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「お前のあんな三味、初めてだな」
ーさっきは奔りすぎだった
由紀の三味を支えるつもりだったのに、昌也の唄に引きずられ、いつの間にか自分が磯千鳥になってしまったのだ。
「あのくらいがちょうどいいよ。由紀もよくついていってたし」
ー由紀は練習熱心だから
「大体さ、お前の三味は隙がなさすぎるんだよ。譜に囚われすぎているっていうか。もっとさ、こう、思うままの音を出せよ。気持ちいいぜ」
そんな三味に唄をのせる気分は最高だぜ、と言いかけて昌也は慌てて口をつぐんだ。
奔放な兄貴分を装っているくせに、昌也はしょっちゅうこんな気遣いをする。それを指摘して礼を述べようものならひどく狼狽して、しまいには怒り出すから、芳は涼しい顔をして頷づくだけにした。
「さて、季節も変わるし、そろそろ新しい演目を決めようや」
大方の書籍は人に譲ってしまったが、文化譜や芸事に関する本は全て手元に残してある。芳が返事をする前に、せっかちの昌也は手燭を持って足早に土蔵に向かっていった。
静恵の三度目の身請けをしたのが貸本屋を営んでいた昌也の父親、昌吉だった。一度目の嫁ぎ先は下関でも指折りの大きな油問屋だったが、子が生まれずにすぐに離縁となった。二度目に嫁いだ薬問屋も大きな身代の老舗だった。若旦那は役者のようないい男だったが、ひどい吝嗇家で、これはたまりかねた静恵の方から店を出てしまったのだ。
再び芸妓に戻り、座敷に出ているうちに昌吉に見初められた。小さな身代で昌吉自身も風采の上がらない小男だったが、一途な思いは静恵の琴線にふれた。昌吉が静恵を娶ったときいて皆が地団太を踏んだ、というのが今はもうすっかり白い頭になった旦那衆の伝である。
「親父と違ってさ、本なんて読む気はしなかったけど。文化譜をこれだけ残してくれたのには感謝してるよ」
静恵と二回り以上年の離れていた昌吉は昌也が小学校に上がって間もなく亡くなった。借家が数件あって親子が路頭に迷うことはなかったが、三度も身請け先があった静恵だ。贔屓だった旦那衆の勧めで三味線を教えることになり、今に至っている。
ここ数日で急に濃度を増した木々に目をやると、強い光が芳の網膜を刺した。花が終わると今度は蛍だ。梅雨が明けると、一の坂川に乱舞する蛍を見ようと大勢の客が押し寄せ、湯田の町は再び賑やかになる。
「『さくら』も客が立て込むから。祝言は蛍祭りが終わったらすぐ挙げることにしたよ。秋は紅葉だろう。また忙しくなるからな」
昌也は先に土蔵の中へ入っていった。湿った空気が身体を包み、突然の暗がりが芳の視野を遮って地面がたわんだ。
「なにぼうっとしてるんだ」
天窓からの光に照らされた顔はこれから妻を娶る男の誇らしげな顔だ。芳は急いで笑顔を作り、おめでとう、と口の形で伝えた。
祝言の話が続くのかと思ったが、昌也はさっさと頭を切り替えて、文化譜を選んでいる。唇が微かに動いているのは、曲選びに没頭しているからだ。頭の中では次の演目の音が鳴り響いているに違いない。
芳がここに来た頃には、旦那衆だけでなく芸妓たちも三味線を習いに来るようになっていて、静恵は押しも押されぬ三味線の師匠となっていた。束脩以外にも付け届けが様々にあったから、この家には今まで見たこともないような贅沢な食べ物、着る物に溢れていた。初めて袖を通した西陣の軽さ。初めて食べたビスカウトの甘い香り。新しい活動や芝居がかかれば、早速に旦那や芸妓と一緒になって総出で見物に行く。丁稚奉公をしていた芳にとって日々の暮らしそのものが驚きの連続だった。
贔屓の客は、芳の三味を通好みの渋い音だと言うが、その言葉をそのまま信じるほどおめでたくはない。昌也のように、物心ついたころから芸事を浴びるように見たり聞いたりして育ったわけではないのだ。闇雲な練習だけでここまできたが、物心ついたころから玩具代わりに三味線をいじっていた昌也と自分は違う。雑用仕事に追い立てられ、仕事が終われば粗末な食事をかき込んで泥のように眠る。単色の生活から生まれた音が昌也に叶うはずもないのだ。
ーさっきは奔りすぎだった
由紀の三味を支えるつもりだったのに、昌也の唄に引きずられ、いつの間にか自分が磯千鳥になってしまったのだ。
「あのくらいがちょうどいいよ。由紀もよくついていってたし」
ー由紀は練習熱心だから
「大体さ、お前の三味は隙がなさすぎるんだよ。譜に囚われすぎているっていうか。もっとさ、こう、思うままの音を出せよ。気持ちいいぜ」
そんな三味に唄をのせる気分は最高だぜ、と言いかけて昌也は慌てて口をつぐんだ。
奔放な兄貴分を装っているくせに、昌也はしょっちゅうこんな気遣いをする。それを指摘して礼を述べようものならひどく狼狽して、しまいには怒り出すから、芳は涼しい顔をして頷づくだけにした。
「さて、季節も変わるし、そろそろ新しい演目を決めようや」
大方の書籍は人に譲ってしまったが、文化譜や芸事に関する本は全て手元に残してある。芳が返事をする前に、せっかちの昌也は手燭を持って足早に土蔵に向かっていった。
静恵の三度目の身請けをしたのが貸本屋を営んでいた昌也の父親、昌吉だった。一度目の嫁ぎ先は下関でも指折りの大きな油問屋だったが、子が生まれずにすぐに離縁となった。二度目に嫁いだ薬問屋も大きな身代の老舗だった。若旦那は役者のようないい男だったが、ひどい吝嗇家で、これはたまりかねた静恵の方から店を出てしまったのだ。
再び芸妓に戻り、座敷に出ているうちに昌吉に見初められた。小さな身代で昌吉自身も風采の上がらない小男だったが、一途な思いは静恵の琴線にふれた。昌吉が静恵を娶ったときいて皆が地団太を踏んだ、というのが今はもうすっかり白い頭になった旦那衆の伝である。
「親父と違ってさ、本なんて読む気はしなかったけど。文化譜をこれだけ残してくれたのには感謝してるよ」
静恵と二回り以上年の離れていた昌吉は昌也が小学校に上がって間もなく亡くなった。借家が数件あって親子が路頭に迷うことはなかったが、三度も身請け先があった静恵だ。贔屓だった旦那衆の勧めで三味線を教えることになり、今に至っている。
ここ数日で急に濃度を増した木々に目をやると、強い光が芳の網膜を刺した。花が終わると今度は蛍だ。梅雨が明けると、一の坂川に乱舞する蛍を見ようと大勢の客が押し寄せ、湯田の町は再び賑やかになる。
「『さくら』も客が立て込むから。祝言は蛍祭りが終わったらすぐ挙げることにしたよ。秋は紅葉だろう。また忙しくなるからな」
昌也は先に土蔵の中へ入っていった。湿った空気が身体を包み、突然の暗がりが芳の視野を遮って地面がたわんだ。
「なにぼうっとしてるんだ」
天窓からの光に照らされた顔はこれから妻を娶る男の誇らしげな顔だ。芳は急いで笑顔を作り、おめでとう、と口の形で伝えた。
祝言の話が続くのかと思ったが、昌也はさっさと頭を切り替えて、文化譜を選んでいる。唇が微かに動いているのは、曲選びに没頭しているからだ。頭の中では次の演目の音が鳴り響いているに違いない。
芳がここに来た頃には、旦那衆だけでなく芸妓たちも三味線を習いに来るようになっていて、静恵は押しも押されぬ三味線の師匠となっていた。束脩以外にも付け届けが様々にあったから、この家には今まで見たこともないような贅沢な食べ物、着る物に溢れていた。初めて袖を通した西陣の軽さ。初めて食べたビスカウトの甘い香り。新しい活動や芝居がかかれば、早速に旦那や芸妓と一緒になって総出で見物に行く。丁稚奉公をしていた芳にとって日々の暮らしそのものが驚きの連続だった。
贔屓の客は、芳の三味を通好みの渋い音だと言うが、その言葉をそのまま信じるほどおめでたくはない。昌也のように、物心ついたころから芸事を浴びるように見たり聞いたりして育ったわけではないのだ。闇雲な練習だけでここまできたが、物心ついたころから玩具代わりに三味線をいじっていた昌也と自分は違う。雑用仕事に追い立てられ、仕事が終われば粗末な食事をかき込んで泥のように眠る。単色の生活から生まれた音が昌也に叶うはずもないのだ。
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