獅子の末裔

卯花月影

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17.あだし野の露

17-1. 葬送の地

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 大坂本願寺との長き戦が、ようやく終息を迎え、畿内に渦巻いていた抵抗の火種も消え去った。伊勢の騒乱も静まり、京の都に雪が舞い降りたその日、忠三郎は白い息を吐きつつ、上洛の途についた。向かう先は滝川家。章姫に会うためだ。

 思えば中川清秀の息子との縁組の一件から、章姫とは顔を合わせていなかった。都にある滝川家の屋敷に泊まることがあっても、奥の母屋に入ることをためらう日が続き、かえってその思いが距離を遠ざけていく。章姫のことが頭に浮かんでは、そのまま影のように消え、また心を占めては離れる。そうこうしているうちに、いつしか月日が無情にも過ぎ去っていた。気がつけば、もう幾度目かの雪が都の地に降り積もろうとしている。

 滝川家の屋敷へと足を運ぶと、折しも章姫は侍女と谷崎忠右衛門を伴い、どこかへ出かけようとしているところだった。
「姫、いずこへ?」
 忠三郎が柔らかな笑みで声をかける。しかし章姫はそっけなく顔をそむけ、わずかに不機嫌な表情を浮かべる。どうやら有岡城での一件がまだ胸にわだかまっているらしい。それに気づいた忠三郎は、かえって親しげな笑みを湛え、わざと朗らかに言葉を続けた。

「まぁ、姫が機嫌を直されるまで、そばにおるといたしましょう」
 その言葉に、供の谷崎忠右衛門が忠三郎の顔色を気にしながら口を開く。
「衣笠山が雪をまとったと聞き、姫様が一目見たいと仰せになり…」
 と、告げかけた瞬間、章姫が冷ややかに言葉を遮った。
「爺。いらぬことを申すでない。これなるお方は、わらわとは縁もゆかりもなきお方じゃ」
 章姫の冷やかな言葉が、冬の空気のように場を凍りつかせた。しかし忠三郎は、その鋭い一撃にもかかわらず、少しも表情を変えることなく、むしろ微笑みを深めた。さながら、ただの軽口とでも受け流したかのように。

「然様でございますか。姫のお話もまた、衣笠山の雅をよく表しておりまする」
 忠三郎は穏やかな微笑を浮かべて応じた。明るい調子で話を続けながらも、その眼差しにはかすかな哀愁が滲んでいる。
「衣笠山にはいにしえより、さまざまな想いが寄り添い重なっておりますゆえ、見る者、語る者によって、その姿も異なるのでしょう。きっと、どちらの故事も、あの山の真の姿かと」
 章姫はその言葉に耳を傾け、ふと、冬枯れた山がかつてどれほどの人々の祈りや記憶を抱き続けてきたのかと想いを馳せた。いつもは少し遠く感じられる忠三郎の言葉が、妙に胸に沁み、忠三郎の横顔を見つめる目に、わずかな敬意が宿る。

(やはり忠三郎殿は雅なお方じゃ)
 と心が動かされたとき、
「古の頃、衣笠山は遥かなる風葬の地に寄り添う場所であったと聞き及びました」
 とさらりと口にするものだから、章姫はぎょっと目を見開き、思わず忠三郎を見返した。
「風葬の地…?」
 風葬と聞いた途端、妙におどろおどろしい想像が広がる。
「亡骸に掛けられた衣が、絶え間なく吹く風に誘われ、舞い上がるごとく木々の枝へと絡まり、それがやがて『衣笠山』と呼ばれる所以となったとか」
 忠三郎はこともなげに語る。衣笠山をどこか幻想的に思い描いているようだ。

 章姫は顔をしかめ、
「そ、そんな…わらわが聞いた話とはまるで違う!」
 と声を上げた。
「わらわが聞いたのは、古の帝が夏に雪を纏う山を見たいと仰せられた折、家臣たちが白絹を山肌に広げ、白銀の如く覆い尽くしたという、風雅な伝えぞ?」
 忠三郎はその驚きぶりに肩をすくめ、少し笑みを浮かべてから穏やかに答えた。
「おお、それも実に見事な話。どちらもまた、この山の姿を愛でる心の現れということでございましょう」
 と一礼しつつ、しかしその後に続けた言葉が、少々無粋であった。
「されど、それはあくまで言い伝えでございます。実のところ、そのような戯言を真に受ける者などおりませぬ。あだし野、鳥辺野、そして蓮台野——かように『野』の名を冠する地は、古より葬送の場として知られておりますれば」
 風雅な衣笠山の雪化粧を心待ちにしていた章姫の顔色が、一瞬で曇る。

 忠三郎がなおも続ける昔話に、周囲の者たちは息を詰め、いつ忠三郎がその無粋な話をやめるのかと冷や冷やしている。忠右衛門も
(これは…ますます姫様のご機嫌を損ねてしまうのでは…)
 と眉をひそめて見守っていた。しかし、肝心の忠三郎はといえば、そうした気配にはまるで頓着せず、風に乗せられた言葉のように、誰も求めぬ昔話をなおも続ける。

「流行り病が広がるにつれ、火葬も用いられるようになりましたが、それもまた身分の高い者に限られたこと。蓮台野は帝のような高貴なお方のための葬送の地、鳥辺野は裕福な者のための場所、そしてあだし野は、その他の者を風葬する場でございました。‘あだし’とは、古語で儚さや哀しみを意味し、徒然草にもその名が見られます。あだし野の露とはすなわち、野ざらしにされた遺骸に獣や鳥が群れ寄り…」
「忠三郎殿!」
 章姫の忍耐もとうとう尽き、美しい眉間に怒りの色を浮かべ、鋭い声で忠三郎を遮った。周囲の者たちは息をのむが、忠三郎は章姫の怒りの理由をまだ察しておらず、首を傾げる。
「これはまた何か不興を?」
 と笑みを浮かべる忠三郎の様子に、周囲の者たちは皆、内心で呆れ返っていた。
(このお方には、姫様の心の内などわかるまい…)
 誰もがそう思わざるを得ない。

 忠三郎は無邪気にも興味の赴くまま話を続けただけなのだろうが、その無遠慮さがいかに章姫の心を乱したかなど、まったく見当もつかない。ついに堪忍袋の緒が切れた章姫は、冷たい怒りを含んだ声で
「もうよい!衣笠山を見に行くのはやめじゃ!」
 きっぱりと言い放つや否や、忠三郎に背を向けて母屋へと足早に立ち去ってしまった。
 取り残された忠三郎は、ひらひらと舞い落ちる冬の陽光に目を細め、章姫の去っていく背中をただぼんやりと見送りながら、
「今日は姫の虫のいどころが悪かったのであろうか」
 と、相変わらず首をかしげるばかりだった。周囲の者たちは、思わず小さくため息をつき、忠三郎の不器用さに苦笑を隠しきれないでいた。

 その夜、昼間の一件が早速、肴として話題に上がった。義太夫はその話を聞くや否や、今にも酒を吹き出さんばかりに顔を赤らめ、腹を抱えて笑い出した。

「常々、女心の分からぬやつと思うていたが、ここまで酷いとはのう!」
 豪快に笑う義太夫に、他の者たちもつられて笑い声をあげる。忠三郎はそんな周りを眺めながら、苦笑いを浮かべつつ、盃を軽く傾けた。
「鶴。姫様と戯れておる場合ではない。次はいよいよ伊賀に攻め入ることとなる」
 義太夫が忠三郎の肩にどっしりと腕を置くと、忠三郎は首をかしげた。
「伊賀?甲賀の隣の?」
 いつもながらに、ぼんやりした口調で答える。その頼りなげな様子に、義太夫は少し笑いながらも、「仕方あるまい」とばかりに、肩の力を抜いて語り始めた。

「よいか、伊賀という地は、ただの隣国とは違う。あの地は、自らの掟に従い、長きにわたり自治を保ってきた猛者どもの巣窟よ。それに、北畠中将様の領地にも隣接し、何かと気にかけられておる地じゃ」
 忠三郎は「ふむ」とうなずきながら話を聞くものの、どこか腑に落ちぬ表情をしている。
 いつもながらに頼りない姿に、義太夫は致し方なく、説明を始めた。

 未だ有岡城、そして大坂本願寺攻めが続いていたころ、南勢にいる信長の次男・北畠信雄が伊賀に攻め入った。
「なにゆえ伊賀に?」
「これはまぁ、北畠中将様の御領地に接しておることが原因であろう」
 義太夫が言いにくそうにそう言う。
「あぁ、なるほど…」
 忠三郎は納得してうなずいた。
「織田家を継いだ兄の城介様は、有岡城や大坂本願寺攻めの総大将を務めておられるが、そちらに加勢しても、その功はすべて城介様のものとなり、中将様にはさしたる利がない。されど、隣国の伊賀を平らげれば、伊賀一国そのものがまるまる中将様の手に収まるというわけじゃ」

 忠三郎は「ふむふむ」と呟き、手元の酒を軽く傾けながら、義太夫の話に耳を傾ける。
「重臣どもに言いくるめられたのであろうか」
 北畠の家中には信雄が北畠家の養子になる前からいる発言力のある家臣が多い。忠三郎が呟くと、義太夫は口を濁しながらも答えた。
「それは分からぬが、そう思惑通りにはいかなかったらしく…」
「如何なったと?」
 義太夫は軽く息を吐き出しながら、言葉を選んで続けた。
「伊賀一国を手にするどころか、伊賀衆の激しい抵抗にあい、思わぬ苦戦を強いられた。やむなく敗走するところ、殿しんがりを務めた重臣が討ち取られるという、痛ましい大敗北を喫したのじゃ」

 忠三郎は驚いたように眉を上げ、しばし無言で義太夫の顔を見つめていたが、やがて静かに息をつき、遠い眼差しを向けた。
「然様か…伊賀の者どもは、誇り高き自治を守る者たちと聞くが。つまらぬ挑発から大事に発展してしもうたな」
 義太夫は頷きながらも、どこか重たい口調で続けた。
「されど、負けましたでは済まされぬ。上様は今度こそ伊賀を完全に平定するおつもりじゃ。中将様が敗れたことで、織田家の威信に傷がついた。その失墜を挽回すべく、徹底的に攻め滅ぼすお考えであろう」
「そこまで?」
 冬の風が、遠くで鳴る法螺貝のような低音を響かせて夜の静寂を打ち消す。忠三郎が目を見張ると、義太夫は低く重々しい声で言葉を継いだ。
「上様は素破がお嫌いじゃ。伊賀の者、一人残らず根絶やしにせよと息巻いておられる」

 その言葉が冷ややかな静寂に溶ける頃、冬の到来を告げる鋭い風が襖の隙間をひゅうと吹き抜け、忠三郎の火照った頬を冷たく撫でてゆく。いつしか庭の竹もまた、凍える夜風に揺られて、かさかさと低く物寂しい音を奏で始めていた。
(上様は素破がお嫌いか…)
 忠三郎の口元に、皮肉じみた苦笑いが浮かんだ。滝川家の家人の多くは素破であり、義太夫もまたその一人である。彼らは長きにわたり、信長の天下取りのために影で動き、尽力してきたというのに、今や毛嫌いされるとは何とも皮肉なものだ。
(義兄上も報われぬな)
 義太夫は相変わらず、顔色一つ変えずにいるが、果たして何も感じないのだろうか——不安も憤りも、まるで胸中に微塵も波立てず、冷然と戦局を見極めているのか。それとも、すべてを飲み込み、己を深く抑え込んでいるだけなのか。
 しかし、それを問うのはあまりに酷というものだ。
 互いの心の内を察する術もなく、忠三郎はただ息を潜める。

 凍てつく風に揺さぶられる庭の竹が、再びかさかさと小さく音を立てる。その低い音が、二人の間に横たわる深い沈黙を静かに刻むように、夜の帳の中で響き渡る。
「次は近江衆にも出陣命令がでる。心しておけ」
 義太夫が低く告げる声が、冷たい風に乗ってひしひしと忠三郎の胸に響く。

 忠三郎は小さく頷き、ふと目を伏せる。心の内には、吹き荒ぶ雪の山肌や、冬の風に耐える裸木のような厳しさが、澱のごとく静かに沈んでゆく。
 しばしの沈黙の後、深い息と共に、静かに言葉を紡ぎ出した。
「承知した。家臣たちにも話しておこう」
 その言葉に応えるように、義太夫は盃に注がれた酒をじっと眺め、やがて静かに呟いた。

「…伊賀者もまた、己が地と誇りを守るためには命を惜しまぬであろう。今度の戦は、互いに譲れぬものを賭けた、厳しきものとなるやもしれぬな」
 その声が消えゆく頃、襖の隙間から忍び入った冬の風が、ふわりと忠三郎の袖を冷たくかすめる。その冷気は、これから迎える厳冬と、来たるべき戦の行方を暗に告げるようであり、二人の胸に淡くも重い影を落としていった。
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