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2章 未来のふたり(仮)

第16話 元の鞘に

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「そうやんな……」

 紗奈さなの言葉に対してぽつりと呟いた雪哉ゆきやさんは反省しているのか、肩を落として項垂うなだれてしまっている。

「私はそういうのは、結婚のお話が出てから擦り合わせるもんやって思ってます。あの、確かに私はこれまで実家に頼りっぱなしの甘ったれでした。それが雪哉さんの引っ掛かりやったんですよね?」

「それは、まぁ……」

 雪哉さんは言いにくそうにもごもごと口ごもる。

「それは私もほんまにあかんかったんやなぁって思ってます。でもそれは雪哉さんのためや無かった……、結果的に雪哉さんに良い様になったかも知れないですけど、私は私のためやて思ってます」

「それはもちろんそうや。紗奈ががんばったから」

「それを、そうなったからって、じゃあお付き合いを続けましょうなんて、ほんまに何さまやって話です」

 つい語気が荒くなってしまう。しまったと思ったが、自分が本当に怒っていることも伝えなければならないのではと思い直す。だがあまり強くならない様に慎重に。

「ほんまにごめん」

 雪哉さんは慌てて、また頭を下げる。肩が細かく震えていた。

「俺、どうしても結婚したくて。でも紗奈とは難しいかも知れんって思ってた。紗奈は家のいろんなことをお母さんに任せっきりで、お世話もされてて、それを当たり前の様に思ってた。そんな人と結婚して、大丈夫やろうかって思ってた」

「…………」

 少し前までの紗奈は確かにその通りで、それには返す言葉が無い。後ろめたくなるしか無かった。

「でも俺が言うても、多分響かんやろうなって思った。せやから自分で気付かなあかんやろうって思った。そしたら職場の人たちがきっかけで、紗奈は変わってくれた。俺は嬉しかったんや」

 顔を下げたまま、絞り出す様な声で雪哉さんは言う。

 確かに雪哉さんから「家のことをやれ」などと言われて、紗奈が素直に聞いたかどうかは判らない。雪哉さんがどんな言葉を使うのにもよるだろうが、すっかりと雪哉さんに慣れ切った紗奈が受け入れたかどうか。

 牧田まきたさんと畑中はたなかさん、岡薗おかぞのさんの話が紗奈の心に届いたのは、まだ事務所に慣れておらず、皆さんとさほど親しくなっていなかったこともあるとは思うが、言葉が何気無いもので、説教臭さが無かったからだ。

 雪哉さんが同じことを言っていたら、目的が目的な分、押し付けがましくなっていたかも知れない。それだと紗奈は聞かないどころか反発していた可能性があった。それでも。

「雪哉さん、やっぱり私は言って欲しかったです。私は社会人になったばかりで、まだ結婚なんて考えられへんです。でも私が大人としてなってへんかったんは確かですから、言って欲しかったです」

「そうやんな。俺、紗奈の気持ちも考えんと、あほなこと言うてしもうた。紗奈のこと好きやのに別れるやなんて。俺がちゃんとするべきやったんや」

 大きな声では無かったが、叫ぶかの様な有り様だった。紗奈はぐっと唇を噛み締めた。

「結婚うんぬんや無くても、社会人になったんやから、それなりに大人になれって言うて欲しかったです」

「ほんまにそうや。ごめん、紗奈。ほんまにごめん。俺は今でも紗奈のこと好きや。でもこれからも俺と付き合うて欲しいなんて、俺の口からは言われへん。そんな資格は無いって思ってる。けどやっぱり言いたい。紗奈、これからも俺と付き合うて欲しい!」

 雪哉さんは形振なりふり構わないと言った様子で、今度は本当に机に頭をぶつけるまでに頭を下げた。ごん、と鈍い音が響く。雪哉さんはそのまま頭を机に擦り付ける勢いで、まんじりと紗奈の応えを待っている。

 そんなのはもう決まっている。雪哉さんの態度から、心底反省していることが見て取れた。まだ人生経験が浅い紗奈だが、これまでのお付き合いの絆もあるし、信じられると感じている。

 なのにすぐに返事をしなかったのは、焦らしたかったという少し意地悪な感情が芽生えたからだ。だがただのいたずらでは無い。これからこんな諍いが起こらない様に、釘を打たなければならないのだ。

 それこそ自分が「何さまや」だ。だがまだまだ未熟な紗奈が雪哉さんとお付き合いをして行くために、幸せな時間を過ごすために、そして将来を考えるために、必要な「間」なのだ。

 あざといと思う。しかし紗奈には他に武器が無い。歳上の雪哉さんと対等にお付き合いをするために、今できることはこんなことぐらいなのである。

「……今回こっきりですよ?」

 紗奈がささやく様に言うと、雪哉さんはがばっと頭を上げた。その顔はくしゃくしゃに歪んでいて、細い目はしっとりと滲んでいた。

「ほんまに?」

「ほんまです。あの、私も、あの、雪哉さんが好きですから」

 紗奈は思い切って言い切る。本心だ。だから先週万里子と話をした時も結論を出せなかったし、今日家を出た時でさえそうだった。それは雪哉さんに情があるからだ。離れられない、別れられない、それが事実なのだ。

「あ、ありがとう、ほんまに、ありがとう……っ」

 雪哉さんは肩を震わせながら両手で顔をおおった。紗奈は決着に安堵あんどして雪哉さんを見守った。
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