39 / 146
5 狂せる者
5-5 三兵戦術
しおりを挟む
一益が日野にいることを聞きつけ、中野城に珍客が現れた。
「誰かと思えば、ロレンソか」
日本人イルマンのロレンソ了斎が従者を伴ってやってきた。
「中将、その声を聴くかぎり、変わりなきようじゃ。六郎殿も風花殿も健やかであろうな」
懐かしげに微笑むロレンソに、忠三郎は手を打って喜んだ。
「これは思わぬ客人。ロレンソ殿、一度、お呼びしたいと思うておりました」
ところがロレンソは、数えで二十歳になろうかという忠三郎を指さし、にやりと笑った。
「然様か。それなるは中将の弟分の蒲生の子倅じゃな」
なんとも遠慮のない呼びように、町野長門守が眉をひそめる。だが忠三郎はかえって愉快そうに声をあげて笑った。
一益は眉をわずかに上げ、冷ややかに言い放つ。
「なんじゃ、ロレンソ。わしはそなたと戯れている暇はない」
「また戦さか?」
軽い調子の問いかけに、忠三郎が思わず一益を見やる。だが一益は黙したまま、考えに沈んでいた。
年明け早々の岐阜。年賀のため各地の武将が集まる千畳敷で軍議が開かれた。若狭・摂津の諸将の進言により、この年は石山本願寺攻めに力を注ぐことが決定される。しかし本願寺は武田と同盟を結んでおり、その動きが懸念の種だった。信長は滝川一益に命じた――万一、武田が挙兵したときに備え、戦略を立てよ、と。
一益の胸にはすでに思惑があった。尾張・美濃の兵は主力でこそあれ、総じて脆い。武田の騎馬隊が正面から襲えば、恐怖が瞬く間に走り、たとえ数で勝ろうとも崩れかねない。
――勝つにはただの力押しではならぬ。兵の心を繋ぎとめ、敵の脚を止め、こちらの間合いで戦うのだ。
「如何いたした、中将」
ロレンソの声が割り込む。
「智慧ある者は強し。知識ある人は力を増す。汝、良き謀計をもて戰鬪をなせ。勝利は議者の多きによる、というが?」
いちいち真っ当なことを、と一益はロレンソを見やる。
ロレンソはポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも「人並み優れた知識と才覚を備え、豊かな言葉を愛嬌と明快さをもって操る」と絶賛した男だ。
その博識と説得力は、一益にとっても軽視できるものではなかった。
「火力をもって騎兵に勝つことができるじゃろうか」
一益はずっと抱いていた問いを口にした。奇襲以外に武田を討つ術はあるのか。
ロレンソは少し考え、ゆっくりと言った。
「今を遡ること七十年前。欧羅巴で、そのような戦さがあったと聞き及んだ」
「えうろっぱ?」
ポルトガル語で「エウロパ」、日本では欧羅巴《えうろっぱ》と発音された。ヨーロッパのことだ。
ロレンソが語ったのは「チェリニョーラの戦」。フランス軍とスペイン軍の戦争で、火器が騎兵を退けた最初の戦いとして名高い。
「スペイン軍は、兵で勝るフランス軍を迎え撃つため丘に布陣し、穴を掘り、鉄砲を持った兵を潜ませた。フランスの騎兵は三度突撃したが、いずれも銃火に阻まれ、二千を超える屍をさらして退いた。誰一人として防衛線には届かなかった」
一益は息を呑む。――『届かぬ』騎の矛先が、地の工夫ひとつで折れる。
「馬が溝に足を取られ、兵が馬を捨てたところを鉄砲が薙ぎ払った――そういうことか」
一益の目が細くなる。
「然様。馬を失えば騎兵は歩兵となる。歩兵は鉄砲に弱く、騎兵に強い。騎兵は鉄砲に強く、歩兵に弱い。この三つを組み合わせ、互いの弱みを補い、力を倍加させる。これを欧羅巴では『三兵戦術』と呼ぶ」
「三兵戦術…」
一益の眼がわずかに光を帯びる。――塹壕と鉄砲で武田の脚を奪い、矛先を鈍らせる。指先で畳の縁をなぞりながら、塹壕と柵の線が掌に浮かぶ。勝ち筋が脳裏に形を結んだ。
次の瞬間には、すでに布陣の構想が頭の中で動き出していた。
ロレンソは言葉を畳みかける。
「智くして知識ある人によりて国は長く保つ。義者の家は立つ。義者は獅子のごとくに勇ましい。中将、常に智慧を求め、真理を求め、正しくあれ」
ロレンソが深く頭を下げ、従者を伴って去っていった。
扉が閉まると、広間に一瞬の静けさが戻る。
忠三郎が静かに言った。
「お疲れでござりましたな」
義太夫が「いやはや」と笑いかけて、すぐに口をつぐんだ。
縁先には、誰かの笑いの名残がまだ畳に温く、外気はもう戦の匂いに冷えていた。
「鶴、来るべき武田攻めのため、領内の鉄砲を余さずかき集めておけ」
一益の頭にはすでに布陣図が浮かんでいる。溝を掘る位置、鉄砲隊の交代射撃の間合い、退路を塞ぐ柵の配置――が次々と描かれていく。
さらに大量の鉄砲を買い付けるため、日野中野城下の鍛冶村へと馬首を向ける。その道すがらも、義太夫と戦略を練り続けた。
聞き取った戦法を、即座に己の戦場に適合させる――それが一益の強みだ。
(これだ……これならば、武田の騎馬隊に勝てる……)
脳裏に描かれた布陣図は、すでに現実の戦場に落とし込む準備に入っていた。
長きに渡った長島願証寺との戦いが終わり、一益は長島城を居城と定めた。
義太夫には蟹江城から、長島の目と鼻の先にある桑名城の城代を任せ、修復を命じた。
だが、長島周辺は戦火の爪痕が深く、村も畑も焼け、住民の多くは織田軍の侵攻で連れ去られるか命を落とし、地は荒れ果てていた。
一益は領地復興をただの慈善事業とは見なさなかった。戦のためには兵糧と人がいる。人を呼び戻すには、他国よりも魅力的な条件を示さねばならない。
そこで通常五公五民の年貢を四公六民へ下げ、橋や街道を修復し、物流の大動脈を整えて商いを呼び込む。
『他国の者が羨むほどの地にせねば、この地は甦らぬ』
そう口を酸っぱくして家臣に命じ、復興策を着々と進めた。一益にとって善政は、戦略の一部にほかならなかった。
一方、伊勢に戻った義太夫は、城ではなく屋敷脇の畑に足を運ぶ。
任された桑名城の修復は必要最低限に留め、空いた時間は鈴鹿山脈で採った野草の苗を植え、育てていた。
「されど山中に生えるような野草は、ここでは育ちが悪いものもございますな」
手入れを手伝う助九郎の言葉に、義太夫もうむむと唸る。甲賀で調合していた薬を再び作ろうと、蟹江城代の頃から試みてきたが、思うような成果は得られなかった。
「義太夫殿、あちらの夏麦をご覧あれ。大変発育がよく、もう穂をだしておりまする」
視線の先には、秋に撒いた夏麦が青々と伸び、穂を揺らしていた。
伊勢の地は温暖で早くから稲作が盛んゆえ、水路は各地に点在している。だが長雨の季節には川が氾濫し、たちまち田畑は水浸しになる。義太夫の野草畑も例外ではなかった。
「天白川がよう洪水を起こすと、安国寺の休天和尚が言うておりました」
「日永を流れるあの川か」
休天和尚と聞いて、長島攻めの折に助けた童の姿が脳裏に浮かぶ。
(無事に安国寺にたどり着いておるじゃろうか)
何度か思い返したが、戦と政に追われ、見舞う暇もなかった。
「殿に申し上げて、人をかき集め、堤を作らねばなるまいて」
だが治水工事には銭が要る。年貢を軽くした分、実入りは減った。しかも滝川家の収入の大半は武具や火薬の購入に消える。領地は広がっても、一益も家臣も裕福とは言いがたい暮らしだった。
それでも一益は口にしていた――治水は防災のためだけではない。洪水を防げば田が安定し、人は戻る。人が戻れば兵も増え、商いも活気づく。それはやがて、戦の勝敗をも左右する。
(人がこの地に戻ってくれれば…)
義太夫は、大川の向こう、長島の地を遠望する。
領地は広がっても、耕す者、商いを担う者がいなければ国は繁栄しない。
「しばらくは薬を売る日々が続くのう」
野草の香りに包まれながら、義太夫はぽつりと呟いた。
だが次の瞬間、手を止め、ぱちんと手を打った。
「おおっ! そういえば……」
助九郎が驚いて振り返る。
「な、何を思いつかれました?」
「殿がよう仰せであった。縄張りとは土地を読むこと、水の流れを読むこと……」
古里・甲賀には数多の小城があった。粗末であっても、一益はいくつかの築城に携わり、縄張りを学んできた。
『縄張りとはただの設計にあらず。土地を見極め、その特徴を活かすものじゃ。敵が攻める方角を予測し、どこに堀を掘り、どこに門や搦手を置くか。そのすべてが計算された戦略となる』
さらに一益はこう語っていた。
『川の流れを読むことで、堀や水門を最適な場所に設けられる。治水も同じ。地形を知り、流れを制御することこそ肝要よ』
義太夫は畑の真ん中で大きく手を広げ、大げさに歩き回る。
「ここに堀を掘る! ここに水門を置く! そしてこの畦道こそ搦手じゃ!」
ぐるぐる回っているうちに、足を滑らせて畝に膝を突っ込み、泥にまみれた。
「殿ならば、この川の氾濫も、見事に食い止めてくださるに違いない!」
泥だらけの顔で力強く言い切る義太夫に、助九郎はあきれ顔で肩をすくめる。
「……殿のお知恵なら、でございますな」
義太夫は気にも留めず、満足げに頷いた。
「うむ! 殿の縄張りとわしの薬とで、この地は必ず蘇る! いや、蘇らせねばならぬ!」
どろどろの膝を払いもせず、義太夫は畑にしゃがみ込み、ふたたび野草の苗に手を伸ばした。
長島城に戻った一益は、早速、家臣たちを呼び集めた。
「武田が三河に兵を進めようとしておる」
「武田とは…では、また友軍でござるか」
広間の空気が、途端に重くなる。
ようやく北伊勢が落ち着き、町の復興が緒についた矢先だ。他国での戦など、誰も望んではいない。勝っても領地が増えるわけでもなく、大きな褒美も見込めない。
一益はその空気を読んで、わずかに口角を上げた。
「皆の思いも分かる。しかし伊勢が落ち着いた以上、今後は他国での戦が増えよう。…街道を直したのも、城を取らせて武田を油断させたのも、すべては計略のうちよ。狙いはただ一つ――武田を、我らが優位となる場所へおびき寄せるためじゃ」
「我が方が優位となる場所…とは」
佐治新介が眉をひそめる。道家彦八郎も身を乗り出した。
「城に籠るおつもりか」
「いや――平地に三日で陣城を築く」
一益の声に、座がざわめいた。驚きと疑念が走る。
「三河へ向かう途上、木を伐り、運び、平地に陣城・馬房柵・土塁・逆茂木・竹矢来を備える。場所は湿地がよい。かつて欧羅巴《えうろっぱ》の騎兵が塹壕に阻まれた戦例がある。武田の騎馬隊も同じく足を取られる」
「乾いた地では騎が勝つ。濡れた地では銃が勝つ。――我らは地を選ぶ」
一益の眼はすでに戦場を見据えていた。味方は湿地に陣を構え、両翼に伏兵を置き、正面からは柵と鉄砲で迎え撃つ。敵の勢いを奪い、混乱したところへ伏兵が襲いかかる算段だ。
「敵をはるかに上回る兵力がありながら、陣城に籠るのでござりますか」
道家彦八郎が怪訝そうに問う。
「恐れながら、そのような汚い戦法では、我が軍勢が臆病者と笑われましょう」
「笑わせておけ。白兵突撃に固執し、無駄に兵を死なせるのは武辺者の慢心。武田に勝つこと――これを除いてこの戦いの意味はない」
「しかし武田が、その策にまんまと乗るとは思えませぬが」
佐治新介がそういうと、居並ぶ者がみな一様に頷く。
「乗るよう仕向ければよい」
一益が淡々と断じる。
「武田は勝機と見れば、必ず牙を剥く。奴らの鼻先に餌をぶら下げてやれば、食らいつかぬ道理はない」
その声には、これまで数多の敵を手玉に取ってきた自信が宿っている。
――川の流れを堰き止めて向きを変えるがごとく、敵の大軍をこちらの思惑へ導く。
一益の眼差しはすでに、湿地に柵をめぐらせた未来の戦場を射抜いていた。
「…はて、義太夫がおりませぬな…」
新介が気づいて首を傾げた。
「あれは閉門中じゃ」
「また何か仕出かしたので?」
呆れ顔の新介の問いに、一益は答えず話を続けた。
「三河の長篠城には武田から寝返った奥平なるものがおる。武田は威信をかけて、この城をおとそうとするじゃろう。それゆえ、長篠城から山を越えたこの湿地の後ろ側に織田の本陣を張り、長篠には伏兵を置く」
「敵に気づかれぬうちに陣城を築き、おびき寄せると…」
それまで黙って聞いていた三九郎が、なんとか話についていこうと、耳を傾ける。
「然様。山腹に小勢を置けば、武田は侮って攻めかかろう。小勢が敗走したかに見せ退けば、武田はそれを追う。その背後を長篠に忍ばせた伏兵が襲えば、武田は退却の道を断たれ、やむなく我らが大軍の前に進むしかなくなる」
一益の声に自信が滲む。
「…で、鉄砲の備えは?」
「恐れながら、武田も鉄砲を用いると聞き及びます」
道家彦八郎が口を挟む。すでに調べていたのだ。
「案ずるな。硝石も鉛も我らが押さえておる。東国の輩が使うのは銅弾や鉄弾。すぐに尽きるうえ、威力も鉛弾には及ばぬ。鉛弾なら兵がその場で作れるが、銅や鉄は鍛冶を要する。これが織田が伴天連に布教を許す所以よ」
「万一、雨が降った時は如何なされます?」
三九郎が心配そうに言う。
「上様ご出馬の折は、よう雨が降るからのう」
新介が肩を竦めると、広間に乾いた笑いが漏れた。
桶狭間においてはそれが功を奏して勝利しているが、過去には雨で鉄砲が使えず、手痛い敗北を味わったこともある。
「そのための湿地帯じゃ。これは譲れぬ。雨なら我が方は鉄砲が使えなくなるが、湿地はますますぬかるみ、武田の騎馬も足をとられる。下馬して戦わざるを得なくなろう」
雨であれば互いに不利。だが兵数で勝る織田勢に分がある。
「よいか、雨のときは決して押すな。武田が術中に嵌るまで待て。柵の外へは出るな。敵が退くと見えても追うな。滝川三千騎、無傷で伊勢へ戻るのじゃ」
勝ち方は問わない。勝ったという事実さえあれば、その後は調略で武田を崩せる。
「みな、心積もりしておくように。…されど、まずは先に河内へ出陣する命がくだっておる。急ぎ戦さ支度を整えよ」
信長の無茶な人使いに、居並ぶ家臣たちは互いに顔を見合わせ、深いため息を洩らした。
越前一国が一揆によって奪われ、石山本願寺が挙兵した。河内での本願寺戦は、伊勢長島で願証寺と戦っていたころから並行して続いており、いまだ勝敗がつかずにいる。
一益が本願寺を目指し軍勢を率いて河内に入ったのは四月十三日。すでに各地から味方の兵が集められており、十万はいるという噂だった。
ついてみれば、なるほど――あちらもこちらも、見覚えのある旗指物で埋め尽くされている。
「しかしこの戦場は、雑多な者どもばかりじゃなぁ」
閉門が解けて従軍してきた義太夫がそこここに見える軍勢を見て言う。
「さもあらん」
一益は苦笑をこぼす。信長はここで一気に決着をつけるため、十か国以上の国に陣触れを出していたのだ。
「荒木の陣中に見舞いに参ろうか」
近くに陣取っていると知りながら、素知らぬ顔もできまいと、一益は義太夫と新介を連れて荒木村重の陣営へ向かった。
その道すがら、義太夫は少し前を歩く一益の背中を見つめながら思う。
(本願寺の兵がいかほどおろうと、この混沌たる戦場で、殿は果たしてどう戦を進めるおつもりか…。上様は常に一歩先を見越しておられる。されど、戦だけで国を保てるものではない)
脳裏に浮かんだのは、長島での一益の姿。焼け野原となった地を、川を読み、堤を築き、民を呼び戻す場へと作り変えていったあの姿だった。
(殿の縄張りは、ただ戦場を制すものにあらず。流れを制し、民を生かす知恵でもある。戦を治め、国をも治める――これぞ真の武の道よ)
そんな義太夫の思索を遮るように、前方の帷幕から信長の側近・長谷川藤五郎が現れた。
信長からの指示を伝え終えたところのようだ。
帷幕の中では、荒木村重が不機嫌そうに床几に腰をかけ、扇で膝を叩いていた。
「おお、滝川殿か」
一益に気づくと、村重は顔を上げるなり、苛立ちを隠さぬ口調で言った。
「今しがた藤五郎が来おったが――あやつ、上様の威を笠に着て、実に無礼な態度よ!」
一益は眉ひとつ動かさず、静かにうなずく。
(あれは奉行衆にはありがちなこと。いちいち腹を立ててはきりがない)
一益の心中をよそに、村重は舌鋒鋭く続けた。
「まったく織田家というところは、碌でもない輩ばかりよ。相手かまわず這いつくばって機嫌を取る下賤な小人がおれば――」
羽柴秀吉のことだろう。
「真面目一辺倒で、頭の固いだけの年寄りもおり――」
柴田権六の顔が思い浮かぶ。
「譜代というだけで、大した功もなく、ふんぞり返っている老いぼれもいる」
佐久間信盛のことか。
「さらには――」
村重は扇を止め、にやりと笑う。
「普段は何を考えているやら掴みどころもなく、戦となれば敵中に一人突撃して、的にされる阿呆もおる」
忠三郎のことだとすぐに分かった。
思わず義太夫が吹き出す。
「摂津守殿、滝川殿の前でそのような物言いは……」
傍にいた武将が困ったように口を挟んだが、村重は扇をぱたりと閉じ、まだ続ける気満々だった。
一益は小さくため息をつき、
(やれやれ、長話はまだ尽きぬと見えるな)
と心中で呟きながら、相手の言葉に耳を傾ける。
「したがな、一番気に入らない奴がおる」
と荒木村重がじぃっと一益を見る。一益は苦笑して、
「それが、わしじゃと?」
「然様。それゆえ息女をもらうことにした」
村重はそう言うと、豪快に笑った。
(よう分からぬ奴…)
「その阿呆どもがみな、手柄を立てようとしのぎを削っておるのが、お分かりにならぬか」
分からないわけがない。村重よりも余程長く織田家にいるのだから。
「それを一人、我、関せずという顔で冷ややかに構えて、皆の隙を伺い、ここぞというときに手柄をかっさらっていくやつが、一番気に食わぬ」
随分な言われようだ。
義太夫と新介が目を向いて怒ろうとするのを、軽く制し、一笑した。
村重の傍にいた武将も、それに気づき、
「摂津守殿。大概にされよ。かようなところで見たまま、思うままを口にされてはなりませぬ」
こちらも村重を制しているつもりかもしれないが、どうも的外れだ。義太夫と新介が顔を見合わせている。
そのゆったりとした話し方、悪気なく無神経なことを言う辺り、誰かを思わせる。
(鶴か…)
似たような類の人間だなとふと可笑しくなって笑った。
「いや、右近。滝川殿はかような戯言を気に留めるような小さき器ではあるまい。現にほれ、笑うておられるわ」
村重が幾分、興が覚めたようにそう言う。
(こやつが高山右近か)
右近と呼ばれた武将が、キリシタン大名という噂の高山右近だと分かった。右近は荒木村重の与力で、今回の合戦にも村重とともに参陣している。
思っていたのよりも若い。忠三郎よりも少し上くらいだろう。顔立ちにはどこか厳しさが感じられるものの、その目は穏やかな光を帯びていた。
右近は穏やかな微笑みを浮かべているが、その目の奥にある深みに、何かしらの重みを感じ取る。武将というよりも、別の何か――僧侶のような気配すら漂わせている。
無意識のうちに、右近に対してある種の警戒心を抱いた。だが、それと同時に何か心の奥で引き寄せられるような感覚も覚えていた。
帷幕を出たあと、すぐに右近が追ってきた。
「滝川殿、たいへんご無礼つかまつった」
「いや、気に留めるほどのことでもない」
一益が軽く流そうとすると、右近は小さく頭を下げて、
「実はロレンソ殿から、滝川殿のお噂を聞いておりました」
と告げた。
思いもよらぬ名に、一益も義太夫も目を見張る。
右近は父と共にロレンソから伴天連の教えを受け、キリシタンとなったのだという。
「ではロレンソはいま…」
「はい。高槻におられます」
右近が高槻城下に作った天主堂で伴天連の教えを広めているらしい。
(なるほど、それゆえに気軽に日野まで来たのか)
噂は聞いていたが、高槻にいたのは知らなかった。
高槻では領主がキリシタンになったこともあり、爆発的に領民の間にキリスト教が広まり、領民二万五千のうち、一万八千がキリシタンになっている。
「右近殿、折よく参られた。そなたに頼みがある」
一益は声を低め、右近を見据えた。
「堺・国友・日野、どこも硝石と鉛が不足しておる。今の倍は必要じゃ。イエズス会の者どもに伝えてほしい」
硝石も鉛も、鉄砲玉を作る要の材料。国内では産出が乏しく、輸入に頼るしかない。
「不足とは…これまでも相当量がもたらされておるはずでは」
右近が目を見開くと、一益は唇の端を上げた。
「我らが買い占めておるゆえのう。他国では、さぞや不足しておろう」
その答えに義太夫が「えげつな…」と小声で呟き、一益に睨まれて口をつぐんだ。
「確かにお伝えいたしましょう。…ロレンソ殿から滝川殿に渡してほしいと、これを預かっておりまする」
右近は懐から一冊の薄汚れた書物を取り出した。
「これは…?」
「どちりいな・きりしたん なる書物でござる。ロレンソ殿が伴天連から聞いたものを書き留めて書物にしたものにて」
ロレンソは宣教師の通訳を務め、日本語を教えることもある。南蛮の事情に詳しいのも、少なからずポルトガル語を理解しているからだろう。
「それと、ロレンソ殿から言伝が」
「何であろうか」
「悩みの日に我を呼べ。我、汝を援けん。而して汝、我をあがむべし、とのことでござりました」
一益は首を傾げる。
「ロレンソは、わしを呼べと言うておるのか」
「いえ。我とは、デウスのことかと」
「……ふむ。やはり、よう分からぬことを申す。まぁ、よい。人を喰う猟師によろしゅうな」
唐突な一益の言葉に、右近は目を丸くした。
「人を喰う猟師?」
義太夫が横で吹き出しかける。新介が肘でつつき、必死に堪える。
「人を喰う猟師」とは、かつてロレンソに「修道士とは何か」と尋ねたときの答えだった。本来は「人の魂を釣り上げる漁師」という意味だったのだが、一益は「猟師」と思い込み、しかも「人を喰う」と勝手に解釈してしまったのだ。
(人間を喰う猟師などと……やはり、あやつの言うことはよう分からぬ)
受け取った書物の意味も分からぬまま、一益は懐に収めた。
「では、また戦場で……」
右近はそう言って軽く頭を下げ、帷幕を後にした。
一益もまた、荒木村重の陣を辞した。
織田勢が取り囲むのは本願寺の支城・新堀城。城内には十河存保が立てこもっていた。存保は、かつて畿内を支配した三好長慶の弟であり、石山本願寺と同盟して挙兵した猛将である。
信長は大軍を頼みに、夜討ちによる力攻めを命じた。城壁を越えることなく、城門を火矢で焼き破り、力ずくで突入する戦法だ。
夜の闇に掛かり太鼓が鳴り響くと、矢の雨が城門を襲い、火の粉が闇を朱く染めていく。
「上様ご出馬ともなると、皆、目の色変えて敵にかかっていくようで」
義太夫が苦笑する。興奮した若武将たちは、堅牢な防備も省みず、無謀に駆け出していた。
一益は少し困ったように笑い、床几から立ち上がる。
「まずいな」
銀水牛脇立兜を被り、馬にまたがる。
「殿、まさか、あの中へ押し入るおつもりで?」
義太夫は腰を抜かさんばかりに叫び、慌てて後に続いた。
崩れた城門へ近づくと、目の前には敵味方が入り乱れた乱戦が広がっていた。火と煙、怒号が渦を巻き、刀の火花が闇を裂く。
「あれでは同士討ちになる」
一益は寄せ手の状況を観察しながら言った。
「この寄せ手、諸国の兵ばかり。互いに顔も知らぬ者が多い。旗指物など見分けがつくものか」
義太夫がきょろきょろと辺りを見回す。
「まこと、素破でもない限り、この烏合の衆では同士討ちばかりでござろう」
一益の目は闇に慣れ、兵のわずかな動き、息遣いさえ見逃さない。幼いころから鍛えられた素破の眼で、敵と味方を瞬時に見分けていく。
その姿はただ戦う武将ではなく、戦場そのものを支配する存在のようだった。
一益がひとたび馬を進めると、不思議なことに周囲の喧噪がわずかに引き締まる。焦燥と混乱が支配していた戦場に、ほんの一瞬、静けさが訪れる――その場の重心が一益へと移ったかのように。
さらに馬を走らせ、近づくと、案の定、崩れ落ちた城門の近くで戦う忠三郎の姿が見えた。
「鶴!それは味方じゃ」
義太夫が必死に叫ぶが、忠三郎は耳に入らぬ様子で、目を血走らせて槍を振るい、敵兵も味方も見境なく薙ぎ払っている。周囲の兵たちが思わず後ずさりするほどの剣幕だった。
一益は助太郎から鉄砲を受け取ると、夜空に向かって一発、轟音を響かせた。
火花が闇を裂き、戦場の喧噪が一瞬にして凍りつく。さらに二発目を放つと、敵味方の視線が一斉に彼へと吸い寄せられた。
「た、滝川左近じゃ!」
誰かの叫びを合図に、敵兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
義太夫はその隙に忠三郎へ駆け寄り、肩を叩いた。
「義兄上を見て、敵がみな、命からがら逃げだしておる」
忠三郎は荒い息を吐きながら、ようやく槍を振り下ろして血糊を払うと、苦笑を浮かべた。
「夜討ちに長柄槍など要らぬと、教えられたはずじゃろ」
「弓も槍も鉄砲も使うものと思うておったが…」
「夜戦は長刀、太刀、弓、鉄砲。それが定めじゃ」
義太夫はやれやれと肩をすくめ、懐から包みを差し出した。
「ほれ鶴、これを飲め。夜目が効くようになる。わしらは皆、口にしておる」
「これは……薬か」
忠三郎が半信半疑で口にすると、義太夫はさらに懐から握り飯を取り出して押し付けた。
「それと腹も減っておろう? 殿の采配を仰ぐにも、腹が減っては戦はできぬ」
「……よう、わかったな」
忠三郎が苦笑混じりに握り飯を頬張る。
その傍らで、一益は冷静に戦況を見極めていた。
「見よ。背を向け逃げ散る者こそ敵じゃ。右往左往して列を乱す者を狙え。ただし深追いは無用。敵味方の境を見失うゆえな」
その声が響いた瞬間、周囲の兵たちに静かな規律が戻った。指揮官の一言が、混乱の戦場をわずかに整える。
忠三郎は馬首を返し、笑みを浮かべて走り出す。
「義兄上が前に出られるとは稀なること――敵も味方も驚いておるようで!」
その背を見送りながら、義太夫が肩をすくめる。
「さて、誰のためにその珍しきことをしておるのか……ご本人は気づいておられぬ様子にござるな」
一益は何も答えず、ただ城門をじっと見つめた。
「鶴に飲ませた薬は紫金丹であろう」
一益の問いに、義太夫はにやりと笑い、胸を張った。
「効き目は『夜目が利く』とは偽りなれど、まぁ気は心にて。滋養と疲労回復には効きますゆえ!」
その調子に一益は思わず苦笑し、本陣へと馬を返す。
「我らは追わずともよいのですか」
助太郎が尋ねると、一益はあっさりと答えた。
「直に落ちる。あとは若き者どもに任せておけ」
そして明け方、新堀城はついに落ち、十河存保は討死した。
「此度の一番手柄は滝川左近!」
信長本陣に伺候した諸将の前で、万見仙千代が高らかに告げる。
場がざわめいた。
滝川勢は城外から鉄砲で牽制しただけ――そう見ていた者たちにとっては、思いがけぬ言葉だったからだ。
「未然に同士討ちを防ぎ、乱入した兵を導いた働き、まことに天晴」
奉行衆の誰かが注進したのだろう。信長の眼前でそう評された以上、覆ることはない。
(これではまた、荒木に何を言われるやら……)
一益は心のうちで苦く笑った。面白くないと思うのは荒木村重だけではあるまい。嫉妬と猜疑は戦場の功を分かち合う宿命。
「ハハッ、有難き幸せにて――」
恭しく拝しながらも、一益の声はあくまで淡々としていた。
「これも皆々のご奮戦あればこそ。滝川一党の力のみならず、方々の御働きがあってこそ、斯くも速やかに城は落ち申した」
その言葉に、ざわめきは次第に和らぎ、他の武将たちも軽く頷いた。
場の空気を読んだ一益の一言が、妬心の火種を静めていく。
(――功を独り占めせぬ。されど、心の内で笑う荒木の顔が見えるようだ)
一益は表には決して出さぬまま、静かに場を収めた。
だが、その穏やかな空気も束の間であった。
本陣に駆け込んだ使者が、息せき切って声を張り上げる。
「武田が――武田が動いたとの知らせにござります!」
一益は目を細め、心のうちで密かに嗤った。
(武田四郎、ついに網にかかったか)
この数年、幾重にも策をめぐらせて勝頼を誘い出そうとしてきた。その獲物が、いま目の前の罠に踏み込んできたのだ。
「本願寺と歩調を合わせてのことよな」
信長もまた、勝頼が動いた理由を即座に見抜く。もとより、この一戦こそが武田を討ち据える好機であることは承知している。
一益は信長の顔を仰ぎ見た。言葉にはせぬが――「この時を逃す手はない」と。
信長はわずかに頷き、即座に立ち上がった。
「これより都へ引き返す!」
その声が帷幕を揺るがすと、近侍たちは一斉に駆け出し、退却の触れが陣中を駆け巡った。
織田勢が武田攻めのために京に戻ったのは四月二十一日。
これから始まる戦いは、ただの戦さではなく、戦局を決定づける武田との決戦の時だ。信長本隊はそのまま岐阜へ向かい、一益は兵を津田秀重に任せて先に北伊勢へ返し、日野へ向かった。
義太夫と新介が連れ立って鉄砲鍛冶のところへ行き、一益は忠三郎と共に中野城へ入った。蒲生家の家臣たちを集めて軍議を開き、武田攻めの詳細を説明する。
一堂に会した蒲生家の家臣たちは、一益相手に恐縮してしまい、ただ黙って聞いていた。彼らはみな陪臣であり、織田家の重臣である一益とは言葉を交わしたこともない。みな、その威厳に押され、口をはさむこともできなかった。
話し終えると、沈黙を破ったのは老臣・北川平左衛門だった。
「柵越しに鉄砲で狙うばかりでは…敵を追い落とすことができましょうか」
家臣たちは武田との決戦と聞き、胸の奥に闘志を燃やしていた。しかし籠城を思わせる戦法に、どこか肩透かしを食ったような顔つきだ。
一益は変わらぬ声で答えた。
「敵が退き始めたと見れば、一気に追えばよい。ただし、深追いはならぬ。あるだけの鉄砲を兵にもたせて行け」
その時、忠三郎が苦笑しながら口を挟む。
「されど義兄上は、いつも一人で手柄をさらって行かれる」
軽口のようでありながら、その瞳には焦りが滲んでいる。
一益は一拍置いてからやわらかく言い返した。
「そなたは若くして勇将の名を得、上様の覚えもめでたい。今は功を急がずともよい。戦は一度きりではない」
諭されて、忠三郎は口を閉ざし、やがて小さく頷いた。
一益は再び広間を見渡し、落ち着いた声で告げる。
「敵を迎え撃つ支度は整った。無理をせず、確実に戦局を有利に進めるため、皆が心落ち着けて臨むことを忘るるな」
やがて軍議が終わり、家臣たちが広間を去ると、待っていたかのように、忠三郎が口を開いた。
「摂津の陣では間違いなく、それがしが一番手柄と思うておりました」
妙にこだわるのは、諸国から武将が集まっていたからだけではないだろう。
「そなたは誰と競うておるのか。森勝蔵か、堀久太郎か」
忠三郎は笑って、
「己にもわかりませぬ。ただ、誰にも負けたくない。それに、義兄上のように、名を聞いただけで敵を恐れさせるようでなければ、乱れる国を治めることなどできぬ」
その目は若者らしいまっすぐさで燃えている。戦場の誉れを越えて、すでに「治める」という言葉を口にするのが、この男らしかった。
一益はしばし黙してから、静かに言う。
「焦らずとも、直にそうなる」
温かさを含んだ声音だった。忠三郎の将来を見据える確かな信頼が、そこに滲んでいる。
「…武田は上様や義兄上がそこまで慎重になるほど、強いと?」
恐れを知らぬ忠三郎が、不思議そうにそう尋ねる。
「貧しい国の兵は強い」
一益の言葉には、ただの戦術的な見解以上のものが含まれていた。
甲斐の国はそのほとんどが山岳地帯であり、肥沃な平地を持つ尾張や美濃、伊勢とは違って耕作には不向きだ。国が圧倒的に貧しいため、武田家の蔵入りは少なく、財政は乏しい。重要な資金源だった甲斐金山も、もう久しく金を産まなくなったという。武田が信濃に侵攻したのもそのためだろう。
「それに武田は兵を引かぬであろう」
武田勝頼は焦っているのだ。時がたつごとに織田家の勢いは増すばかりで、
このまま手ぐすね引いてみていれば、武田はいずれ滅ぼされるか、織田家に臣従するしか道がなくなる。
「確かにその通りでござりますが、我らには天下布武という大儀がある」
忠三郎を立たせている正義はそこだろう。この国をひとつにまとめ上げ、織田家による統治をおこなうことで戦のない泰平の世を造る。
いかにも若く、正義感の強い若者を奮い立たせる大儀がそこにはあり、若年のころから信長の傍で過ごしたせいで、一途にそう思い込んでいる。
(大儀がなければ命をかけて戦うことはできない)
一方で、一益はその「大儀」が持つ矛盾を見抜いていた。
戦さの大儀には嘘がある。多くの者が掲げる戦さの大儀は所詮、それぞれの置かれた立場でいかようにも変化する大儀にすぎず、人の命を奪ってよい大儀などは存在しない。言い換えれば、戦うために、嘘・偽りで塗り固めた大儀を振りかざしているにすぎない。
「それを望まぬ者も少なくない。鶴、そなたの頭で考えて分からぬか。他国に攻め入ればそこにいる者たちには、平穏な生活を乱す侵略者と、そう思われても不思議はない」
一益の言葉は静かでありながら、確かな重みがある。忠三郎は驚いたように目を開き、少し考え、戸惑った様子で言う。
「義兄上の言う通りやもしれぬが…それが分かったうえで武田を討つと、そう仰せか」
一益の真意が測りかねるようだ。忠三郎の目には、戦いの「正義」を信じる気持ちが強く映っているが、同時にその冷徹な現実に直面し、困惑を感じている様子が見て取れた。
忠三郎は、ふらりと立ち上がって広縁に出た。庭先には西日が射し込み、草木の影が長く伸びている。
空には、遥か北へ帰る雁の群れが列をなし、赤みを帯びた光の中をゆっくりと過ぎていく。
沈みかけた陽は雲間を朱に染め、風は昼の熱を奪いながら、かすかに冷たさを帯びていた。その夕景を見上げ、忠三郎は朗々と和歌を吟じた。
「ながめつつ思ふも悲し 帰る雁
行くらむ方の夕暮れの空」
「それは?」
「右大臣実朝が詠んだ歌でござります」
右大臣実朝とは十二歳で鎌倉幕府の第三代将軍の座についた源実朝のこと。
「武士の頭領であった卿は、それがしなどとは比較にならぬほどの重責を負っておられたのでしょうな」
忠三郎のその言葉には、どこかしらの重みと自らの立場を重ねるような思いが込められていた。忠三郎もまた、若くして多くを背負い込み、悩みながらも前に進もうとしていることはよく分かっている。
「鶴、かような乱世において、迷うことは至極当然のことじゃ」
「義兄上でも…迷うことがおありか」
忠三郎が意外そうに問いかけると、場がしんと静まる。すると義太夫が、わざとらしく咳払いして口を挟んだ。
「ははぁ、殿に迷いとは意外にござる。せいぜい迷うても、道に迷うて桑名に行き着くくらいかと…」
忠三郎は吹き出し、一益は苦笑を浮かべる。
重くなりかけた空気がふっと和らぎ、広間に小さな笑いが灯った。
ひとしきり笑ったあと、一益はふと真顔になる。
「ロレンソが、悩みの日に呼べと申しておったな」
「は…義兄上にロレンソ殿を呼ぶようにと?」
忠三郎が驚いた表情を浮かべると、一益は首を横に振る。
「デウスに祈りをささげよという意味じゃろう。そういえば…」
と高山右近がロレンソから託されたと言う書物を取り出した。
「それは、どちりいなキリシタンでござりますな」
「存じておったか」
「はい。なんでも、童のためにロレンソ殿が書いたキリシタンの本と聞き及びました」
「童のため?」
「高槻で童にデウスの話をしているとか」
かな文字ばかりだったのはそういうことだったのか。
「あやつ…」
「ロレンソ殿が義兄上に渡してきたのでござりますか」
どうも侮られているなとフンと鼻先で笑った。
「まぁ、よいわ。鶴、今後も硝石が足りなくなろう。伴天連とは仲良うしておけ」
忠三郎が笑いを堪えて頷く。
「はい、義兄上。伴天連との付き合い方、しかと心得ました」
一区切りしたところで、義太夫が腹をさすりながら言った。
「さてはて、武田との戦さの結末はまだ先のこと。だが腹が減るのは今すぐのことにござる。鶴、飯はまだか?」
場の空気が一気に和らぎ、忠三郎は笑いながら侍女を呼んで膳を運ばせた。
「誰かと思えば、ロレンソか」
日本人イルマンのロレンソ了斎が従者を伴ってやってきた。
「中将、その声を聴くかぎり、変わりなきようじゃ。六郎殿も風花殿も健やかであろうな」
懐かしげに微笑むロレンソに、忠三郎は手を打って喜んだ。
「これは思わぬ客人。ロレンソ殿、一度、お呼びしたいと思うておりました」
ところがロレンソは、数えで二十歳になろうかという忠三郎を指さし、にやりと笑った。
「然様か。それなるは中将の弟分の蒲生の子倅じゃな」
なんとも遠慮のない呼びように、町野長門守が眉をひそめる。だが忠三郎はかえって愉快そうに声をあげて笑った。
一益は眉をわずかに上げ、冷ややかに言い放つ。
「なんじゃ、ロレンソ。わしはそなたと戯れている暇はない」
「また戦さか?」
軽い調子の問いかけに、忠三郎が思わず一益を見やる。だが一益は黙したまま、考えに沈んでいた。
年明け早々の岐阜。年賀のため各地の武将が集まる千畳敷で軍議が開かれた。若狭・摂津の諸将の進言により、この年は石山本願寺攻めに力を注ぐことが決定される。しかし本願寺は武田と同盟を結んでおり、その動きが懸念の種だった。信長は滝川一益に命じた――万一、武田が挙兵したときに備え、戦略を立てよ、と。
一益の胸にはすでに思惑があった。尾張・美濃の兵は主力でこそあれ、総じて脆い。武田の騎馬隊が正面から襲えば、恐怖が瞬く間に走り、たとえ数で勝ろうとも崩れかねない。
――勝つにはただの力押しではならぬ。兵の心を繋ぎとめ、敵の脚を止め、こちらの間合いで戦うのだ。
「如何いたした、中将」
ロレンソの声が割り込む。
「智慧ある者は強し。知識ある人は力を増す。汝、良き謀計をもて戰鬪をなせ。勝利は議者の多きによる、というが?」
いちいち真っ当なことを、と一益はロレンソを見やる。
ロレンソはポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスも「人並み優れた知識と才覚を備え、豊かな言葉を愛嬌と明快さをもって操る」と絶賛した男だ。
その博識と説得力は、一益にとっても軽視できるものではなかった。
「火力をもって騎兵に勝つことができるじゃろうか」
一益はずっと抱いていた問いを口にした。奇襲以外に武田を討つ術はあるのか。
ロレンソは少し考え、ゆっくりと言った。
「今を遡ること七十年前。欧羅巴で、そのような戦さがあったと聞き及んだ」
「えうろっぱ?」
ポルトガル語で「エウロパ」、日本では欧羅巴《えうろっぱ》と発音された。ヨーロッパのことだ。
ロレンソが語ったのは「チェリニョーラの戦」。フランス軍とスペイン軍の戦争で、火器が騎兵を退けた最初の戦いとして名高い。
「スペイン軍は、兵で勝るフランス軍を迎え撃つため丘に布陣し、穴を掘り、鉄砲を持った兵を潜ませた。フランスの騎兵は三度突撃したが、いずれも銃火に阻まれ、二千を超える屍をさらして退いた。誰一人として防衛線には届かなかった」
一益は息を呑む。――『届かぬ』騎の矛先が、地の工夫ひとつで折れる。
「馬が溝に足を取られ、兵が馬を捨てたところを鉄砲が薙ぎ払った――そういうことか」
一益の目が細くなる。
「然様。馬を失えば騎兵は歩兵となる。歩兵は鉄砲に弱く、騎兵に強い。騎兵は鉄砲に強く、歩兵に弱い。この三つを組み合わせ、互いの弱みを補い、力を倍加させる。これを欧羅巴では『三兵戦術』と呼ぶ」
「三兵戦術…」
一益の眼がわずかに光を帯びる。――塹壕と鉄砲で武田の脚を奪い、矛先を鈍らせる。指先で畳の縁をなぞりながら、塹壕と柵の線が掌に浮かぶ。勝ち筋が脳裏に形を結んだ。
次の瞬間には、すでに布陣の構想が頭の中で動き出していた。
ロレンソは言葉を畳みかける。
「智くして知識ある人によりて国は長く保つ。義者の家は立つ。義者は獅子のごとくに勇ましい。中将、常に智慧を求め、真理を求め、正しくあれ」
ロレンソが深く頭を下げ、従者を伴って去っていった。
扉が閉まると、広間に一瞬の静けさが戻る。
忠三郎が静かに言った。
「お疲れでござりましたな」
義太夫が「いやはや」と笑いかけて、すぐに口をつぐんだ。
縁先には、誰かの笑いの名残がまだ畳に温く、外気はもう戦の匂いに冷えていた。
「鶴、来るべき武田攻めのため、領内の鉄砲を余さずかき集めておけ」
一益の頭にはすでに布陣図が浮かんでいる。溝を掘る位置、鉄砲隊の交代射撃の間合い、退路を塞ぐ柵の配置――が次々と描かれていく。
さらに大量の鉄砲を買い付けるため、日野中野城下の鍛冶村へと馬首を向ける。その道すがらも、義太夫と戦略を練り続けた。
聞き取った戦法を、即座に己の戦場に適合させる――それが一益の強みだ。
(これだ……これならば、武田の騎馬隊に勝てる……)
脳裏に描かれた布陣図は、すでに現実の戦場に落とし込む準備に入っていた。
長きに渡った長島願証寺との戦いが終わり、一益は長島城を居城と定めた。
義太夫には蟹江城から、長島の目と鼻の先にある桑名城の城代を任せ、修復を命じた。
だが、長島周辺は戦火の爪痕が深く、村も畑も焼け、住民の多くは織田軍の侵攻で連れ去られるか命を落とし、地は荒れ果てていた。
一益は領地復興をただの慈善事業とは見なさなかった。戦のためには兵糧と人がいる。人を呼び戻すには、他国よりも魅力的な条件を示さねばならない。
そこで通常五公五民の年貢を四公六民へ下げ、橋や街道を修復し、物流の大動脈を整えて商いを呼び込む。
『他国の者が羨むほどの地にせねば、この地は甦らぬ』
そう口を酸っぱくして家臣に命じ、復興策を着々と進めた。一益にとって善政は、戦略の一部にほかならなかった。
一方、伊勢に戻った義太夫は、城ではなく屋敷脇の畑に足を運ぶ。
任された桑名城の修復は必要最低限に留め、空いた時間は鈴鹿山脈で採った野草の苗を植え、育てていた。
「されど山中に生えるような野草は、ここでは育ちが悪いものもございますな」
手入れを手伝う助九郎の言葉に、義太夫もうむむと唸る。甲賀で調合していた薬を再び作ろうと、蟹江城代の頃から試みてきたが、思うような成果は得られなかった。
「義太夫殿、あちらの夏麦をご覧あれ。大変発育がよく、もう穂をだしておりまする」
視線の先には、秋に撒いた夏麦が青々と伸び、穂を揺らしていた。
伊勢の地は温暖で早くから稲作が盛んゆえ、水路は各地に点在している。だが長雨の季節には川が氾濫し、たちまち田畑は水浸しになる。義太夫の野草畑も例外ではなかった。
「天白川がよう洪水を起こすと、安国寺の休天和尚が言うておりました」
「日永を流れるあの川か」
休天和尚と聞いて、長島攻めの折に助けた童の姿が脳裏に浮かぶ。
(無事に安国寺にたどり着いておるじゃろうか)
何度か思い返したが、戦と政に追われ、見舞う暇もなかった。
「殿に申し上げて、人をかき集め、堤を作らねばなるまいて」
だが治水工事には銭が要る。年貢を軽くした分、実入りは減った。しかも滝川家の収入の大半は武具や火薬の購入に消える。領地は広がっても、一益も家臣も裕福とは言いがたい暮らしだった。
それでも一益は口にしていた――治水は防災のためだけではない。洪水を防げば田が安定し、人は戻る。人が戻れば兵も増え、商いも活気づく。それはやがて、戦の勝敗をも左右する。
(人がこの地に戻ってくれれば…)
義太夫は、大川の向こう、長島の地を遠望する。
領地は広がっても、耕す者、商いを担う者がいなければ国は繁栄しない。
「しばらくは薬を売る日々が続くのう」
野草の香りに包まれながら、義太夫はぽつりと呟いた。
だが次の瞬間、手を止め、ぱちんと手を打った。
「おおっ! そういえば……」
助九郎が驚いて振り返る。
「な、何を思いつかれました?」
「殿がよう仰せであった。縄張りとは土地を読むこと、水の流れを読むこと……」
古里・甲賀には数多の小城があった。粗末であっても、一益はいくつかの築城に携わり、縄張りを学んできた。
『縄張りとはただの設計にあらず。土地を見極め、その特徴を活かすものじゃ。敵が攻める方角を予測し、どこに堀を掘り、どこに門や搦手を置くか。そのすべてが計算された戦略となる』
さらに一益はこう語っていた。
『川の流れを読むことで、堀や水門を最適な場所に設けられる。治水も同じ。地形を知り、流れを制御することこそ肝要よ』
義太夫は畑の真ん中で大きく手を広げ、大げさに歩き回る。
「ここに堀を掘る! ここに水門を置く! そしてこの畦道こそ搦手じゃ!」
ぐるぐる回っているうちに、足を滑らせて畝に膝を突っ込み、泥にまみれた。
「殿ならば、この川の氾濫も、見事に食い止めてくださるに違いない!」
泥だらけの顔で力強く言い切る義太夫に、助九郎はあきれ顔で肩をすくめる。
「……殿のお知恵なら、でございますな」
義太夫は気にも留めず、満足げに頷いた。
「うむ! 殿の縄張りとわしの薬とで、この地は必ず蘇る! いや、蘇らせねばならぬ!」
どろどろの膝を払いもせず、義太夫は畑にしゃがみ込み、ふたたび野草の苗に手を伸ばした。
長島城に戻った一益は、早速、家臣たちを呼び集めた。
「武田が三河に兵を進めようとしておる」
「武田とは…では、また友軍でござるか」
広間の空気が、途端に重くなる。
ようやく北伊勢が落ち着き、町の復興が緒についた矢先だ。他国での戦など、誰も望んではいない。勝っても領地が増えるわけでもなく、大きな褒美も見込めない。
一益はその空気を読んで、わずかに口角を上げた。
「皆の思いも分かる。しかし伊勢が落ち着いた以上、今後は他国での戦が増えよう。…街道を直したのも、城を取らせて武田を油断させたのも、すべては計略のうちよ。狙いはただ一つ――武田を、我らが優位となる場所へおびき寄せるためじゃ」
「我が方が優位となる場所…とは」
佐治新介が眉をひそめる。道家彦八郎も身を乗り出した。
「城に籠るおつもりか」
「いや――平地に三日で陣城を築く」
一益の声に、座がざわめいた。驚きと疑念が走る。
「三河へ向かう途上、木を伐り、運び、平地に陣城・馬房柵・土塁・逆茂木・竹矢来を備える。場所は湿地がよい。かつて欧羅巴《えうろっぱ》の騎兵が塹壕に阻まれた戦例がある。武田の騎馬隊も同じく足を取られる」
「乾いた地では騎が勝つ。濡れた地では銃が勝つ。――我らは地を選ぶ」
一益の眼はすでに戦場を見据えていた。味方は湿地に陣を構え、両翼に伏兵を置き、正面からは柵と鉄砲で迎え撃つ。敵の勢いを奪い、混乱したところへ伏兵が襲いかかる算段だ。
「敵をはるかに上回る兵力がありながら、陣城に籠るのでござりますか」
道家彦八郎が怪訝そうに問う。
「恐れながら、そのような汚い戦法では、我が軍勢が臆病者と笑われましょう」
「笑わせておけ。白兵突撃に固執し、無駄に兵を死なせるのは武辺者の慢心。武田に勝つこと――これを除いてこの戦いの意味はない」
「しかし武田が、その策にまんまと乗るとは思えませぬが」
佐治新介がそういうと、居並ぶ者がみな一様に頷く。
「乗るよう仕向ければよい」
一益が淡々と断じる。
「武田は勝機と見れば、必ず牙を剥く。奴らの鼻先に餌をぶら下げてやれば、食らいつかぬ道理はない」
その声には、これまで数多の敵を手玉に取ってきた自信が宿っている。
――川の流れを堰き止めて向きを変えるがごとく、敵の大軍をこちらの思惑へ導く。
一益の眼差しはすでに、湿地に柵をめぐらせた未来の戦場を射抜いていた。
「…はて、義太夫がおりませぬな…」
新介が気づいて首を傾げた。
「あれは閉門中じゃ」
「また何か仕出かしたので?」
呆れ顔の新介の問いに、一益は答えず話を続けた。
「三河の長篠城には武田から寝返った奥平なるものがおる。武田は威信をかけて、この城をおとそうとするじゃろう。それゆえ、長篠城から山を越えたこの湿地の後ろ側に織田の本陣を張り、長篠には伏兵を置く」
「敵に気づかれぬうちに陣城を築き、おびき寄せると…」
それまで黙って聞いていた三九郎が、なんとか話についていこうと、耳を傾ける。
「然様。山腹に小勢を置けば、武田は侮って攻めかかろう。小勢が敗走したかに見せ退けば、武田はそれを追う。その背後を長篠に忍ばせた伏兵が襲えば、武田は退却の道を断たれ、やむなく我らが大軍の前に進むしかなくなる」
一益の声に自信が滲む。
「…で、鉄砲の備えは?」
「恐れながら、武田も鉄砲を用いると聞き及びます」
道家彦八郎が口を挟む。すでに調べていたのだ。
「案ずるな。硝石も鉛も我らが押さえておる。東国の輩が使うのは銅弾や鉄弾。すぐに尽きるうえ、威力も鉛弾には及ばぬ。鉛弾なら兵がその場で作れるが、銅や鉄は鍛冶を要する。これが織田が伴天連に布教を許す所以よ」
「万一、雨が降った時は如何なされます?」
三九郎が心配そうに言う。
「上様ご出馬の折は、よう雨が降るからのう」
新介が肩を竦めると、広間に乾いた笑いが漏れた。
桶狭間においてはそれが功を奏して勝利しているが、過去には雨で鉄砲が使えず、手痛い敗北を味わったこともある。
「そのための湿地帯じゃ。これは譲れぬ。雨なら我が方は鉄砲が使えなくなるが、湿地はますますぬかるみ、武田の騎馬も足をとられる。下馬して戦わざるを得なくなろう」
雨であれば互いに不利。だが兵数で勝る織田勢に分がある。
「よいか、雨のときは決して押すな。武田が術中に嵌るまで待て。柵の外へは出るな。敵が退くと見えても追うな。滝川三千騎、無傷で伊勢へ戻るのじゃ」
勝ち方は問わない。勝ったという事実さえあれば、その後は調略で武田を崩せる。
「みな、心積もりしておくように。…されど、まずは先に河内へ出陣する命がくだっておる。急ぎ戦さ支度を整えよ」
信長の無茶な人使いに、居並ぶ家臣たちは互いに顔を見合わせ、深いため息を洩らした。
越前一国が一揆によって奪われ、石山本願寺が挙兵した。河内での本願寺戦は、伊勢長島で願証寺と戦っていたころから並行して続いており、いまだ勝敗がつかずにいる。
一益が本願寺を目指し軍勢を率いて河内に入ったのは四月十三日。すでに各地から味方の兵が集められており、十万はいるという噂だった。
ついてみれば、なるほど――あちらもこちらも、見覚えのある旗指物で埋め尽くされている。
「しかしこの戦場は、雑多な者どもばかりじゃなぁ」
閉門が解けて従軍してきた義太夫がそこここに見える軍勢を見て言う。
「さもあらん」
一益は苦笑をこぼす。信長はここで一気に決着をつけるため、十か国以上の国に陣触れを出していたのだ。
「荒木の陣中に見舞いに参ろうか」
近くに陣取っていると知りながら、素知らぬ顔もできまいと、一益は義太夫と新介を連れて荒木村重の陣営へ向かった。
その道すがら、義太夫は少し前を歩く一益の背中を見つめながら思う。
(本願寺の兵がいかほどおろうと、この混沌たる戦場で、殿は果たしてどう戦を進めるおつもりか…。上様は常に一歩先を見越しておられる。されど、戦だけで国を保てるものではない)
脳裏に浮かんだのは、長島での一益の姿。焼け野原となった地を、川を読み、堤を築き、民を呼び戻す場へと作り変えていったあの姿だった。
(殿の縄張りは、ただ戦場を制すものにあらず。流れを制し、民を生かす知恵でもある。戦を治め、国をも治める――これぞ真の武の道よ)
そんな義太夫の思索を遮るように、前方の帷幕から信長の側近・長谷川藤五郎が現れた。
信長からの指示を伝え終えたところのようだ。
帷幕の中では、荒木村重が不機嫌そうに床几に腰をかけ、扇で膝を叩いていた。
「おお、滝川殿か」
一益に気づくと、村重は顔を上げるなり、苛立ちを隠さぬ口調で言った。
「今しがた藤五郎が来おったが――あやつ、上様の威を笠に着て、実に無礼な態度よ!」
一益は眉ひとつ動かさず、静かにうなずく。
(あれは奉行衆にはありがちなこと。いちいち腹を立ててはきりがない)
一益の心中をよそに、村重は舌鋒鋭く続けた。
「まったく織田家というところは、碌でもない輩ばかりよ。相手かまわず這いつくばって機嫌を取る下賤な小人がおれば――」
羽柴秀吉のことだろう。
「真面目一辺倒で、頭の固いだけの年寄りもおり――」
柴田権六の顔が思い浮かぶ。
「譜代というだけで、大した功もなく、ふんぞり返っている老いぼれもいる」
佐久間信盛のことか。
「さらには――」
村重は扇を止め、にやりと笑う。
「普段は何を考えているやら掴みどころもなく、戦となれば敵中に一人突撃して、的にされる阿呆もおる」
忠三郎のことだとすぐに分かった。
思わず義太夫が吹き出す。
「摂津守殿、滝川殿の前でそのような物言いは……」
傍にいた武将が困ったように口を挟んだが、村重は扇をぱたりと閉じ、まだ続ける気満々だった。
一益は小さくため息をつき、
(やれやれ、長話はまだ尽きぬと見えるな)
と心中で呟きながら、相手の言葉に耳を傾ける。
「したがな、一番気に入らない奴がおる」
と荒木村重がじぃっと一益を見る。一益は苦笑して、
「それが、わしじゃと?」
「然様。それゆえ息女をもらうことにした」
村重はそう言うと、豪快に笑った。
(よう分からぬ奴…)
「その阿呆どもがみな、手柄を立てようとしのぎを削っておるのが、お分かりにならぬか」
分からないわけがない。村重よりも余程長く織田家にいるのだから。
「それを一人、我、関せずという顔で冷ややかに構えて、皆の隙を伺い、ここぞというときに手柄をかっさらっていくやつが、一番気に食わぬ」
随分な言われようだ。
義太夫と新介が目を向いて怒ろうとするのを、軽く制し、一笑した。
村重の傍にいた武将も、それに気づき、
「摂津守殿。大概にされよ。かようなところで見たまま、思うままを口にされてはなりませぬ」
こちらも村重を制しているつもりかもしれないが、どうも的外れだ。義太夫と新介が顔を見合わせている。
そのゆったりとした話し方、悪気なく無神経なことを言う辺り、誰かを思わせる。
(鶴か…)
似たような類の人間だなとふと可笑しくなって笑った。
「いや、右近。滝川殿はかような戯言を気に留めるような小さき器ではあるまい。現にほれ、笑うておられるわ」
村重が幾分、興が覚めたようにそう言う。
(こやつが高山右近か)
右近と呼ばれた武将が、キリシタン大名という噂の高山右近だと分かった。右近は荒木村重の与力で、今回の合戦にも村重とともに参陣している。
思っていたのよりも若い。忠三郎よりも少し上くらいだろう。顔立ちにはどこか厳しさが感じられるものの、その目は穏やかな光を帯びていた。
右近は穏やかな微笑みを浮かべているが、その目の奥にある深みに、何かしらの重みを感じ取る。武将というよりも、別の何か――僧侶のような気配すら漂わせている。
無意識のうちに、右近に対してある種の警戒心を抱いた。だが、それと同時に何か心の奥で引き寄せられるような感覚も覚えていた。
帷幕を出たあと、すぐに右近が追ってきた。
「滝川殿、たいへんご無礼つかまつった」
「いや、気に留めるほどのことでもない」
一益が軽く流そうとすると、右近は小さく頭を下げて、
「実はロレンソ殿から、滝川殿のお噂を聞いておりました」
と告げた。
思いもよらぬ名に、一益も義太夫も目を見張る。
右近は父と共にロレンソから伴天連の教えを受け、キリシタンとなったのだという。
「ではロレンソはいま…」
「はい。高槻におられます」
右近が高槻城下に作った天主堂で伴天連の教えを広めているらしい。
(なるほど、それゆえに気軽に日野まで来たのか)
噂は聞いていたが、高槻にいたのは知らなかった。
高槻では領主がキリシタンになったこともあり、爆発的に領民の間にキリスト教が広まり、領民二万五千のうち、一万八千がキリシタンになっている。
「右近殿、折よく参られた。そなたに頼みがある」
一益は声を低め、右近を見据えた。
「堺・国友・日野、どこも硝石と鉛が不足しておる。今の倍は必要じゃ。イエズス会の者どもに伝えてほしい」
硝石も鉛も、鉄砲玉を作る要の材料。国内では産出が乏しく、輸入に頼るしかない。
「不足とは…これまでも相当量がもたらされておるはずでは」
右近が目を見開くと、一益は唇の端を上げた。
「我らが買い占めておるゆえのう。他国では、さぞや不足しておろう」
その答えに義太夫が「えげつな…」と小声で呟き、一益に睨まれて口をつぐんだ。
「確かにお伝えいたしましょう。…ロレンソ殿から滝川殿に渡してほしいと、これを預かっておりまする」
右近は懐から一冊の薄汚れた書物を取り出した。
「これは…?」
「どちりいな・きりしたん なる書物でござる。ロレンソ殿が伴天連から聞いたものを書き留めて書物にしたものにて」
ロレンソは宣教師の通訳を務め、日本語を教えることもある。南蛮の事情に詳しいのも、少なからずポルトガル語を理解しているからだろう。
「それと、ロレンソ殿から言伝が」
「何であろうか」
「悩みの日に我を呼べ。我、汝を援けん。而して汝、我をあがむべし、とのことでござりました」
一益は首を傾げる。
「ロレンソは、わしを呼べと言うておるのか」
「いえ。我とは、デウスのことかと」
「……ふむ。やはり、よう分からぬことを申す。まぁ、よい。人を喰う猟師によろしゅうな」
唐突な一益の言葉に、右近は目を丸くした。
「人を喰う猟師?」
義太夫が横で吹き出しかける。新介が肘でつつき、必死に堪える。
「人を喰う猟師」とは、かつてロレンソに「修道士とは何か」と尋ねたときの答えだった。本来は「人の魂を釣り上げる漁師」という意味だったのだが、一益は「猟師」と思い込み、しかも「人を喰う」と勝手に解釈してしまったのだ。
(人間を喰う猟師などと……やはり、あやつの言うことはよう分からぬ)
受け取った書物の意味も分からぬまま、一益は懐に収めた。
「では、また戦場で……」
右近はそう言って軽く頭を下げ、帷幕を後にした。
一益もまた、荒木村重の陣を辞した。
織田勢が取り囲むのは本願寺の支城・新堀城。城内には十河存保が立てこもっていた。存保は、かつて畿内を支配した三好長慶の弟であり、石山本願寺と同盟して挙兵した猛将である。
信長は大軍を頼みに、夜討ちによる力攻めを命じた。城壁を越えることなく、城門を火矢で焼き破り、力ずくで突入する戦法だ。
夜の闇に掛かり太鼓が鳴り響くと、矢の雨が城門を襲い、火の粉が闇を朱く染めていく。
「上様ご出馬ともなると、皆、目の色変えて敵にかかっていくようで」
義太夫が苦笑する。興奮した若武将たちは、堅牢な防備も省みず、無謀に駆け出していた。
一益は少し困ったように笑い、床几から立ち上がる。
「まずいな」
銀水牛脇立兜を被り、馬にまたがる。
「殿、まさか、あの中へ押し入るおつもりで?」
義太夫は腰を抜かさんばかりに叫び、慌てて後に続いた。
崩れた城門へ近づくと、目の前には敵味方が入り乱れた乱戦が広がっていた。火と煙、怒号が渦を巻き、刀の火花が闇を裂く。
「あれでは同士討ちになる」
一益は寄せ手の状況を観察しながら言った。
「この寄せ手、諸国の兵ばかり。互いに顔も知らぬ者が多い。旗指物など見分けがつくものか」
義太夫がきょろきょろと辺りを見回す。
「まこと、素破でもない限り、この烏合の衆では同士討ちばかりでござろう」
一益の目は闇に慣れ、兵のわずかな動き、息遣いさえ見逃さない。幼いころから鍛えられた素破の眼で、敵と味方を瞬時に見分けていく。
その姿はただ戦う武将ではなく、戦場そのものを支配する存在のようだった。
一益がひとたび馬を進めると、不思議なことに周囲の喧噪がわずかに引き締まる。焦燥と混乱が支配していた戦場に、ほんの一瞬、静けさが訪れる――その場の重心が一益へと移ったかのように。
さらに馬を走らせ、近づくと、案の定、崩れ落ちた城門の近くで戦う忠三郎の姿が見えた。
「鶴!それは味方じゃ」
義太夫が必死に叫ぶが、忠三郎は耳に入らぬ様子で、目を血走らせて槍を振るい、敵兵も味方も見境なく薙ぎ払っている。周囲の兵たちが思わず後ずさりするほどの剣幕だった。
一益は助太郎から鉄砲を受け取ると、夜空に向かって一発、轟音を響かせた。
火花が闇を裂き、戦場の喧噪が一瞬にして凍りつく。さらに二発目を放つと、敵味方の視線が一斉に彼へと吸い寄せられた。
「た、滝川左近じゃ!」
誰かの叫びを合図に、敵兵が蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
義太夫はその隙に忠三郎へ駆け寄り、肩を叩いた。
「義兄上を見て、敵がみな、命からがら逃げだしておる」
忠三郎は荒い息を吐きながら、ようやく槍を振り下ろして血糊を払うと、苦笑を浮かべた。
「夜討ちに長柄槍など要らぬと、教えられたはずじゃろ」
「弓も槍も鉄砲も使うものと思うておったが…」
「夜戦は長刀、太刀、弓、鉄砲。それが定めじゃ」
義太夫はやれやれと肩をすくめ、懐から包みを差し出した。
「ほれ鶴、これを飲め。夜目が効くようになる。わしらは皆、口にしておる」
「これは……薬か」
忠三郎が半信半疑で口にすると、義太夫はさらに懐から握り飯を取り出して押し付けた。
「それと腹も減っておろう? 殿の采配を仰ぐにも、腹が減っては戦はできぬ」
「……よう、わかったな」
忠三郎が苦笑混じりに握り飯を頬張る。
その傍らで、一益は冷静に戦況を見極めていた。
「見よ。背を向け逃げ散る者こそ敵じゃ。右往左往して列を乱す者を狙え。ただし深追いは無用。敵味方の境を見失うゆえな」
その声が響いた瞬間、周囲の兵たちに静かな規律が戻った。指揮官の一言が、混乱の戦場をわずかに整える。
忠三郎は馬首を返し、笑みを浮かべて走り出す。
「義兄上が前に出られるとは稀なること――敵も味方も驚いておるようで!」
その背を見送りながら、義太夫が肩をすくめる。
「さて、誰のためにその珍しきことをしておるのか……ご本人は気づいておられぬ様子にござるな」
一益は何も答えず、ただ城門をじっと見つめた。
「鶴に飲ませた薬は紫金丹であろう」
一益の問いに、義太夫はにやりと笑い、胸を張った。
「効き目は『夜目が利く』とは偽りなれど、まぁ気は心にて。滋養と疲労回復には効きますゆえ!」
その調子に一益は思わず苦笑し、本陣へと馬を返す。
「我らは追わずともよいのですか」
助太郎が尋ねると、一益はあっさりと答えた。
「直に落ちる。あとは若き者どもに任せておけ」
そして明け方、新堀城はついに落ち、十河存保は討死した。
「此度の一番手柄は滝川左近!」
信長本陣に伺候した諸将の前で、万見仙千代が高らかに告げる。
場がざわめいた。
滝川勢は城外から鉄砲で牽制しただけ――そう見ていた者たちにとっては、思いがけぬ言葉だったからだ。
「未然に同士討ちを防ぎ、乱入した兵を導いた働き、まことに天晴」
奉行衆の誰かが注進したのだろう。信長の眼前でそう評された以上、覆ることはない。
(これではまた、荒木に何を言われるやら……)
一益は心のうちで苦く笑った。面白くないと思うのは荒木村重だけではあるまい。嫉妬と猜疑は戦場の功を分かち合う宿命。
「ハハッ、有難き幸せにて――」
恭しく拝しながらも、一益の声はあくまで淡々としていた。
「これも皆々のご奮戦あればこそ。滝川一党の力のみならず、方々の御働きがあってこそ、斯くも速やかに城は落ち申した」
その言葉に、ざわめきは次第に和らぎ、他の武将たちも軽く頷いた。
場の空気を読んだ一益の一言が、妬心の火種を静めていく。
(――功を独り占めせぬ。されど、心の内で笑う荒木の顔が見えるようだ)
一益は表には決して出さぬまま、静かに場を収めた。
だが、その穏やかな空気も束の間であった。
本陣に駆け込んだ使者が、息せき切って声を張り上げる。
「武田が――武田が動いたとの知らせにござります!」
一益は目を細め、心のうちで密かに嗤った。
(武田四郎、ついに網にかかったか)
この数年、幾重にも策をめぐらせて勝頼を誘い出そうとしてきた。その獲物が、いま目の前の罠に踏み込んできたのだ。
「本願寺と歩調を合わせてのことよな」
信長もまた、勝頼が動いた理由を即座に見抜く。もとより、この一戦こそが武田を討ち据える好機であることは承知している。
一益は信長の顔を仰ぎ見た。言葉にはせぬが――「この時を逃す手はない」と。
信長はわずかに頷き、即座に立ち上がった。
「これより都へ引き返す!」
その声が帷幕を揺るがすと、近侍たちは一斉に駆け出し、退却の触れが陣中を駆け巡った。
織田勢が武田攻めのために京に戻ったのは四月二十一日。
これから始まる戦いは、ただの戦さではなく、戦局を決定づける武田との決戦の時だ。信長本隊はそのまま岐阜へ向かい、一益は兵を津田秀重に任せて先に北伊勢へ返し、日野へ向かった。
義太夫と新介が連れ立って鉄砲鍛冶のところへ行き、一益は忠三郎と共に中野城へ入った。蒲生家の家臣たちを集めて軍議を開き、武田攻めの詳細を説明する。
一堂に会した蒲生家の家臣たちは、一益相手に恐縮してしまい、ただ黙って聞いていた。彼らはみな陪臣であり、織田家の重臣である一益とは言葉を交わしたこともない。みな、その威厳に押され、口をはさむこともできなかった。
話し終えると、沈黙を破ったのは老臣・北川平左衛門だった。
「柵越しに鉄砲で狙うばかりでは…敵を追い落とすことができましょうか」
家臣たちは武田との決戦と聞き、胸の奥に闘志を燃やしていた。しかし籠城を思わせる戦法に、どこか肩透かしを食ったような顔つきだ。
一益は変わらぬ声で答えた。
「敵が退き始めたと見れば、一気に追えばよい。ただし、深追いはならぬ。あるだけの鉄砲を兵にもたせて行け」
その時、忠三郎が苦笑しながら口を挟む。
「されど義兄上は、いつも一人で手柄をさらって行かれる」
軽口のようでありながら、その瞳には焦りが滲んでいる。
一益は一拍置いてからやわらかく言い返した。
「そなたは若くして勇将の名を得、上様の覚えもめでたい。今は功を急がずともよい。戦は一度きりではない」
諭されて、忠三郎は口を閉ざし、やがて小さく頷いた。
一益は再び広間を見渡し、落ち着いた声で告げる。
「敵を迎え撃つ支度は整った。無理をせず、確実に戦局を有利に進めるため、皆が心落ち着けて臨むことを忘るるな」
やがて軍議が終わり、家臣たちが広間を去ると、待っていたかのように、忠三郎が口を開いた。
「摂津の陣では間違いなく、それがしが一番手柄と思うておりました」
妙にこだわるのは、諸国から武将が集まっていたからだけではないだろう。
「そなたは誰と競うておるのか。森勝蔵か、堀久太郎か」
忠三郎は笑って、
「己にもわかりませぬ。ただ、誰にも負けたくない。それに、義兄上のように、名を聞いただけで敵を恐れさせるようでなければ、乱れる国を治めることなどできぬ」
その目は若者らしいまっすぐさで燃えている。戦場の誉れを越えて、すでに「治める」という言葉を口にするのが、この男らしかった。
一益はしばし黙してから、静かに言う。
「焦らずとも、直にそうなる」
温かさを含んだ声音だった。忠三郎の将来を見据える確かな信頼が、そこに滲んでいる。
「…武田は上様や義兄上がそこまで慎重になるほど、強いと?」
恐れを知らぬ忠三郎が、不思議そうにそう尋ねる。
「貧しい国の兵は強い」
一益の言葉には、ただの戦術的な見解以上のものが含まれていた。
甲斐の国はそのほとんどが山岳地帯であり、肥沃な平地を持つ尾張や美濃、伊勢とは違って耕作には不向きだ。国が圧倒的に貧しいため、武田家の蔵入りは少なく、財政は乏しい。重要な資金源だった甲斐金山も、もう久しく金を産まなくなったという。武田が信濃に侵攻したのもそのためだろう。
「それに武田は兵を引かぬであろう」
武田勝頼は焦っているのだ。時がたつごとに織田家の勢いは増すばかりで、
このまま手ぐすね引いてみていれば、武田はいずれ滅ぼされるか、織田家に臣従するしか道がなくなる。
「確かにその通りでござりますが、我らには天下布武という大儀がある」
忠三郎を立たせている正義はそこだろう。この国をひとつにまとめ上げ、織田家による統治をおこなうことで戦のない泰平の世を造る。
いかにも若く、正義感の強い若者を奮い立たせる大儀がそこにはあり、若年のころから信長の傍で過ごしたせいで、一途にそう思い込んでいる。
(大儀がなければ命をかけて戦うことはできない)
一方で、一益はその「大儀」が持つ矛盾を見抜いていた。
戦さの大儀には嘘がある。多くの者が掲げる戦さの大儀は所詮、それぞれの置かれた立場でいかようにも変化する大儀にすぎず、人の命を奪ってよい大儀などは存在しない。言い換えれば、戦うために、嘘・偽りで塗り固めた大儀を振りかざしているにすぎない。
「それを望まぬ者も少なくない。鶴、そなたの頭で考えて分からぬか。他国に攻め入ればそこにいる者たちには、平穏な生活を乱す侵略者と、そう思われても不思議はない」
一益の言葉は静かでありながら、確かな重みがある。忠三郎は驚いたように目を開き、少し考え、戸惑った様子で言う。
「義兄上の言う通りやもしれぬが…それが分かったうえで武田を討つと、そう仰せか」
一益の真意が測りかねるようだ。忠三郎の目には、戦いの「正義」を信じる気持ちが強く映っているが、同時にその冷徹な現実に直面し、困惑を感じている様子が見て取れた。
忠三郎は、ふらりと立ち上がって広縁に出た。庭先には西日が射し込み、草木の影が長く伸びている。
空には、遥か北へ帰る雁の群れが列をなし、赤みを帯びた光の中をゆっくりと過ぎていく。
沈みかけた陽は雲間を朱に染め、風は昼の熱を奪いながら、かすかに冷たさを帯びていた。その夕景を見上げ、忠三郎は朗々と和歌を吟じた。
「ながめつつ思ふも悲し 帰る雁
行くらむ方の夕暮れの空」
「それは?」
「右大臣実朝が詠んだ歌でござります」
右大臣実朝とは十二歳で鎌倉幕府の第三代将軍の座についた源実朝のこと。
「武士の頭領であった卿は、それがしなどとは比較にならぬほどの重責を負っておられたのでしょうな」
忠三郎のその言葉には、どこかしらの重みと自らの立場を重ねるような思いが込められていた。忠三郎もまた、若くして多くを背負い込み、悩みながらも前に進もうとしていることはよく分かっている。
「鶴、かような乱世において、迷うことは至極当然のことじゃ」
「義兄上でも…迷うことがおありか」
忠三郎が意外そうに問いかけると、場がしんと静まる。すると義太夫が、わざとらしく咳払いして口を挟んだ。
「ははぁ、殿に迷いとは意外にござる。せいぜい迷うても、道に迷うて桑名に行き着くくらいかと…」
忠三郎は吹き出し、一益は苦笑を浮かべる。
重くなりかけた空気がふっと和らぎ、広間に小さな笑いが灯った。
ひとしきり笑ったあと、一益はふと真顔になる。
「ロレンソが、悩みの日に呼べと申しておったな」
「は…義兄上にロレンソ殿を呼ぶようにと?」
忠三郎が驚いた表情を浮かべると、一益は首を横に振る。
「デウスに祈りをささげよという意味じゃろう。そういえば…」
と高山右近がロレンソから託されたと言う書物を取り出した。
「それは、どちりいなキリシタンでござりますな」
「存じておったか」
「はい。なんでも、童のためにロレンソ殿が書いたキリシタンの本と聞き及びました」
「童のため?」
「高槻で童にデウスの話をしているとか」
かな文字ばかりだったのはそういうことだったのか。
「あやつ…」
「ロレンソ殿が義兄上に渡してきたのでござりますか」
どうも侮られているなとフンと鼻先で笑った。
「まぁ、よいわ。鶴、今後も硝石が足りなくなろう。伴天連とは仲良うしておけ」
忠三郎が笑いを堪えて頷く。
「はい、義兄上。伴天連との付き合い方、しかと心得ました」
一区切りしたところで、義太夫が腹をさすりながら言った。
「さてはて、武田との戦さの結末はまだ先のこと。だが腹が減るのは今すぐのことにござる。鶴、飯はまだか?」
場の空気が一気に和らぎ、忠三郎は笑いながら侍女を呼んで膳を運ばせた。
1
あなたにおすすめの小説
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる