグツチ様、あなたの集めた魂は、それぞれ夢を見ていると言いました。私の夢には瑠璃が出てきました。私には何もなかったけれど、ずっと傍に、場所は離れていたけれど、瑠璃が居てくれた。でも、あなたには何もない」
「家族愛か? 何を言うかと思えば、所詮はそんなものか。くだらないな」
嘲るように言うカグツチを、琥珀は挑むように見据えた。
「あなたの傍には誰もいない。あなたには何もないから、思うままに好きなように振舞える。残酷なことができる。でも、結局淋しいのでしょう、だから沢山の魂を集め、人間に関わることをやめなかった。あなたは何かを欲しがっているけれど、それがなんだか自分でも分からずに癇癪を起している幼い子供です」
カグツチの瞳に暗い怒りが宿っているのが分かる。
「あなたは愛されたいと叫んでいるけれど、誰も愛したことがないのでしょう。足りないとは、そういう事です。羽を捥がれた蝶を哀れに思うのは簡単な事なのに、あなたはそれをしようとしない。恐怖を与えることで愛が得られると、勘違いをしている」
琥珀が言い切ると、カグツチは忌々しそうに此方を睨みつける。
それから「戯言はもう十分だ」と言った。
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