無弦の琴

内藤 亮

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 咲良が早速に軍医に診てもらう手筈を整えてくれた。軍医は茂平の店に帰省する度に寄っていたのだという。茂平は板場で酒肴の支度で手一杯だし客の私的な事には踏み込まないのが礼儀だと心得ている。咲良もそうあるべきだと思っているが、大きな黒革のカバンを下げ垢ぬけた洋装がしっくりと馴染んでいるその男が、店の雰囲気にあまりにもそぐわなかったからふと興味をひかれたのだ。男は顔なじみの客も多いらしく、しょちゅう声をかけられ、いかにも気さくにしゃべっている。それとなく話を聞いているうちにその男が帰省中の軍医だと知って、芳のことを話したのだった。
 突然のお願いで申し訳ありません。実は……。咲良の一途な様子に、男は診てみよう、とすぐに言ってくれたのである。
「咲良さん、ありがとう。ええと、その、御付きが二人も付くのかい」
 軍医はしょっちゅう店に来るそうで、その折にでも紹介をしてもらえば充分だと思っていたのだが、咲良と昌也は当然のような顔をして付いてきたのだ。
「そりゃあ。弟の診断結果を聞くのは俺達の義務だからな。お前を一人で行かせるとろくなことにならないし」
 昌也はくすり、と笑った。あの宴会で、一人先に帰ったあと、襲われたことを言っているらしい。
「場所もちょっとわかりづらいのよ。案内するわ」
「折角の休みの日なのに。ありがとう」
「そんなに急がなくてもいいのに。まだ怪我も治ってないじゃないの」
「もう平気だから」
「ま、気持ちはわかる。稽古、早く始めたいんだろ」
 昌也や咲良の前では難なく話せるが、他人の前でも同じように話すことができるのだろうか。道すがら二人に心配をかけまいと、ひっきりなしにしゃべっていたら、咲良が言った。
「大丈夫。無理に話さなくてもいいのよ」
 咲良はやはり、姉を演じたいらしい。返事に詰まっていると、昌也がくくっと喉で笑った。
「さあ、着いたわ。どう、ひとりだったら迷っていたでしょ?」 
 目抜き通りから随分歩いて、迷路のような路地を何度か曲がってようやく診療所についた。屋敷は鬱蒼とした樹々に囲まれて、外からでは家屋がほとんど見えない。確かに、咲良の案内がなかったら迷っていただろう。
「一人だったら辿りつけなかったよ。一緒に来てもらってよかった。昌也、咲良さん、ありがとう」
 独りだったら、ここまでこれなかっただろう。静恵と出会い、昌也と咲良と会った。人との出会いを通じて、三味が好きなのだ、と思い知らされた。これからは、この音色と共に生きていくのだ。
 目を上げると、昔ながらの重厚な日本家屋が見えてきた。
 赤い屋根瓦の玩具のような小さな洋館が、岩に張り付くフジツボのように母屋にしがみついている。古びた表札には『関谷醫院』とかかれていた。
「診察室、私達も一緒に入りましょうか」
 咲良がいかにも姉らしく言った。
「大丈夫だよ。子供じゃないんだから」
 芳は慌てて答えた。長くここに務めているらしい、所作も風貌もここの主のような受付係の老婆は、一瞬目を瞠りすぐに元の落ち着いた受付係の顔に戻ったが、お付きが二人もくっついてきた大の男への好奇心を隠そうともしないでまだこちらを見ている。 
「関谷聡(せきやさとし)、です」
 聡は、長兄が跡を継ぎ、自分は軍医となったのだ、と簡単に自己紹介をした。兄の護(まもる)はにこりとして芳に挨拶をした。
 一人で診察室に入ったはいいが、よろしくお願いします、の一言が出ない。冷や汗をかいていると、
「ま、そういうこともあるさ。ここに座って」
 護が患者用の丸椅子をとんとん、と叩いた。
「聡が東京に帰ったら僕が君を診る。呑兵衛が新しい患者を連れてきた、というわけだ。軍医殿の意見も聞きたいから同席を許可してほしい」
 そういうと、護は自分も芳と同じ丸椅子を出してきて部屋の隅に座った。
 いつもの帳面を置いてきたのは失敗だった。話そうとしても声が出ない。書くものを貸そう、と聡が洋紙とペンを貸してくれたので、今までの経過を箇条書きにした。一通りの診察を済ませると聡志は言った。
「気鬱、というのも当たっているけれど。声帯には何の問題もない。唄も好きなだけ唄えばいい。君自身の心が声帯を縛っているのだと思う。何か思い当たることはあるかい?」
 指摘されて、冷たい汗が流れた。声などでなくていい、そう思っていたのは自分自身だ。咲良に言われたように、このまま声が出なくなっていたかもしれないのだ。
「心も、手とか足と同じ体の器官の一部だと思えばいい。調子が悪かったら治療をする。ただそれだけのことさ。難しく考えることはない。今はいい薬もあるし。いつでもおいで」
 大雑把ではあるが、合理的な言葉を聞いているだけでも気が楽になる。
「ありがとうございました」
 思わず謝礼の言葉が口をついた。芳自身が驚いていると、
「ま、そういうことだ。君の声はよちよち歩きの幼児みたいなものだから。最初はつまずいたり、転んだりすることだってあるさ。ゆっくり慣れていけばいい」
 今まで弟の診察を黙って見ていた護が言い添えた。
 診察室を出ると、昌也が満面の笑みを浮かべ、勢いよく背中を叩いた。
「でかい声の先生だな。ここまで全部聞こえたよ」
 咲良はよかった、よかった、と絞り出すように言うと、そのままぼろぼろと泣き出してしまった。咲良の優しさがちりりと胸を刺したが、今はその痛みさえも心地よかった。
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