獅子の末裔

卯花月影

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15.摂津の夕闇

15-1. 姫の想い

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 都にある滝川家の館は、静けさの中に戦場の気配を隠し持つ場所だ。主たる一益は、伊勢と戦場を行き来し、館に姿を見せることは稀だ。留守を守るのは、生駒弥五右衛門をはじめとする数名の家臣たち。館は、まるで主の不在を耐え忍ぶように、重厚な静寂に包まれている。

 しかし時折、義太夫が忠三郎を伴って館に現れると、その静謐な空気は一瞬にして乱される。この近くには傾城屋があり、一益が不在なのをいいことに、義太夫が遊女を呼び寄せては、忠三郎と酒を酌み交わし、騒がしい宴を繰り広げる。その騒ぎは、館中に響き渡り、普段の重々しい静謐さを一瞬にして消し去ってしまう。

 安土での日々に退屈していた章姫は、傅役である谷崎忠右衛門を伴い、上洛して滝川家の館を訪れた。館に漂う静寂と、訪れる者の少なさが醸し出す独特な空気が、章姫の心に微かな興味を呼び起こしていた。しかし、その興味はやがて不穏な噂へと転じることとなる。

 館の者から聞いた話によると、義太夫がしばしば遊女を伴い、忠三郎と共に乱痴気騒ぎを繰り広げているというのだ。みやびで礼儀正しい忠三郎の印象とはまるで正反対の、享楽に溺れる姿だけが語られていた。

「全く呆れた方々。殿のご不在をよいことに、二人してやりたい放題でござります」
 そう語ったのは、留守居の生駒弥五右衛門だった。
 章姫の胸に冷ややかな感情が流れ込む。これまで抱いていた忠三郎への好感や親しみは、あっという間に凍りついてしまった。
 姉の吹雪とは、彼女が蒲生家に嫁いで以来、めったに顔を合わせることがなくなった。最後に会ったのは安土での相撲の際だったが、そのときも、義太夫や忠三郎の噂など微塵も口にしていなかった。

(あの雪様のことゆえ…何も存じてはおられぬであろう)
 吹雪は昔からおっとりとしていて、周囲で何が起ころうとも、深く気に留めることはほとんどなかった。常に穏やかな微笑みを絶やさず、家のことや周りの出来事には無関心にも見えるその様子が、今となっては無性に心配に感じられる。

 義太夫や忠三郎の乱れた振る舞いに吹雪が気づくはずもなく、吹雪はただ穏やかな日々を過ごしているに違いない。そんな姉の姿を思い浮かべると、章姫の胸には不安と苛立ちが入り混じった感情が湧き上がった。

(それに…)
 何度も送られてきた忠三郎からの手紙には、和歌が添えられていた。その和歌をじっくりと読み返すたび、忠三郎が自分を義妹として単に気遣ってくれているのとは、どうも違う気がしてならない。

 表向きは親しみや礼儀を尽くしているように見えるが、和歌に隠された言葉の端々には、まるで密かな思慕や仄かな憧れが滲み出ているようだった。言葉の裏に潜む意図を感じ取りながら、章姫は胸の奥で警戒心を募らせた。

(忠三郎殿は、わらわに何を伝えようとしておるのであろうか…)
 忠三郎の文は頻繁に送られてきており、決して軽々しく扱えないものだった。
 和歌に込められた微妙な感情が、章姫の心をざわつかせる。義妹としての立場を越えた何かを感じさせられ、さらに不安をかき立てた。

 それだけに、この都で耳にした忠三郎の悪しき噂に、章姫は落胆した。忠三郎からの文や和歌に感じていた微かな違和感が、現実の忠三郎の乱れた生活と結びついてしまい、信頼が揺らいでしまった。

(あの和歌も、ただの戯れだったのであろうか…)

 章姫は心の中でそう呟いた。忠三郎が自分を大切に思ってくれていると感じていた一方で、都で遊女とともに乱痴気騒ぎを繰り返しているという噂が、その期待を一瞬で打ち砕いた。どれだけ手紙や和歌が美しい言葉で彩られていようとも、それらが誠実さに欠けていたのなら、意味を成さない。

 章姫は忠三郎の面影を思い浮かべながら、心に深い失望を抱いた。それと同時に、忠三郎の本心に対する不信感が募り、忠三郎との関わり方について慎重に考えるべきだと感じ始めた。
 
 忠三郎が信長の命により、都に姿を見せたのは、まさに章姫が忠三郎の乱行に失望していたそのときであった。忠三郎は、そんな噂が章姫の耳に届いているとは露知らず、いつもの涼やかな笑顔を浮かべ、まっすぐに章姫の前に現れた。
「章姫殿、此度は上様の命によりまかり越した次第でござります」

 穏やかな声とともに、忠三郎は変わらぬ礼節を持って挨拶した。乱れた生活の影など微塵も感じさせない。噂で聞いた者とは別人のように見えた。しかし、その整った笑顔に隠された真意を見極めるため、章姫の瞳には冷ややかな光が宿っていた。
「父上の命?」
 表面上は礼儀正しく応じながらも、章姫の心の内は穏やかではなかった。よろしからぬ噂を耳にし、かつて忠三郎に抱いた微かな好意もまた、すっかり冷え切ってしまっていた。忠三郎が送ってきた手紙や和歌の数々が、まるで虚構のように思えてならない。

「忠三郎殿は義太夫と供に、都では、随分と楽しんでおられるとか…?」
 章姫の口から出た言葉には、冷たさが混じっていた。忠三郎はおや、と苦笑いして、
「つまらぬ噂話。お気に止めるほどのことでもありませぬ」
 平然とそう言った。その言葉は軽やかで、何事もなかったかのように振る舞うその姿勢に、章姫は内心驚きを隠せなかった。さながら風のように、どんな批判や疑念も受け流してしまう。忠三郎は一貫して涼やかな微笑を崩さない。
(たいした御仁じゃ)

 忠三郎は誰に何を言われても、その笑顔を決して揺るがすことがない。それがただの気さくさではなく、意図的なものだと感じる瞬間さえある。その笑顔の裏に何が隠されているのか、誰も本当のところを知り得ない。鉄の笑顔、と誰かが陰で揶揄していたのを思い出す。

 章姫は、忠三郎のその鉄壁の仮面が、自分自身を守る手段なのか、それとも単なる欺瞞なのかを考えずにはいられない。
「…で、父上の命とは?」
「章姫殿の縁組のことでござります」
 忠三郎は当然のことのように、そう告げた。
「縁組?」
 思わず章姫はその言葉を繰り返す。全く予期していなかった内容に、瞬間、心がざわめいた。
「はい。摂津の中川瀬兵衛殿を存じておいでで?その瀬兵衛殿の御嫡子との縁組で」
 忠三郎の言葉は落ち着いており、まるで天気の話でもするかのような口調だった。だが章姫にとっては寝耳に水だ。

(摂津でそんな話が進んでいたとは…)
 章姫は一瞬、忠三郎の顔を見つめたが、鉄の笑顔は変わることなく、その裏に何かしらの感情が隠されているのかどうかを探ることはできなかった。
「それが父上の意向であると?」
「はい。家中の者に嫁ぐのであれば、上様も案じることはないとお考えなのでござりましょう」
 章姫は思わず目を伏せた。先日まで、忠三郎は和歌や手紙を頻繁に送り、自分への親しみを示しているとばかり思っていた。しかし、今ここにいる忠三郎は、まるでそのことを忘れたかのように、平然と縁組の話を持ち出してきた。
 その冷淡さに、章姫は内心戸惑いと不信を感じずにはいられない。

(あれほど心を砕いて手紙を送ってきていたというに…)
 忠三郎がどのような気持ちで手紙を送ってきていたのか、もはや章姫にはわからない。如何に信長の命であったとしても、こんなにも簡単に気持ちを切り替えられるものなのだろうか。鉄の笑顔は変わらずそこにあり、まるで感情を抑え込んでいるかのようだった。
「厭じゃ」
 章姫はきっぱりとそう言った。
「は?」
 忠三郎は、その言葉の意味が理解できないかのように、驚きと戸惑いを含んだ表情を浮かべた。その鉄の笑顔が一瞬揺らいだのを、章姫は見逃さなかった。
「縁組など、厭じゃ」
 章姫ははっきりと繰り返した。胸に込み上げる感情が、言葉に力を与える。
 周囲から勝手に決められていることを拒絶するかのように、その言葉には強い意志が込められていた。

 忠三郎はその場に立ち尽くし、しばらく章姫の顔を見つめていたが、やがて困惑したように眉をひそめた。忠三郎の中で何かが揺れたのだろう。しかし、すぐにその感情を押し殺し、再び静かに口を開いた。
「これでは木曾のときと同じではないか。木曾の折も、父上はわらわを嫁がせ、降伏してきた城の者を皆、殺めてしもうたのじゃ」

 章姫の声には、過去の苦い記憶がにじみ出ていた。かつて章姫は、武田家との縁組のために奥美濃へと嫁がされたことがある。しかし、その縁が断たれ、武田家と織田家の関係が決裂したことで、章姫は織田家に戻されることとなった。そのとき、章姫はただの駒として扱われ、戦の渦中に投げ込まれた。その後、降伏した者たちが皆討たれたことで、章姫の心に深い傷を残した。

(再び、あのような運命に翻弄されるのか…)
 それ以来、父である信長も、叔父である一益も、どこか腫れ物に触るような態度で接するようになった。周りの者たちは皆、章姫の心に触れることを避け、忌まわしい過去が存在しないかのように振る舞っていた。しかし、章姫にとってその過去は、決して忘れることのできない痛みであり、その心を覆い続けていた。

「章姫殿。そうは申されても…」
 忠三郎は章姫の強い言葉に一瞬たじろいだものの、すぐにまた鉄の笑顔を浮かべた。その笑顔は、まるでこの場を冷静に収めようとするかのように張り付いていた。

 しかし、そんな忠三郎の態度に、章姫はますます苛立ちを覚える。余裕あるその態度は、章姫の心の叫びを軽んじているかのようだ。
「わらわは厭じゃ。摂津などにはいかぬ!」
 章姫は再び、きっぱりと断言した。その声には迷いがなく、過去の傷を再び背負わされることへの強い拒絶の意思がはっきりと表れていた。

 何をどうなだめすかしても、章姫は頑として首を縦に振らなかった。その毅然とした態度に、さすがの忠三郎も徐々に追い詰められていった。鉄の笑顔も次第にその効果を失い、やがて、どうすべきか思案に暮れ、なすすべを失った。

 目の前の章姫は、これまでのどの相手よりも強固であり、巧みな言葉も、穏やかな振る舞いも、まるで通じない。
「…これは困った」
 忠三郎は小さくつぶやき、わずかに顔を伏せた。その姿は、いつもの余裕ある忠三郎とは別人のように見えた。

「上様にお伝えするしか…」
 忠三郎は諦めの色を含んだ声で、やや無力感をにじませながらそう言った。
 だが、その言葉に章姫はすぐに反応を示さず、ただ静かに忠三郎を見つめていた。
(父上にも、叔父上にも、わらわの気持ちが通じぬというのか…)
 章姫は心の中でそう問いながらも、すでに自分の意思を固めていた。どんなに周囲が説得しようとも、摂津への縁組を受け入れるつもりは毛頭なかった。
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