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1.日野谷
1-1. 憂しと見し世
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永禄十年(一五六七年) 一月。
南近江では国主、六角義治が謀反の咎により重臣の筆頭、後藤賢豊をその子とともに居城である観音寺城で討ち果たした。この事件をきっかけに家臣団は二つに割れて争い、ついには六角義治が城を追われた。
南近江、日野谷一帯を支配下に置く与力の蒲生快幹と賢秀父子が仲介に入り、両者はようやく和睦。これにより蒲生父子が主家を凌ぐ力を得るに至った。
「あの騒動で、鶴千代様の傅役も乳母も後藤家に帰され、母君まで亡くされ、鶴千代様のお傍にはどなたもおられぬというに、大殿も殿も何も仰せにはならず、鶴千代様を置き捨てたままにされておる」
日野中野城で蒲生家に仕える者たちはみな、四年前まで嫡子であった鶴千代に、どう接すべきか、戸惑いを隠せない。
「滅多なことを申すでない。母君が後藤家の者ゆえ、大殿も殿も扱いに困っておられるのじゃ。余計な指出口をしては、我らまで咎められよう」
鶴千代の部屋の傍でも家人たちは一向に意に介さず、こうした噂話に花を咲かせるので、家人たちが、そして祖父や父が自分をどう思っているのか、自分が今、どんな立場に立っているのか、だいたいのことは理解できた。
朝晩、食事が届けられる以外は、誰も部屋には来ない。父の私邸は鶴千代のいる三の丸とは離れており、そこには年若い父の側室と、側室の産んだ子たちがいるが、鶴千代には近づくことも憚られた。
朝起きてから、夜寝るまで、誰と会話を交わすことも無い。母が残したいにしえの和歌の本を友とし、部屋から見える綿向山を父とした。
日野谷一帯を見下ろす霊峰・綿向山。鈴鹿山系のひとつであり、冬には山頂に雪を被り、春になり雪が解けると青々とした力強くも雄大な姿を見せる。綿向とは、綿を紡ぐ山から来ているという。谷に住む人々は古くから養蚕を生業としてきた。山の名はまさにあの山が谷に住む人々の生活に密着してきたことを物語る。
そんな一人きりの日々を過ごし、迎えた四度目の冬。
冬になると鈴鹿の山々から冷たい風が吹き降ろす。雪がしんしんと積もる中、隙間風が入り込んでも手炙りに火を灯すこともできない。毎年、冬には誰かが来て、火を灯し、冬を過ごすための着物を持ってきた。しかし、この年に限ってはそれさえも忘れられていた。
皆が羨む白綾の小袖。しかし数え十一になったばかり子供には、庭の池が凍りつく冬の日に絹の着物一枚では寒すぎる。ある夜、余りの寒さに震えが止まらなくなり、ゾクゾクした寒気に襲われた。部屋の隅にうずくまり、じっと耐えたが、やがて起きていることもできなくなった。
朝になり、昨夜の食事が手つかずで残されていることを不審に思った侍女が襖を開け、異変に気付いた。
「これは…鶴千代様が!」
鶴千代は高熱を出して寝込み、その話を聞いた父・賢秀がようやく鶴千代の傍に誰もいないことに気付いた。
連日、薬医と侍女が入れ代わり立ち代わり鶴千代の部屋を出入りするようになった。
「なにやら苦しそうじゃ…大事ないであろうか」
誰かの声が聞こえた。聞き覚えがない。とても心配そうな声だ。
「案じられる。案じられるのう…」
時をおいて、何度も聞こえてきた。
(もしや、わしを案じてくれておるのか。されど、なぜ、そんなに案じておるのか。あぁ、そうか。知らない内に苦しさで唸っていたから…。それにしても、誰であろう)
目を開けて確かめたかったが、目を開ける気力が湧かない。おぼろげな意識の中、人が出入りするたびに部屋に吹き込む風の冷たさを感じる。
そのとき、風に乗って柔らかい音色が聞こえてきた。
(これは…笛の音か)
誰かが苦しむ鶴千代を慰めようと、笛を奏でてくれている。
(心地よい音色が…)
鶴千代の心がだんだんと安らぎ、いつの間にか、深い眠りに誘われていた。
一週間後には熱も下がり、普段と変わらぬ生活を送ることができるまでに回復した。
見慣れない家人が、鶴千代の部屋にきて挨拶をする。
「若。お元気になられたよし。まことに目出度きことで」
どこかで聞いた声だ。父・賢秀よりも若い。年の頃、二十五・六といったところだろうか。
「おぬしは…我が家の者か?」
「はい。それがしはこの度、大殿より若の傅役を仰せつかった三雲佐助でござりまする」
祖父の命だという。
「わしは廃嫡されたのではないのか?」
母が後藤家の出なので、廃嫡されたと思っていた。しかし、三雲佐助は言下に否定した。
「とんでもない。大殿も殿も、若のことを大層、案じておいでで」
鶴千代は然様か…と気のない返事をした。祖父や父が心配しているというのであれば、何故、四年も自分を放置していたのだろうか。
「大殿も殿も、六角家の騒動を収めるために観音寺城に通いつめ、家臣を集めて協議しておるところでござります。これを収めねば他国のつけ入る隙となりましょう。そのような状況がために、若のお傍に仕えるものがおらぬことにお気付きにならなかったものかと」
本当にそうだろうか。いくら家中でもめ事が起きているからといって、四年も気づかないものなのだろうか。
鶴千代の心を察したかのように、三雲佐助は少し考え、言葉を選ぶように
「若。幼い身で母君を亡くされ、身の回りのお世話をする者もなく、長い間、おひとりだった若にとって、大殿や殿は遠い存在かもしれませぬ。されど、それがしは違いまする。それがしは若の傅役。若が行くところ、火の中、水の中、どこへなりともお傍にお仕えし、この命尽きるまで、若と共におるのがそれがしの役目。決して若を一人にすることはありませぬ。それゆえ、どうか、御案じめさるな」
「わしとずっと共におると?」
「はい」
容易には信じられなかった。鶴千代が疑心に満ちた目で見ると、佐助は苦笑いし、何も言わずにその日は帰っていった。
鶴千代の傅役になったという三雲佐助は次の日も、その次の日も姿を現した。ある時は鶴千代が好きな和歌の本を持参し、またある時は、祖父・快幹の部屋からこっそり持ち出した唐物の香炉を見せてくれたり、山で掴まえた兎や山鳩を持ってくることもあった。
日々、佐助と過ごす時間が増えた。母・お桐を亡くしてから灰色だった鶴千代の生活は日ごとに彩りを増していった。
そうして少しずつ打ち解けてきて迎えた春の日。佐助は鶴千代を城の外へと連れ出した。
「いずこへ参るのか」
「今日はご城下で祭りがござります。見聞に参りましょう」
「祭り?」
佐助が馬を引いて連れてくるが、馬には数えるほどしか乗ったことがない。鶴千代はどうしようかと困惑した。
「あぁ、なるほど。では、それがしが…」
と鶴千代を持ち上げて馬に乗せると、鶴千代の前にひらりと跨った。
「若。それがしにしっかりとおつかまりくだされ」
鶴千代は頷き、佐助の腰に手を回す。
(なんという身のこなし…)
こんなに見事に馬に飛び乗る者は初めて見た。数多くいる家人の一人と思っていたが、どうやらそうではないらしい。
三雲佐助は人だかりを見つけると馬の脚を止め、ひらりと馬から飛び降り、鶴千代の手を取って馬から下ろした。
「ここは…」
見覚えがある。昔、よく遊びに来ていた松林だ。
「ここは若松の森。若が生まれたとき、大殿が喜び、記念にと綿向神社の前に松を山のように植えたのでござります」
「お爺様が…」
よく来ていた場所なのに知らなかった。改めて見ると無数にある松の一本一本が手入れされ、参道の左右に広がっている。
「はい。して、その折に大殿が寄進した神輿があれに…」
佐助が指さす方向には大勢の人が群がり、その中心には豪華な装飾がほどこされた神輿が見えた。
「皆、楽しそうにしておる」
祭りばやしが響き渡る。神輿の担ぎ手はいずれも屈強な者ばかりで、掛け声の力の入用から、神輿の重さがうかがい知れた。
「若。祭りの場でそのように俯き、葬儀へ行くかのような顔をなされていては、領民共が不安に思いましょう」
佐助が笑ってそう言う。
「葬儀…」
そんなつもりはなかった。ごく普段通りなのだが。
「もう少し、こう、柔らかく…というか、にこやかにしていただけると、民も安堵するかと…」
「にこやかに…」
どうやったらいいのか分からなかったが、無理やり笑顔を作ると、
「…最初なので…ちとぎこちなくはありますが、まぁ、これも慣れてくれば、もう少し自然な面持ちとなりましょう」
そういうものなのだろうか。難しいなと思い、神社の方へ視線を向ける。日に輝く神輿は上へ下へと激しく揺れ動きながら、少しずつこちらへ向かってきている。
「鶴千代様じゃ!」
どこかからか声がした。
「おぉ、鶴様じゃ!」
にわかに周りが騒がしくなり、人が寄って来た。
「鶴様。御病気と伺いましたが、もうお加減はよろしいので?」
日野の領民だろうか。何故、病気になったことを知っているのだろう。鶴千代は戸惑い、なんと返してよいものかと返事に詰まる。
「皆、案ずるな。鶴千代様はこのようにピンピンしておる」
佐助が大声で言うと、鶴千代を取り巻く人々から歓声があがる。
「幼き頃より鳳の雛と呼ばれたお方じゃ」
「立派な若様じゃ」
「大殿様の幼き頃に瓜二つじゃ」
鶴千代の周りに人が集まり、口々に誉めそやすので、先ほど佐助に言われたことが何となく分かって来た。
不思議なことに、鶴千代が笑顔を返すと、それだけで人々は喜び、声をあげた。
「若。騒ぎが大きくなるまえに、そろそろ引き上げると致しましょう」
佐助が小声でささやき、鶴千代を馬に乗せる。城を出たときと同じように共に馬に乗ってくれるかと思ったが、意に反して鶴千代に手綱を握らせると、佐助は馬の轡を取り、静かに馬を引いて前を歩きだした。
(そんな…佐助…)
何か言おうと思ったが、領民たちの前で、一人で馬に乗れないことを知られてはならないのだと気づいた。鶴千代は平静を装い、時折人々に手を振り、終始笑顔を絶やさなかった。
領民たちは皆、鶴千代が見えなくなるまで手を振っていた。
神社から離れ、人の気配がなくなったところで、佐助がようやく馬を止めてくれた。
「若。よう辛抱なされましたな」
笑ってそう言われたので、鶴千代は苦笑いを返す。
「次はおぬしに乗せてもらわずとも、一人で乗れるようにならねばな」
「それは頼もしいお言葉で」
佐助は鶴千代に手を差し出し、馬から下ろした。
「今日は祭りで皆、神社に行っておりまする。ここら辺りは人気もござりませぬな」
言われてみると、祭りばやしが遠くから聞こえてくるが、ここは至って静かだ。
「あ…ここは…」
見慣れた寺の門を目にして、鶴千代はそちらの方へと足を向ける。
「若、いずこへ?」
「この寺に…」
何度となく母に連れられて通った信楽院。蒲生家の菩提寺であり、年一回、先祖の供養が行われている。
それとは別に、母・お桐は毎年、秋の月が一番輝くその日、人目を忍んでこの寺に来ていた。そして四年前の秋、お桐をこの寺に葬った。
(毎年来ていたのに…)
昨年の秋は来ることができなかった。
「必ず同じ日に?それはどなたの供養で?」
佐助が尋ねるが、言おうかどうしようかと鶴千代は一瞬、躊躇する。
「おぬしは奇妙な話と笑うかもしれぬ」
佐助はおや、と首を傾げた。
「若はなかなかに慎重なご気性。未だ、この佐助を信じてはくださらぬので?」
「いや…そうではないが…。母上の話では、もう一人、同じ日に、この寺に通ってくるお方がおる」
「もう一人、とは?」
「母上が昔、この寺に来ようとしたときに、どこかからか、銃声が鳴り響いたのを耳にしたそうじゃ」
「銃声…とは穏やかならぬ…」
「家人共が様子を見に行ったところ、何者かに追われ、命を落とした者がおったと」
「それが、秋の月が一番輝く日であったと?」
「然様。その傍には親族らしきものがおり、深く嘆き悲しんでいた。その姿を見た母上は、憐れに思い、亡骸を引き取り、この寺に埋葬したのじゃ」
「では寺に通ってくる者とは、そのときの?」
「母上は、そのときのお方であろうと、そう仰せであった。わしは、そのお方がどのようなお方なのか、会うてみたい。そう思うて毎年、ここへ来ておるのじゃ」
「ほう…」
佐助は興味深そうに聞いていたが、何かを考えるように腕を組み、一点をみつめて黙り込んだ。
「奇妙な話と、思うたか?」
「いえ、そうではなく…。若の話にあった銃声というのが気にかかり…。命を落とし、葬られた者は火縄銃で撃たれたと?」
「撃たれたのは追手の方であったような…」
「追手が撃たれた。…では撃ったのは恐らく、若が会うてみたいというておる、そのお方。であれば、相当な腕前のご仁かと」
「そう思うか?」
「はい。火縄銃は一度撃ったら、二発目を撃つために手間がかかるもの。追手というからには一人ではありますまい。複数人を撃ったのであれば、恐らくは銃は一丁ではなかったはず。そばにもう一人、誰かがいて、弾込めしていた。そして無駄撃ちすることなく、確実に一発で仕留めたのであれば…」
と、考えながら話し続けて、佐助はハタと我に返り、
「これはご無礼を。つまらぬことを言うてしまいました。若がそこまで会うてみたいと仰せなのであれば、その期待に沿うお方でありましょう」
「何故にそう思う?」
「蒲生家の家人が見て、誰か分からなかったのであれば、それは他国の者。その他国のお方が、毎年、わざわざここまで足を運んでいるのであれば余程のことかと。それほど情の深いお方なのでしょう」
佐助の言うことが尤もと思えた。鶴千代は嬉しそうに笑う。
「いつかお会いできればよいが」
「若が、今のような笑顔を向けられるお方であれば、なおのこと、喜ばしいことで」
「今のような?」
「はい。若。わしの前では無理に笑う必要はござりませぬ」
「それは如何なることか」
「若が幼き身で負う重荷が軽くないことは、わしのようなものでも承知しております。されど、若はこの日野の領主となるお方。若が健在であることがこの日野の泰平に繋がると、皆、そう思うておりまする。それゆえ、いかなることがあろうとも、家人や領民たちの前では葬儀に行くような顔をしてはなりませぬ」
少し前までであれば、佐助の話は理解できなかっただろう。しかし、今日、目の前で領民たちの顔を見、声を聞いた。鶴千代が病気になったことも知っていた。鶴千代の一挙手一投足により、歓声が上がり、皆が喜ぶ姿を見た。
「おぬしの言うこと、尤もである。以後、心に留めておくこととしよう」
「ハハッ。それでこそ鳳の雛と称されたお方」
鳳の雛と呼ばれることに素直に喜べないときもあった。しかし、領民たちが安心して暮らしていくことができるのであれば、このまま鳳の雛でいたい。今日、祭りを見て、そう思えた。
南近江では国主、六角義治が謀反の咎により重臣の筆頭、後藤賢豊をその子とともに居城である観音寺城で討ち果たした。この事件をきっかけに家臣団は二つに割れて争い、ついには六角義治が城を追われた。
南近江、日野谷一帯を支配下に置く与力の蒲生快幹と賢秀父子が仲介に入り、両者はようやく和睦。これにより蒲生父子が主家を凌ぐ力を得るに至った。
「あの騒動で、鶴千代様の傅役も乳母も後藤家に帰され、母君まで亡くされ、鶴千代様のお傍にはどなたもおられぬというに、大殿も殿も何も仰せにはならず、鶴千代様を置き捨てたままにされておる」
日野中野城で蒲生家に仕える者たちはみな、四年前まで嫡子であった鶴千代に、どう接すべきか、戸惑いを隠せない。
「滅多なことを申すでない。母君が後藤家の者ゆえ、大殿も殿も扱いに困っておられるのじゃ。余計な指出口をしては、我らまで咎められよう」
鶴千代の部屋の傍でも家人たちは一向に意に介さず、こうした噂話に花を咲かせるので、家人たちが、そして祖父や父が自分をどう思っているのか、自分が今、どんな立場に立っているのか、だいたいのことは理解できた。
朝晩、食事が届けられる以外は、誰も部屋には来ない。父の私邸は鶴千代のいる三の丸とは離れており、そこには年若い父の側室と、側室の産んだ子たちがいるが、鶴千代には近づくことも憚られた。
朝起きてから、夜寝るまで、誰と会話を交わすことも無い。母が残したいにしえの和歌の本を友とし、部屋から見える綿向山を父とした。
日野谷一帯を見下ろす霊峰・綿向山。鈴鹿山系のひとつであり、冬には山頂に雪を被り、春になり雪が解けると青々とした力強くも雄大な姿を見せる。綿向とは、綿を紡ぐ山から来ているという。谷に住む人々は古くから養蚕を生業としてきた。山の名はまさにあの山が谷に住む人々の生活に密着してきたことを物語る。
そんな一人きりの日々を過ごし、迎えた四度目の冬。
冬になると鈴鹿の山々から冷たい風が吹き降ろす。雪がしんしんと積もる中、隙間風が入り込んでも手炙りに火を灯すこともできない。毎年、冬には誰かが来て、火を灯し、冬を過ごすための着物を持ってきた。しかし、この年に限ってはそれさえも忘れられていた。
皆が羨む白綾の小袖。しかし数え十一になったばかり子供には、庭の池が凍りつく冬の日に絹の着物一枚では寒すぎる。ある夜、余りの寒さに震えが止まらなくなり、ゾクゾクした寒気に襲われた。部屋の隅にうずくまり、じっと耐えたが、やがて起きていることもできなくなった。
朝になり、昨夜の食事が手つかずで残されていることを不審に思った侍女が襖を開け、異変に気付いた。
「これは…鶴千代様が!」
鶴千代は高熱を出して寝込み、その話を聞いた父・賢秀がようやく鶴千代の傍に誰もいないことに気付いた。
連日、薬医と侍女が入れ代わり立ち代わり鶴千代の部屋を出入りするようになった。
「なにやら苦しそうじゃ…大事ないであろうか」
誰かの声が聞こえた。聞き覚えがない。とても心配そうな声だ。
「案じられる。案じられるのう…」
時をおいて、何度も聞こえてきた。
(もしや、わしを案じてくれておるのか。されど、なぜ、そんなに案じておるのか。あぁ、そうか。知らない内に苦しさで唸っていたから…。それにしても、誰であろう)
目を開けて確かめたかったが、目を開ける気力が湧かない。おぼろげな意識の中、人が出入りするたびに部屋に吹き込む風の冷たさを感じる。
そのとき、風に乗って柔らかい音色が聞こえてきた。
(これは…笛の音か)
誰かが苦しむ鶴千代を慰めようと、笛を奏でてくれている。
(心地よい音色が…)
鶴千代の心がだんだんと安らぎ、いつの間にか、深い眠りに誘われていた。
一週間後には熱も下がり、普段と変わらぬ生活を送ることができるまでに回復した。
見慣れない家人が、鶴千代の部屋にきて挨拶をする。
「若。お元気になられたよし。まことに目出度きことで」
どこかで聞いた声だ。父・賢秀よりも若い。年の頃、二十五・六といったところだろうか。
「おぬしは…我が家の者か?」
「はい。それがしはこの度、大殿より若の傅役を仰せつかった三雲佐助でござりまする」
祖父の命だという。
「わしは廃嫡されたのではないのか?」
母が後藤家の出なので、廃嫡されたと思っていた。しかし、三雲佐助は言下に否定した。
「とんでもない。大殿も殿も、若のことを大層、案じておいでで」
鶴千代は然様か…と気のない返事をした。祖父や父が心配しているというのであれば、何故、四年も自分を放置していたのだろうか。
「大殿も殿も、六角家の騒動を収めるために観音寺城に通いつめ、家臣を集めて協議しておるところでござります。これを収めねば他国のつけ入る隙となりましょう。そのような状況がために、若のお傍に仕えるものがおらぬことにお気付きにならなかったものかと」
本当にそうだろうか。いくら家中でもめ事が起きているからといって、四年も気づかないものなのだろうか。
鶴千代の心を察したかのように、三雲佐助は少し考え、言葉を選ぶように
「若。幼い身で母君を亡くされ、身の回りのお世話をする者もなく、長い間、おひとりだった若にとって、大殿や殿は遠い存在かもしれませぬ。されど、それがしは違いまする。それがしは若の傅役。若が行くところ、火の中、水の中、どこへなりともお傍にお仕えし、この命尽きるまで、若と共におるのがそれがしの役目。決して若を一人にすることはありませぬ。それゆえ、どうか、御案じめさるな」
「わしとずっと共におると?」
「はい」
容易には信じられなかった。鶴千代が疑心に満ちた目で見ると、佐助は苦笑いし、何も言わずにその日は帰っていった。
鶴千代の傅役になったという三雲佐助は次の日も、その次の日も姿を現した。ある時は鶴千代が好きな和歌の本を持参し、またある時は、祖父・快幹の部屋からこっそり持ち出した唐物の香炉を見せてくれたり、山で掴まえた兎や山鳩を持ってくることもあった。
日々、佐助と過ごす時間が増えた。母・お桐を亡くしてから灰色だった鶴千代の生活は日ごとに彩りを増していった。
そうして少しずつ打ち解けてきて迎えた春の日。佐助は鶴千代を城の外へと連れ出した。
「いずこへ参るのか」
「今日はご城下で祭りがござります。見聞に参りましょう」
「祭り?」
佐助が馬を引いて連れてくるが、馬には数えるほどしか乗ったことがない。鶴千代はどうしようかと困惑した。
「あぁ、なるほど。では、それがしが…」
と鶴千代を持ち上げて馬に乗せると、鶴千代の前にひらりと跨った。
「若。それがしにしっかりとおつかまりくだされ」
鶴千代は頷き、佐助の腰に手を回す。
(なんという身のこなし…)
こんなに見事に馬に飛び乗る者は初めて見た。数多くいる家人の一人と思っていたが、どうやらそうではないらしい。
三雲佐助は人だかりを見つけると馬の脚を止め、ひらりと馬から飛び降り、鶴千代の手を取って馬から下ろした。
「ここは…」
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佐助が指さす方向には大勢の人が群がり、その中心には豪華な装飾がほどこされた神輿が見えた。
「皆、楽しそうにしておる」
祭りばやしが響き渡る。神輿の担ぎ手はいずれも屈強な者ばかりで、掛け声の力の入用から、神輿の重さがうかがい知れた。
「若。祭りの場でそのように俯き、葬儀へ行くかのような顔をなされていては、領民共が不安に思いましょう」
佐助が笑ってそう言う。
「葬儀…」
そんなつもりはなかった。ごく普段通りなのだが。
「もう少し、こう、柔らかく…というか、にこやかにしていただけると、民も安堵するかと…」
「にこやかに…」
どうやったらいいのか分からなかったが、無理やり笑顔を作ると、
「…最初なので…ちとぎこちなくはありますが、まぁ、これも慣れてくれば、もう少し自然な面持ちとなりましょう」
そういうものなのだろうか。難しいなと思い、神社の方へ視線を向ける。日に輝く神輿は上へ下へと激しく揺れ動きながら、少しずつこちらへ向かってきている。
「鶴千代様じゃ!」
どこかからか声がした。
「おぉ、鶴様じゃ!」
にわかに周りが騒がしくなり、人が寄って来た。
「鶴様。御病気と伺いましたが、もうお加減はよろしいので?」
日野の領民だろうか。何故、病気になったことを知っているのだろう。鶴千代は戸惑い、なんと返してよいものかと返事に詰まる。
「皆、案ずるな。鶴千代様はこのようにピンピンしておる」
佐助が大声で言うと、鶴千代を取り巻く人々から歓声があがる。
「幼き頃より鳳の雛と呼ばれたお方じゃ」
「立派な若様じゃ」
「大殿様の幼き頃に瓜二つじゃ」
鶴千代の周りに人が集まり、口々に誉めそやすので、先ほど佐助に言われたことが何となく分かって来た。
不思議なことに、鶴千代が笑顔を返すと、それだけで人々は喜び、声をあげた。
「若。騒ぎが大きくなるまえに、そろそろ引き上げると致しましょう」
佐助が小声でささやき、鶴千代を馬に乗せる。城を出たときと同じように共に馬に乗ってくれるかと思ったが、意に反して鶴千代に手綱を握らせると、佐助は馬の轡を取り、静かに馬を引いて前を歩きだした。
(そんな…佐助…)
何か言おうと思ったが、領民たちの前で、一人で馬に乗れないことを知られてはならないのだと気づいた。鶴千代は平静を装い、時折人々に手を振り、終始笑顔を絶やさなかった。
領民たちは皆、鶴千代が見えなくなるまで手を振っていた。
神社から離れ、人の気配がなくなったところで、佐助がようやく馬を止めてくれた。
「若。よう辛抱なされましたな」
笑ってそう言われたので、鶴千代は苦笑いを返す。
「次はおぬしに乗せてもらわずとも、一人で乗れるようにならねばな」
「それは頼もしいお言葉で」
佐助は鶴千代に手を差し出し、馬から下ろした。
「今日は祭りで皆、神社に行っておりまする。ここら辺りは人気もござりませぬな」
言われてみると、祭りばやしが遠くから聞こえてくるが、ここは至って静かだ。
「あ…ここは…」
見慣れた寺の門を目にして、鶴千代はそちらの方へと足を向ける。
「若、いずこへ?」
「この寺に…」
何度となく母に連れられて通った信楽院。蒲生家の菩提寺であり、年一回、先祖の供養が行われている。
それとは別に、母・お桐は毎年、秋の月が一番輝くその日、人目を忍んでこの寺に来ていた。そして四年前の秋、お桐をこの寺に葬った。
(毎年来ていたのに…)
昨年の秋は来ることができなかった。
「必ず同じ日に?それはどなたの供養で?」
佐助が尋ねるが、言おうかどうしようかと鶴千代は一瞬、躊躇する。
「おぬしは奇妙な話と笑うかもしれぬ」
佐助はおや、と首を傾げた。
「若はなかなかに慎重なご気性。未だ、この佐助を信じてはくださらぬので?」
「いや…そうではないが…。母上の話では、もう一人、同じ日に、この寺に通ってくるお方がおる」
「もう一人、とは?」
「母上が昔、この寺に来ようとしたときに、どこかからか、銃声が鳴り響いたのを耳にしたそうじゃ」
「銃声…とは穏やかならぬ…」
「家人共が様子を見に行ったところ、何者かに追われ、命を落とした者がおったと」
「それが、秋の月が一番輝く日であったと?」
「然様。その傍には親族らしきものがおり、深く嘆き悲しんでいた。その姿を見た母上は、憐れに思い、亡骸を引き取り、この寺に埋葬したのじゃ」
「では寺に通ってくる者とは、そのときの?」
「母上は、そのときのお方であろうと、そう仰せであった。わしは、そのお方がどのようなお方なのか、会うてみたい。そう思うて毎年、ここへ来ておるのじゃ」
「ほう…」
佐助は興味深そうに聞いていたが、何かを考えるように腕を組み、一点をみつめて黙り込んだ。
「奇妙な話と、思うたか?」
「いえ、そうではなく…。若の話にあった銃声というのが気にかかり…。命を落とし、葬られた者は火縄銃で撃たれたと?」
「撃たれたのは追手の方であったような…」
「追手が撃たれた。…では撃ったのは恐らく、若が会うてみたいというておる、そのお方。であれば、相当な腕前のご仁かと」
「そう思うか?」
「はい。火縄銃は一度撃ったら、二発目を撃つために手間がかかるもの。追手というからには一人ではありますまい。複数人を撃ったのであれば、恐らくは銃は一丁ではなかったはず。そばにもう一人、誰かがいて、弾込めしていた。そして無駄撃ちすることなく、確実に一発で仕留めたのであれば…」
と、考えながら話し続けて、佐助はハタと我に返り、
「これはご無礼を。つまらぬことを言うてしまいました。若がそこまで会うてみたいと仰せなのであれば、その期待に沿うお方でありましょう」
「何故にそう思う?」
「蒲生家の家人が見て、誰か分からなかったのであれば、それは他国の者。その他国のお方が、毎年、わざわざここまで足を運んでいるのであれば余程のことかと。それほど情の深いお方なのでしょう」
佐助の言うことが尤もと思えた。鶴千代は嬉しそうに笑う。
「いつかお会いできればよいが」
「若が、今のような笑顔を向けられるお方であれば、なおのこと、喜ばしいことで」
「今のような?」
「はい。若。わしの前では無理に笑う必要はござりませぬ」
「それは如何なることか」
「若が幼き身で負う重荷が軽くないことは、わしのようなものでも承知しております。されど、若はこの日野の領主となるお方。若が健在であることがこの日野の泰平に繋がると、皆、そう思うておりまする。それゆえ、いかなることがあろうとも、家人や領民たちの前では葬儀に行くような顔をしてはなりませぬ」
少し前までであれば、佐助の話は理解できなかっただろう。しかし、今日、目の前で領民たちの顔を見、声を聞いた。鶴千代が病気になったことも知っていた。鶴千代の一挙手一投足により、歓声が上がり、皆が喜ぶ姿を見た。
「おぬしの言うこと、尤もである。以後、心に留めておくこととしよう」
「ハハッ。それでこそ鳳の雛と称されたお方」
鳳の雛と呼ばれることに素直に喜べないときもあった。しかし、領民たちが安心して暮らしていくことができるのであれば、このまま鳳の雛でいたい。今日、祭りを見て、そう思えた。
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「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
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