獅子の末裔

卯花月影

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8.謀略の谷

8-3. 大海の一滴

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 翌日、夜が白々と明けだしたころ、日永を出て坂井城攻略へと戻った。
 すでに勝家と一益が軍勢を動かし、城を取り囲んでいるところだった。
「上様は船を待つため、桑名近くにある東別所城に入られた」
 供に参陣していた父・賢秀は、忠三郎がどこへ行っていたのかを問うこともなく、淡々と戦況を告げる。

 最近、薬の効果なのか賢秀の症状が落ち着いているらしい。賢秀に薬を作って渡している祖父の腹の内はわからないが効果はでているようだ。といっても賢秀の戦さ嫌いは変わらず、今回の出陣も支度に手間取り、家臣たちはやきもきしていたらしい。

「歴戦の柴田殿、滝川殿にお任せしておれば、我らの出る幕もなかろうて」
 当主の賢秀がこんな調子なので、家臣たちももっぱら指示待ちで、自ら前へ出ようとする者はいない。
(こんなことでよいのだろうか)
 これでは織田家の武将たちに侮られるばかりではないか。織田家の武将が大勢集まっている今こそ、江州武士の強さを見せつけるときではないだろうか。

 ところが柴田勝家の元へ行っても似たような返事が返ってきた。
「渡河するまでは焦る必要はなかろう」
 城攻めは伊勢に精通し、戦さ慣れした一益主導で行われており、大軍を見た城将は次々に白旗を掲げて城を明け渡す。坂井城が難なく落ちると、続く北廻城も容易く降した。
 しかしいつまで待っても大湊からの船は来なかった。一益はどうするつもりなのか。再度、陣営に赴くと一益は信長本陣に行って留守だった。

 そこへ義太夫がふらりと姿を見せた。
「大湊には志摩の海賊が出入りしておる。殿は志摩海賊衆の力を借りて新たに船を作っておるのじゃ」
「義兄上は志摩の海賊の力を借りようとしていたのか」
 最初から大湊の会合衆を当てにしていなかったようだ。
「会合衆にとって船がなければ商いははじまらぬ。その大事な船を軍船にしたくないのであろう」

 昨夜のことを思い起こした。この土地に住む者にも生活があり、それは戦さとは関わりがない。どこで誰が戦さをしようとも、彼らには彼らの生活があるのだ。
「さっさと和睦にならぬものかのう」
「悪いのは一向衆。織田彦七郎殿の仇討ちじゃ。これは立派な大儀の元にある戦さではないか」
 忠三郎がそういうと、義太夫がため息交じりに空を見上げる。
「今更、戦さに大儀なんぞ掲げても詮無き事。どちらが良いの、どちらが悪いの、かようなことを言う者は、まことに見なければならぬものも見えてはおらぬ」
「見なければならぬもの…とは…」
「おぬしは日永で何を見た?」
 昨夜、供に酒を飲んだ者たちのことだろうか。

 一向宗と一括りにしたとき、見なければならないものは霞み、大切なものが見えなくなっていく。
 一揆との戦いは、領土を攻め取る戦いではない。一揆を相手にするとき、戦果は見えにくくなり、必然的に取った首の数で戦果は測られる。そこで暮らす者にとっては破壊や損失、恐怖であっても、人々の暮らしは見えなくなり、どれだけの犠牲を払っても、どれだけ国が荒廃しようとも、戦さを続け、敵を殲滅することが目標となり、犠牲なる者の苦しみも悲劇も単なる数字と化していく。

 掲げられた大儀のために、多くのものが家族や家を失い、故国を追われ、命を奪われる。彼らには選択肢はなく、ただ押し寄せる略奪と混乱に巻き込まれ、日常が一瞬で奪われる。
 どれほどの子どもの笑顔が奪われ、老人たちが穏やかな日々を失うのか、そのことに心を止めるものが何人いるだろうか。

 大湊の船主たちが船を出し、足弱を運んでいると知っていても、一益が見て見ぬふりをしているのは、そこにいる人が見えているからではないか。船で運ばれる女子供がどれほどの脅威になるだろうか。伊勢を統治する一益が、何の問題もないと感じているほどであれば、それはさして問題にはならない。大問題だと感じるのは、さしたる脅威にもならないものを、敵だと一括りにして考えているからではないだろうか。

「わしを日永に連れて行ったのは義兄上の命か?」
「然様。まぁ、此度は船は難しい。このまま退陣となろう。おぬしもよくよく考えてみよ。三雲もそれを望んでおるじゃろ」
 佐助が望んでいたこと。それは、
(怒りはもってまた喜ぶべく、恨みはもってまた悦ぶべきも、亡国はもってまた存すべからず。死者はもってまた生くべからず)
   佐助が唯一教えてくれた孫子の最後のことば。
 供に日野谷を巡り、様々なことを教えてくれた佐助。しかし武芸だけは教えようとはしなかった。それは忠三郎が武芸が苦手だと言ったからだ。
(それだけだろうか)
 今、改めて思い返すと、それだけではないように思える。佐助は知っていたのではないだろうか。戦さの犠牲となるのは常に名もなき領民であることを。そして戦さがすべてを解決するのではないことを。

 十月末、義太夫の言った通り、信長は渡河することを諦め、一益を伊勢に残して全軍退陣することになった。
 退却準備を進める中、一益から知らせが届いた。
「大湊まで来るようにとのことで」
 日永の次は大湊か、と忠三郎は町野左近に声をかけて大湊へ向かった。
 ここで忠三郎は生まれて初めて海を見た。

 眼前に広がる大海原は、忠三郎の知る山や川とは全く異なる、果てしなく広がる未知の世界。
 風が吹き渡り、波が静かに寄せては返す音が、まるで大地そのものが息づいているように聞こえた。忠三郎は、自然の壮大さに心を奪われた。
「かように晴れておるというに、向こうには何も見えぬ」
 青空に果てしなく広がる海を見ていると、自分がどこか小さく感じられる。忠三郎の心は広がる海の静けさの中で、戦さの喧騒を離れていく。
 そこへ義太夫が笑って近づいてきた。
「こちらからは見えるであろう。青い影が」
 目を凝らすと、はるか遠くに低く、なだらかな山が見えた。
「あれは…」
「あれが鈴鹿の山々。あの向こうが日野じゃ」
 あちらが伊吹山、その隣が多芸山、と義太夫が次々に指し示すが、どれがどれか判別できないくらいに小さい。
「三河湾の向こうに富士の高嶺が見えておる」
「富士…」
 はるか昔から多くの詩人に詠われてきた雄大な美しさを誇る富士。駿河の更に先にあるというのに、伊勢からも見えるとは。
(これが海か)
 初冬というのに風が暖かい。山から吹き下ろす風とは大きく異なる。そして湊には多くの船が見える。桑名をはじめ、志摩、尾張、三河の船も出入りしている大きな湊で、会合衆が支配し、未だもって自治を保っている。

(戦乱が収まれば…)
 伊勢は豊かな地になるだろう。近江よりも暖かく、人の往来は多く、海の幸にも恵まれている。一益が戦禍を抑え、領国統治に力を注ぎたいと思っている理由が分かってきた。
「鶴」
 背後から声がして、一益が家臣たちとともに姿を現す。
「こちらへ参れ」
 浜辺に向かい、小舟に乗り込んだ。小舟は沖へ沖へと漕ぎ出し、巨大な船へと近づいていく。
「なんと…。これは琵琶湖にある大船よりも大きいのでは…」
「然様。これなるは阿武あたけ船じゃ」
「阿武船…」
 さながら海に浮かぶ城のような船だ。小舟が近づくと、巨大な軍船から梯子が下ろされ、一人ずつ乗り込んだ。

「左近殿。お越しくだされたか」
 大船の主は志摩の海賊大将・九鬼嘉隆だ。
「上様から阿武あたけ船を造るようにと命じられておる。この船を更に改造し、いくつか取り付けたいものがある。ちと見分させてもらいたい」
「おぉ、上様が水軍をお求めとは喜ばしいことじゃ。いくらでも見てくだされ」
 一益が家臣たちに命じると、滝川家の者たちがあちこちへ散っていく。
(船を改造?)
 この船だけでも十分、戦さに堪え得ると思えた。一益は何を考えているのだろうか。
「もう少し大きな銃眼がいる」
「もう少し大きな、とは?」
「火縄銃ではなく、大鉄砲を取り付ける。それと、大筒」
「大筒?」
 以前、一益の話にあった大筒。手に持つものではないと言っていた。

(あれは船に取り付けるものか…)
 あの話の時はまだ、完成していなかった。しかしこの口ぶりでは、すでに完成しているようだ。
(あの時、義兄上は、大筒を戦さで使うことを躊躇されているようであったが)
 これまでの戦さとは質の違う戦さになるとまで言わしめた大筒。これを船に取り付けるということは、次の長島攻めを想定してのことだろう。
(義兄上は長島願証寺との戦さを避けたいと、そういいつつ、かように用意周到に戦さ備えをしておる)
 もうひとつ。船につけるという大鉄砲。これも話に聞くばかりで実戦で使われているのは見たことがない。これを船に取り付け、やはり攻城戦で使うのだろうか。
 一益ほど火器に精通しているものはいない。その一益が日夜、研究を重ね、余すところなく持てる知恵と知識を用いて最新の武器を作り上げ、信長は惜しみなく財を提供している。
 この船から大筒、大鉄砲をうちかければ、城や砦はどうなるのだろう。

(かようなことを考え、作り出す義兄上は恐ろしいお方じゃ)
 一益が次々と生み出す恐ろしい武器。一益の手にかかれば、ただの鉄片が瞬く間に人の命を奪う冷酷な道具へと姿を変える。火薬や火器への精通ぶりは、誰もが敬服するほどのものだが、同時にそこから生み出されるものの持つ破壊力に対して、ある種の恐れを感じさせる。
 船の艤装を確認するその顔は、新たな武器を作り上げるたびに冷たさを増しているように見える。その姿を見ていると、また一益のことが分からなくなる。
 このままでは一益は、その手で人の命を奪うだけでなく、自らをも見失ってしまうのではないか。一益の手によって生み出された武器が、いつしか自分たちをも蝕む存在となるのではないかという漠然とした不安が、忠三郎の心を覆う。そして、その恐れは、もはや武器や敵に対するものではなく、一益そのもの、そして一益に対して抱いていた尊敬と信頼の揺らぎへと変わっていくのを感じた。

 その後、丸三日、船の上にいたが、ついに堪えきれずに船を降りた。船から降りてもまだ、ゆらゆらと揺られているようで、一向に吐き気が収まらず、その日は大湊に宿泊。翌日、やっとの思いで桑名まで戻った。
「此度は少し波があった。そう気にやむことはない」
 義太夫はそう言ってくれたが、皆が平然としている中、一人、顔面蒼白になって一日中吐いていたとは何とも不甲斐なく、口惜しい。
(海があそこまで揺れるものとは…)
 琵琶湖とは明らかに違う。伊勢湾内だったというのに、あの揺れはひどかった。
 一益は当初、来るべき次の戦さで忠三郎を船に乗せることを考えていたようだったが、あまりの船酔いのひどさに諦めたようだ。
「義兄上は呆れておるのではないか?」
 一益を失望させてしまった。忠三郎に期待をかけていたからこそ、船に乗せようと思っていたのではないだろうか。それがこの為体。さぞかし不甲斐ないと思っているだろう。
 どんよりとした気分でポツリとつぶやくと、義太夫は気に留めることもなく笑う。
「然様なことはあるまい」
 と他人事のようだ。
(それにしても…)
 何故、一益は忠三郎を船に乗せようとしたのだろうか。
「それは親心というものよ」
 義太夫はそう言って笑う。親心とは?何を言っているのか、わからない。やはり一益は忠三郎を一人前とは認めていないのだろうか。
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