滝川家の人びと

卯花月影

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5 狂せる者

5-6. 雷鳴と光の下で

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 そもそも、もともとは同盟関係にあった武田と、なぜ戦うことになったのか――その理由は、将軍・足利義昭の動きが背後にあることは明らかだが、それだけではなかった。
 信長は、武田信玄から受け取った文書の詳細を家臣たちに伝えることはなかった。だが、戦さに長けた信玄が同盟を破棄し、上洛を目指していると知れば、織田家の家臣たちも平静ではいられない。
(叡山を焼き払ったことに怒った信玄が兵を挙げたのではないか)――と、誰ともなく囁く声が広まる。噂はあっという間に城内を駆け巡り、織田家が抱える敵の多さを、家中に知らしめることになった。
 一益も胸に去来する思いを抱えつつ、口にすることはなかった。
 しかし、信長にとって最大の危機は、思わぬ形で回避された。
 その巨人は風のごとく去った。甲斐の山をも動かすと恐れられた信玄は、病に倒れ、戦場に姿を現すことなく息を引き取ったのである。家臣たちは息をつき、
(まこと、上様は強運であらせられる)
 と心中で呟いた。信長が天下を取ること――それが天命なのだと、皆、思った。
 胸をなでおろしたのもつかの間、今度は信玄の後を継いだ武田勝頼が、美濃を脅かし始めた。野戦において、武田は依然として最強の騎馬隊を擁している。 織田家は過去、何度もその強さに煮え湯を飲まされてきた。

 ある夜、信長は一益を呼び出した。
「武田を葬り去らねばなるまいて」
 一益は深く頭を垂れ、静かに頷いた。言葉を選びながら口を開く。
「我らは四方に敵を抱える身。武田のみを相手取る余裕はございませぬ。されど――武田を内より崩すことならば、手立てはありましょう」
「左近に策はあるか?」
 信長の眼光が、闇の中でぎらりと光る。その鋭さは、言葉以上に「策を申せ」と迫っていた。
「調略により武田家を内側から崩す。そのためには、まず我らが強さを示さねばなりませぬ」
 一益は声を落とし、さらに言葉を重ねる。
「我が方が勝てる戦に誘いだしては如何なものかと」
「勝てる戦とな?」
 信長の唇がわずかに緩む。
「鉄砲にかけるほかありませぬ。敵が鉄砲隊に突撃せざるを得ぬよう、巧みに仕組めば――勝機は自ずから我らに転がり込みましょう」
 広間には、言葉を超えた緊張が張りつめた。
 信長と一益、互いに多くを語らずとも読み合える同士である。叡山焼き討ち、長島の戦、信玄の死、勝頼の台頭――そのすべてが、この一夜に向けて張り巡らされた伏線であるかのように。

――そして今。
 この戦は、何年も前から武田に仕掛けた壮大な罠だ。
 武田を誘い込むため、あえて三河侵攻を許した。足助城、浅賀井城、阿須利城、八桑城、大沼城、田代城――そのすべてを、あえて武田の手に落とさせたのだ。勢いづいた勝頼は、信長が動かぬのを好機と見て、徳川勢を翻弄しながら進軍を重ねていた。
(このまま誘い出せれば…)
 一益は庭先に目をやり、そよぐ風を頬に受けながら胸中で策を巡らせる。
(大軍の存在を悟らせぬよう、兵を徹底して隠す。そして武田の騎馬が突撃してくるとき――三千挺の鉄砲が一斉に火を噴く。その瞬間、勝頼の軍は音を立てて崩れる)
 足利義昭の思惑も、本願寺の策も、すべてはこの計略の中に絡め取ってきた。
 戦は、ただ兵をぶつけるものではない。敵の心を読み、勢いを逆手に取り、時には天をも味方に引き込む。
(これぞ我らの戦術)
 そして今、その戦術を現実の布陣として形にするときが来た。

 織田勢が徳川勢と合流し、設楽原に陣を敷いたのは五月十八日。
 梅雨の重き雲が垂れこめ、三日前から途絶えることなく雨が降り続いている。前を流れる川は濁りを増し、天然の堀のごとく軍を守り、その背後では切り出した木材を並べ、計画通り陣城が築かれていった。
「やはり上様がおられるゆえ、なかなか雨がやまぬなぁ」
 佐治新介が肩口を濡らしながら、冗談めかしてつぶやく。
「滅多なことを申すな」
 道家彦八郎があたりを窺い、たしなめた。
 そのやり取りを、一益は黙って見ていた。肩口に雨粒が弾けるたび、衣の生地がじわじわと重みを増していく。だがその目には、一片の迷いもなく冷静な計算が宿っている。伏兵の配置、鉄砲隊の位置、敵を誘い込む間合い――すべてが頭の中で立体の絵図となり、刻一刻と動いていた。
(左翼の丘には鉄砲三百、右翼にはさらに二百、中央の低地には隠し兵千。まずは騎馬隊を勢いづかせ、泥濘に足を取らせる。そこへ一斉に銃火を浴びせかければ――武田の矛先は折れる)
 陣営では、兵たちが雨の中で杭を打ち込み、縄を引き締める音が絶え間なく響いていた。濡れた木槌が泥を跳ね飛ばし、湿った縄の繊維がきしむ。濁流となった川は、唸るような水音を立て、天然の堀として軍勢を守っている。鼻をつく湿土の匂い、伐り出した木の新しい香りが、戦支度のただなかに充満していた。
(武田四郎よ、この設楽原こそ、おぬしが我らの罠にかかる舞台――すべてはここで決まる)
 広間で交わされた信長との密談が、今ようやく戦術として現実の形を帯びる。
 川の水音、木の香、湿った土――それらすべてが、戦場に息づく証人となる。
 胸中でそう呟きながら、一益は三九郎を呼び寄せる。やがて茶臼山、信長本陣にて最終評定が行われる刻が迫っていた。

 ほぼ諸将が揃ったところで、信長は短冊を手に取り、和歌を詠んだ。

 「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かな」
     
 雨脚が帷幕を打ち、土の匂いがむせ返るほどに立ちこめる中、信長の声音は不思議と澄んでいた。その余裕に誰もが目を奪われるが、並み居る諸将の胸には緊張が走る。
(この雨の中、武田の騎馬隊が一気に押し寄せれば――)
 一益は湿地も伏兵も「計算のうち」と自らに言い聞かせる。だが一瞬の油断で総崩れになる。その重みだけは、雨よりも重く肩にのしかかっていた。
 信長の和歌は同時に、「この戦は我が掌中にあり」と告げる狼煙でもあった。茶臼山の松が風にしなるたび、雨粒が頬を叩き、決戦の刻が迫る。
 そこへ、低い声が洩れた。
「敵が攻めかかるのを待ち、火縄銃で狙うなど卑怯な策。果たして武田に通ずるものか…」
 三九郎はぎょっとして一益の顔を見たが、一益は泰然と構えたまま、眉ひとつ動かさない。
 だが、周囲を窺えば、何人かの武将が密かに頷いていた。湿った衣がこすれる音さえ耳につく。
「然様。このまま雨が降り続いたら、鉄砲なんぞは使い物にはならぬじゃろう」
 声の主を三九郎はじっと見据える。
(あれは…確か章姫を武田に連れて行った織田掃部とかいう…)
 おつやの方と秋山虎繁の婚儀にも関わった、織田家の連枝。その口から出た言葉に、場が一瞬ざわついた。
「上様。いまからでも遅くはござらぬ。戦略を改められては如何か」
 ざわめきが広がり、湿った空気がさらに重くなる。三九郎の耳にも「尤もだ」「全くもって…」と小声が届いた。諸将の目が互いに交わり、濡れた本陣に不穏な気配が漂う。

 信長も一益も沈黙したまま。
 三九郎は息を詰め、次の瞬間を待った。
 そのとき、雨音を割って、ひときわ通る声が響いた。
「それには及びませぬ!」
 ざわめいていた将たちが一斉に振り返る。声の主は、若き蒲生忠三郎であった。
「なんじゃ、小童。かように雨が降り続いておるというに」
 織田掃部が不機嫌そうに眉をひそめる。
 忠三郎は濡れた髪を払い、飄々とした笑みを浮かべて言った。
「ご案じ召さるな。この雨は今だけ。いざ合戦の刻となれば、必ずや晴れましょう」
「なにを根拠に申すか」
 掃部が鼻を鳴らすと、忠三郎は肩をすくめて、空を仰ぐ。
「上様は天をも味方につける御方。されば、この雨すら勝利を飾る露にござります。天命我にあり。やがて雲は払われ、我らが鉄砲は武田の騎馬を余すところなく撃ち伏せましょうぞ」
 湿り気を帯びた空気の中に、思わず失笑が漏れた。重苦しい雲に押しつぶされそうだった将たちの顔に、かすかな笑みが走る。三九郎もまた、忠三郎の場慣れした口ぶりに目を奪われ、息をつくのも忘れた。
 一益も口の端をわずかに上げたが、織田掃部は狐につままれたような顔をして、
「語るに落ちるとはこのことよ…」
と呟く。
 雨脚は相変わらず強い。だが、そのひととき、設楽原の湿った空気には確かに風穴が開いた。
 
 軍議が終わると、三九郎は忠三郎に近づき、肩に落ちる雨粒を払いながら声をかけた。
「忠三郎、おぬし、何故に雨はあがるなどと大言壮語を…」
 心配顔の三九郎をよそに、忠三郎は雨に濡れるのも気にせず、くったくない笑顔を返す。
(この自信はどこからくるのか…)
 羨ましいほどの余裕の笑顔。
(かように心を軽く、されど腹の内には確かな覚悟をもつことができれば…)
 この年にしてこの貫禄。これこそが忠三郎が忠三郎たる所以なのかもしれない。

「鶴、大見得を張ったのう」
 一益が濡れた裾を払いつつ近づき、静かにそう言った。
 忠三郎は朗らかに笑い、
「はい。されど、まことにそう思うておるゆえ」
 と応じる。その声には雨雲を突き破るような明るさがあった。
 三九郎は驚きの色を浮かべる。
「大見得であったか。雨があがらなんだら、如何いたす?」
 大恥をかくだけではないかと心配するが、忠三郎は全く意に介していない。
「何も案ずることはない。さて、陣城のほうは準備万端整っておるかな」
 そう言い残し、雨に濡れた陣幕の間を軽やかに戻っていく背中は、浮世の憂いをものともせぬ様子であった。その姿を見送りながら、三九郎は改めてその肝の太さに言葉を失った。
「時々、忠三郎という奴が、人ならざるもののように見えまする」
 三九郎が呟くと、一益はわずかに目を細め、雨粒を払う。
「昔から面妖な奴じゃ。またつまらぬ了見でおるのじゃろう」
 一益はそう思いながらも、忠三郎の大言壮語に、どこか計り知れぬ意図を感じていた。

 二日後。突貫工事ながら陣城らしい形がようやく整った。
 夕暮れの空には鉛色の雲が垂れこめ、川向こうでは囮部隊が泥に足を取られながらも、武田勢を挑発している。雨脚は弱まることなく続き、大地はぐずぐずとした泥濘《ぬかるみ》に変わり、歩くだけでも難儀だった。
「殿、明日はいよいよ決戦となりましょう。さりながらこの雨は…」
 新介が仰いだ空から、またひとしずく、頬に落ちた。重苦しい気配が帷幕の中にも漂う。
「皆を呼び集めよ」
 一益の低い声に従い、家臣たちが帷幕に集った。
「申すまでもあるまい」
 と言うと、
「それは無論のこと」
 家臣たちが頷く。
 一益の一言に、皆は重々しく頷いた。
 雨が止まず鉄砲が使えぬまま武田勢が押し寄せれば、三重の柵を突破される可能性もある。だが後退の余地はない。
 一益の陣は味方の中央に構え、その背後には信長本陣がある。滝川勢が崩れれば全軍が瓦解し、敗走は必至だった。
「この場を死に場所と定め、なんとしても死守する覚悟でござります」
 道家彦八郎が真剣な顔で言った。
 重い沈黙が広がる。だがその空気を破ったのは義太夫だった。
「いやいや皆の衆。そう案ずることはない。鶴は、必ず雨があがると大見得きっておったとか言うではありませぬか」
 その飄々とした口ぶりに、張りつめた家臣たちの顔にも、思わず小さな笑みが漏れた。雨音が続く中、わずかに和らいだ空気が帷幕を包む。

 そのとき、外の雨音に混じって、ざわめきと馬のいななきが帷幕を震わせた。
「何事じゃ…」
 一益が低く声を放つや、滝川助太郎が泥だらけの裾を翻して駆け込んでくる。
「殿っ、申し訳ござりませぬ! それがし、全力でお止めいたしたのですが――!」
 息も絶え絶えに、助太郎は後ろを振り返る。

 その背後から、雨をものともせぬ笑顔で、忠三郎がするりと帷幕に滑り込んできた。
「義兄上、それがしも共に戦うため、我が軍勢をひきつれて参りました」
 助太郎は頭を抱えて正座し、半泣きで訴える。
「殿! それがしは必死で食い止めたのでござります! 町野殿も共に押しとどめようとしたのですが、堤に押し寄せる洪水のごとく――!」
 一益は不機嫌そうに眉をひそめ、
「そなたの助けを借りねばならぬほど、窮してはおらぬ」
 と冷ややかに言い放った。
 助太郎は土下座せんばかりに肩をすくめ、
「殿のお言葉、ごもっともにござります…されど、この御仁、人の話をまるでお聞きになられませぬゆえ…!」
 と、忠三郎を指してはまた慌てふためく。
 忠三郎は涼しい顔で片膝をつき、雨に濡れた肩をぬぐいながら言った。
「義兄上は誇り高きもののふ。それがしの力などは借りとうないと、そう仰せになると思い、早、上様のお許しを得て参上仕った次第。何卒、我らも末席に加えていただきたく」
 三九郎が目を丸くして問いかける。
「忠三郎、よもや最初からそのつもりで、皆の前であのような大見得を切ったのか」
「かようなつまらぬことを目論んでおると思うたわ」
 一益が呆れて言うと、忠三郎は常の笑顔を浮かべ、
「あの日、天に誓いました。姓は違えども兄弟の契りを結びしから――」
 その言葉に義太夫が大声で笑い出す。
「桃園結義ではないか! 芝居がかりも大概にせい!」
 助太郎は額に手を当て、雨よりも重い溜息を洩らした。
 義太夫の指摘通り、苦虫を噛み潰したような顔の一益に対し、居並ぶ家臣たちは皆、一益の面目を思い下を向き、笑うに笑えない。
 忠三郎は少し照れたように笑みを浮かべ、
「義兄上。皆に振舞うため、酒を持って参りました」
「おお、鶴殿、よう分かっておる!桃園結義では三百余の者が酒宴を開いたと伝わるのう」
 酒と聞いて佐治新介が嬉しそうに身を乗り出した。
「父上…、よろしいので?」
 三九郎が恐る恐るそう聞くと、一益が渋々頷く。
 忠三郎がそれを見届け、にこやかに帷幕の外に呼びかけた。
「長門、義兄上のお許しがでた。用意の酒をこれへ」
 と帷幕の外へ呼びかけた。
 帷幕の外から、雨に濡れた兵たちが、桶や壺を抱えて走ってくる。
 その光景に、義太夫はまたもや声をあげて笑った。
「ははは、おぬし、やはり人ならぬ奴よ。戦さの前に笑いを忘れぬとは、実に面白き!」
 忠三郎の朗らかな声と、雨に混じる兵たちの足音、そして義太夫の笑い声が響き渡る。重苦しい夜も、わずかな笑いと酒の匂いに、兵たちの心が少し軽くなった。
 
 やがて夜も更け、雨足は小雨に変わりつつあるように見えた。
 家臣たちが寝静まった帷幕の中、一益は一人、遠く武田勢が陣を敷いていると思しき方向を見つめていた。
(敵はどこを狙ってくるか…)
 突撃してくるとすれば、押せば崩れる佐久間信盛の陣を狙うだろう。左に佐久間、右に羽柴秀吉が陣を構えている。
(佐久間が崩れれば、こちらもたちまち危うい…)
 滝川勢の陣も連鎖的に危機にさらされることになる。
 目の前の川を隔てて広がる暗闇の向こうに、武田の騎馬隊の影がうごめく様を想像する。遠くで馬の嘶きが、雨音にかき消されそうに響く。一益は静かに唇を引き結んだ。
「もしや、これは雨がやむかもしれませぬな」
 背後から、忠三郎の明るい声が雨音に混じって響いた。
 一益がチラリと振り返り、微笑を浮かべて言う。
「そなたが参ったからのう」
 忠三郎は嬉しそうに目を輝かせ、肩を軽く揺らしながら返す。
「ようやく義兄上にお許しいただけたようで」
「わしの傍におる以上、一人で敵陣に飛び込むような真似は許さぬ。しかと心得よ」
「無論、心得ておりまする」
 明るく、何事もないかのように忠三郎は答える。その瞳には、心得ていないどころか、冒険心に満ちた光が宿っていた。
「一羽の雀さえ、デウスの許しなくば、地に落ちることはなく、人の命も、司るのは人にあらず、己にあらず、ただデウスのみと、そう聞き及びました」
「ロレンソがそう申したか」
「はい。その者が生きるも死ぬるも、この地が造られる前からデウスが定めたことと」
(あやつ、いらぬことばかり言いおる)
 よりによって、忠三郎にそんなことを言うとは。
「ロレンソに何を吹き込まれたか知らぬが、無闇に敵中に突き進むな」
 一益が不機嫌そうに言うと、忠三郎はにっこりと頷き、目を輝かせながら答えた。
「此度は義兄上とともに、敵をこの場に留めて上様の本陣には人ひとり通さぬと決めておりまする」
 いつまでたっても忠三郎が危うく思えるのは、自分が年を重ねたせいなのかもしれぬと苦笑しつつも、しつこく念押しをしなければ気が気ではなかった。
「潔さだけでは戦さには勝てぬ。ともすれば戦さはもののふの手慰み(趣味)となりがちで、無辜の民を生贄とし、無為に兵を死に追いやる。将たるものは、己一人の判断が皆を死地に立たせるかもしれぬことを常に念頭におかねばならぬ」
 古来より無策の指揮官によって兵の命がいたずらに失われてきた例は枚挙にいとまがない。
「死生命有り、富貴天に在り。義兄上、士は己を知る者のために死すと申します」
 忠三郎からは何の気負いも感じられない。常と変わらぬ笑顔でそう言う。
「もうよい。何を言うてもそなたの意思は変わらぬのであろう」
 一益が深いため息を洩らすと、帷幕の隅でじっと聞いていた義太夫がぽつりと口を挟んだ。
「殿。いっそ鶴の鎧に『前へ出るべからず』と大書して貼り付けては如何でござります?」
 助太郎が慌てて「いや、それでは敵に笑われまする!」と真顔で突っ込み、忠三郎はケラケラと笑ってみせた。
 張りつめた雨の夜に、ひととき柔らかな笑いが生まれる。
 遠雷が腹に響き、しばしして、雲の底がわずかにほどけた。

 忠三郎はひとしきり笑うと、次の瞬間、ふと、何かに気づき、おや、と顔をあげる。
「義兄上、ご案じめさるな。天が我らに味方しました」
 嬉しそうに東のかなたを指し示す。
 気づくと日が昇り、大空に光が差している。その光が空気中の雨粒に反射し、さらに眩しさを増して輝く。雨に濡れた陣地の地面が、金色の光に照らされ、戦場そのものが一瞬、神聖な祭壇のように見えた。
「雨がやんだか…」
 長く降り続いた雨が、ついにあがったのだ。
(雨があがった…。この戦、勝った)
 しかも前方の武田の陣営には霧が立ち込めている。あの濃霧の中では、武田方からこちらを見通すことはできない。
「鶴!勝ったぞ!皆を起こせ!」
 一益の声に、忠三郎が「承知!」と子どものように嬉しげに応え、帷幕を駆け抜けていった。
「殿!」
 義太夫と新介が飛び込み、場が一気に引き締まる。
「義太夫、貝を吹け!」
「ハハッ。わしの肺も戦支度でござる!」
 義太夫がどこか芝居がかった調子で答え、場の空気が一瞬、和らぐ。
 その直後、辺りはにわかに活気づき、騒がしくなった。
 帷幕から出て木柵の向こうを見ると、長雨に削られた地面が泥濘となり、重馬の足を取るのは明らかだった。
(すべて、目論見通り…)
 一益は小さく息をつき、改めて空を仰ぐ。湿った空気が漂うものの、今日はもう降らないだろう。
 戦場に立つ者として、天の巡りに感謝しつつも――心はすでに次の一手へと向かっていた。
 
 両軍の激突は早朝の静寂を破る一発の銃声から始まった。
 武田勢は鶴翼の陣を敷き、濁流をものともせず川を越え、丘を駆け上がり、木柵をなぎ倒さんばかりに押し寄せる。迎え撃つ織田勢の鉄砲隊が火を噴き、銃弾の雨が襲いかかるたび、敵兵と馬が次々に泥に沈んでいった。
「やはり右翼は佐久間殿の陣を狙うておりますな」
 義太夫が苦笑まじりに言った。
 佐久間信盛の陣は、武田の猛攻に押され、すでに二段目の柵を突破されかけていた。崩れるのが早すぎる。
「増援を送らねば、持ちませぬ!」
「かように攻め込まれている状況で増援など…鉄砲の間隔が開けば、騎馬隊が突入いたしましょう!」
 新介の必死の声も、もっともだった。
 一益は鋭く舌打ちすると、
「三九郎!」
 と雷のように叫んだ。
 三九郎が駆け寄ると、一益は指さして命じた。
「あれなる佐久間勢は、間もなく突破される。助九郎、彦一郎を伴い、火車剣を用いて敵の足を止めよ!」
「火車剣で敵を倒せましょうか」
「倒すのではない。馬が驚いて立ちすくめば、それでよい。それを狙っての策よ!」
 三九郎は無言で頷き、助九郎・彦一郎とともに駆け出した。
 火車剣――手裏剣の中心に火薬を詰め、火縄をつけて投げ放つ異様な兵器である。火花と轟音が夜目にまぶしく閃けば、武田の馬たちもたまらず跳ね狂う。
 佐久間隊が崩れかけたその側面に回り込むと、三九郎たちは素早く火縄に火を移した。
「いざっ!」
 次々と放たれた火車剣が弧を描き、雨に濡れた空を裂いて炸裂する。
 轟音とともに火花が散り、白煙がもうもうと立ちこめた。
 敵の馬が狂ったように嘶き、竿立ちになり、騎兵たちが次々と投げ出されて泥に沈む。
「ここぞ!」
 三九郎の声に呼応して、助九郎と彦一郎も手裏剣を投げ、火車剣の連携で敵の騎兵を混乱させる。泥濘に足を取られた武田の騎馬隊は次第に隊列を崩しはじめた。
 その隙を逃さず、駆けつけた羽柴秀吉の部隊が敵を取り囲み、一斉射撃を加える。鉄砲の銃声が轟き、敵兵が次々と倒れていく。
「いやぁ、さすが滝川殿。戦さは勝ちでござる!」
 部隊を指揮していた秀吉の声が響くと、三九郎は秀吉の方に向かって軽く頭を下げる。
 丘から駆け下りてくる秀吉の眼前には、倒れている武将の姿があった。
「この指物は、武田の真田殿じゃな」
「なんと!真田殿が死を覚悟で突撃したとは…」
「名のある武将が名もなき雑兵に討たれる時代になったということで」
「…」
 その言葉を聞き、三九郎は思わず唇を引き結ぶ。
(名を馳せた真田兄弟とて、泥に沈むのか…明日は我が身)
 戦場の冷厳さが胸に迫り、背筋に冷たいものが走る。
「父上、敵を討ち果たしました」
 三九郎が戻って告げると、一益がわずかに頷いた。
「名のある武将であったろう」
「はい。真田殿と思しき方にて」
 その名を聞き、一益は静かに頷いた。
「真田信綱、昌輝の兄弟か…」
 その名を聞いた瞬間、帷幕に一瞬の沈黙が落ちた。
 信綱は槍の名手、昌輝は鉄砲の使い手――兄弟揃って戦場の最前で奮戦し、寡兵にて大軍を翻弄する勇将と聞き及んでいた。味方にあれば心強く、敵にあれば恐怖そのもの。
「武田に真田ありと謳われた勇将。そのような武将を討ち取ったは、我らの鉄砲が戦場を制した証でもある」
 一益は雨に霞む戦場をじっと見据えた。
(勇将すら散らす。されど、それを誇るは短慮よ。真田兄弟の奮戦、敵ながら武士の鑑。惜しむべきは、その命がこの泥濘に沈んだことか)
「殿!また参りましたぞ!」
 泥濘に馬の脚を取られながらも、突進してくる一群が見える。信綱・昌輝兄弟の指揮下にある部隊であろう。武田家の誇る勇将たちも、この雨と泥の前には動きを鈍らせ、足を取られた馬は隊列を乱しつつある。
「狼狽えるな。敵を十分引き付けてから一斉に撃ちこめ」 
 轟音の中、鉄砲の火花が闇を裂き、兵の悲鳴と馬の嘶きが雨に混じって響く。硝煙の匂いが鼻を刺し、足元の泥は赤く染まっていた。
(もはや勝敗は喫した…されど、この勝ちは次の戦の序章にすぎぬ)
 一益は冷たい汗を拭いながら戦場を見下ろす。倒れ伏す兵の姿、泥濘に沈む馬――そのすべてが、戦の厳しさを雄弁に物語っていた。
 武田の猛攻は五度に及んだが、いずれも織田勢の鉄砲の前に無力であった。やがて一万を超える屍を戦場に横たえ、武田勝頼は昼過ぎになってようやく兵を退いた。
 鉄砲隊の火蓋が閉じられ、戦場には雨に濡れた屍と血に染まった泥濘だけが残された。
 一益は静かに馬を進め、崩れた柵の向こうを見渡す。
 そこに転がるのは、かつて武勇を誇った名のある将たちの骸。無名の雑兵の血と同じ泥に沈み、誰の名もなく雨に打たれている。
(勇も智も、この泥の前には等しきものか…)
 勝ったはずなのに、胸の奥に重く広がるのは虚しさばかりであった。
 織田の旗が風に揺れても、兵どもの鬨の声があがっても、それは命を散らした者らの呻きに掻き消されるように思える。
 戦とは斯くのごとく、勝利すら人を救うことはない。
 一益は雨上がりの空を仰ぎ、吐息とともに低くつぶやいた。
(天は我らに勝ちを与えた。されど――この勝ちの値打ちとは…)
 風が濡れた甲冑を冷やし、静寂だけが戦場に残った。
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克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

 神典日月神示 真実の物語

蔵屋
歴史・時代
 私は二人の方々の神憑りについて、今から25年前にその真実を知りました。 この方たちのお名前は 大本開祖•出口なお(でぐちなお)、 神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)です。  この日月神示(ひつきしんじ)または日尽神示(ひつくしんじ)は、神典研究家で画家でもあった岡本天明(おかもとてんめい)に「国常立尊(国之常立神)という高級神霊からの神示を自動書記によって記述したとされる書物のことです。  昭和19年から27年(昭和23・26年も無し)に一連の神示が降り、6年後の昭和33、34年に補巻とする1巻、さらに2年後に8巻の神示が降りたとされています。 その神示を纏めた書類です。  私はこの日月神示(ひつきしんじ)に出会い、研究し始めてもう25年になります。  日月神示が降ろされた場所は麻賀多神社(まかたじんじゃ)です。日月神示の最初の第一帖と第二帖は第二次世界大戦中の昭和19年6月10日に、この神社の社務所で岡本天明が神憑りに合い自動書記さされたのです。 殆どが漢数字、独特の記号、若干のかな文字が混じった文体で構成され、抽象的な絵のみで書記されている「巻」もあります。 本巻38巻と補巻1巻の計39巻が既に発表されているが、他にも、神霊より発表を禁じられている「巻」が13巻あり、天明はこの未発表のものについて昭和36年に「或る時期が来れば発表を許されるものか、許されないのか、現在の所では不明であります」と語っています。 日月神示は、その難解さから、書記した天明自身も当初は、ほとんど読むことが出来なかったが、仲間の神典研究家や霊能者達の協力などで少しずつ解読が進み、天明亡き後も妻である岡本三典(1917年〈大正6年〉11月9日 ~2009年〈平成21年〉6月23日)の努力により、現在では一部を除きかなりの部分が解読されたと言われているます。しかし、一方では神示の中に「この筆示は8通りに読めるのであるぞ」と書かれていることもあり、解読法の一つに成功したという認識が関係者の間では一般的です。 そのために、仮訳という副題を添えての発表もありました。 なお、原文を解読して漢字仮名交じり文に書き直されたものは、特に「ひふみ神示」または「一二三神示」と呼ばれています。 縄文人の祝詞に「ひふみ祝詞(のりと)」という祝詞の歌があります。 日月神示はその登場以来、関係者や一部専門家を除きほとんど知られていなかったが、1990年代の初め頃より神典研究家で翻訳家の中矢伸一の著作などにより広く一般にも知られるようになってきたと言われています。 この小説は真実の物語です。 「神典日月神示(しんてんひつきしんじ)真実の物語」 どうぞ、お楽しみ下さい。 『神知りて 人の幸せ 願うのみ 神のつたへし 愛善の道』  歌人 蔵屋日唱

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

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