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帰還
しおりを挟む浮遊感とともに目を開けると、玲瓏な男の横顔が目に入る。
彼は手を伸べて石廟に横たわる琥珀を起き上がらせると、抱き上げてゆっくりと床に降ろした。
琥珀はあたりを見回す。薄暗い、祭壇のような場所だ。カグツチの神殿は華美な印象だったが、ここは美しいながらも品の良さと静謐さを感じる。
「那智様?」
長く黒い髪を一つにまとめ黒い着物を着た美しい男を見上げ、琥珀は名を呼ぶ。
その姿を実際に見るのは初めてだが、神楽の記憶の中で何度も会っていたから、ずっと昔から知っていたような郷愁のようなものを感じる。
彼は懐かしいものをみるように琥珀をみつめた。
「無事、冥府から戻ったようだな。八津房も、そこに」
穏やかな声音で、那智が言う。
彼の視線の先を追うと、祭壇の幅の広い階段の下に、尽が立っている。
琥珀は弾けるように階段を駆け下りると、後先考えずに彼の元へと飛び込んだ。
尽は驚いたような表情を浮かべたが、しっかりと抱き留めてくれる。
遠慮がちに、優しく背中に腕が回る。しかしそれは触れた瞬間、堪えきれないように力が強くなり、覆いかぶさるようにきつく抱き込まれた。
「尽……、尽が生きていて、良かった」
「馬鹿だな、お嬢さん。死にかけたのはお前だろう」
揶揄うような響きのある声に、安心感と懐かしさを感じる。
彼と共に暮らした数日が、随分遠い過去の事のように思えた。
「尽、私はお嬢さんじゃない。きちんと、呼んで」
「……そうだな、琥珀。琥珀」
確かめるように、愛し気に名前を呼ばれる。
全てを諦めてしまったら、こんな風に彼の傍に居る事はできなかっただろう。沢山間違えてしまったけれど、今だけは彼の腕の力強さと甘い声の心地良さに、身を委ねても許されるだろうか。
やらなければいけないことも、考えなければいけないことも沢山ある気がしたけれど、どうしても離れがたく思い、尽の腰に回した掌で彼の服を握った。
以前は何か怖いもののように思えたひやりとした彼の体温が、とても心地よく、疲労感も相俟ってこのまま眠ってしまいたいとさえ思う。
けれど、那智に言わなければならない事があることを思い出し、後ろ髪をひかれながらも彼の胸を押してそっと離れる。
尽はぱっと手を離すと、那智に向き直った琥珀と、自分の掌を眺めて苦笑した。
「すまないな、邪魔だろう」
「意外だな、お前にもそういう認識があるのか?」
尽は唖然とし、まさか那智に謝られるとは思っていなかった琥珀は、恐縮して首を振った。
那智は祭壇の上から静かに降りてくると、二人の前で足を止めた。
「お前たちの邪魔にならないよう、ひっそりと幽世に消えても良かったが、二、三言い残した事がある」
「私も、那智様に謝らなければ……、私のせいで、那智様は神楽を」
琥珀が全てを言い終わる前に、彼は片手をあげてその言葉を制した。
「カグツチに何を言われたのかは分からないが、私からは感謝の言葉しかない。琥珀が八津房の手を取らなければ、神楽も私も、そして双樹も、終わらせる事ができなかった」
「私はなにもできませんでした。私には、もったいない、言葉です」
「私の罪が、お前たちを苦しめた。私はきっと、神楽と出会うべきではなかったのだろうな。終わらせることはできても、償うことは難しい。あれから随分と時が経ち、多くの者たちが幽世へと姿を消した。私も、人の世に関わるべきではないと思っている」
「幽世で隠居でもするのか?」
尽の問いに、那智は特に気分を害した様子もなく、「そんなものだな」と頷いた。
「現世は絶えず変化するが、幽世の時は止まっている。悠久の平穏を望むのなら、お前たちも共に連れていくが、どうする」
「……琥珀は、どうしたい?」
てっきり尽は否定するのかと思っていた。
しかし彼は何かを考えるように少し黙った後、此方をじっとみつめてそう聞いた。
那智の提案を受け入れれば、尽と共に幽世に行く事ができる。
そこはたぶんきっと、痛い思いも、辛い思いももうしなくてすむ場所なのだろう。
けれど、それは何か少し、違う気がした。
琥珀は今ようやく、自分の足で立って生きるという事をはじめたばかりだ。その先には何があるのか分からないし、どんなことが起こるのかも分からないけれど、幽世での安寧を求めるという事は、逃げる事だと思う。
もう、逃げたくはない。
それにこの世界には、瑠璃や涼が居る。
許されるのなら、彼らと同じ時間を歩みたい。
「那智様、私は一緒にはいきません。神楽をこの体から追い出してしまった私が、望んでいいことなのか分かりませんが、私はもう暫く、生きてみたい」
「お前には雪ぐ罪などはない。お前の体はもとよりお前のものだ、だが……」
那智は思案するように目を伏せる。
それから尽を何かを確認するようにじっと眺めた。
「八津房、お前は?」
「態々聞く事でもないだろう。俺がお前と二人で幽世に行くわけがない、考えただけで寒気がする」
「ならば良い。私が消滅しない限りは、お前の体は損なわれない。お前は自身で琥珀を守りたいのだろう。私の力の大半をお前に預けることにするが、それはもともと人間の器だ。相応の苦痛が伴う事を理解しておくと良い」
「それはどうも。貰えるものは、有難く貰っておく。……那智、カグツチは土蜘蛛が現世で生きていると言っていた。どう思う?」
「私には分からない。カグツチは幽閉され神格が壊れていたのだろう、本来偽りを吐く事は出来ないが、その状態では、お前を惑わすために妄言を吐いたという可能性もある。どちらにせよ、現世に居る限りは脅威は土蜘蛛だけではないのだから、心に留めておく程度で良いだろう」
尽は難しい顔をして黙り込んだ。
彼らの会話はよく分からなかったが、何かまた良くないことが起こるのかもしれないと思うと、自分の選択が正しかったのか、不安になる。
那智は名残惜しむように、琥珀の髪を撫で、頬に触れた。
「琥珀。私がお前を守ることを、最期に神楽は望んでいた。私の力は八津房に預ける。預けるという事は損なうという事だ。私は損なったものを戻すため、幽世で暫くの眠りにつくが、私の代わりに八津房がそれを果たすだろう」
「お前の変わりじゃない」
「そうだな、分かっている」
那智は笑って、それから自らの胸に手を突き刺す。
痛みはないらしい。表情を変えることなく、すんなりと皮膚の奥まで手を差し込むと、胸の奥から金色の光が溢れる。
ゆっくりと那智は差し込んだ手を抜き出して、掌を尽の前に差し出した。
そこには、金と黒を溶かし混ぜたような色合いの、丸い小さな宝石が乗っている。
「これは私たち妖の、核。私の力の本質をお前に移そう。人には過ぎた力は、じわりとお前の体を侵食していく。飢えと渇きに支配されることもあるだろう。それでも、望むか?」
「貰えるものは貰うと言っただろ。それに、多分俺には、お前の力が必要だ」
那智は頷くと、宝石を尽の首元に押しつけた。
宝石は皮膚の下にするりと入り込み、半分ほど埋まる。丁度鎖骨の中心に、飾りのついたような形なる。
それと同時に、那智の体が薄っすらとぼやけていく。
「耐えきれなくなったら、抉り取ると良い。多少は正気を保てるだろう」
「嫌なことを言うな。……那智、悪かったな。お前には、まだ礼も言ってなかった」
「殊勝なお前は気味が悪い。琥珀を、任せた」
那智の体が、金色の粒子となり、空気に溶けて消える。琥珀は、那智様と小さく呟いた。
主人が居なくなった石室は、光源が消えて先の見えない暗闇になる。
右も左も分からずに身を竦ませていると、力強く手を握られた。骨ばった一回り大きな手の長い指が、琥珀の指先に絡みついた。はぐれないよう握られたのだろうが、これが特別な事であれば良いのにと思う。
暗闇の中に、神々しい炎を纏った鳥が唐突に浮かび上がり、辺りを照らした。
足元が見えるようになっても繋がれたままの手と、尽の顔を順番に見ると、琥珀は首を傾げる。
「那智様が、苦しいと言っていたけれど、尽は、体は大丈夫?」
「今のところ、変わりない。変わりないが見ただろう、俺は人じゃない。お前に出会った、はじめから」
「なんとなくは、気づいていた」
琥珀は繋がれた手に、もう片方の手を重ねた。
しっかりと握っていないと、彼がいなくなってしまうような気がした。
「尽、あなたの事を教えてほしい」
「長い話になる」
「うん、ゆっくりで良い」
だから、話し終えるまで側にいても良いかと言おうと思ったが、腕をひかれると抱き込まれた。
「本当は、連れて逃げたいが、漆間やお前の妹が、すぐそこまでお前を迎えに来てる。さっきは那智に邪魔されて、残る時間も少ない。暫く、良いか?」
請うように甘えるように、彼は言う。
鼓膜を震わせるその声に、哀しくも苦しくもないのに息がつまった。
触れる体の感触が心地良いと思うほど、腹の奥底から罪悪感のようなものがじわりと体を侵食する。
「……尽。神楽と那智様は、私が間違えなければ幸せになれたかもしれない」
「どうだろうな。神楽は壊れていたし、那智はもう、諦めていた。時が経てば執着も薄れる。これで良かったんじゃないか。それに、お前が気に病むような事じゃない」
慰めるように、尽の掌が背中を辿る。
彼の言葉にはきっともう偽りは含まれていないのだろう。嬉しさと共に、罪悪感が増した。
それでも、と琥珀は思う。
神楽や陽詩は失われ、自分だけが生きている。申し訳なく思う事に変わりはないけれど、だからといってそれを言い訳にして、自分自身の感情から目を背ける事はもうしたくない。
「ありがとう、尽。……でも、私は皆の屍の上で生きてる。それでも、我儘を言っても、許される、かな」
「遠慮しなくて良い。なんでも言えば良い」
「……私は、尽の傍に居たい」
小さな声でそういうと、尽は一瞬押し黙った。
言ってはいけなかっただろうかと不安になっていると、体に振動が伝わってくる。
堪えきれなくなったように、尽が喉の奥で笑っている。
なんだかとても恥ずかしい事を言ってしまった気がして、頬が染まった。
「そう可愛いことを言われると、離せなくなるだろ」
「だったら、離さないで。あなたは、どこかに居なくなってしまいそうだから」
「……お前が許す限り、俺はお前の傍に居る」
僅かに言い淀んだ後、真剣な声音で彼は言う。
きっとまだ、何か考えなければいけない事があるのだろう。少しだけずるいその言葉は、けれど彼の中で最良を選んだような誠実さも滲んでいて、琥珀は何も言わずにただ抱きしめる手に力を籠める。
いつか自分の存在が、彼が手放せなくなるほどの特別なものになれば良いのにと思うが、今のところ琥珀の中にはその価値は見当たらない。
多くを求めてはいけない。
今はまだ、神楽や陽詩の代わりに生きる自分が、自身を誇れるように、もっと強くならなければと思う。
守られるばかりでなく、皆を守れるような強さが欲しい。
どうすれば良いのかはまだわからないけれど、そう思う事は間違っていない筈だ。
「……琥珀、もう少し、触れても良いか」
熱の籠った視線で尽にみつめられて、琥珀は思考の海から意識を浮上させる。
これ以上ないほど触れ合っているような気がする。彼の言っている意味が何のことか分からないが、拒否する理由もないので頷いた。
尽の端正な顔が至近距離まで近づき、視界がぼやける。
唇に何かが触れたと思ったら、くちゅりと熱く湿ったものに口腔の中を弄られる。
猥らに舌を擦りあわされると、体が奇妙に熱を持った。
羞恥心と混乱でわけがわからなくなりながら、尽の体を押し返そうとしたが、手に力が入らない。
唾液が溢れ、息苦しくなる。そのせいか、余計に体から力が抜けた。
呼吸をつげないことに気づいたのか、尽は名残惜し気に琥珀を解放すると、口角から流れた唾液を舐めとった。その仕草は、妙に背徳的で見ていられない。
何か、悪い事をしているような気になる。
「嫌か?」
そういう訳ではないので、首を振る。
彼は嬉しそうに目を細めた。
「そろそろ時間切れだが、その顔は、見せたくないな」
「……なにか、おかしい?」
「いや、そういう意味じゃない」
含みのある言い方をして、尽は琥珀を軽々と抱き上げる。
最初に会った日も連れ戻された日も、こうして運ばれたのだと思い出すと、なんだか奇妙で琥珀は笑った。
「尽、私は歩けるよ」
「これは俺の我儘だ。許してくれるか?」
得意げに言われて、琥珀は羞恥心でいたたまれなくなり、彼の肩に顔を埋めた。
迷いのない足取りで歩き始める尽の肩越しに、誰もいなくなりひっそりと佇んでいる石造りの祭壇と、石廟が見える。
もうここに戻ってくることはないのだろう。
琥珀の失われる筈だった時間は、まだ続いている。
これからの事はまだわからないけれど、彼の傍にいられるのなら、大丈夫だと思えた。
轟々と落ちる滝の音が聞こえる。
その音はまるで子守唄のようだった。
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