獅子の末裔

卯花月影

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22.骨肉の争い

22-8. 月影に浮かぶ義兄の影

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 数日後、秀吉本隊が再び亀山城包囲に加わった。冷え込みは厳しいものの、冬の終わりが近づいているのを感じさせる風が吹き渡っていた。
「早く城を落とさねば、雪解けとなろう。忠三郎殿、何か妙案はないものかのう。」

 秀吉が苦々しげに呟く。雪が解ければ、柴田勝家が越前から兵を挙げて押し寄せるのは明らかである。時を費やせば費やすほど、羽柴勢に不利な状況となる。
 忠三郎は一呼吸置いてから、穏やかに口を開いた。
「長島の方は如何なりましたかな」
 秀吉は顔を曇らせ、短く答えた。
「長島はいかん」
「は?」
「近づくのは危うい。遠巻きにして兵糧攻めしかなかろう」
 その言葉に、忠三郎は軽く顎を撫でながら考え込んだ。長島の攻略は水軍の制海権が鍵を握る。だが制海権は一益に味方している九鬼水軍が抑えており、下手に動けば返り討ちに遭うのが関の山だ。
(まずは九鬼水軍をなんとかせねば、こちらの兵站を安定させることも、ましてや攻め入ることも叶わぬか…)
 長島の水際に浮かぶ九鬼の艦船が、今もなお威圧感を放っているのを思い起こした。小さな動きも見逃さぬかのように、その黒々とした影が対岸を睨み据えている。

「では、滝川…左近殿は長島に?」
 忠三郎は少し遠慮がちに尋ねた。
「桑名じゃ」
 秀吉は首を横に振った。その顔には疲労の色が濃い。

「桑名から奇襲をかけてくる。いつ何時、攻め寄せるとも分からぬため、皆には遠巻きにせよと命じておる」
 すでに奇襲を受け、損害を出しているのだろう。その言葉の裏に隠れた苛立ちが読み取れた。
(相手が義兄上ではさもあらん)
 胸中に浮かんだのは、一益の非凡な戦術眼と周到さだった。大川を隔てた先にある長島は守るには適していても、撃って出るには不都合だ。そのため、桑名を拠点とし、持ち前の機動力を駆使し、奇襲をかけて敵をかく乱する。無理に攻め入らず、機を見て巧みに動くその姿は、さすが一益と呼ぶべきものであった。

「忠三郎殿。わしは危うい橋は渡りとうない」
 秀吉は少し声を落とし、周囲には聞こえぬよう囁いた。
「は?」
 忠三郎は不意を突かれたように顔を上げる。
「戦さというのはのう、目の前の敵を倒すだけではないということよ」
 秀吉の言わんとしていることが分からず、忠三郎は小首を傾げる。
「わからぬか」
 秀吉はにやりと笑い、さらに声を落として言葉を続けた。
「ここで滝川左近を相手に戦うよりは、柴田の親父を降すことのほうがはるかに容易いということじゃ」
「…と仰せられると…」
 忠三郎は秀吉の意図を掴みかねて戸惑いを滲ませる。しかし、その戸惑いは秀吉の満足げな笑みによってかき消された。
「柴田の親父を片付ければ、岐阜の三七などは遅るるにたらず。残るは滝川左近のみとなる。手足を奪われ、孤立無援となれば、いかな滝川左近といえども、我が軍門にひれ伏すであろう」
 ここで下手に一益との直接対決に臨み、万が一にも敗北を喫するようなことがあれば、秀吉に味方した織田家の旧臣たちが柴田勝家に寝返る恐れがある。
 そんな危険を冒すよりは、確実な勝ちを取るために、まず勝家を討つべきだ――そう言っているようだ。

 忠三郎の胸に、一抹の冷ややかな感覚が広がった。秀吉は戦う前から勝家に勝つつもりでいる。余程の勝算あってのことだろう。
(ここまで確信めいたことを言えるのは…)
 それは、すでに勝家に組した者の中に、秀吉によって調略され、密かに寝返る約束をした者がいることを意味している。
「されど、新介一人に手を焼いたとなれば、世の笑いものとなる。忠三郎殿。長島を落とせとは言わぬ。なんとか亀山は落としてくれぬかのう」
 秀吉の声は軽く笑いを含んでいるが、その瞳には油断ならぬ光が宿っていた。

 忠三郎はしばし考え込んだ。亀山城の守りは堅く、まともに攻めても多大な犠牲を強いられるのは明白だ。
(されど、ここで蒲生の力を示さねば、後々、我が家の意見を通すことは難しくなっていく)
「策を練らねばなりませぬな」

 秀吉は頷き、さらに口を開いた。
「時が味方するとも限らぬ。越前の雪が解ければ、柴田の親父が動き出すやもしれん。さりとて、兵を無駄に減らすわけにもいかぬ」
 夜討ちの失敗以来、どうやって亀山城を落とすか、考えていた。新介もさるもので、こちらが夜討ちに失敗したことを嘲笑うかのように、翌朝、にわかに奇襲を仕掛けてきた。こちらも桑名同様、危ういので城を遠巻きにして囲まざるを得ない。
「土竜攻めは如何なものかと」
 忠三郎が穏やかに提案すると、秀吉は一瞬顔をしかめ、声を低くして問い返した。
「何、土竜攻めとな」
「はい」
 土竜攻め。別名、金堀攻めとも呼ばれるこの戦術は、地中深く穴を掘り進め、敵城の水源を断つ、あるいは櫓の土台を崩して倒壊させるなど、敵の防御を根本から揺るがすものだ。最終的には城内への抜け穴を作り、乱入することもできる。

 秀吉の顔に浮かんだ険しさは隠しようがなかった。土竜攻めは一益が得意としていた戦法だ。
「滝川勢が得意とする術を、我らが用いるとなると、敵にも察知されやすいのではないか?」
 忠三郎は静かに頷いた。
「確かに、滝川勢が使い慣れた策ゆえ、用いる際には細心の注意が必要かと。さりながら、あえて敵の得意策を用いることで、相手の意表を突くことも可能かと存じまする」

 秀吉は腕を組み、思案げに地面を見つめた。
「ふむ、土竜攻め…。確かに成功すれば、亀山の守りを崩すには効果的かもしれぬ。ただ、掘る者の技術と手際が問われよう」
「はい。そのため、近隣より金堀衆を召し、またこちらの兵のうち、力のある者を選んで補佐させる必要があるかと。地下の進行状況を隠すため、城の注意を逸らす陽動も重要になりまする」
 秀吉の顔がわずかにほころんだ。
「策としては面白い。して、その支度にはどれほどの時を要するのか?」
 忠三郎は少し考え、慎重に答えた。
「金堀衆を召集し、地質を調べた上で、約十日ほどあれば掘削を進めることができるかと。されど、敵に気取られぬよう、慎重を期すべきかと」
 秀吉は深く頷き、静かに笑った。
「よかろう、やってみよ。蒲生の知恵が、この羽柴筑前に新たな道を示すなら、それもまた楽しきことよ」
 忠三郎は軽く一礼し、早速準備にかかるべく、手配を開始した。

 秀吉の引き連れてきた大軍勢が合流し、賑わう陣中で、手早く人員の手配や地質の調査に思案を巡らせながら、ふと立ち止まった。
(これも、義兄上から教えを受けたゆえ…)
 一益のもとで過ごした日々が脳裏をよぎる。一益の周囲で繰り広げられた戦術の数々、細やかな指示の出し方、そして状況を読む確かな目。それらは、戦場を知らなかった忠三郎にとって、貴重な学びの場だった。

 その教えがあったからこそ、今こうして亀山を攻める策がすらすらと頭に浮かぶ。金堀衆の選定、掘削の手順、土壌の分析。すべてが明瞭で、戸惑うこともない。
(されど…)
 胸の奥に微かな痛みを覚える。一益は、戦場の厳しさや、苦境を乗り越える手段を丁寧に教えてくれた。その教えを今、この戦場で滝川勢を攻めるために用いる。そこに、裏切りにも似た思いがよぎる。

 忠三郎は、微かに震える吐息を夜風に乗せ、しばし目を閉じた。
(あのとき、義兄上が、味方せよと、一言いうてくだされていたら…)
 清須での別れが、胸中に鮮やかに蘇る。一益は、こちらをじっと見据えながら、「己の去就は己で決めよ」と言い放った。同心したいという忠三郎を、無下に突き放した。

(さりとて義兄上と行動を共にしていたならば…)
 今頃は羽柴勢に取り囲まれていたのは新介ではなく、忠三郎だったろう。そして一益は、今と同じように大軍に囲まれ、援軍を出すこともできずにいたはずだ。
(そうか…義兄上はそれが分かっていたから)
 あえて忠三郎を突き放した。ようやくそのことに気付いた。忠三郎の胸の奥で、鋭い痛みが走ると同時に、霧が晴れるような感覚が訪れた。あの言葉は、冷たく聞こえたが、あれは慈悲だったのだ。忠三郎を守るため、互いの命運を切り離すことで、不必要な犠牲から救おうとしたのだ。

 遠い昔、義太夫が戯れで言った言葉が思い起こされる。
(あの時、義太夫は…)
 忠三郎を初めて屋敷に招いたとき、義太夫は何と言ったか。
『殿は時折、突き放すような口ぶりになるが、これは言葉とは裏腹じゃ。気になっていることを隠すとき、腹の内を探られまいと、冷たく言い放つ癖がある』
 そのときは、なるほどと思いつつも、半ば戯言として受け流していた。だが今、この状況に至り、その言葉の真意が身に染みてくる。
(そうだったのか)
 冷たく突き放すような一言。だがその言葉の裏には、一益なりの配慮と計算が込められていた。

 清須で別れたとき、一益は今のこの状況を予想していたのだろう。
(我らが敵味方分かれて戦うことを…分かっていて…)
 そこまで分かっていながら、選び取るべき道は、本当にこれしかなかったのだろうか。一益があのとき、もう少し別の言葉をかけてくれていたら、あるいは自分に何かを託す素振りを見せてくれていたら。
(そんな…義兄上…)
 思い返せば、清須での別れ際、一益はどこか寂しげな目をしていたようにも思える。その瞳に何かを見出すことができたなら、今とは違う未来があったのかもしれない。

 月光が静かに地を照らす中、忠三郎の目にはにわかに涙があふれる。
(月を見て泣くなと、義太夫はそう言うて笑っていた…)
 義太夫の言葉が、遠い記憶の中から蘇る。義太夫は、月を眺めて涙する忠三郎を見てはからかいながらも、どこか優しい眼差しを向けていた。

 月を見上げると、これまでの一益との数々の思い出が、夜空に浮かぶ雲のように次々と胸に甦る。
 日野中野城で初めて一益と対面した日のこと。少年だった忠三郎の前に現れた威圧感を伴う姿が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。信楽院で再び顔を合わせたときには、その厳しさの中に隠されていた意外なほどの慈愛に、胸を打たれた。清須での別れ際の冷たさと、その裏に潜む心憎いまでの気遣い。そして今、自らが向き合う戦場での葛藤。

 春先の夜風が、柔らかく頬を撫でる。微かに香る土の匂いと、遠くで鳴く鳥の声が静寂の中に溶け込み、あたりはしんと静まり返っていた。その風は冷たくもあり、けれどどこか温もりを帯びた懐かしさを伴って、忠三郎の心に染み入る。

(義兄上の厳しさは、この風のよう…)
 突き放すような冷たさに見えて、その奥には深慮が隠されていた。今はじめてそのことを知り、気づかなかった己を恥じる気持ちと、遅れてでも理解できた喜びとが、入り混じる。
 空を見上げると、雲間から輝く月が静かに照らしている。その光が涙に滲み、揺らめいて見えたが、忠三郎はそのまま目を閉じ、夜風を受けながら、そっとつぶやいた。
「伊勢の風は…暖かい…」
 月の光と夜風が、忠三郎の心を優しく包み込むように寄り添っていた。
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