無弦の琴

内藤 亮

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 小野屋を出ていくらも歩かないうちに、また不快な塊があがってきた。道端にしゃがみ込んで嘔吐していると、頭の上で男の声がする。
「芳さんかい」
 慌てて立ち上がり会釈をしたが、知らない顔だった。
「ちょっとそこまでいいか」
 妙に粘っこい口調だ。声の主はどす黒い肌をした老け顔の男だった。着ている藍の浴衣は何度も水を通したものらしく、すっかり色あせて襟がほつれている。こういう類の男と付き合いはない。
ーお人違いでは
「口がきけないのか。こりゃあちょうどいいや」
 男はほんの一瞬、驚いたように目を見張ったが、下卑た笑みをうかべると、芳の腕を手荒く捻り上げた。思いがけない強い力だった。痺れるような痛みが肘から伝わってくる。呻き声一つあげない芳を見て男は薄く笑った。
「本当に声が出ないんだな。一緒に来いって言ってるんだよ。お前、菊乃の息子だろ」
 そう耳元で囁くと、男は殊更に大きな声を出した。
「やあ、いい晩だ。もう少し飲もうや」
 通りは人が溢れているが、芳たちに気が付くものは誰もいない。宿の浴衣を着てそぞろ歩いている男や女に交じって、男はゆっくりと町外れにむかって歩き出した。手を振りほどこうとすると鳩尾に息の詰まるような当身をくらった。
「だらしねえな。しっかり歩きな」
 男は大声で言い、酔った仲間を介抱するように巧みに芳を引き起こすと、少しずつ人通りの少ない通りへと向かっていった。
 大通りを離れると人通りが急に少なくなる。左側にザビエル聖堂の尖塔が見えている。このまま真直ぐ川沿いを北にむかうと瑠璃光寺だ。毛利氏の墓所がある名跡だが、蛍を見に来た観光客が真っ暗な寺を見に来るはずもない。川沿いに吊るしてある提灯の列もとっくに途絶え、足元を照らすのは月明かりだけになった。
「静かでちょうどいいだろ」
 男は喉の奥で笑った。仏殿の裏手に連れて行くと、男は乱暴に芳を突き飛ばした。たまらず地面に尻もちをついたが、まだ酔いが残っていて立つのも億劫だった。芳はゆっくりと座りなおした。悪いことは続くものだ、とちらりと思ったが、この後どうなるのか考えを巡らせるのも面倒だった。たとえここで自分が死体になっても、せいぜい祝言が遅れるくらいだろう。
「この腹を見てみろ。菊乃にやられたんだ」
 ぺたりと地面に座り込んで他人事のような顔をしている芳に怒りを削がれたのか、男の声にはさっきの勢いがない。前を寛げて見せられた腹には、白く盛り上がった細い傷跡があった。毛の生えた臍から五寸ほど上にある傷が、しなびた腹の中でてらてらと光っている。一つ目小僧が顔をしかめているような塩梅だ。芳は思わず噴き出した。菊乃がヨシの教えを守った結果にちがいない。
 ヨシは長州の貧乏藩士の娘だった。倒幕側で勝利を収めたとはいえ、藩士全員を新政府が召抱えることなどできようはずもない。ヨシは一家を支えるため、芸妓となり、芸妓をやめてからは置屋を営んでいた。
 武士の娘としての矜持だろう。不見転芸者にはなるな。ヨシが芸妓達と約したのはこの一点だけだった。枕で稼ぐのは野暮だ、というのがヨシの持論だった。芸者遊びも廃れ娼妓と芸妓の境界が曖昧になっていった頃だ。そんな昔気質の温いやり方でやっていけるかと同業者からは揶揄されたが、店は今でも繁盛している。凛とした芸妓と遊んで、男たちは自分の男振りも上がったように思うらしい。こんな男を菊乃が相手にしなかったのも当たり前だ。
「てめえ、何が可笑しい」
 男は乱暴に腹を蹴りあげると、瞬く間に後ろ手を縛り上げた。こういうことに慣れているらしい。思いのほか手際がいい。
「あいつには金も貸したんだ。耳をそろえて払ってもらおうじゃねえか」
 何年前の話だ。証文はあるのか、と言いたかったが、そんなことをわざわざ書き記して男に示すわけにもいかない。そもそも手を縛られていて、帳面が出せないのだ。仕方なく殊勝な顔をしてうつむいていると、掠れた女の声がした。
「あんたが息子かい。菊乃と同じ三味を弾く男がいるって聞いてね。ちょいと調べたんだよ。その三味線、菊乃のだろう」
 女は投げ出された三味線を顎でしゃくった。ミネが話していた通りの女だった。体の丸みがすっかりなくなった年増だが、抜き襟で着ている襟元からのぞく細いうなじには崩れた色気がある。
「おやま。菊乃にそっくりだね」
 芳の頤に手をかけて上を向かせると、女の薄い唇がすうっと持ち上がり、いきなり頬を張った。鋭い痛みがはしり生温かいものが頬を伝った。
「あの泥棒猫、よくも私の客を」
 女はそういって芳に唾を吐きかけると、顔をしかめて指輪についた血を拭った。実力勝負の花柳界で泥棒もないものだ。菊乃の芸がこの女の色香より勝っていた、ただそれだけのことなのだ。まだ顔を歪めている女の顔を見ながら、この女は菊乃の音を知っているのだろうか、とふと思った。
「そんななりして、中身はたったのこれだけか」
 取り上げた紙入れを見て、男が小ばかにしたように笑った。余計なお世話だ。座敷に上がるのに大金をもっていく者はいない。そっぽをむいていると、女が地面に転がった三味線に手をかけるのが目の端に見えた。それだけはやめてくれ。声をあげたが、喉からは割れた音が漏れるだけだった。
「こんなもので。ちきしょう」
 女は棹を持って三味線を地面に叩きつけると胴を踏み抜いた。ぱんと音を立てて張っていた皮が破れた。
「やめてくれ!」
 きしむような声が漏れた。男はおや、というようにちらりと芳を見たが、一番驚いたのは声を出した芳本人だった。
「その三味でも売れば、いくらかにはなったんじゃないか」
「私のやることに文句があるのかい。こんな古い三味、いくらにもならないよ。ま、この撥はいくらかにはなるだろうよ」
 象牙の撥は菊乃が自分の手に合わせて誂えたものだ。使い込まれた撥は微かな飴色を帯びている。静恵の家で初めて三味を習った時からずっと使ってきた撥だ。
「この撥で俺は腹を切られたんだぜ」
 男が舌打ちをしたが、女はちらりと白い糸切り歯を見せて笑い、撥を袂に入れた。
「今夜の仕事はこれで元がとれたよ」
 男はちっと舌打ちをすると、乱暴に芳を蹴とばした。たまらず地面に倒れこんだ身体の上にさらに容赦のない蹴りが加えられた。男の重みが一蹴りごとに身体に食い込んでくる。腹の一つ目小僧は滑稽な顔をしていたが、この男の本性は違ったらしい。
 
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