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23.宿命の対決
23-4. 守るべきもの
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そのころ、桑名では奇怪な噂が広まりつつあった。
「この戦さ、どうやら義太夫殿と蒲生忠三郎殿の痴話喧嘩が発端らしい」
誰が流したとも知れぬ話が、さもありなんという口ぶりで人から人へと伝わり、面白半分に囁かれている。
「若殿。こりゃあ、まことのことで?」
津田小平次や木全彦次郎といった若い武将たちが、三九郎のもとへ押しかけてくる。その顔には、どこか好奇の色さえ浮かんでいる。
「聞いたこともない。誰がそんな戯言を広めた?」
三九郎は渋面を作りつつ答えるも、二人は引き下がらない。
「されど、義太夫殿が忠三郎殿の布団に無理やり潜り込もうとしたとか、そうした妙に具体的な話まで伝わっておりまする」
「戯けたことを申すな。くだらぬ噂に踊らされている場合ではあるまい」
三九郎が一喝するも、二人は尚も口を揃えて、
「いっそ殿に確かめてみては如何で?」
と詰め寄る。
「そのようなことを父上に告げた日には、お前たちの首が飛ぶ」
三九郎は厳しい口調で叱りつけるが、その胸中には消し去り難い困惑が生まれていた。
「峯城の兵糧はすでに尽きておりましょう。急ぎ開城させねば、義太夫が飢えて屍になることは避け得ぬものかと」
忠三郎からの連絡を受けた一益は、義太夫に開城を促すため、使者を送った。だが、その説得にも義太夫は頑として首を縦に振らない。
「泥水をすすり、木の皮を食してでも、城は渡しませぬ」
その言葉には、ただの意地や執念を超えた何かがあった。だが、義太夫の胸中にある真意を知る者はなく、その頑なな姿勢に周囲は戸惑うばかりだ。
峯城の兵糧は尽き、兵たちは疲弊しきっているという噂が絶えず流れる中で、義太夫だけが不屈の闘志を燃やし続けている。その異様な状況に、戦場の外では怪しげな噂話ばかりが広まっていった。
「峯城には、何か隠された宝があるのではないか」
「いや、義太夫は城を守るふりをして、自らの逃げ道を確保しているだけではないか」
「さにあらず。これは蒲生忠三郎との痴話喧嘩。忠三郎が折れるまでは城を明け渡さぬであろう」
まことしやかな話が人から人へと伝わり、さらに尾ひれをつけられて囁かれる。しかし、それらのどれもが真実に迫ることはなかった。義太夫がなぜそこまで開城を拒むのか――その理由は深い霧の中に隠され続けていた。
三九郎もまた、その頑強な拒絶の裏に隠された義太夫の心を測りかねていた。
義太夫と忠三郎の奇妙な噂が桑名中を賑わせるさなか、一益は重臣の佐治新介や道家彦八郎らと連日広間に籠り、密談を重ねている。人前に姿を見せぬその静けさが、かえって周囲に不穏な空気を漂わせている。
「峯城付近の村は、物見の報告通り、無残にも焼き払われておった」
一益が眉間に深い皺を刻みながら口を開く。
「義太夫め、兵糧を求めて村に兵を差し向けたものの、寄せ手に見つかり、それで争いとなった、というところでござりましょうな」
道家彦八郎がため息交じりに応じる。
「なんの不思議もござらぬ。峯城の兵糧など、一月も前に底をついておるに違いありませぬ」
佐治新介が肩をすくめ、呆れたように続けた。
「それにしても、よくもまああれほどのやせ我慢ができたもので。義太夫めが、なにゆえそこまでして粘っておるのでしょうな?」
その言葉に、一益は静かに目を閉じ、深い沈黙に沈んだ。義太夫がここまで頑強に開城を拒むとは、誰一人として予測していなかった。
無理をして城を守るなと厳命していたことを忘れるはずもない。新介が亀山から引き上げたのも気づいている筈だ。それでもなお、義太夫は峯城を固く守り続け、開城する素振りを一切見せない。
「あやつはあやつで、怒っておるのであろう」
「怒っておる…とは?」
「伊勢を荒らしに来た羽柴勢に…。あやつは長年、労苦して北勢を切り開き、治めてきた。その北勢を、己の都合で再び戦火の渦中に巻き込もうとする羽柴筑前や、その手勢に怒りを募らせておるのであろう」
義太夫の怒りは忠三郎や秀吉にのみ向けられたものなのだろうか。その怒りは単なる外敵へのものにとどまらないのではないか。
(あやつの怒りは、羽柴勢だけに留まらぬ。わしに対しても向けられておるやもしれぬ)
一益は思案に沈みながら、北勢という土地の特殊さを改めて思い返した。
この地は古くから多くの土豪が割拠し、個々の独立性が強く、統治の難しい地だ。そのため、滝川家がここを治めるにあたっては、内政のほとんどを義太夫と一益の弟である休天和尚に委ねてきた。義太夫は持ち前の人懐っこさで人心をつかみ、休天和尚は冷静沈着な判断力で土豪たちをまとめ上げた。
今、この北勢の者たちが滝川家に従い続けているのも、決して一益一人の力によるものではない。その陰には、義太夫と休天和尚、そして二人に声をかけられ、尽力した多くの者の存在があった。それはまさに、長年にわたる血のにじむような労苦の結実と言えるだろう。
「二人の労苦を分かってやることができなかったのかもしれぬ」
「は…二人とは…義太夫と…休天殿で?」
一益は無言でうなずく。
思い返せば、北勢を治める滝川家の繁栄は二人に多くを依存してきた。事ここに来て、義太夫が不平を抱き、反発するのも無理はない。義太夫にとって北勢を守ることは、単に滝川家の一分としての務めではなく、己が命をかけて育て上げた地への誇りそのものであったに違いない。
そして義太夫がそこまで心血を注いだ理由は…。
(あのときのあの言葉か)
一益の脳裏に、遠い日の記憶が甦る。義太夫や佐治新介ら、一益に従い甲賀を捨てて出てきた者たち――彼らは、一族から見放され、家系図からもその名を抹消された。
自分に付き従ったために、帰るべき古里を失った彼らが不憫だった。ただ、彼らに新たな拠り所を与えてやりたいという一心が、一益を突き動かしていた。
信長から北勢制圧を命じられたあの日、義太夫と二人きりになったとき、一益はこう告げた。
「この北勢を、我が家の新たな故国としよう」
「新たな故国?」
「然様。どこへ行ったとしても皆が帰る場所はこの北勢。この地に根を下ろし、我らの新しい歴史を刻むのじゃ」
あのとき、義太夫の顔に浮かんだ嬉しそうな顔――それは、何十年経っても心に深く刻まれている。
故郷を失った者たちに新たな拠り所を与える。その約束を胸に、義太夫は北勢の地に己の持てる力のすべてを注ぎ込んできた。
東海道の整備、日永の町づくり――それは単なる戦略の一環ではなく、住まう人々の暮らしを根底から支えるための努力だった。雑木林を切り開き、不毛の地に新たな息吹を吹き込む。天白川には堤を築き、流れを制して人々の営みを守った。その堤がもたらした肥沃な土壌により、興正寺の周りには豊かな田畑が広がり、かつては荒れ果てていた地が人々の糧を生む場所となった。
こうした成功は、義太夫一人の力だけでは成し得なかった。義太夫の横には常に休天和尚がいた。共に土地を歩き、汗を流し、地元の民たちに教え、励ましながら築き上げていったものだ。
これらのすべては、義太夫にとって、ただの「支配地」ではなかった。彼にとって北勢は、失われた故郷に代わる新たな故郷――血と汗で育まれた、何物にも代えがたい宝だったのだ。
北勢を守るという意地は、一益への忠誠心だけではなく、その新たな故郷を絶対に手放すまいとする義太夫の誇りであり、覚悟そのものなのだろう。
(あやつの北勢への執念は、わしとの約束ゆえか…)
一益は静かに目を伏せた。燃え盛る戦火の中、遠い昔の約束の重さを今さらながらに噛みしめていた。
(望んだ戦ではないにせよ…)
義太夫にとって、この戦は始めから納得のいくものではなかったのだろう。滝川家にとって大義名分があったとしても、義太夫が守り続けてきた北勢の地は、彼自身の血と汗で築き上げたものだ。その土地が羽柴勢の進軍によって荒らされ、また滝川家がその戦乱に加担する形になったことは、義太夫の誇りを傷つけたに違いない。
(義太夫にとって、この戦さは、滝川家のためのものではなく、己が育てた地を守るための闘いであったのかもしれぬ)
義太夫の立場を思うたび、その胸中に去来する感情がただ一つではないことを感じる。怒り、悲しみ、そして誇り――それらが複雑に絡み合い、義太夫を頑なにさせているのだろう。
(わしが義太夫の立場であったなら、果たしてどうしておったか…)
思いは尽きないが、今さら何を言っても後戻りはできない。今はただ、燃え広がる戦火の中に、その答えを探るしか術がなかった。
困り果てた忠三郎が、町野左近の一子・長門守を使者として桑名へ送り込んできたのは、その翌日のことだった。
「町野左近の子?」
三九郎が驚きの声を上げると、応対していた助九郎が肩を震わせながら笑いをこらえる。
「これがまた、父親に劣らぬ呆けた男でござります」
長門守は広間に通され、丁寧に使者の口上を述べたものの、控えの間に戻るや否や、勧められるままに三倍飯を平らげ、挙句、畳の上で豪快に鼾をかいて寝入ってしまったという。
(父親譲りの厚顔無恥さよ…)
三九郎は呆れるというよりも、もはや感嘆すら覚えた。
「それで、肝心の口上とは何を申しておったのだ?」
藤十郎が笑いを収めつつ答える。
「忠三郎様が、再度、義太夫殿に開城を促したいとのことで」
その真意がどこにあるのか、桑名の者たちは測りかねていたが、使者のあまりの能天気さに話の深刻さも薄れ、ただしばしの間、噂話の種となるだけだった。
一益は日永に使いを送り、休天を呼んで峯城に向かわせることにした。
「兄者は、かような時ばかり、わしに使いをよこしてくる」
休天和尚は、ひどく不満げに呟いたが、義太夫の命にかかわるとなれば放置はできない。
渋々ながらも重い腰を上げ、滝川藤十郎を伴って峯城へと向かうことになった。
「和尚様、道中の疲れには備えておられますか?」
藤十郎が軽口を叩きつつも気遣いを見せるが、休天は顔をしかめて言い放つ。
「疲れなど問題ではない。命じられるまま働くだけよ。それがわしの役目であろう」
その言葉には、皮肉も諦念も含まれている。今回の戦に異を唱えていたのは義太夫だけではない。再び北勢が火の海になるかもしれないと知り、休天もまた、心の内では戦さに反対していた。
(織田家へのつまらぬ義理立てのために、この伊勢を再び焼け野原にすると仰せになるのか)
休天は胸中でそう呟きながら、道中の景色をじっと見つめていた。義太夫と二人で長年かけて築き上げた北勢の地。その田畑や町並みが、この戦によって再び荒廃するかもしれないと思うと、やりきれない思いが募る。
休天が、再び桑名に戻ってきたのは四日後だった。
「首尾は?」
一益が落ち着いた口調で問いかけると、休天は渋い顔でひと呼吸置き、
「開城と相成りましてござります。明日には峯城を明け渡し、義太夫もこの桑名へ戻って参りましょう」
と低い声で応じた。
一益は、わずかに目を閉じて小さく息を吐いた。長い攻防に終止符が打たれることへの安堵とともに、義太夫の心中を思えば手放しで喜ぶこともできなかった。
「よく説得してくれた。大儀であった」
一益の言葉に、休天は軽く頭を下げたものの、表情にはどこか複雑な色が残っていた。
「兄上。義太夫は最後まで苦渋の表情を浮かべておりました。この戦さが、義太夫にとっていかに辛きものであるか…」
休天の声に、わずかな湿り気が混じる。
一益は黙然と頷くと、視線を天井に投げたまま、しばしの間、何かを思案している。
「では、明後日にはここへ戻ってくるのじゃな」
その低い声には、どこか安堵と複雑な感情が入り交じっていた。
長く続いた峯城の攻防が終わり、これでようやく全員が桑名に揃う。戦火に揺れる北勢の地にとっては、一つの節目と言えるだろう。しかし、喜びに沸き立つような空気はそこにはない。
休天はただ静かに頭を下げると、
「仰せの通り、明後日には義太夫が兵を連れて戻りましょう」
と答えた。その言葉が響く広間の静けさが、全てを物語っているようだった。
一益はその場から立ち上がり、休天の方を向くと、
「大儀であった。しばらく休め」
とだけ告げて休天を下がらせた。
休天が去ったあと、一益は広間にひとり残り、静かに天井を見上げたまま動こうとしなかった。長年ともに歩んできた義太夫の心中を思うと、この穏やかな一刻さえ、胸の奥にわずかな棘のような痛みを残していた。
しかし、明後日、さらにはその次の日になっても、義太夫が桑名へ戻る気配はなかった。
「峯城は開城したのか?」
一益が問うと、佐治新介が物見の報告を携えて答えた。
「はい。二日前には確かに開城したとのことでございます」
「では、義太夫はいずこへ参った?」
義太夫が桑名に姿を見せないことに、広間の空気は徐々に緊迫したものになっていく。
「戻ってきた兵の話では、義太夫は今なお、忠三郎の陣中に留め置かれているとのことにございます」
「何?」
三九郎が憤慨して声を上げた。
「城を開けば、桑名への退去を認めると約したではないか。それを反故にするとは、忠三郎め、約定を違えたのでござりましょう!」
一益は三九郎の言葉に目を閉じ、思案した。
「あれは謀を弄するような者ではないが…」
忠三郎に限って、軽々しく約束を破るとは思えない。
では、義太夫の身には何が起きたのだろうか?一益の胸中に重くのしかかる問いは、なおも答えを得られぬままだ。
「新介、物見をさらに増やし、義太夫の所在を細かに探らせよ」
「畏まりました」
佐治新介が深々と頭を下げ、広間を辞した後、一益はしばし窓の外を眺めた。
春浅き桑名の空には、薄紅色の霞がたなびき、風に舞う花びらが水面に浮かぶ。彼方の山裾には柔らかな陽光が降り注ぎ、草木がほのかな緑の色を見せ始めていた。
「義太夫も、この風を感じておろうか…」
一益はふと、義太夫の姿を思い浮かべる。幾たびも険しい戦場を駆け抜けたその背中は、いまどこで何を背負っているのか。
春の風は柔らかに吹き抜けるというのに、その暖かさが胸の重みを和らげることはない。桑名の地を再び火に包むかもしれぬこの戦さが、義太夫にとって、いや自分にとって何を意味するのか。答えはまだ見えぬままだ。
庭先に咲く山吹の花が揺れ、やがて一益は重い足を引きずるように広間を出た。その後ろ姿を包むのは、どこか取り返しのつかぬものを抱え込んだような静寂だけであった。
「この戦さ、どうやら義太夫殿と蒲生忠三郎殿の痴話喧嘩が発端らしい」
誰が流したとも知れぬ話が、さもありなんという口ぶりで人から人へと伝わり、面白半分に囁かれている。
「若殿。こりゃあ、まことのことで?」
津田小平次や木全彦次郎といった若い武将たちが、三九郎のもとへ押しかけてくる。その顔には、どこか好奇の色さえ浮かんでいる。
「聞いたこともない。誰がそんな戯言を広めた?」
三九郎は渋面を作りつつ答えるも、二人は引き下がらない。
「されど、義太夫殿が忠三郎殿の布団に無理やり潜り込もうとしたとか、そうした妙に具体的な話まで伝わっておりまする」
「戯けたことを申すな。くだらぬ噂に踊らされている場合ではあるまい」
三九郎が一喝するも、二人は尚も口を揃えて、
「いっそ殿に確かめてみては如何で?」
と詰め寄る。
「そのようなことを父上に告げた日には、お前たちの首が飛ぶ」
三九郎は厳しい口調で叱りつけるが、その胸中には消し去り難い困惑が生まれていた。
「峯城の兵糧はすでに尽きておりましょう。急ぎ開城させねば、義太夫が飢えて屍になることは避け得ぬものかと」
忠三郎からの連絡を受けた一益は、義太夫に開城を促すため、使者を送った。だが、その説得にも義太夫は頑として首を縦に振らない。
「泥水をすすり、木の皮を食してでも、城は渡しませぬ」
その言葉には、ただの意地や執念を超えた何かがあった。だが、義太夫の胸中にある真意を知る者はなく、その頑なな姿勢に周囲は戸惑うばかりだ。
峯城の兵糧は尽き、兵たちは疲弊しきっているという噂が絶えず流れる中で、義太夫だけが不屈の闘志を燃やし続けている。その異様な状況に、戦場の外では怪しげな噂話ばかりが広まっていった。
「峯城には、何か隠された宝があるのではないか」
「いや、義太夫は城を守るふりをして、自らの逃げ道を確保しているだけではないか」
「さにあらず。これは蒲生忠三郎との痴話喧嘩。忠三郎が折れるまでは城を明け渡さぬであろう」
まことしやかな話が人から人へと伝わり、さらに尾ひれをつけられて囁かれる。しかし、それらのどれもが真実に迫ることはなかった。義太夫がなぜそこまで開城を拒むのか――その理由は深い霧の中に隠され続けていた。
三九郎もまた、その頑強な拒絶の裏に隠された義太夫の心を測りかねていた。
義太夫と忠三郎の奇妙な噂が桑名中を賑わせるさなか、一益は重臣の佐治新介や道家彦八郎らと連日広間に籠り、密談を重ねている。人前に姿を見せぬその静けさが、かえって周囲に不穏な空気を漂わせている。
「峯城付近の村は、物見の報告通り、無残にも焼き払われておった」
一益が眉間に深い皺を刻みながら口を開く。
「義太夫め、兵糧を求めて村に兵を差し向けたものの、寄せ手に見つかり、それで争いとなった、というところでござりましょうな」
道家彦八郎がため息交じりに応じる。
「なんの不思議もござらぬ。峯城の兵糧など、一月も前に底をついておるに違いありませぬ」
佐治新介が肩をすくめ、呆れたように続けた。
「それにしても、よくもまああれほどのやせ我慢ができたもので。義太夫めが、なにゆえそこまでして粘っておるのでしょうな?」
その言葉に、一益は静かに目を閉じ、深い沈黙に沈んだ。義太夫がここまで頑強に開城を拒むとは、誰一人として予測していなかった。
無理をして城を守るなと厳命していたことを忘れるはずもない。新介が亀山から引き上げたのも気づいている筈だ。それでもなお、義太夫は峯城を固く守り続け、開城する素振りを一切見せない。
「あやつはあやつで、怒っておるのであろう」
「怒っておる…とは?」
「伊勢を荒らしに来た羽柴勢に…。あやつは長年、労苦して北勢を切り開き、治めてきた。その北勢を、己の都合で再び戦火の渦中に巻き込もうとする羽柴筑前や、その手勢に怒りを募らせておるのであろう」
義太夫の怒りは忠三郎や秀吉にのみ向けられたものなのだろうか。その怒りは単なる外敵へのものにとどまらないのではないか。
(あやつの怒りは、羽柴勢だけに留まらぬ。わしに対しても向けられておるやもしれぬ)
一益は思案に沈みながら、北勢という土地の特殊さを改めて思い返した。
この地は古くから多くの土豪が割拠し、個々の独立性が強く、統治の難しい地だ。そのため、滝川家がここを治めるにあたっては、内政のほとんどを義太夫と一益の弟である休天和尚に委ねてきた。義太夫は持ち前の人懐っこさで人心をつかみ、休天和尚は冷静沈着な判断力で土豪たちをまとめ上げた。
今、この北勢の者たちが滝川家に従い続けているのも、決して一益一人の力によるものではない。その陰には、義太夫と休天和尚、そして二人に声をかけられ、尽力した多くの者の存在があった。それはまさに、長年にわたる血のにじむような労苦の結実と言えるだろう。
「二人の労苦を分かってやることができなかったのかもしれぬ」
「は…二人とは…義太夫と…休天殿で?」
一益は無言でうなずく。
思い返せば、北勢を治める滝川家の繁栄は二人に多くを依存してきた。事ここに来て、義太夫が不平を抱き、反発するのも無理はない。義太夫にとって北勢を守ることは、単に滝川家の一分としての務めではなく、己が命をかけて育て上げた地への誇りそのものであったに違いない。
そして義太夫がそこまで心血を注いだ理由は…。
(あのときのあの言葉か)
一益の脳裏に、遠い日の記憶が甦る。義太夫や佐治新介ら、一益に従い甲賀を捨てて出てきた者たち――彼らは、一族から見放され、家系図からもその名を抹消された。
自分に付き従ったために、帰るべき古里を失った彼らが不憫だった。ただ、彼らに新たな拠り所を与えてやりたいという一心が、一益を突き動かしていた。
信長から北勢制圧を命じられたあの日、義太夫と二人きりになったとき、一益はこう告げた。
「この北勢を、我が家の新たな故国としよう」
「新たな故国?」
「然様。どこへ行ったとしても皆が帰る場所はこの北勢。この地に根を下ろし、我らの新しい歴史を刻むのじゃ」
あのとき、義太夫の顔に浮かんだ嬉しそうな顔――それは、何十年経っても心に深く刻まれている。
故郷を失った者たちに新たな拠り所を与える。その約束を胸に、義太夫は北勢の地に己の持てる力のすべてを注ぎ込んできた。
東海道の整備、日永の町づくり――それは単なる戦略の一環ではなく、住まう人々の暮らしを根底から支えるための努力だった。雑木林を切り開き、不毛の地に新たな息吹を吹き込む。天白川には堤を築き、流れを制して人々の営みを守った。その堤がもたらした肥沃な土壌により、興正寺の周りには豊かな田畑が広がり、かつては荒れ果てていた地が人々の糧を生む場所となった。
こうした成功は、義太夫一人の力だけでは成し得なかった。義太夫の横には常に休天和尚がいた。共に土地を歩き、汗を流し、地元の民たちに教え、励ましながら築き上げていったものだ。
これらのすべては、義太夫にとって、ただの「支配地」ではなかった。彼にとって北勢は、失われた故郷に代わる新たな故郷――血と汗で育まれた、何物にも代えがたい宝だったのだ。
北勢を守るという意地は、一益への忠誠心だけではなく、その新たな故郷を絶対に手放すまいとする義太夫の誇りであり、覚悟そのものなのだろう。
(あやつの北勢への執念は、わしとの約束ゆえか…)
一益は静かに目を伏せた。燃え盛る戦火の中、遠い昔の約束の重さを今さらながらに噛みしめていた。
(望んだ戦ではないにせよ…)
義太夫にとって、この戦は始めから納得のいくものではなかったのだろう。滝川家にとって大義名分があったとしても、義太夫が守り続けてきた北勢の地は、彼自身の血と汗で築き上げたものだ。その土地が羽柴勢の進軍によって荒らされ、また滝川家がその戦乱に加担する形になったことは、義太夫の誇りを傷つけたに違いない。
(義太夫にとって、この戦さは、滝川家のためのものではなく、己が育てた地を守るための闘いであったのかもしれぬ)
義太夫の立場を思うたび、その胸中に去来する感情がただ一つではないことを感じる。怒り、悲しみ、そして誇り――それらが複雑に絡み合い、義太夫を頑なにさせているのだろう。
(わしが義太夫の立場であったなら、果たしてどうしておったか…)
思いは尽きないが、今さら何を言っても後戻りはできない。今はただ、燃え広がる戦火の中に、その答えを探るしか術がなかった。
困り果てた忠三郎が、町野左近の一子・長門守を使者として桑名へ送り込んできたのは、その翌日のことだった。
「町野左近の子?」
三九郎が驚きの声を上げると、応対していた助九郎が肩を震わせながら笑いをこらえる。
「これがまた、父親に劣らぬ呆けた男でござります」
長門守は広間に通され、丁寧に使者の口上を述べたものの、控えの間に戻るや否や、勧められるままに三倍飯を平らげ、挙句、畳の上で豪快に鼾をかいて寝入ってしまったという。
(父親譲りの厚顔無恥さよ…)
三九郎は呆れるというよりも、もはや感嘆すら覚えた。
「それで、肝心の口上とは何を申しておったのだ?」
藤十郎が笑いを収めつつ答える。
「忠三郎様が、再度、義太夫殿に開城を促したいとのことで」
その真意がどこにあるのか、桑名の者たちは測りかねていたが、使者のあまりの能天気さに話の深刻さも薄れ、ただしばしの間、噂話の種となるだけだった。
一益は日永に使いを送り、休天を呼んで峯城に向かわせることにした。
「兄者は、かような時ばかり、わしに使いをよこしてくる」
休天和尚は、ひどく不満げに呟いたが、義太夫の命にかかわるとなれば放置はできない。
渋々ながらも重い腰を上げ、滝川藤十郎を伴って峯城へと向かうことになった。
「和尚様、道中の疲れには備えておられますか?」
藤十郎が軽口を叩きつつも気遣いを見せるが、休天は顔をしかめて言い放つ。
「疲れなど問題ではない。命じられるまま働くだけよ。それがわしの役目であろう」
その言葉には、皮肉も諦念も含まれている。今回の戦に異を唱えていたのは義太夫だけではない。再び北勢が火の海になるかもしれないと知り、休天もまた、心の内では戦さに反対していた。
(織田家へのつまらぬ義理立てのために、この伊勢を再び焼け野原にすると仰せになるのか)
休天は胸中でそう呟きながら、道中の景色をじっと見つめていた。義太夫と二人で長年かけて築き上げた北勢の地。その田畑や町並みが、この戦によって再び荒廃するかもしれないと思うと、やりきれない思いが募る。
休天が、再び桑名に戻ってきたのは四日後だった。
「首尾は?」
一益が落ち着いた口調で問いかけると、休天は渋い顔でひと呼吸置き、
「開城と相成りましてござります。明日には峯城を明け渡し、義太夫もこの桑名へ戻って参りましょう」
と低い声で応じた。
一益は、わずかに目を閉じて小さく息を吐いた。長い攻防に終止符が打たれることへの安堵とともに、義太夫の心中を思えば手放しで喜ぶこともできなかった。
「よく説得してくれた。大儀であった」
一益の言葉に、休天は軽く頭を下げたものの、表情にはどこか複雑な色が残っていた。
「兄上。義太夫は最後まで苦渋の表情を浮かべておりました。この戦さが、義太夫にとっていかに辛きものであるか…」
休天の声に、わずかな湿り気が混じる。
一益は黙然と頷くと、視線を天井に投げたまま、しばしの間、何かを思案している。
「では、明後日にはここへ戻ってくるのじゃな」
その低い声には、どこか安堵と複雑な感情が入り交じっていた。
長く続いた峯城の攻防が終わり、これでようやく全員が桑名に揃う。戦火に揺れる北勢の地にとっては、一つの節目と言えるだろう。しかし、喜びに沸き立つような空気はそこにはない。
休天はただ静かに頭を下げると、
「仰せの通り、明後日には義太夫が兵を連れて戻りましょう」
と答えた。その言葉が響く広間の静けさが、全てを物語っているようだった。
一益はその場から立ち上がり、休天の方を向くと、
「大儀であった。しばらく休め」
とだけ告げて休天を下がらせた。
休天が去ったあと、一益は広間にひとり残り、静かに天井を見上げたまま動こうとしなかった。長年ともに歩んできた義太夫の心中を思うと、この穏やかな一刻さえ、胸の奥にわずかな棘のような痛みを残していた。
しかし、明後日、さらにはその次の日になっても、義太夫が桑名へ戻る気配はなかった。
「峯城は開城したのか?」
一益が問うと、佐治新介が物見の報告を携えて答えた。
「はい。二日前には確かに開城したとのことでございます」
「では、義太夫はいずこへ参った?」
義太夫が桑名に姿を見せないことに、広間の空気は徐々に緊迫したものになっていく。
「戻ってきた兵の話では、義太夫は今なお、忠三郎の陣中に留め置かれているとのことにございます」
「何?」
三九郎が憤慨して声を上げた。
「城を開けば、桑名への退去を認めると約したではないか。それを反故にするとは、忠三郎め、約定を違えたのでござりましょう!」
一益は三九郎の言葉に目を閉じ、思案した。
「あれは謀を弄するような者ではないが…」
忠三郎に限って、軽々しく約束を破るとは思えない。
では、義太夫の身には何が起きたのだろうか?一益の胸中に重くのしかかる問いは、なおも答えを得られぬままだ。
「新介、物見をさらに増やし、義太夫の所在を細かに探らせよ」
「畏まりました」
佐治新介が深々と頭を下げ、広間を辞した後、一益はしばし窓の外を眺めた。
春浅き桑名の空には、薄紅色の霞がたなびき、風に舞う花びらが水面に浮かぶ。彼方の山裾には柔らかな陽光が降り注ぎ、草木がほのかな緑の色を見せ始めていた。
「義太夫も、この風を感じておろうか…」
一益はふと、義太夫の姿を思い浮かべる。幾たびも険しい戦場を駆け抜けたその背中は、いまどこで何を背負っているのか。
春の風は柔らかに吹き抜けるというのに、その暖かさが胸の重みを和らげることはない。桑名の地を再び火に包むかもしれぬこの戦さが、義太夫にとって、いや自分にとって何を意味するのか。答えはまだ見えぬままだ。
庭先に咲く山吹の花が揺れ、やがて一益は重い足を引きずるように広間を出た。その後ろ姿を包むのは、どこか取り返しのつかぬものを抱え込んだような静寂だけであった。
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