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三味線を弾き、早苗が舞う。蒸し暑い夜だったが、まだ少女めいた体つきをしている早苗の舞はいかにも涼しげだ。一通り演目が終わり、早苗と昌也が客の相手をし、芳が三味をつま弾くのもいつもの通りだった。
「お前もこっちにこい」
芳は謹んで盃を受けた。が、そのあとがいけない。酔いが回るにつれて田口という客がやたらと絡んでくる。剽げた仕草や、面白おかしい絵を描いたりしてやり過ごそうとしたのだが、今夜はうまくいかなかった。
芳が酒に弱いと分かると、一杯でも多く飲ませようと盃を強いてくる。
挨拶をして軽い雑談で座を温めてから芸を披露する。今夜は最初からざらりとした違和感があったのだ。五人は紡績工場に務めていて、慰安旅行で湯田に来たのだという。会社がらみの旅行だ。慰安とは名ばかりで、五人の会社での力関係をそのままここに持ってきたようなものなのだ。盛大に飲み食いをするのは田口だけで、後の四人は田口に追従するようなことばかり言っている。昌也の三味が珍しく奔らず、教則本のような唄で終わったのもそのせいだった。耳の肥えていない客だったのがせめてもの救いだ。ミネや早苗の評判を落とさずにすんだ。
「陰気臭いやつだな。もっと飲め」
「俺にも飲ませてくださいよ」
ようやく空けた盃を手におくびを堪えていると、昌也が助け舟を出した。
「俺はこっちの兄さんに言ってるんだ。口を出すんじゃない」
声に怒気がこもっている。金を払っているのだから何をしてもいい、と思うらしい。こういう輩が時々いるのだ。六尺近く丈があって、見るからに利かん気な顔をした昌也に絡む客はいない。客が日頃のうっ憤をはらす標的にするのはいつも芳だった。
「まあまあ、タアさん、そんな顔をしたらせっかくの男ぶりが台無しですよ」
早苗がすかさず割って入ったが、田口は聞こえないふりをしている。田口の役職は五人の中で一番上の人事部長だから、だれも口が出せない。四人とも目を逸らせて料理をつついていた。
大丈夫だから、と昌也を制して芳は盃を受けた。
「やあ、いい飲みっぷりだ。さ、もう一杯いけ」
目をつぶり、盃を空けた。今まで飲まされた酒が、苦い胃液と共に喉元までこみあげてくる。もう限界だ。厠の絵を描き、もじもじと股間を抑えると、
「なんだ。無粋な奴だな」
と、田原はようやく芳を開放した。端座して一礼をし襖をそっと閉めると、急いで厠に向かった。
喉に指を突っ込んで、出すものは出したがまだ胸がむかむかとする。手水で口をゆすぎ、そのまましゃがみ込んで眩暈が収まるのを待った。なんとか立ちあがって鏡を見ると、青ざめた顔がこちらを見返している。
飲むことでしか、座をもたせることができなかった。自分の芸は所詮この程度なのだ。
また埒もない思いに沈みそうになったが、のんびり自己憐憫に浸るのは仕事が終わってからだ。芳は頬を張って色を付けると、座敷に急いで戻った。
「お、やっと戻ってきたか。ひどい顔だな。まるでお化けだ。本当に陰気臭い奴だな」
恨めしやあ、と剽げて部屋に入ろうとすると、
「お前さ、もう帰れよ」
田口がぶっきらぼうに言った。昌也が色をなして立ち上がろうとするのを早苗が慌てて抑えた。もう座敷に戻るのは無理だ。これ以上自分がこの場にいると、他の客にまで不快な思いをさせてしまう。芳は幽霊の真似をしたまま頭を下げ、座敷を後にした。
「また、やられたのか。ひどい顔色だぞ」
帳場から出てきたのは定吉だ。
ーお客様にこれで水菓子でも
幾ばくか渡そうとすると、定吉は手を大きく振った。
「そんなものいらないよ。あの客のことは俺に任せておけ。一人で帰れるか」
ー大丈夫です
芳は笑って見せると、じゃあ、と手をあげて店を後にした。
「お前もこっちにこい」
芳は謹んで盃を受けた。が、そのあとがいけない。酔いが回るにつれて田口という客がやたらと絡んでくる。剽げた仕草や、面白おかしい絵を描いたりしてやり過ごそうとしたのだが、今夜はうまくいかなかった。
芳が酒に弱いと分かると、一杯でも多く飲ませようと盃を強いてくる。
挨拶をして軽い雑談で座を温めてから芸を披露する。今夜は最初からざらりとした違和感があったのだ。五人は紡績工場に務めていて、慰安旅行で湯田に来たのだという。会社がらみの旅行だ。慰安とは名ばかりで、五人の会社での力関係をそのままここに持ってきたようなものなのだ。盛大に飲み食いをするのは田口だけで、後の四人は田口に追従するようなことばかり言っている。昌也の三味が珍しく奔らず、教則本のような唄で終わったのもそのせいだった。耳の肥えていない客だったのがせめてもの救いだ。ミネや早苗の評判を落とさずにすんだ。
「陰気臭いやつだな。もっと飲め」
「俺にも飲ませてくださいよ」
ようやく空けた盃を手におくびを堪えていると、昌也が助け舟を出した。
「俺はこっちの兄さんに言ってるんだ。口を出すんじゃない」
声に怒気がこもっている。金を払っているのだから何をしてもいい、と思うらしい。こういう輩が時々いるのだ。六尺近く丈があって、見るからに利かん気な顔をした昌也に絡む客はいない。客が日頃のうっ憤をはらす標的にするのはいつも芳だった。
「まあまあ、タアさん、そんな顔をしたらせっかくの男ぶりが台無しですよ」
早苗がすかさず割って入ったが、田口は聞こえないふりをしている。田口の役職は五人の中で一番上の人事部長だから、だれも口が出せない。四人とも目を逸らせて料理をつついていた。
大丈夫だから、と昌也を制して芳は盃を受けた。
「やあ、いい飲みっぷりだ。さ、もう一杯いけ」
目をつぶり、盃を空けた。今まで飲まされた酒が、苦い胃液と共に喉元までこみあげてくる。もう限界だ。厠の絵を描き、もじもじと股間を抑えると、
「なんだ。無粋な奴だな」
と、田原はようやく芳を開放した。端座して一礼をし襖をそっと閉めると、急いで厠に向かった。
喉に指を突っ込んで、出すものは出したがまだ胸がむかむかとする。手水で口をゆすぎ、そのまましゃがみ込んで眩暈が収まるのを待った。なんとか立ちあがって鏡を見ると、青ざめた顔がこちらを見返している。
飲むことでしか、座をもたせることができなかった。自分の芸は所詮この程度なのだ。
また埒もない思いに沈みそうになったが、のんびり自己憐憫に浸るのは仕事が終わってからだ。芳は頬を張って色を付けると、座敷に急いで戻った。
「お、やっと戻ってきたか。ひどい顔だな。まるでお化けだ。本当に陰気臭い奴だな」
恨めしやあ、と剽げて部屋に入ろうとすると、
「お前さ、もう帰れよ」
田口がぶっきらぼうに言った。昌也が色をなして立ち上がろうとするのを早苗が慌てて抑えた。もう座敷に戻るのは無理だ。これ以上自分がこの場にいると、他の客にまで不快な思いをさせてしまう。芳は幽霊の真似をしたまま頭を下げ、座敷を後にした。
「また、やられたのか。ひどい顔色だぞ」
帳場から出てきたのは定吉だ。
ーお客様にこれで水菓子でも
幾ばくか渡そうとすると、定吉は手を大きく振った。
「そんなものいらないよ。あの客のことは俺に任せておけ。一人で帰れるか」
ー大丈夫です
芳は笑って見せると、じゃあ、と手をあげて店を後にした。
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