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冷やりとした地面が心地いい。起き上がった芳は、ひりひりする頬に手をやって、縄が解かれていることに気が付いた。傍らに転がっている菊乃の三味線は木片の残骸と化していた。糸はもちろん駒を変え皮を張り直したりと、何度も手をいれて使ってきた三味線だが、こうなっては修理のしようもない。芳は丁寧に木片を集めた。これでもう、菊乃に繋がるものはすべて無くなってしまった。
ひどく喉が渇いている。とにかく水だ。芳は手水所にむかった。身体のあちらこちらが熱を持ってずきずきと痛むが、地面に転がっている間に酒気は抜けたようだ。柄杓で何杯も水を飲んだ。最後の一杯は味を確かめるようにゆっくりと飲み、胃袋に水が到達するのを確かめることができた。
酒のせいで混乱していたのだろうか。やはりあれは夢だったのではないだろうか。芳は恐る恐る声を出してみた。いろはにほへと。ひどく掠れた声だが紛れもない自分の声だ。
芳は喉元にそっと触れた。熱っぽい皮膚の下で血管がどきどきと脈打っている。肉の熱さが幼いころを思い出した。
軒下にかけられた巣の中で、薄くつるりとした皮膚で赤い肉を包んだ燕の雛が折り重なっている。親鳥を待っているのだ。足元では昌也が梯子を支え、次は俺だぞ、と囁いた。芳は大きく頷くと、雛にもう一度触れた。まだ目も開かない雛は、頼りないほど柔らかな身体の内に似合わぬほどの高い熱を秘めていた。この小さな塊が、やがては空を自在に滑空するようになるのだ。
声が出せるという事実が、菊乃の三味線を失った喪失感を瞬く間に打ち消してしまった。何やら後ろめたい気持ちになる。母さん、ごめんなさい。謝りながらも身体の奥底が熱く疼いていた。思うままに三味を奔らせ声をのせたい。やはりこの仕事が好きだ。
芳はゆっくりと歩き出した。帰省しているという軍医はまだいるだろうか。声がきちんと出せるようになったら唄を習いたい。自分の芸で客を酔わせたい。タガが外れたように思いが溢れてくる。自分がこれほど欲深かったとは。思わず苦笑がもれた。
砂利を蹴散らす音に顔を上げると、昌也だった。
「家にまだ戻ってないってきいて。無事だったか」
喘ぎあえぎ昌也は言った。足袋はだしで走り回って探していたらしく、足袋が泥と汗で汚れている。裾が大きく割れ、全身、汗で濡れそぼっていた。昌也はようやく息を継ぐと、大声をあげた。
「怪我してるじゃないか!」
子供の頃のように顎に手をかけて傷を仔細に見ようとする。大の男にそれはないだろう。芳は慌てて後ろに下がった。
「声が、出るんだ」
「え」
「声が出るんだよ」
芳はことの顛末を話した。ひどく興奮しているせいか、言葉に詰まったり話の内容が前後する。夢中になって言葉を紡いでいるうちに、昌也の受け答えがいつしか途絶えていることに気が付いた。
「昌也?」
「よかったな」
喉に何かがからまったような声で昌也が言った。
「前に話していた軍医、まだこっちにいるかな。診て、もらいたいんだ」
区切りをつけてゆっくり話せば、昔と同じように話すことができるようだ。コツを掴んだ芳は、用心深く言葉を紡いだ。
「それだけ話せるなら医者なんていらないんじゃないか。あの軍医、まだしばらくはこっちにいるって話だから。もちろん俺、連れていくけど」
こみ上げてくるものを堪えているらしく、声がかすれていて妙に早口だ。
「あ、ありがとう。なんていうか、その、声を出してもいいっていうお墨付きが欲しいのかも」
また声が出なくなる恐怖にはもう耐えられそうもない。
「そうか。分かった。任せとけ」
昌也は即座に答えた。口のきけない弟分の気持ちを汲むのは長年の習慣だ。言葉少なにそう言うと、とうとう堪えきれなくなったらしく、目元を袂でごしごしとこすった。よかった、よかったとつぶやきながら涙を拭っている。
夜も更けてきたのだろう。吹き始めた東風が身体の熱を心地よく溶かしていく。黙々と歩いていると、不意に昌也の声がした。頭の中が自分の事で一杯だった芳は、はっとして顔を上げた。
「母さんを驚かせてやろう」
まだ赤い目をしているが、いたずらっぽい口調はいつもの昌也だ。
昌也が勢いよく玄関の引き戸を開けると、青い顔をした静恵が上がり間口に正座して待っていた。
「芳!」
「只今、母さん」
静恵の目と口が真ん丸に開いている。
「おまえ、声が……」
あとはもう、言葉にならない。静恵が涙を流すのを初めてみた。どうせ才などない。声など出なくていい。浅薄な自負心から殊更に斜に構えてきた自分がひどく卑小に思われて、いたたまれなくなった。
「心配をかけてすみません」
「無事でよかった」
ようやくそういうと、静恵は袂で顔を覆った。嗚咽を堪えている静恵の背中に触れると、いままで知り覚えていたはずの身体よりも、ずっと小さく肉の薄い身体だった。幼稚な自己憐憫から意固地になっていた血のつながらない息子は、今までこの小さな身体にどれほどの重荷を背負わせていたのだろう。
「母さん、今までありがとう。もう、大丈夫だから」
「これでやっと、菊乃に顔向けができる……」
静恵はまた、目頭を押さえた。
「唄の稽古、つけていただけますか」
静恵は驚いたように顔をあげた。
「習うには、もう遅いでしょうか」
たとえ金になる芸にならないとしても、自分の唄を三味にのせてみたい。以前には感じたことのない強い気持ちが溢れていた。
芳の硬い表情に気が付いた静恵は、まだ涙で光っている顔のまま大きく笑った。
「そんなことはないよ。いつも私らの唄を聴いていたろう。耳ができていればなんとかなるもんさ」
「よろしくお願いします」
静恵が言う事に間違いはない。芳は再び端座すると、深々と頭を下げた。
ひどく喉が渇いている。とにかく水だ。芳は手水所にむかった。身体のあちらこちらが熱を持ってずきずきと痛むが、地面に転がっている間に酒気は抜けたようだ。柄杓で何杯も水を飲んだ。最後の一杯は味を確かめるようにゆっくりと飲み、胃袋に水が到達するのを確かめることができた。
酒のせいで混乱していたのだろうか。やはりあれは夢だったのではないだろうか。芳は恐る恐る声を出してみた。いろはにほへと。ひどく掠れた声だが紛れもない自分の声だ。
芳は喉元にそっと触れた。熱っぽい皮膚の下で血管がどきどきと脈打っている。肉の熱さが幼いころを思い出した。
軒下にかけられた巣の中で、薄くつるりとした皮膚で赤い肉を包んだ燕の雛が折り重なっている。親鳥を待っているのだ。足元では昌也が梯子を支え、次は俺だぞ、と囁いた。芳は大きく頷くと、雛にもう一度触れた。まだ目も開かない雛は、頼りないほど柔らかな身体の内に似合わぬほどの高い熱を秘めていた。この小さな塊が、やがては空を自在に滑空するようになるのだ。
声が出せるという事実が、菊乃の三味線を失った喪失感を瞬く間に打ち消してしまった。何やら後ろめたい気持ちになる。母さん、ごめんなさい。謝りながらも身体の奥底が熱く疼いていた。思うままに三味を奔らせ声をのせたい。やはりこの仕事が好きだ。
芳はゆっくりと歩き出した。帰省しているという軍医はまだいるだろうか。声がきちんと出せるようになったら唄を習いたい。自分の芸で客を酔わせたい。タガが外れたように思いが溢れてくる。自分がこれほど欲深かったとは。思わず苦笑がもれた。
砂利を蹴散らす音に顔を上げると、昌也だった。
「家にまだ戻ってないってきいて。無事だったか」
喘ぎあえぎ昌也は言った。足袋はだしで走り回って探していたらしく、足袋が泥と汗で汚れている。裾が大きく割れ、全身、汗で濡れそぼっていた。昌也はようやく息を継ぐと、大声をあげた。
「怪我してるじゃないか!」
子供の頃のように顎に手をかけて傷を仔細に見ようとする。大の男にそれはないだろう。芳は慌てて後ろに下がった。
「声が、出るんだ」
「え」
「声が出るんだよ」
芳はことの顛末を話した。ひどく興奮しているせいか、言葉に詰まったり話の内容が前後する。夢中になって言葉を紡いでいるうちに、昌也の受け答えがいつしか途絶えていることに気が付いた。
「昌也?」
「よかったな」
喉に何かがからまったような声で昌也が言った。
「前に話していた軍医、まだこっちにいるかな。診て、もらいたいんだ」
区切りをつけてゆっくり話せば、昔と同じように話すことができるようだ。コツを掴んだ芳は、用心深く言葉を紡いだ。
「それだけ話せるなら医者なんていらないんじゃないか。あの軍医、まだしばらくはこっちにいるって話だから。もちろん俺、連れていくけど」
こみ上げてくるものを堪えているらしく、声がかすれていて妙に早口だ。
「あ、ありがとう。なんていうか、その、声を出してもいいっていうお墨付きが欲しいのかも」
また声が出なくなる恐怖にはもう耐えられそうもない。
「そうか。分かった。任せとけ」
昌也は即座に答えた。口のきけない弟分の気持ちを汲むのは長年の習慣だ。言葉少なにそう言うと、とうとう堪えきれなくなったらしく、目元を袂でごしごしとこすった。よかった、よかったとつぶやきながら涙を拭っている。
夜も更けてきたのだろう。吹き始めた東風が身体の熱を心地よく溶かしていく。黙々と歩いていると、不意に昌也の声がした。頭の中が自分の事で一杯だった芳は、はっとして顔を上げた。
「母さんを驚かせてやろう」
まだ赤い目をしているが、いたずらっぽい口調はいつもの昌也だ。
昌也が勢いよく玄関の引き戸を開けると、青い顔をした静恵が上がり間口に正座して待っていた。
「芳!」
「只今、母さん」
静恵の目と口が真ん丸に開いている。
「おまえ、声が……」
あとはもう、言葉にならない。静恵が涙を流すのを初めてみた。どうせ才などない。声など出なくていい。浅薄な自負心から殊更に斜に構えてきた自分がひどく卑小に思われて、いたたまれなくなった。
「心配をかけてすみません」
「無事でよかった」
ようやくそういうと、静恵は袂で顔を覆った。嗚咽を堪えている静恵の背中に触れると、いままで知り覚えていたはずの身体よりも、ずっと小さく肉の薄い身体だった。幼稚な自己憐憫から意固地になっていた血のつながらない息子は、今までこの小さな身体にどれほどの重荷を背負わせていたのだろう。
「母さん、今までありがとう。もう、大丈夫だから」
「これでやっと、菊乃に顔向けができる……」
静恵はまた、目頭を押さえた。
「唄の稽古、つけていただけますか」
静恵は驚いたように顔をあげた。
「習うには、もう遅いでしょうか」
たとえ金になる芸にならないとしても、自分の唄を三味にのせてみたい。以前には感じたことのない強い気持ちが溢れていた。
芳の硬い表情に気が付いた静恵は、まだ涙で光っている顔のまま大きく笑った。
「そんなことはないよ。いつも私らの唄を聴いていたろう。耳ができていればなんとかなるもんさ」
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