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23.宿命の対決
23-2. 矢文の中身
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忠三郎が峯城の包囲戦に加わり、いよいよ義太夫との駆け引きに頭を悩ませていた矢先。越前より「柴田勝家挙兵」の報がもたらされた。戦場の空気が一変するのを感じた忠三郎は、しばし報告の使者を見つめたが、何も言わずにただ頷くのみだった。
秀吉は伊勢を忠三郎ら、織田家の旧臣に任せると、兵を率いて美濃から北近江に向かった。
伊勢での戦は、潮騒に翻弄される小舟のごとく、羽柴勢はこの二か月余り、一益の手練手管に振り回され続けていた。
夜襲をかければ罠が待ち受け、包囲を強化すれば内部から奇策が飛び出し、まさに滝川勢の智謀は、砂浜の蟹のように一筋縄ではいかない。
(義兄上…やはり手ごわい)
忠三郎は唇を噛み、夜風に吹かれながら深く息をついた。
それでも心に浮かぶのは、北へ向かう秀吉の自信ありげな姿だった。勝家との一戦に向け、躊躇の一欠片も見せぬその態度に、忠三郎は知らず知らずのうちに期待を寄せている自分に気づいた。
(柴田殿との一戦は…必ず勝つと)
秀吉が軽く扇を振り、あの特有の微笑を浮かべて語った言葉が、忠三郎の脳裏に何度も甦る。その笑みは、いかにも頼もしげで、人を惹きつける魔力さえ感じさせるものだった。だが、あの笑みの奥に潜むものは、果たして本当に信用に足るものだろうか。
(織田家中の争いを終わらせ、天下に再び泰平をもたらす…筑前はそう言うていたが…)
「泰平」とは、いかなる形の泰平なのか。
忠三郎の心には、秀吉の言葉に対する疑念が、徐々に芽生えつつあった。伊勢での戦では、信長亡き後の混乱に乗じて勢力を拡大しようとする秀吉の思惑が、随所に垣間見えていた。それは織田家を思うがゆえなのか、それとも己が志を成すためのものなのか。
(筑前は、義兄上のような真っ直ぐさとは異なる…)
一益の厳しさと、そこに秘められた真心を思い出すと、秀吉の言葉がいっそう薄ら寒く感じられる。
(されど、この乱世においては、真っ直ぐでは勝てぬということか…)
胸中に去来するのは、一益への複雑な想いと、北の空に向かう秀吉の勝利を信じたいという願い。
目の前にそびえる峯城は、春先の霞にぼんやりと包まれていた。城を守るは義太夫。
(いかにしてこの城を落とさん…)
忠三郎はそっと溜息を漏らし、目を細めた。早春の風が帷幕をすり抜け、微かに梅の香を運んでくる。ふと見上げれば、山裾には萌え出ずる若草が点々と顔を出し、空には雲雀が高く舞い上がっている。
しかし、そんな柔らかな春の風情とは裏腹に、峯城攻略は険しい道だった。
攻城はすでに二か月に及び、兵の疲労は隠せない。包囲する兵たちの間には、次第に焦燥の色が漂い始めている。しかしそれは峯城の滝川勢も同じだろう。兵糧も武器弾薬も少なくなりつつはずだ。このまま包囲を続け、頃合いを見て降伏を促す――それが定石だ。しかし、義太夫が簡単に城を明け渡すとは到底思えない。
(あやつのこと。今頃は城内でまた、妙な策を巡らせておるに違いない)
忠三郎は心中でそう思いつつも、遠く霞の向こうに見える城を静かに見据えた。
このまま包囲を続ければ、義太夫は飢えて倒れるまで粘り続けるだろう。
やはり亀山城同様、土竜攻めしかないだろうか。そんなことを考えていると、ふと、帷幕の外から何やらざわめき立つ気配が聞こえてきた。
(何事であろうか…)
不審に思った忠三郎は声を上げる。
「爺。おるか」
町野左近が何食わぬ顔をして現れるも、その挙動にはどことなく不自然さが漂う。
「如何なされましたかな?」
「…爺。さては何かあったな。包み隠さず申せ」
町野左近は一瞬、言葉を探すように目を泳がせた後、ようやくぽつりと口を開いた。
「そ、それが…いや、その…喧嘩でござりまする」
「喧嘩とな?」
「然様、足軽どもが些細なることで口論を致しましてな。皆で取り成しておりました次第にござりまする」
あまりにも見え透いた嘘だった。忠三郎は薄く笑みを浮かべつつ、手にしていた扇を軽く打ち鳴らす。
「騒がしいままではないか。未だ収まらぬ様子、喧嘩などという嘘、通るものではない。有体に申せ」
忠三郎が静かに、威をもって問いただすと、町野左近は額に汗を浮かべながら答えた。
「は、はい。それが…城より矢文が飛び来たりまして…」
「矢文?」
「どうやら義太夫殿より若殿に宛てた文とのことで…」
「義太夫から?その文を見せてみよ」
忠三郎が扇を軽く打ち鳴らして促すも、町野左近は顔を引きつらせ、狼狽しながら頭を下げた。
「そ、それがしも実のところ、人づてに聞いた話でして…文そのものはまだ目にしておりませぬ」
忠三郎は「フム」と低く声を漏らし、腕を組んで考え込んだ。
「では、その矢文は何ぞ、足軽どもが浮足立つような内容であったのか?」
町野左近はひとしきり迷い、言葉を探してから、思い切って答えた。
「浮足立つ…というか…これは若殿と義太夫殿の、秘事にて、皆に広まってはならぬと思い、今、その文を全て集めさせておるところで」
忠三郎は怪訝そうに眉を寄せると、町野左近がぽたりぽたりと額の汗を滴らせつつ、声を低くする。
「秘事…と申しますれば、殿と義太夫殿の間における、極めて秘めやかなる私事にございます…」
「回りくどいのう…」
何のことやらさっぱり要領を得ない。忠三郎は小首をかしげ、その様子がかえって町野左近をさらに焦らせる。
それにしても、町野左近のこの尋常ならざる慌てようはいかがなものか。普段は冷静沈着な男が、いまや汗だくで袖をぐっしょりと濡らしながら、落ち着きなく立ち尽くしている。
(これほど爺が取り乱すほどの秘事とは、一体いかなる内容なのか)
忠三郎の胸中にはますます疑念が膨らむばかりだ。かといって、詰め寄って聞き出そうものなら、町野左近がその場で卒倒しかねない有り様だ。
「何やら心にかかる。爺はその文の中身を存じておるのであろう?話して聞かせよ」
「は?あ、あの…それがしが…でござりまするか」
町野左近はさらに慌てて袖で額を拭ったが、その仕草すらぎこちない。これはますます怪しい。
「これは…すべて、傅役としてのそれがしの、不徳の致すところにござります」
る!」
突如、町野左近は膝をつき、声高に自らを責め始めた。その言葉に忠三郎はますます首をかしげる。
「長年、若殿は御台所様とは疎遠。そしておさち殿とも死に別れ、お寂しゅうあられたことは、この爺が一番よう存じておりまする」
「……?」
急に何を言い出したのか、忠三郎は完全に理解が追いつかず、ただ町野左近の顔を眺めるばかりだ。
「さ、されど…よりにもよって、お相手があの義太夫殿とは…これは、いかにも…」
町野左近はもはや涙を浮かべ、どこか呆然とした表情で語り続けた。
「いやいや、誰しも、魔が差すこともあるもの…もはや、何も申しますまいて。ただ、ただ…若殿、お労しゅうございまする…」
「お労しい?とは?」
何もかもが謎に包まれたまま、忠三郎はぽかんとするしかなかった。
「ようわからぬが、なればその矢文、秘事であろうが何であろうが、中を改める。早々に持参せよ」
忠三郎の声音が少しばかり強くなるや、町野左近は深く頭を垂れ、
「は、はい。急ぎ取りまとめまして参る所存にございます…」
そう言って、足早に帷幕の外へと消えていった。
蒲生勢が怒涛の如く峯城へ突撃を開始したのは、翌朝のことだった。
「義太夫殿!我らが策、見事に的を射まして、忠三郎様が罠にかかりましたぞ!」
助九郎が息せき切りつつ、広間へ飛び込み、大きく声を張り上げる。
「おお、さても良き働きじゃ!では、手筈通り進めるがよい!」
義太夫も声高に応じる。
「心得ました!」
助九郎は得意げに、かつ颯爽と駆け去っていく。
(ふむ、思うたより早き反応よ…)
義太夫は一人、手のひらを揉みながらにんまりと微笑んだ。
(忠三郎め、何事も慎重に構え、熟慮を重ねるあやつが、此度に限ってこれほど即座に動くとは…)
はて、と義太夫は首を傾げる。
(助太郎・助九郎め、いかなる文を書き付けたやら。あやつらに任せきりにした故、中を改めてはおらなんだが…)
義太夫は甲冑を身にまとい、櫓へと向かい、妙な気配に気付いた。兵どもがあれこれと視線を交わし、時にひそひそと囁き、また笑みを漏らす者の姿まである。
(むむ…気のせいであろうか…いや、どうも視線が痛きものよ…)
不審を深めた義太夫は、足軽の一人に声を掛けた。
「これこれ、そこのもの。寄せ手に放った矢文の残りなど、残ってはおらぬか?」
足軽は目を白黒させつつ、返答する。
「は、はぁ…。残りはござりまするが、何ゆえに?」
義太夫はさも無造作を装いつつ言い添えた。
「なに、文面を改めようかと思うたまでよ。あまりに武骨な調子では、寄せ手の諸将も不快に思うやもしれぬ」
足軽は首を傾げつつも、懐より一通の文を取り出し、両手で恭しく掲げた。
「さてさて、どれどれ…ふむ、こ…これは……『恋しい恋しい忠もじ殿』……?」
読み進むや否や、義太夫の声が一一段と大きくなった。
「恋しい!?忠もじ殿と!?何と…?」
さらに続きを読めると、とんでもないことが書かれているではないか。
「『閨を共にし我ら、敵味方に分かれて戦うとは誠に世の無常を嘆き、日々にあの夜のことを思いめぐらすに』……」
一瞬で義太夫の顔は真っ赤になった。
「こ、これは…恋文ではないか!」
しかも恐ろしきことには、この文面、いかにも義太夫自身が忠三郎に宛てた体裁となっている。
「これでは、まるで我らが……怪しげな仲であるかのような…」
義太夫はあまりの事態に、頭を抱える。
一方、傍らの足軽は頬を引きつらせながら縮こまっている。辺りを見回せば、忍び笑いがあちらこちらから漏れ、城内は妙な沈黙が漂っている。
義太夫は、その様子を見て呆れたように首を振り、独りごちた。
「鶴ばかりか、このわしまで動揺させおるとはのう」
とはいえ、ただの笑い話では済まされぬ内容だ。
(まさかあの鶴と怪しき噂を立てられるとは、まったくもって名折れも甚だしきこと)
義太夫は顔をしかめ、内心ひどく恥ずかしく思いながらも、やや自分の行いを省みた。何もかも助太郎と助九郎に文の件を任せきった己が浅慮であったと悟らざるを得ない。
(かといえど、この噂が鶴の耳に入り、奴めが激怒し、矢も盾もたまらず攻め寄せてきた。それこそが我らが策の狙いゆえ、致し方なしというものか)
しかし、このような策の代償に名誉が少々傷つくのも、如何なものかと義太夫は思いあぐねる。
(いささか、わが名に不名誉な噂がついて回ることにはなろうが、まぁ、これも戦の一興と思えばよいか)
義太夫はふぅと、息を吐き、胸の内に渦巻くもやもやを追い払うようにひとつ身を伸ばした。
(ここで一矢報いずして何とする。さもなくば、城内は瓦解し、兵は飢えて力を失うばかり)
すでに城内では兵糧の残りが乏しく、日ごとに飯の量を減らして配る有様。包囲が思っていたよりも厳しく、外からの調達も叶わない。かくなる上は、敵に一撃を加え、その包囲網を乱すほか術はない。
(なんとか、この包囲網を突破できるほどに敵に痛手を与えられればよいが…)
それができなければ、一月後には餓死者が出始める。
義太夫は再び深く息を吸い込み、澄んだ空を見上げた。春の薄雲が柔らかにたなびき、天を覆う。その風情に心を奪われる間もなく、耳に届くのは足軽たちの低い声と、櫓上で鳴る風の音ばかり。
(よかろう。わしもこれまで以上に策を練り、最後の勝負に出るまでよ)
こう思い定めると、義太夫は颯爽と身を翻し、櫓を登っていった。春風の中、峯城の一角に新たな覚悟の炎が揺れていた。
秀吉は伊勢を忠三郎ら、織田家の旧臣に任せると、兵を率いて美濃から北近江に向かった。
伊勢での戦は、潮騒に翻弄される小舟のごとく、羽柴勢はこの二か月余り、一益の手練手管に振り回され続けていた。
夜襲をかければ罠が待ち受け、包囲を強化すれば内部から奇策が飛び出し、まさに滝川勢の智謀は、砂浜の蟹のように一筋縄ではいかない。
(義兄上…やはり手ごわい)
忠三郎は唇を噛み、夜風に吹かれながら深く息をついた。
それでも心に浮かぶのは、北へ向かう秀吉の自信ありげな姿だった。勝家との一戦に向け、躊躇の一欠片も見せぬその態度に、忠三郎は知らず知らずのうちに期待を寄せている自分に気づいた。
(柴田殿との一戦は…必ず勝つと)
秀吉が軽く扇を振り、あの特有の微笑を浮かべて語った言葉が、忠三郎の脳裏に何度も甦る。その笑みは、いかにも頼もしげで、人を惹きつける魔力さえ感じさせるものだった。だが、あの笑みの奥に潜むものは、果たして本当に信用に足るものだろうか。
(織田家中の争いを終わらせ、天下に再び泰平をもたらす…筑前はそう言うていたが…)
「泰平」とは、いかなる形の泰平なのか。
忠三郎の心には、秀吉の言葉に対する疑念が、徐々に芽生えつつあった。伊勢での戦では、信長亡き後の混乱に乗じて勢力を拡大しようとする秀吉の思惑が、随所に垣間見えていた。それは織田家を思うがゆえなのか、それとも己が志を成すためのものなのか。
(筑前は、義兄上のような真っ直ぐさとは異なる…)
一益の厳しさと、そこに秘められた真心を思い出すと、秀吉の言葉がいっそう薄ら寒く感じられる。
(されど、この乱世においては、真っ直ぐでは勝てぬということか…)
胸中に去来するのは、一益への複雑な想いと、北の空に向かう秀吉の勝利を信じたいという願い。
目の前にそびえる峯城は、春先の霞にぼんやりと包まれていた。城を守るは義太夫。
(いかにしてこの城を落とさん…)
忠三郎はそっと溜息を漏らし、目を細めた。早春の風が帷幕をすり抜け、微かに梅の香を運んでくる。ふと見上げれば、山裾には萌え出ずる若草が点々と顔を出し、空には雲雀が高く舞い上がっている。
しかし、そんな柔らかな春の風情とは裏腹に、峯城攻略は険しい道だった。
攻城はすでに二か月に及び、兵の疲労は隠せない。包囲する兵たちの間には、次第に焦燥の色が漂い始めている。しかしそれは峯城の滝川勢も同じだろう。兵糧も武器弾薬も少なくなりつつはずだ。このまま包囲を続け、頃合いを見て降伏を促す――それが定石だ。しかし、義太夫が簡単に城を明け渡すとは到底思えない。
(あやつのこと。今頃は城内でまた、妙な策を巡らせておるに違いない)
忠三郎は心中でそう思いつつも、遠く霞の向こうに見える城を静かに見据えた。
このまま包囲を続ければ、義太夫は飢えて倒れるまで粘り続けるだろう。
やはり亀山城同様、土竜攻めしかないだろうか。そんなことを考えていると、ふと、帷幕の外から何やらざわめき立つ気配が聞こえてきた。
(何事であろうか…)
不審に思った忠三郎は声を上げる。
「爺。おるか」
町野左近が何食わぬ顔をして現れるも、その挙動にはどことなく不自然さが漂う。
「如何なされましたかな?」
「…爺。さては何かあったな。包み隠さず申せ」
町野左近は一瞬、言葉を探すように目を泳がせた後、ようやくぽつりと口を開いた。
「そ、それが…いや、その…喧嘩でござりまする」
「喧嘩とな?」
「然様、足軽どもが些細なることで口論を致しましてな。皆で取り成しておりました次第にござりまする」
あまりにも見え透いた嘘だった。忠三郎は薄く笑みを浮かべつつ、手にしていた扇を軽く打ち鳴らす。
「騒がしいままではないか。未だ収まらぬ様子、喧嘩などという嘘、通るものではない。有体に申せ」
忠三郎が静かに、威をもって問いただすと、町野左近は額に汗を浮かべながら答えた。
「は、はい。それが…城より矢文が飛び来たりまして…」
「矢文?」
「どうやら義太夫殿より若殿に宛てた文とのことで…」
「義太夫から?その文を見せてみよ」
忠三郎が扇を軽く打ち鳴らして促すも、町野左近は顔を引きつらせ、狼狽しながら頭を下げた。
「そ、それがしも実のところ、人づてに聞いた話でして…文そのものはまだ目にしておりませぬ」
忠三郎は「フム」と低く声を漏らし、腕を組んで考え込んだ。
「では、その矢文は何ぞ、足軽どもが浮足立つような内容であったのか?」
町野左近はひとしきり迷い、言葉を探してから、思い切って答えた。
「浮足立つ…というか…これは若殿と義太夫殿の、秘事にて、皆に広まってはならぬと思い、今、その文を全て集めさせておるところで」
忠三郎は怪訝そうに眉を寄せると、町野左近がぽたりぽたりと額の汗を滴らせつつ、声を低くする。
「秘事…と申しますれば、殿と義太夫殿の間における、極めて秘めやかなる私事にございます…」
「回りくどいのう…」
何のことやらさっぱり要領を得ない。忠三郎は小首をかしげ、その様子がかえって町野左近をさらに焦らせる。
それにしても、町野左近のこの尋常ならざる慌てようはいかがなものか。普段は冷静沈着な男が、いまや汗だくで袖をぐっしょりと濡らしながら、落ち着きなく立ち尽くしている。
(これほど爺が取り乱すほどの秘事とは、一体いかなる内容なのか)
忠三郎の胸中にはますます疑念が膨らむばかりだ。かといって、詰め寄って聞き出そうものなら、町野左近がその場で卒倒しかねない有り様だ。
「何やら心にかかる。爺はその文の中身を存じておるのであろう?話して聞かせよ」
「は?あ、あの…それがしが…でござりまするか」
町野左近はさらに慌てて袖で額を拭ったが、その仕草すらぎこちない。これはますます怪しい。
「これは…すべて、傅役としてのそれがしの、不徳の致すところにござります」
る!」
突如、町野左近は膝をつき、声高に自らを責め始めた。その言葉に忠三郎はますます首をかしげる。
「長年、若殿は御台所様とは疎遠。そしておさち殿とも死に別れ、お寂しゅうあられたことは、この爺が一番よう存じておりまする」
「……?」
急に何を言い出したのか、忠三郎は完全に理解が追いつかず、ただ町野左近の顔を眺めるばかりだ。
「さ、されど…よりにもよって、お相手があの義太夫殿とは…これは、いかにも…」
町野左近はもはや涙を浮かべ、どこか呆然とした表情で語り続けた。
「いやいや、誰しも、魔が差すこともあるもの…もはや、何も申しますまいて。ただ、ただ…若殿、お労しゅうございまする…」
「お労しい?とは?」
何もかもが謎に包まれたまま、忠三郎はぽかんとするしかなかった。
「ようわからぬが、なればその矢文、秘事であろうが何であろうが、中を改める。早々に持参せよ」
忠三郎の声音が少しばかり強くなるや、町野左近は深く頭を垂れ、
「は、はい。急ぎ取りまとめまして参る所存にございます…」
そう言って、足早に帷幕の外へと消えていった。
蒲生勢が怒涛の如く峯城へ突撃を開始したのは、翌朝のことだった。
「義太夫殿!我らが策、見事に的を射まして、忠三郎様が罠にかかりましたぞ!」
助九郎が息せき切りつつ、広間へ飛び込み、大きく声を張り上げる。
「おお、さても良き働きじゃ!では、手筈通り進めるがよい!」
義太夫も声高に応じる。
「心得ました!」
助九郎は得意げに、かつ颯爽と駆け去っていく。
(ふむ、思うたより早き反応よ…)
義太夫は一人、手のひらを揉みながらにんまりと微笑んだ。
(忠三郎め、何事も慎重に構え、熟慮を重ねるあやつが、此度に限ってこれほど即座に動くとは…)
はて、と義太夫は首を傾げる。
(助太郎・助九郎め、いかなる文を書き付けたやら。あやつらに任せきりにした故、中を改めてはおらなんだが…)
義太夫は甲冑を身にまとい、櫓へと向かい、妙な気配に気付いた。兵どもがあれこれと視線を交わし、時にひそひそと囁き、また笑みを漏らす者の姿まである。
(むむ…気のせいであろうか…いや、どうも視線が痛きものよ…)
不審を深めた義太夫は、足軽の一人に声を掛けた。
「これこれ、そこのもの。寄せ手に放った矢文の残りなど、残ってはおらぬか?」
足軽は目を白黒させつつ、返答する。
「は、はぁ…。残りはござりまするが、何ゆえに?」
義太夫はさも無造作を装いつつ言い添えた。
「なに、文面を改めようかと思うたまでよ。あまりに武骨な調子では、寄せ手の諸将も不快に思うやもしれぬ」
足軽は首を傾げつつも、懐より一通の文を取り出し、両手で恭しく掲げた。
「さてさて、どれどれ…ふむ、こ…これは……『恋しい恋しい忠もじ殿』……?」
読み進むや否や、義太夫の声が一一段と大きくなった。
「恋しい!?忠もじ殿と!?何と…?」
さらに続きを読めると、とんでもないことが書かれているではないか。
「『閨を共にし我ら、敵味方に分かれて戦うとは誠に世の無常を嘆き、日々にあの夜のことを思いめぐらすに』……」
一瞬で義太夫の顔は真っ赤になった。
「こ、これは…恋文ではないか!」
しかも恐ろしきことには、この文面、いかにも義太夫自身が忠三郎に宛てた体裁となっている。
「これでは、まるで我らが……怪しげな仲であるかのような…」
義太夫はあまりの事態に、頭を抱える。
一方、傍らの足軽は頬を引きつらせながら縮こまっている。辺りを見回せば、忍び笑いがあちらこちらから漏れ、城内は妙な沈黙が漂っている。
義太夫は、その様子を見て呆れたように首を振り、独りごちた。
「鶴ばかりか、このわしまで動揺させおるとはのう」
とはいえ、ただの笑い話では済まされぬ内容だ。
(まさかあの鶴と怪しき噂を立てられるとは、まったくもって名折れも甚だしきこと)
義太夫は顔をしかめ、内心ひどく恥ずかしく思いながらも、やや自分の行いを省みた。何もかも助太郎と助九郎に文の件を任せきった己が浅慮であったと悟らざるを得ない。
(かといえど、この噂が鶴の耳に入り、奴めが激怒し、矢も盾もたまらず攻め寄せてきた。それこそが我らが策の狙いゆえ、致し方なしというものか)
しかし、このような策の代償に名誉が少々傷つくのも、如何なものかと義太夫は思いあぐねる。
(いささか、わが名に不名誉な噂がついて回ることにはなろうが、まぁ、これも戦の一興と思えばよいか)
義太夫はふぅと、息を吐き、胸の内に渦巻くもやもやを追い払うようにひとつ身を伸ばした。
(ここで一矢報いずして何とする。さもなくば、城内は瓦解し、兵は飢えて力を失うばかり)
すでに城内では兵糧の残りが乏しく、日ごとに飯の量を減らして配る有様。包囲が思っていたよりも厳しく、外からの調達も叶わない。かくなる上は、敵に一撃を加え、その包囲網を乱すほか術はない。
(なんとか、この包囲網を突破できるほどに敵に痛手を与えられればよいが…)
それができなければ、一月後には餓死者が出始める。
義太夫は再び深く息を吸い込み、澄んだ空を見上げた。春の薄雲が柔らかにたなびき、天を覆う。その風情に心を奪われる間もなく、耳に届くのは足軽たちの低い声と、櫓上で鳴る風の音ばかり。
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織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
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