4 / 214
1.日野谷
1-3. 帰りたい場所
しおりを挟む
佐助が捕えられ、鶴千代の前から姿を消した十日後。祖父・快幹に呼びだされた。
(お爺様がわしを呼ぶとは…)
何年振りのことだろう。佐助のことかもしれない。侍女に手伝ってもらって直垂に着替え、幾分緊張した面持ちで大広間へと向かった。
「おお、鶴。よう参った」
こちらを見もせずにそう言う快幹の前で、鶴千代は教わった通り、丁寧に平伏する。
「お爺様がお呼びと聞き、まかり越しました」
「うむ。これから話すことはまだその方の父には話しておらぬ。そのつもりでよう聞け」
父・賢秀には内密らしい。これは余程のことだ。
「我が家を守るため、織田に降伏する」
佐助の言ったとおりだ。家を残すためにはほかに道がないのだろう。
「そなたを人質として信長の元へ送ることとする。織田家の使者が来たら、信長のいる観音寺城へ行け。いつでも出立できるように支度を整えよ」
「ハハッ」
観音寺城は六角義治の居城だ。それが早くも信長の本陣になっているという。
(されど…)
祖父は佐助のことは一言も言わない。佐助は何処へ行ったのか。
「お爺様。佐助の姿が見えませぬが…」
平静を装い訊ねると、快幹はなんのことかと怪訝な顔をした。が、すぐに思い出したらしく、
「お館が送り込んだ三雲の素破のことか。あの者は斬って捨てた」
「斬って捨てた?」
想像していなかった。最悪でも信長の元に送られる程度かと思っていた。信長の元へ連行されるのであれば、如何に佐助でも逃げ出すだろうと、そう思っていたのだが。
「そのようなことよりも、いつ織田の使者がこの城にくるとも分からぬ。早う支度を整えよ」
快幹はそう言うと、足早に大広間を後にした。
一人、広間に残され、それからどうやって母屋に戻ったのかも覚えていない。祖父の言葉が容易に信じられず、夜になるまで、部屋で佐助が現れるのを待った。しかし山の端に陽が暮れ落ち、夕餉の膳が運ばれても、佐助は戻ってこない。
夜になり、皆が寝静まったころ、鶴千代は襖を開け、鈴鹿の山々を照らす月を見上げた。
(佐助が死んだ…)
必ず戻ると言っていた佐助は、もう戻らない。
(何故…。何故、逃げなかったのじゃ、佐助。おぬしであれば、容易に逃げられた筈)
それは、鶴千代の元へ戻るためだと、そう言った佐助の言葉を思い出した。
(ずっと共にいると…そう約束したのに…たった一年半。たった一年半しか共に過ごしていないではないか)
生きていれば、また会えたかもしれない。再び、共に過ごす日々を送ることもできたかもしれない。しかし、死んでしまってはそれも叶わない。
鶴千代は一人、声を押し殺して一晩中泣き明かした。
翌朝、侍女の声で目を覚ました。
「若。今日にも織田の使者が城へ来るとの噂でござります」
どうやら泣きつかれて眠ってしまっていたらしい。
家人に促され、支度を整えた。持っていくものは母の残した和歌の本。象牙の筆に短冊。そして、
「これは…」
手に当たったのは佐助が作った将棋の駒。雨の日には二人で飽きることなく将棋や囲碁で遊んでいたのを思い出した。
(いつか…戻ってくるかもしれない)
素破は身代わりを立てて敵の目をくらませ、逃げることがあるという。
(必ず戻ると、そう約束した)
もしかしたら佐助は戻るかもしれない。織田の軍勢を避け、一族と共に甲賀の山中に潜み、安全になったときに再び姿を現すかもしれない。
鶴千代は将棋の駒を掴み、唐草の蒔絵が施された文箱の中へそっとしまった。
それからも家人が現れて詰所での立ち居振る舞い、信長との対面の間での作法、切腹の作法と一通りの確認が行われたのちに、家人の一人が前に進み出た。
「若。本日より若の傅役を務める町野新三郎でござります」
町野といえば蒲生家の譜代の臣だ。鶴千代と共に信長のもとへ行くために、急遽傅役を命じられたのだろう。
「然様か。よろしゅう頼む」
鶴千代はそう言って寂しそうに微笑むと、疲れたように部屋に入っていった。
その日、信長の使者は現れなかった。城内が緊迫する空気に包まれたまま数日がたち、そしてよく晴れた日。新しく傅役に命じられた町野新三郎が再び鶴千代の前に姿を現した。
「ついに織田の使者が!」
「来たか。使者は誰か、存じておるか?」
「一人は我が家の親類の神戸蔵人殿。そしてもう一人は、織田家の宿老、滝川左近殿」
「神戸の叔父御と、滝川左近…」
叔父の神戸蔵人は伊勢の名家・神戸家の当主で祖父・快幹の娘を室としている。そしてもう一人は、織田家の宿老・滝川一益。
「なんでも甲賀の出であるとか」
「甲賀?」
従兄の木猿や佐助と同じ甲賀の者と聞き、鶴千代は不思議な親近感を覚えた。
「それも三国一の鉄砲の名手で、それが元で織田家に仕えるようになったと」
「鉄砲の名手…」
佐助からその言葉を聞いた覚えがある。年一回、信楽院に現れる人物は甲賀の鉄砲の名手ではないだろうかと。
(まさかそんなことが…)
あるとは思えなかったが、佐助の話と共通点の多い滝川一益に興味が湧いた。
(そして尾張の織田上総介)
三河・駿河・遠江の三国を治める東海一の弓取り、今川義元を討ち、破竹の勢いで天下を狙う織田信長とは、一体、どんな人物なのか。
町野新三郎に促され、城門へ行くと、神戸蔵人と滝川一益が待っていた。
「若。こちらへ」
目の前に馬が引かれてきた。馬の背に手をかけるが、この後、どうしていいのか分からない。未だ、乗るときだけは手助けが必要で、いつも佐助が鶴千代を担ぎ上げてくれていた。しかも今日は直垂、長袴。
「…ちと…手を貸してくれぬか」
遠慮がちにそう言うと、町野新三郎は心得て、後ろから鶴千代を押し上げた。鶴千代は馬の背にしがみつく様にどうにか騎乗することができた。
(皆、わしを見ている…)
一人で馬にも乗れないのか、そう思われているのが伝わって来た。
(ここで動揺してはならぬ)
平静を装い、明るく振舞うことにした。
「新三郎、わしの筆は持ってきたか」
「はい。若が一番大事にされている象牙の筆。しかとここに」
「ではどこへいっても歌を詠めるのう」
余裕を見せ、笑顔を返した。皆の注目が鶴千代に集まる中、
「観音寺城でお館様がお待ちじゃ。急ぎ参ろう」
滝川一益が鶴千代から視線を逸らし、従者を促す。ちらちらと観察してみると思っていたよりも強面で、近づきにくい雰囲気がある。
「左近殿は甲賀のお方とか」
さりげなく聞いてみると、一益はちらりと鶴千代を見て、
「然様。この近江の者じゃ」
にこりともせずにそう言った。
いろいろと聞いてみたいとは思ったが、どうにも会話が続かない。
(この先の上洛のことをお考えなのであろうか)
信長は都に上り、天下に号令をかける。飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家の者であれば誰しも、この先のことを考えているだろう。
(綿向山が)
一益の肩越しに綿向山が見えた。あの麓には日野がある。こんなに離れた位置から見るのははじめてだ。
(佐助…)
つい先日まで、佐助と共に日野の各地を見て回っていた。こうして離れて見てみると、とても小さい。あの小さな日野谷の隅から隅まで、飽きることなく佐助と共に馬を走らせた楽しかった日々。見るもの聞くもの全てが新鮮で、そして美しかった。
(もう二度と…会うことはかなわぬのか)
日野が遠く離れる。まるで佐助との日々が遠くへ行ってしまうような、そんな寂しさに襲われ、鶴千代の胸が痛くなる。そのとき、
「左兵衛大夫殿も快幹殿も、鶴千代殿の身を案じておられるじゃろう」
それまで押し黙っていた一益が口を開いた。
(唐突に何を仰せになるのであろうか…)
何故、急にそんなことを言い出したのか、不思議だったが、ふと、可笑しくなって笑った。
「お爺様は鶴千代のことなど、何とも思うておりません」
つい思っていたことが口をついて出た。この時、一益がはじめて驚いた顔をした。
「お爺様は蒲生の家のことのみ。そして父上はそんなお爺様に頭があがりませぬ」
鶴千代が笑ってそう言うと、一益はまた、むっつりと押し黙った。
(何か、気分を害するようなことを言うたであろうか)
分からなかったが、元々寡黙なのかもしれない。見た目からも、醸し出す雰囲気からも、話好きには見えない。それならそれで気が楽だと思っていると、
「予め言うておくが、織田の御大将は鶴千代殿の評判を聞いて、噂通りかどうか、確かめたいと仰せじゃ」
評判とは、鳳の雛と呼ばれてることのようだ。信長の耳にまでそんな話が伝わっているとは。
「で、噂通りでなければ?」
興味を惹かれて訊ねてみた。信長が家臣に対して容赦がない話は聞いている。国人の子など、迷うことなく一刀両断にすることくらいは鶴千代にもわかる。それよりも、一益が何故、ここでそんな話を始めたのかが気になった。
しかし一益はまた、口を閉じてしまった。
(もしや…わしに、斬られる覚悟があるかどうか、そうお尋ねなのか)
そう気づいた鶴千代は、ここで自分の覚悟を見せることにした。
「死のうは一定、しのび草には何をしようぞ、一定かたり遺すよの」
信長が好きだという小唄を口にした。一益がそれと気づき、鶴千代を見る。
(いや、もしかしたら…)
信長の機嫌を損ねて、命奪われるようなことにならないようにと、警告しているのだろうか。そうであれば、鶴千代の願いを聞き届けてくれるかもしれない。
「左近殿、こうして道行を共にするのも何かのご縁。ひとつ、この鶴千代の願いをお聞き届けくだされぬか」
微笑んで、そう聞いた。
「願いとは?」
と聞き返してきたので、これはしめたと思い、
「これから行く観音寺城。そこでそれがしの命運が決まりましょう。万一、願い叶わず、それがしの命運尽きたときには、髪の毛一筋でもかまいませぬ。どうか日野の地へ、還してくだされ」
思っているままを素直に伝え、そしてもう一度、綿向山を見た。
(佐助が生きてどこかに逃れたのだとすれば、必ず日野に戻ってくる。そのときに、わしの思いがこの地に残っていれば、誰かがきっと、わしが、佐助に教わった通りに振る舞い、そして死んだのだと伝えてくれる。共に過ごした一年半は無駄ではなかったのだと、佐助、おぬしにそれを伝えたい)
佐助と共に過ごした日々を懐かしく思い返す。
「髪一筋になったとしても…帰りたい場所か」
一益の声が耳に響き、はたと我に返った。
「無論。何物にも代えがたき我が故国。それゆえ、織田の御大将のもとへ向こうております」
笑ってそう言い、一益を見た。一益は意に反してフッと視線を逸らした。
(叶わぬ願いであったろうか)
伝え方が拙かっただろうかと考えていると、
「承知した。そなたの願い…しかと聞き届けた」
はっきりとそう言うのが聞こえた。鶴千代は再び、一益に笑顔を向ける。
「ありがたや。これで心置きなく、観音寺城へ向かえまする」
これで思い残すことはなくなった。あとは信長に会うだけだ。
信長の本陣がある観音寺城。五年前、この城で鶴千代の叔父、後藤賢豊が謀反の嫌疑により問答無用で討ち取られた。その後、四年余りの騒動を経て、六角氏と家臣団の間で六角氏式目なる約定が交わされ、これにより蒲生家は主家を凌ぐ力を手にした。それが一年前。
そして今、南近江を掌中に治めようとしているのは六角でも蒲生でもなく、織田信長だ。
信長は対面の場に現れた鶴千代を興味深そうに観察し、二つ三つ質問をした。年は幾つか。何に興味があるか。普段は何をして過ごしているのか。そこから、信長が自分に興味を持っていることが伝わってきた。鶴千代に何の関心も示さない祖父とは大きな差がある。
「余の前でかように落ち着き払った物言いをする小童はそうおらぬ」
信長は感心したようにそう言った。
「岐阜へ参れ、鶴。岐阜の我が城には、その方が喜びそうな南蛮渡来のものがたんとある」
(南蛮渡来…)
鶴千代は未だ南蛮人すらも見たことがない。信長が鶴千代に興味を持ったように、鶴千代も信長に興味を持った。信長が見ている世界は祖父や父が見ている世界とは大きく異なる世界ではないだろうか。であれば、自分もその世界を見てみたい。そう思った。信長を畏れる気持ちもあったが、それよりも知らない世界を見たいという好奇心が勝った。
「そちも余と共に泰平の世を築くか」
信長に問われ、
「はい。是非とも御大将のお供をさせてくだされ」
そう返事をしていた。
(お爺様がわしを呼ぶとは…)
何年振りのことだろう。佐助のことかもしれない。侍女に手伝ってもらって直垂に着替え、幾分緊張した面持ちで大広間へと向かった。
「おお、鶴。よう参った」
こちらを見もせずにそう言う快幹の前で、鶴千代は教わった通り、丁寧に平伏する。
「お爺様がお呼びと聞き、まかり越しました」
「うむ。これから話すことはまだその方の父には話しておらぬ。そのつもりでよう聞け」
父・賢秀には内密らしい。これは余程のことだ。
「我が家を守るため、織田に降伏する」
佐助の言ったとおりだ。家を残すためにはほかに道がないのだろう。
「そなたを人質として信長の元へ送ることとする。織田家の使者が来たら、信長のいる観音寺城へ行け。いつでも出立できるように支度を整えよ」
「ハハッ」
観音寺城は六角義治の居城だ。それが早くも信長の本陣になっているという。
(されど…)
祖父は佐助のことは一言も言わない。佐助は何処へ行ったのか。
「お爺様。佐助の姿が見えませぬが…」
平静を装い訊ねると、快幹はなんのことかと怪訝な顔をした。が、すぐに思い出したらしく、
「お館が送り込んだ三雲の素破のことか。あの者は斬って捨てた」
「斬って捨てた?」
想像していなかった。最悪でも信長の元に送られる程度かと思っていた。信長の元へ連行されるのであれば、如何に佐助でも逃げ出すだろうと、そう思っていたのだが。
「そのようなことよりも、いつ織田の使者がこの城にくるとも分からぬ。早う支度を整えよ」
快幹はそう言うと、足早に大広間を後にした。
一人、広間に残され、それからどうやって母屋に戻ったのかも覚えていない。祖父の言葉が容易に信じられず、夜になるまで、部屋で佐助が現れるのを待った。しかし山の端に陽が暮れ落ち、夕餉の膳が運ばれても、佐助は戻ってこない。
夜になり、皆が寝静まったころ、鶴千代は襖を開け、鈴鹿の山々を照らす月を見上げた。
(佐助が死んだ…)
必ず戻ると言っていた佐助は、もう戻らない。
(何故…。何故、逃げなかったのじゃ、佐助。おぬしであれば、容易に逃げられた筈)
それは、鶴千代の元へ戻るためだと、そう言った佐助の言葉を思い出した。
(ずっと共にいると…そう約束したのに…たった一年半。たった一年半しか共に過ごしていないではないか)
生きていれば、また会えたかもしれない。再び、共に過ごす日々を送ることもできたかもしれない。しかし、死んでしまってはそれも叶わない。
鶴千代は一人、声を押し殺して一晩中泣き明かした。
翌朝、侍女の声で目を覚ました。
「若。今日にも織田の使者が城へ来るとの噂でござります」
どうやら泣きつかれて眠ってしまっていたらしい。
家人に促され、支度を整えた。持っていくものは母の残した和歌の本。象牙の筆に短冊。そして、
「これは…」
手に当たったのは佐助が作った将棋の駒。雨の日には二人で飽きることなく将棋や囲碁で遊んでいたのを思い出した。
(いつか…戻ってくるかもしれない)
素破は身代わりを立てて敵の目をくらませ、逃げることがあるという。
(必ず戻ると、そう約束した)
もしかしたら佐助は戻るかもしれない。織田の軍勢を避け、一族と共に甲賀の山中に潜み、安全になったときに再び姿を現すかもしれない。
鶴千代は将棋の駒を掴み、唐草の蒔絵が施された文箱の中へそっとしまった。
それからも家人が現れて詰所での立ち居振る舞い、信長との対面の間での作法、切腹の作法と一通りの確認が行われたのちに、家人の一人が前に進み出た。
「若。本日より若の傅役を務める町野新三郎でござります」
町野といえば蒲生家の譜代の臣だ。鶴千代と共に信長のもとへ行くために、急遽傅役を命じられたのだろう。
「然様か。よろしゅう頼む」
鶴千代はそう言って寂しそうに微笑むと、疲れたように部屋に入っていった。
その日、信長の使者は現れなかった。城内が緊迫する空気に包まれたまま数日がたち、そしてよく晴れた日。新しく傅役に命じられた町野新三郎が再び鶴千代の前に姿を現した。
「ついに織田の使者が!」
「来たか。使者は誰か、存じておるか?」
「一人は我が家の親類の神戸蔵人殿。そしてもう一人は、織田家の宿老、滝川左近殿」
「神戸の叔父御と、滝川左近…」
叔父の神戸蔵人は伊勢の名家・神戸家の当主で祖父・快幹の娘を室としている。そしてもう一人は、織田家の宿老・滝川一益。
「なんでも甲賀の出であるとか」
「甲賀?」
従兄の木猿や佐助と同じ甲賀の者と聞き、鶴千代は不思議な親近感を覚えた。
「それも三国一の鉄砲の名手で、それが元で織田家に仕えるようになったと」
「鉄砲の名手…」
佐助からその言葉を聞いた覚えがある。年一回、信楽院に現れる人物は甲賀の鉄砲の名手ではないだろうかと。
(まさかそんなことが…)
あるとは思えなかったが、佐助の話と共通点の多い滝川一益に興味が湧いた。
(そして尾張の織田上総介)
三河・駿河・遠江の三国を治める東海一の弓取り、今川義元を討ち、破竹の勢いで天下を狙う織田信長とは、一体、どんな人物なのか。
町野新三郎に促され、城門へ行くと、神戸蔵人と滝川一益が待っていた。
「若。こちらへ」
目の前に馬が引かれてきた。馬の背に手をかけるが、この後、どうしていいのか分からない。未だ、乗るときだけは手助けが必要で、いつも佐助が鶴千代を担ぎ上げてくれていた。しかも今日は直垂、長袴。
「…ちと…手を貸してくれぬか」
遠慮がちにそう言うと、町野新三郎は心得て、後ろから鶴千代を押し上げた。鶴千代は馬の背にしがみつく様にどうにか騎乗することができた。
(皆、わしを見ている…)
一人で馬にも乗れないのか、そう思われているのが伝わって来た。
(ここで動揺してはならぬ)
平静を装い、明るく振舞うことにした。
「新三郎、わしの筆は持ってきたか」
「はい。若が一番大事にされている象牙の筆。しかとここに」
「ではどこへいっても歌を詠めるのう」
余裕を見せ、笑顔を返した。皆の注目が鶴千代に集まる中、
「観音寺城でお館様がお待ちじゃ。急ぎ参ろう」
滝川一益が鶴千代から視線を逸らし、従者を促す。ちらちらと観察してみると思っていたよりも強面で、近づきにくい雰囲気がある。
「左近殿は甲賀のお方とか」
さりげなく聞いてみると、一益はちらりと鶴千代を見て、
「然様。この近江の者じゃ」
にこりともせずにそう言った。
いろいろと聞いてみたいとは思ったが、どうにも会話が続かない。
(この先の上洛のことをお考えなのであろうか)
信長は都に上り、天下に号令をかける。飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家の者であれば誰しも、この先のことを考えているだろう。
(綿向山が)
一益の肩越しに綿向山が見えた。あの麓には日野がある。こんなに離れた位置から見るのははじめてだ。
(佐助…)
つい先日まで、佐助と共に日野の各地を見て回っていた。こうして離れて見てみると、とても小さい。あの小さな日野谷の隅から隅まで、飽きることなく佐助と共に馬を走らせた楽しかった日々。見るもの聞くもの全てが新鮮で、そして美しかった。
(もう二度と…会うことはかなわぬのか)
日野が遠く離れる。まるで佐助との日々が遠くへ行ってしまうような、そんな寂しさに襲われ、鶴千代の胸が痛くなる。そのとき、
「左兵衛大夫殿も快幹殿も、鶴千代殿の身を案じておられるじゃろう」
それまで押し黙っていた一益が口を開いた。
(唐突に何を仰せになるのであろうか…)
何故、急にそんなことを言い出したのか、不思議だったが、ふと、可笑しくなって笑った。
「お爺様は鶴千代のことなど、何とも思うておりません」
つい思っていたことが口をついて出た。この時、一益がはじめて驚いた顔をした。
「お爺様は蒲生の家のことのみ。そして父上はそんなお爺様に頭があがりませぬ」
鶴千代が笑ってそう言うと、一益はまた、むっつりと押し黙った。
(何か、気分を害するようなことを言うたであろうか)
分からなかったが、元々寡黙なのかもしれない。見た目からも、醸し出す雰囲気からも、話好きには見えない。それならそれで気が楽だと思っていると、
「予め言うておくが、織田の御大将は鶴千代殿の評判を聞いて、噂通りかどうか、確かめたいと仰せじゃ」
評判とは、鳳の雛と呼ばれてることのようだ。信長の耳にまでそんな話が伝わっているとは。
「で、噂通りでなければ?」
興味を惹かれて訊ねてみた。信長が家臣に対して容赦がない話は聞いている。国人の子など、迷うことなく一刀両断にすることくらいは鶴千代にもわかる。それよりも、一益が何故、ここでそんな話を始めたのかが気になった。
しかし一益はまた、口を閉じてしまった。
(もしや…わしに、斬られる覚悟があるかどうか、そうお尋ねなのか)
そう気づいた鶴千代は、ここで自分の覚悟を見せることにした。
「死のうは一定、しのび草には何をしようぞ、一定かたり遺すよの」
信長が好きだという小唄を口にした。一益がそれと気づき、鶴千代を見る。
(いや、もしかしたら…)
信長の機嫌を損ねて、命奪われるようなことにならないようにと、警告しているのだろうか。そうであれば、鶴千代の願いを聞き届けてくれるかもしれない。
「左近殿、こうして道行を共にするのも何かのご縁。ひとつ、この鶴千代の願いをお聞き届けくだされぬか」
微笑んで、そう聞いた。
「願いとは?」
と聞き返してきたので、これはしめたと思い、
「これから行く観音寺城。そこでそれがしの命運が決まりましょう。万一、願い叶わず、それがしの命運尽きたときには、髪の毛一筋でもかまいませぬ。どうか日野の地へ、還してくだされ」
思っているままを素直に伝え、そしてもう一度、綿向山を見た。
(佐助が生きてどこかに逃れたのだとすれば、必ず日野に戻ってくる。そのときに、わしの思いがこの地に残っていれば、誰かがきっと、わしが、佐助に教わった通りに振る舞い、そして死んだのだと伝えてくれる。共に過ごした一年半は無駄ではなかったのだと、佐助、おぬしにそれを伝えたい)
佐助と共に過ごした日々を懐かしく思い返す。
「髪一筋になったとしても…帰りたい場所か」
一益の声が耳に響き、はたと我に返った。
「無論。何物にも代えがたき我が故国。それゆえ、織田の御大将のもとへ向こうております」
笑ってそう言い、一益を見た。一益は意に反してフッと視線を逸らした。
(叶わぬ願いであったろうか)
伝え方が拙かっただろうかと考えていると、
「承知した。そなたの願い…しかと聞き届けた」
はっきりとそう言うのが聞こえた。鶴千代は再び、一益に笑顔を向ける。
「ありがたや。これで心置きなく、観音寺城へ向かえまする」
これで思い残すことはなくなった。あとは信長に会うだけだ。
信長の本陣がある観音寺城。五年前、この城で鶴千代の叔父、後藤賢豊が謀反の嫌疑により問答無用で討ち取られた。その後、四年余りの騒動を経て、六角氏と家臣団の間で六角氏式目なる約定が交わされ、これにより蒲生家は主家を凌ぐ力を手にした。それが一年前。
そして今、南近江を掌中に治めようとしているのは六角でも蒲生でもなく、織田信長だ。
信長は対面の場に現れた鶴千代を興味深そうに観察し、二つ三つ質問をした。年は幾つか。何に興味があるか。普段は何をして過ごしているのか。そこから、信長が自分に興味を持っていることが伝わってきた。鶴千代に何の関心も示さない祖父とは大きな差がある。
「余の前でかように落ち着き払った物言いをする小童はそうおらぬ」
信長は感心したようにそう言った。
「岐阜へ参れ、鶴。岐阜の我が城には、その方が喜びそうな南蛮渡来のものがたんとある」
(南蛮渡来…)
鶴千代は未だ南蛮人すらも見たことがない。信長が鶴千代に興味を持ったように、鶴千代も信長に興味を持った。信長が見ている世界は祖父や父が見ている世界とは大きく異なる世界ではないだろうか。であれば、自分もその世界を見てみたい。そう思った。信長を畏れる気持ちもあったが、それよりも知らない世界を見たいという好奇心が勝った。
「そちも余と共に泰平の世を築くか」
信長に問われ、
「はい。是非とも御大将のお供をさせてくだされ」
そう返事をしていた。
4
あなたにおすすめの小説
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
九州のイチモツ 立花宗茂
三井 寿
歴史・時代
豊臣秀吉が愛し、徳川家康が怖れた猛将“立花宗茂”。
義父“立花道雪”、父“高橋紹運”の凄まじい合戦と最期を目の当たりにし、男としての仁義を貫いた”立花宗茂“と“誾千代姫”との哀しい別れの物語です。
下剋上の戦国時代、九州では“大友・龍造寺・島津”三つ巴の戦いが続いている。
大友家を支えるのが、足が不自由にもかかわらず、輿に乗って戦い、37戦常勝無敗を誇った“九州一の勇将”立花道雪と高橋紹運である。立花道雪は1人娘の誾千代姫に家督を譲るが、勢力争いで凋落する大友宗麟を支える為に高橋紹運の跡継ぎ統虎(立花宗茂)を婿に迎えた。
女城主として育てられた誾千代姫と統虎は激しく反目しあうが、父立花道雪の死で2人は強く結ばれた。
だが、立花道雪の死を好機と捉えた島津家は、九州制覇を目指して出陣する。大友宗麟は豊臣秀吉に出陣を願ったが、島津軍は5万の大軍で筑前へ向かった。
その島津軍5万に挑んだのが、高橋紹運率いる岩屋城736名である。岩屋城に籠る高橋軍は14日間も島津軍を翻弄し、最期は全員が壮絶な討ち死にを遂げた。命を賭けた時間稼ぎにより、秀吉軍は筑前に到着し、立花宗茂と立花城を救った。
島津軍は撤退したが、立花宗茂は5万の島津軍を追撃し、筑前国領主としての意地を果たした。豊臣秀吉は立花宗茂の武勇を讃え、“九州之一物”と呼び、多くの大名の前で激賞した。その後、豊臣秀吉は九州征伐・天下統一へと突き進んでいく。
その後の朝鮮征伐、関ヶ原の合戦で“立花宗茂”は己の仁義と意地の為に戦うこととなる。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる