無弦の琴

内藤 亮

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 遠くから三味の音が聞こえたような気がして昌也は目を開けた。地窓の障子が明るくなっていて、夜が明けたばかりなのが分かった。気のせいかと思ったが、また微かに三味線の音がした。隣の襖を開けると、案の定、芳の布団がきちんと畳まれている。
 稽古場で芳が一心に唄っていた。
「おはよう。早いな」
 頃合いを見計らって声をかけると、昌也がいることに初めて気が付いたらしい。芳がびくりとして振り返った。
「起こしてごめん」
「続き、聞かせてくれよ」
「でも」
 朝は声が出にくいが、とりあえず形になるまではと、一人で練習をするつもりだったのだ。
「いいから」
 昌也の前で今更恥ずかしがっても仕方がない。観念して芳は三味を手にとった。唄を終えると昌也が言った。
「三味、俺が弾くから。唄だけに集中してみろよ」
 芳は頷いて、小さく深呼吸をした。幼い頃から何度も聞いてすっかり耳に馴染んだ昌也の音だ。昌也の三味に身を委ねると、声が伸びていくのが自分でもわかる。
「いいじゃないか」
「音、少し上げたんだね」
「やっぱりお前の耳はさすがだな。ほんの少し糸を張ってみたんだ」
「なんで唄いづらいか、わからなかったんだ」
 自分の声に合わせて三味を弾いたことはない。おのずと昌也の声や調子に合わせる音になっていたのだ。
「自分の声に三味を合わせりゃあいいんだよ。俺よりもお前のほうが声が高いからな。もう一回弾くから。今度はもっと力を抜いて唄ってみろ」
 芳の唄を一度聞いたきりなのに、昌也の三味は声にぴたりと沿ってくる。今更ながら昌也の才には驚嘆するしかない。
「ありがとう。すごく唄いやすかった」
「感じ、つかめそうか」
「うん」
「お前の声、いいな」
 音程を外さないように声を出す。今はそれだけで精一杯なのだ。思いがけない昌也の賛辞が胸の中にゆっくりと広がっていく。
「そろそろ飯にしようや」
 ぽん、と芳の肩をたたくと、昌也は晴れやかに笑った。
「芸事っていうのはさ、根を詰めればいいってもんじゃないんだぜ。ま、いいや。今朝のお前はいい顔してるから。昔は、こう、いっつも眉根を寄せてただろ」
 こんな風に、と真似をして昌也はお道化た。
「くそ寒い稽古場で、朝っぱらから一人で練習してたもんな」 
「そうだっけ」
「そうだよ。見てるこっちのほうが息が詰まりそうだった」
 いつ練習しているかわからないほど遊び惚けているのに、昌也は一たび三味を持つと冴えた音を出す。追い立てられるような気持になって、まんじりともできなかった。今でもそんな小心者の焦りが何処かにある。これからは自分の芸を作らねばならないし、それが叶うかどうかも定かではない。それでも、真正面から己と芸に向き合い、三味とともに生きていきたい。
 外に出るとすっかり明るくなっていて、朝日を浴びた生け垣のツゲが艶々と輝いていた。母屋に入ると、飯を炊く甘い香りが一杯に漂っている。釜の飯を櫃に移しながら静恵が微笑んだ。
「おはようさん。朝から熱心だね」
「おはよう、母さん。芳の唄、なかなかのものだよ。後で母さんにもお披露目しろよ」
「うん」
 とてもお披露目などという段階ではないが、静江が声の具合を知るのは当然の権利なのだ。芳は即座に返事をした。
 話すなら今だ。静恵も昌也も朝餉を食べ終わり、茶を飲んでいる。
「昌也の祝言が終わったら、この家を出ようと思って」 
 座敷の仕事は今まで通り続けるし、ミネの伝手で隣町の手ごろな借家も見つけることができた。独りでどこまでやれるか己の力を試してみたい。
「なんでそんなこと言うんだよ。今まで通りここで暮らせよ」
 昌也の声に隠しようのない怒気がこもっている。黙って話を聞いていた静恵は、ゆっくりと残りの茶を飲み干した。
「やれるところまでとことんやってごらん。私に教えられることはすべて教えたつもりだよ。なんとかなるさ。でもね。ここはいつまでもお前の家だから。それだけは忘れないでおくれ」
「だけど、母さん」
「芳を信用できないのかい」
 ぴしゃりと言われ、昌也はうっと黙ってしまった。
「母さん、ありがとう。これからも精進します」
 居住まいを正して頭を下げると、静恵は照れくさそうにひらひらと手をふった。
「そうそう、後で三笠屋に行ってくれるかい。いつもの三味の糸を買ってきてほしいんだよ。うっかりきらしちまってね」
 昌也がちらりと目を上げて静江に視線を向けたが、それきり黙っているので、芳が代わりに答えた。
「今日は稽古日だったね。早速行ってくるよ」
「急がせてすまないね。朝餉の片付けは私らでやるから」
 静恵と昌也に見送られて、芳は家を出た。

 三笠屋は小さな店だが丁寧な仕事をする。主人の欣二(きんじ)は職人としてはもちろん、自らも三味線を弾きこちらのほうもかなりの腕前だ。弾き手の要望や腕前に応じた精妙な調節ができるようになるために、自らも三味線を習ったのだという根っからの職人だ。三笠屋は、三味線で食べている者なら知らないものはない店なのだ。
 芳は店番をしていた欣二の妻、知世(ともよ)に挨拶をした。
「よかったねえ。今度は唄を聞かせておくれ」
「はい」
 声が出るようになったことはいつの間にかすっかり広まっているらしい。気恥ずかしくて、芳は言葉少なに答えた。仕事中だったらしい。前掛けに木くずをつけたままの欣二が、新しい三味線を抱えて奥から出てきた。
「やあ、久しぶりだな。声、出るようになったんだってな」
「はい。おかげさまで」
「よかったなあ」
「いつもの糸をお願いします。今日は稽古日だから、急いで帰らないと」
 茶の支度しようと席を立ちかけた知世に礼を言って店を出ようとすると、
「あれ、聞いてないのか。静恵さんからこれを渡してやれって言われてたんだ。替え糸は一昨日に昌也に渡したはずだよ」
 そういうと、欣二は抱えていた三味線を差し出した。
「棹は菊乃さんの三味と同じ太さだ。そのほうが弾きやすいだろう。撥はやっぱり象牙がいいだろ。お前さんの手に合わせて誂えろってさ」
 棹の紅木は金細、胴は綾杉だ。この三味一棹で菊乃の三味が何棹も買えるだろう。
「こんな立派な三味……」
「眺めてないで手にとってみろよ」
 手に取った瞬間から掌に吸い付くようだった。そっとつま弾くと自分のものとは思われないような豊穣で柔らかな音がする。静恵の思いが波のように迫ってきた。
「ありがとうございました」 
「俺にも礼を言わせてくれ。久しぶりに楽しい仕事をさせてもらった。近いうちにお前の唄とその三味、聞かせてくれよ」
「はい」
 自分にできるのは、この三味の音を存分に引き出せる腕前になることしかない。静恵をはじめとし世話になった人々の顔が次々に浮かんでくる。芳はすぐにでも帰って稽古がしたくなった。
    
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