無弦の琴

内藤 亮

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「今度の座敷は商工会議所の懇親会だそうだ」
 商工会議所は、一八七八年に設立された公益法人である。設立当初は商法会議所とよばれていた。下関商工会議所は全国で十五番目に設立され、今にいたっている。
 市内の商工業者は業種、規模を問わずに加入できる。会費を払って会員になれば、独自の融資制度を利用できる、商売の信用が増す、等々の利点がある。会員同士の交流も盛んだ。業種を超えた人脈作りは商売を円滑に進めるうえでも欠かせない。加入は任意だがこの地で商売をしようという者は殆どが商工会の会員となっていた。
 反応の鈍い芳に昌也が重ねて言った。
「お兄さんも来るそうだよ」
 そうかい、と芳は唇を動かした。
「それだけか。しばらく会っていないんだろう」
 素っ気ない返事に昌也は不服そうな顔をしている。芳は仕方なく懐から帳面を取り出した。 
ー兄さんも忙しいからな 今年から会議所の議員に選ばれたそうだし 
「何だ、知ってたのか」
 昌也がつまらなそうな顔をした。手堅い佑志のことだ。着々と佐野屋の身代を大きくしているにちがいない。 

 会員の家族も参加できるように、という会長の配慮で、今日の懇親会に芸妓は呼ばれていない。男二人に払う花代などたかが知れたものだ。会費はほとんどが飲食に充てられることになる。松屋で料理と温泉を堪能できるとあって、妻子だけでなく両親を伴って来ている者も多い。
 宴が始まるまでまだ大分時間があるが、松屋自慢の園庭は老若男女様々な組み合わせの人の輪がゆっくりと移動している。皐月の時季だ。平素は枯山水の趣をなしている庭が、めかしこんだ女たちの着物の色も加わって色彩が溢れていた。
 突然、二、三歳と思われる男児が勢いよく走って来て芳にぶつかった。ひっくり返った男児が大声で泣き始めた。助け起こしてやり、なんとか慰めようと苦労していると、母親がやってきた。一声も声を出さないで子供をあやしている芳に気が付くと、礼を述べようと開きかけた口がそのままになった。やはり奇異に思うのだろう。会釈をしながら立ち上がると、母親はぎこちなく会釈を返した。
「ご無礼をあいすみません。さ、直吉、いくよ」
 母親は子供の手をひっつかむと、足早に去っていった。
 涙と鼻水が染みた胸元をどうしたものかと眺めていると、昌也が厠から戻って来た。
「どうしたんだ」
 泣いている子供を目顔でしめすと、昌也は、そりゃ災難だったな、と言って今使ったばかりと思われる湿った手ぬぐいをさしだした。湿っていた方が鼻水も落としやすいだろう。小便をした手をいい加減に洗って、拭った手ぬぐいだろうが、仕方がない。観念して手ぬぐいを受け取り胸元をぬぐった。
「姐さんたちと一緒なら愉しいのにな」
 糸の調子を整えながら昌也は口を尖らせている。芸妓の踊りに合わせて三味を弾く昌也は心底から場を愉しんでいる。
ー三味だけひくほうが気が楽だ
 たとえ口がきけたとしても、昌也のような幇間顔負けの取り持ちなど、できるはずもないのだ。
「何言ってるんだ。姐さんたちはお前がお目当てなんだぞ」
 それが困るのだ、ということが昌也には分からないらしい。『商品』に手を出したら、もっと言えば、出したとみなされただけでも座敷に出られなくなるのだ。
「知ってるよ、そんなの。だから面白いんだろう」
 流石、昌也だ。芳から思わず苦笑いがもれた。
 ずらりと並んだ宴膳の上座には会長の市松屋が座っている。市松屋は寛政年間から続く老舗材木商だ。自前で大工を抱え今はやりの西洋建築の受注もこなす。主の喜兵衛(きへい)は色白面長な長州顔をしたいかにも老舗の主人らしい風貌の持ち主だ。六十を幾つか超えているはずだが、柔和な顔の中で時折光る鋭い眼差しは、今も一線で商売をしていることを物語っていた。息子がいるが、店を一任させるにはまだ心許ないのだろう。
 喜兵衛の隣には佐野屋の当主、佑志が座っている。芳と目が合った佑志はちらりと会釈するとすぐに喜兵衛の方を向いた。喜兵衛の娘を嫁に貰った佑志は、佐野屋の基盤をさらに盤石なものとした、というわけだ。
 あのまま佐野屋で奉公をしていたら、あちら側の宴膳に自分も座っていたかもしれない。
 
 芳の母、菊乃を身請けしたのは先代の佐野屋の当主、以蔵(いぞう)だった。新しい時代のやり方は若い者に任せる方がいい、そう考えた以蔵はきっぱりと商売から手を引いて、息子の佑志に店を譲った。菊乃と一緒になったのは、これからは佑志が主であることを店の者に示す証でもあったのだ。
 のんびり隠居生活でも、と菊乃と暮らし始めたのだが、思いがけず芳が生まれた。以蔵は大喜びだった。商売にかまけていて、赤子などじっくりと見たことがないのである。一日中、芳につききりだった。覚束ない手つきで襁褓を代える以蔵の手伝いをしながら菊乃は幸せをかみしめていたが、それも長くは続かなかった。以蔵は芳を抱いたまま卒中で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのである。
 芳を佐野屋に残し、菊乃は再び芸妓となった。たった一人の息子は佐野屋の息子として育って欲しい。そう思って菊乃は身を引いたのだった。
 それなのに。自分は商人になれなかった。
 きっかけは些細なことだったのだ。厳格な兄は弟だからと目をかけることは決してなかったが、親元を離れて丁稚奉公をしている者にとって芳の存在は目ざわりだったったに違いない。里との便りが途絶えた者も少なからずいたから、盆暮れの帰省の度に菊乃が持たせる丁稚仲間への贅沢な手土産も反感を買う十分な理由となった。一番年下だからと、当番制であるはずの便所掃除や雑巾がけ、水くみはいつも芳に押し付けられた。夏はまだしも冬まだ暗いうちからの水仕事は手が凍るようだった。紫色に腫れあがった霜焼けは治る間がない。腹に据えかねて、平太に文句を言ったのがいけなかった。
 軽い吃音がある芳は、感情が激すると吃りがひどくなる。鬱憤をはらそうと待ち構えていた平太がその機会を逃すはずはない。平太はことさらに吃音を強調して芳の真似をした。巧みな物まねに小僧たちだけでなく小女達までもがどっと笑った。慌てて言い直そうと気が焦るほどに吃りがひどくなる。それからというもの、口を開くたびに皆が芳の吃りを真似するようになった。こんどこそきちんと話そうと力むたびに、吃りはますますひどくなった。冷や汗をかきながら言葉を出そうとしているうちに、喉が詰まったようになって、ある日突然声が出なくなった。
 そのうちに、声が出ないだけでなく、人前に出るのが恐ろしくなった。店番をしていると胸が破れるかと思うほど心臓が脈を打ち、冷や汗が流れる。飯が喉を通らなくなりあっという間に目方が落ちていった。
「芳、どうしたんだ」
 少々のことには修行のうちだと目をつぶっていた佑志も、とうとう弟に声をかけた。
 自分の恥部を晒す気はなかったし、子供同士の些細ないざこざを告げ口するつもりもなかった。平太達はちょっとした気晴らしに自分のことをからかったにすぎないのだ。自分の諫言で得をする者は誰もいない。ここで奉公ができなくなったら、母さんが悲しむに違いない。
 兄に問い詰められて、芳は、急に声が出なくなった、と最低限の説明を紙に書いた。
 生まれたばかりの長男を抱いた佑志の妻、佐奈(さな)は溢れるような笑顔で芳を労った。
「菊乃さんの所で養生おし。それが一番だよ」
「私もそう思う」
 佑志は目を伏せたまま、そう言った。
 ちょうどよかったのかもしれない。佑志は余計な気遣いをせずに堂々と息子に店を継がせることができるのだ。芳は自分にあっさりと見切りをつけた。食っていくだけなら仕事は何でもある。手をついて挨拶をし、荷物をまとめた。
 置屋に向かうまでの道のりを、あれほど遠くに感じたことはない。
 奉公ができなくなったのは自分の意気地がなかったせいだ。そんな意味合いのことを書くと、菊乃はまた涙を流した。
 事情を知った置屋の母、ヨシは親子を励ますように快活に言った。
「ここで手伝うことはいくらでもある。身体と手を動かしているうちに、声もでるようになるさね」
 菊乃が顔を輝かせて帰って来たのはそれから間もなくのことだった。
「贔屓の旦那がね、東京の医者を紹介してくださったんだよ」
 菊乃の笑顔を見るのは久しぶりだった。
 治療は時間がかかるだろうから落ち着く場所を見つけたら迎えにくる、と言いおいて菊乃は嬉々として東京へと旅立った。が、その約定が果たされることはなかった。
 新聞は関東大震災の発生を伝えていた。北上する台風の強風に煽られ、火は瞬く間に延焼した。帝都は焦土と化し、死傷者は十数万人にのぼった。連日の報道は帝都の治安の乱れを伝えていた。
「闇雲に動いても仕方がない」
 ヨシは陰膳を据えて菊乃の無事を祈ったが、連絡は途絶えたままだった。
「腹をくくらないといけないよ」
 ヨシは陰膳を片づけるとそう言った。震災から半年がたっていた。
「一人育てるのも二人を育てるのも同じさね」
 菊乃を妹のように可愛がっていた静恵が、芳を迎えに来たのはそれから間もなくのことだった。
 荷物は菊乃の残した三味線と、僅かばかりの着替えが入った風呂敷包み一つ。これからは、見ず知らずのこの家で暮らすことになるのだ。暗澹とした思いで玄関に佇んでいると昌也が手を取った。ためらいのない力強さに臆していると、握った手を勢いよく振りながら昌也は宣言した。
「今日からお前は俺の弟だ」
 日に焼けた顔が大きく笑っている。その日から新しい生活が始まったのだ。
 
 
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