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6 色即是空
6-2 色即是空
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五月下旬、伊勢・長島城に戻った一益のもとへ、織田勘九郎信忠からの急使が駆け込んできた。
差し出された書状には、勘九郎率いる尾張・美濃勢が設楽原の戦場から、そのまま東美濃の岩村城へ向かったと記されている。この勢いをもって武田を叩き、東美濃を手中に収める腹づもりらしい。
「岩村城と申せば、章姫様の御嫁ぎ先。城主・秋山伯耆守虎繁は、此方に寝返るとの約定であったかと」
佐治新介が眉をひそめる。
「その約定どおり、秋山が城を開き、武田攻めに加わるのであれば、事は荒立たずに済みましょう」
三九郎が静かに言えば、津田秀重が首を傾げた。
「されど、この時節にわざわざ知らせを寄こすとは、雲行き怪しき兆しとも見えまする」
一益も同じ懸念を抱いていた。
(勘九郎殿の真意は、城攻めが始まる前に章姫を奪い返したい、ということではあるまいか)
岩村城――常に霧に包まれる堅固な山城。城内に手引きする者なくして、忍び入るのは容易ではない。
広間に重苦しい沈黙が落ち、居並ぶ者たちが一様にうなずいた。
(――上様は、岩村城を力攻めになさるおつもりか。それとも、つや殿は約定を違え、武田に与する腹を固められたのか)
胸中に渦巻く疑念は晴れぬまま、戦の嵐が再び迫っていることはわかる。
これまでの経緯を思い返すにつけ、腑に落ちぬ点がいくつも浮かび上がってくる。
先日、わざわざ屋敷まで足を運んできた勘九郎は、章姫の安否ばかりを案じていた。
(――されど、武田方には上様の四男、御坊丸がおるはず…)
あの日、岩村城が秋山虎繁の手に落ちたとき、城内にはおつやの養子となっていた信長の四男、御坊丸がいた。
落城ののち、御坊丸はそのまま武田信玄のもとへ人質として送られ、信玄自らが「養子に迎えたい」と申し入れてきたと聞く。信玄が没した後も、御坊丸は甲斐に留め置かれているはずであった。
(助けよと申すならば、まずは御坊丸であろう。それに……)
「おつや殿をお許しになられたのか」と問いかけた折、勘九郎は一瞬、言葉を詰まらせた。
(上様は身内に甘い。ましてや、女子を刃に掛けるなど…常ならば考えられぬ)
だが、その勘九郎が即答を避けた。そこには、一益が知らない深い事情が潜んでいるのかもしれない。
おつやは信長の叔母にして、岩村の女城主。城兵を救わんがために武田家家臣・秋山虎繁の妻となり、城を明け渡した。その決断は恩義か、あるいは裏切りか――。
霧深き岩村城のごとく、その真意は未だ掴み得ない。
これ以上思案を巡らせるには、あまりにも手掛かりが少ない。
「誰ぞ、おつや殿のこと、もそっと詳しく存ずる者はおらぬか」
一益の声が広間に低く響く。
敵国の動向なら素破を潜り込ませ、逐一探らせてきた。しかし尾張・美濃――それも織田一門の女に関しては、深入りした者はいなかった。
三九郎と秀重が「うむ……」と唸りかけたそのとき、新介がふと思い出したように口を開いた。
「おつやの方様のこととあらば、義太夫が何やら存じておるやもしれませぬ。先日も、一人でぶつぶつと呟いておりましたゆえ」
「義太夫が?」
「女子とあらば義太夫にてござる。昔、尾張におりました折、殿の恋文をおつや様の御許へ届けたのも、義太夫でござりましたからな」
三九郎が「えっ」と短く息を呑み、一益の顔をうかがった。
新介の物言いは誤解を招く響きがあったが、事実としてはその通りだった。
あのとき義太夫が手にしていたのは、一益の筆跡を真似て書き上げた――偽の恋文。
今となっては笑い話にできぬこともない。しかし、あの一件がもたらした妙な気まずさは、年月を経ても消えることはなかった。
一益は眉をひそめ、低く命じる。
「義太夫を呼べ」
本来なら、しばらく屋敷で大人しくさせておくつもりだった。だが、この件ばかりは致し方ない。
蟄居を命じ、桑名城でおとなしくしているはずの義太夫を、至急呼び寄せるよう使者を走らせた。
おつやの方――その人は、信長の父・信秀の妹にあたり、信長より幾ばくか年若であった。
もとは美濃・斎藤氏の重臣に嫁いでいたが、夫は戦火に散り、その命を奪ったのは他ならぬ甥・信長であった。
その折、清洲へ戻ったおつやのもとへ届けられた一通の文――。
義太夫が一益の名を騙り、筆跡までも写して仕立てた偽りの恋文である。軽口半分の悪戯に過ぎなかったが、一益にとっては笑って済ませられることではなく、胸の内に奇妙な因縁の種を残す出来事となった。
のちに、おつやは信長の命によって再び嫁ぎ、その夫もまた戦場で斃れた。幾度も夫を喪い、岐阜に留まったのち、さらに信長の命で岩村城主・遠山景任の正室として迎えられる。
遠山が病没した後は、信長の四男・御坊丸を養子に据え、女城主として城を守った。
しかし、武田の大軍を前に抗しきれず降伏を余儀なくされたとき、寄せ手の将・秋山虎繁は、おつやの美貌と気丈さに心を奪われ、彼女を正室として迎えた。
それは彼女にとって四人目の夫であり、選択は果たして城兵を救うための政略であったのか、それとも己の生を繋ぐための賭けであったのか――いまはもう、誰も確かめる術はない。
閉門を解かれ、喜び勇んで飛んで来るだろうと思われた義太夫が姿を見せたのは、呼び出しから二日後のことだった。
「閉門中の身で、どこをほっつき歩いておった?まさか…」
佐治新介が肘鉄をくれると、義太夫はカハハと笑い飛ばす。
「いやはや、桑名から長島までも一苦労じゃ」
桑名から川を越えて渡る道は確かに厄介ではある。だが二日も要すはずがない。
「たわけたことを申すな。桑名から長島まで二日もかかったと、そう申すか?」
詰問されても、義太夫は涼しい顔で肩をすくめる。
「ちと薬草を取りに行った帰りに、道に迷うておっただけよ」
あまりにも見え透いた嘘を、さらりと口にする。その顔には悪びれる影すらない。
一益は軽く手を振り、二人のやり取りを遮った。
「義太夫、そなた、おつや殿に会うたことがあろう?」
「殿、それがしを急に呼び出されたわけは、それでござったか。もっと早う仰せくだされば、いかようにも一肌脱ぎ、話を整え申したものを。それにしても……もはや手遅れにござりましょう。あのお方は、今や岩村城の敵将――秋山虎繁の奥方にて」
妙な勘違いをしている。
一益は眉をわずかにひそめ、面倒になって顎をしゃくった。
「……新介、事の仔細を話してやれ」
新介が一歩進み出て、岩村城の情勢とおつやの経緯を語り聞かせると、義太夫の顔色がさっと変わった。
「では…勘九郎様は岩村城を攻め落とすと?」
「それはあくまで秋山が約定を違えたときの話じゃ」
義太夫は思いつめた顔でしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
「これは…妙な筋立てに、我らが見事に乗せられておるやもしれませぬな」
唇に笑みを浮かべるが、その目は笑っていない。
「妙な話?とは?」
「そもそも、おつやの方様が易々と城を明け渡し、敵将・秋山虎繁の正室となられたこと。さらに武田入道が、敵である上様の御子・御坊丸を養子としたこと…いずれも不可思議にござります」
義太夫にしては珍しく鋭い指摘だった。その鋭さこそ、逆に違和感を呼ぶ。
おつやは何故、城を枕に討死する道を選ばず、敵に嫁いだのか。
信玄は何故、御坊丸を助け、養子にまで迎えようとしたのか。
「まだありまする」
義太夫は声を落とし、さらに続けた。
「武田家譜代の宿将たる秋山が、容易く寝返りの約定を交わし、さらには章姫様がその嫡子に嫁がれたこと…これもまた、妙にござります」
「……つまり、秋山が寝返るなどという話は、もとより無かったと申すか」
「それは、あくまでそれがしの推量にござります」
奇妙さは増すばかりだった。
信長は確かな手応えがあったからこそ、愛娘を差し出したのではなかったのか。
(あの上様が、敵将の口車に乗せられ、章を敵の許へ送り出すなど……あり得ぬ)
必ず、何かがある。信長を信じさせた『何か』が――。
「おつや様が清州の城下でお過ごしの折、それがし、何度もお屋敷へ足を運びましたが…」
「何!」
思わず一益の声が鋭くなる。聞き捨てならない。何を企んで通い詰めていたのか。
「あ、いえいえ、それは殿のためというより、おつや様の侍女に用向きがありまして」
苦しい言い訳を口にしながら、義太夫は鼻の頭をかいて笑う。
「その折、幾度も目にしたのが――」
「織田掃部か」
「ご慧眼、恐れ入りまする」
尾張・日置城主だった織田掃部は織田家の連枝で、早くから武田家との交渉を任されていた。
一時は信長の勘気をこうむって姿を消していたが、やがて許され、今では何事もなかったかのように連枝衆に名を連ねている。
この一連の裏に、掃部の影があることは、一益もおぼろげに感じていた。しかし、それだけでは腑に落ちない。
「……上様が、あのような者の口車に乗り、章を易々と敵に渡されるとは思えぬ」
信長が掃部に丸め込まれたと考えるのは、早計だ。もっと別の、信長が動かざるを得なかった要因があるはず。
「それは…未だ我らの目に映らぬ事柄が、奥底に潜んでおるやもしれませぬ」
義太夫は殊更に真剣な顔で言ったが、その口ぶりはどこか怪しくもある。
(未だ映らぬ……というよりは――。見えていながら、己が気づかなんだだけでは……)
一益は心中で呟き、胸の奥に引っかかる記憶を探り始めた。
これまでの中で、わずかに胸に引っかかったことがあった。
勘九郎は何故、わざわざ屋敷まで足を運び、婚儀のことを告げたのか。
(…わしと話していることを、知られたくない誰かがいたということか)
それは、信長なのか、あるいは織田掃部なのか。
掃部にしても腑に落ちないことが多すぎる。そもそも信長は織田掃部を好まぬ様子だった。
(それが何故か、帰参を許し、今も武田との交渉に使い、言われるままに章姫を嫁がせた)
何故、織田掃部はのこのこと信長の前に姿を現したのだろうか。まるで、許しを得られることを初めから知っていたかのように。
さらに、設楽原での発言がある。
あの豪雨の中、信長に撤退を強く迫った。
(雨だけが理由ではない、としたら)
雨は口実に過ぎず、真に隠していたのは「武田と戦わせたくない」何か――。
(掃部は身を隠しておったあの歳月、どこで何をなし、何を土産にして帰参を許されたのか。そもそも、何をしでかして上様の怒りを買ったのか)
「義太夫、その、何度も用向きがあったという侍女から探り出せばよいではないか」
佐治新介がにやりと笑いながら口を挟む。
すると義太夫は妙に真剣な顔をしてから、急に大げさに肩をすくめた。
「いやいや、新介よ。女のことばかり掘り返されたら、わしの評判が地に落ちるわ!それに……あの侍女も、今ごろはきっと、立派な婆になっておるはずじゃ。婆御に色仕掛けされても、わしとて困るわい」
カハハと笑って場を和ませるように見えたが、その笑顔はどこかぎこちない。
「ほう。では女の尻ばかり追うて、肝心のことは何も知らぬと?」
一益が冷ややかに問いかけると、義太夫は「は、はは……」と乾いた笑みを浮かべ、すぐに視線をそらした。
「義太夫、滝川助九郎と共に、少し探って参れ」
「ハハッ!」
ようやく閉門が解けたからか、義太夫はいつにも増してやる気満々に返事をする。
一益は頬杖をつき、じっと義太夫を眺めた。
(――可笑しきものは、他にもおる。それも、この目の前に)
夕日が障子越しに淡く射し込み、義太夫の笑顔の影が揺れた。
その陰に、何かを必死に隠しているように見えてならなかった。
夕暮れ、城内が静まり、家臣たちがそれぞれの屋敷へ引き揚げるのを見届けると、一益は密かに山村一朗太を呼び寄せた。
障子の隙間から洩れる橙の光が、二人の影を長く伸ばす。
「閉門中、義太夫はどこへ出歩いていたか、存じておるか」
「恐らくは…日永の安国寺にございましょう」
「安国寺?」
「はい。休天殿に呼ばれていると、そう申されていたような…」
であれば、休天を問い質せば、すぐに理由は明らかになる。
だが一益の胸には、それ以上に気掛かりなことがあった。
「義太夫が博打で得た金。あれは、いずこへ消えたと思う?」
休天に金を用立てていたとは思えない。一朗太は、はて、と首を傾げる。
「桑名あたりの傾城町では?」
「わしも、初めはそう踏んでおったが……」
どうにも腑に落ちない。
この三月ほどの間に、義太夫は突如として博打に手を染めた。
甲賀を出て以来、一度もそんな素振りを見せなかった男が――今さら何故。
「では、やはり、それは女子でござりましょう。義太夫殿であれば他に思いつきませぬ」
一朗太の答えに、一益は鼻で笑った。
「女子……あやつが女に惑うは常のこと。されど今回は…」
ただの道楽では済まぬ気がする。
「どこの誰じゃ」
「そこまでは……。されど義太夫殿のこととあれば、それがしよりも懇意の鶴殿にお訊ねなされば早かろうかと」
「相わかった。そなた先に日野へ行き、明後日、例の場所で待つと伝えよ」
「ハハッ」
短く返事をし、一朗太は闇に溶けるように去った。
――忠三郎にせよ、義太夫にせよ、いつも手古摺らせる。だが厄介なのは、彼らの外に別の盤面を描く者たちがいることだ。おつや、その背後の織田掃部。そして、何かを知りながら沈黙を守る信忠。
全ての糸は複雑にもつれ合い、結び目となっている。
章姫を救うには、その結び目を一つひとつ手繰り解くほかはない――。
夕暮れの光が山門を赤く染め、標《しるべ》の松の影が境内の石畳に長く伸びていた。境内を吹き抜ける風は涼しげでありながら、どこか寂しさを含んでいる。
忠三郎はその松の根元にしゃがみ込み、吐息に紛れるような声で和歌をこぼした。
「人はただ むなしき色を こころにて
風も目にみぬ 山のあまひこ」
あまひこは尼彦とも表記され、厄災や疫病から逃れる方法を人に教えると伝えられた存在。むなしき色とは色即是空、すなわち実体のなきもののこと。この和歌は、形なき救いを心に求める、人の弱さと切なさを詠んだものだ。あたりに響いたその声は、夕風にさらわれ、空に溶けていくようだった。
一益が背後に近づくと、忠三郎が振り向き、ふっと笑みを見せる。
「それは高祖父という蒲生智閑の歌か」
「はい。齢五十を過ぎ、仏門に入りながらも、槍の穂先に阿弥陀仏を掛け、戦場に立たれたそれがしの高祖」
ちょうど、いまの一益と同じ齢――。
「静かな暮らしを退け、死ぬまで戦うことを選んだお方でござります」
「……死ぬまで戦う、か」
ぞっとする響きだった。だが、信長の許に身を置く限り、それは決して荒唐な話ではない。むしろ、それこそが己の行く末であるかのように、背を冷たい風が撫でた。
「鶴、そなたはいつ来ても、今来たばかりのような顔をしておるが――いつからここにおった?」
「よう覚えてはおりませぬが……城を出たのは、昼を少し回った頃であったような」
昼過ぎから日暮れまで、ずっと信楽院に腰を据えていたということか。
境内に射す夕陽が、鶴の頬を朱に染めている。そののどかさは、戦場で血に塗れて駆ける姿とは別人のようだった。
「ここで何をしておる?」
「取り立てて申すほどのことは……。ただ、目上のお方をお待たせしてはならぬと、幼き頃より教えられておりまするゆえ」
そう言って、照れたように笑う。
常に時の流れが人と異なるような男――馬ではなく牛にまたがって歩むかのような悠長さ。助太郎や町野長門守が陰でどれほど振り回されているか、想像に難くない。
「まぁ、よい。それよりも、義太夫が金を借りに来たであろう」
「義兄上、それは…」
忠三郎が一瞬、言葉を詰まらせた。
「あれはどこの女子に金を用立てておるのじゃ」
「何度か聞いたことがありまするが、義太夫も口が堅く、尾張におるころからの馴染みとしか聞き及んではおりませぬ。ただ…」
「ただ?」
「義太夫が金を借りにくるようになったは、ここ三月ほど。博打で『大いに儲けた』と吹聴しておきながら、なお『足りぬ』と申す。…よほどのことがあるのではと」
そんな重大なことを、主である自分に隠していたのかと思うと、腹立たしさが胸をかすめた。だが、忠三郎が事情を知らぬ以上、取沙汰するわけにもいかない。
仕方なくこれまでの経緯を語ると、忠三郎はあっけらかんと笑った。
「それは容易く説明のつくこと。章姫殿が輿入れされたのが、ちょうど三月前にござりましょう?」
――それだ。
章姫が岩村城へ向かったのは三月前。勘九郎の供回りに混じり、滝川家からも何人かが随行していた。思えば、その頃から義太夫の様子がおかしくなっていた。
「となれば、その馴染みの女子とやらは、岩村城におる者と見るのが自然かと」
「……なに。では、あやつは敵に金を用立てておると申すか」
それが事実であれば重大な軍規違反である。
忠三郎は首をかしげつつも、柔らかな声で続けた。
「義太夫も、秋山伯耆守が此方に寝返ると信じていたゆえではありませぬか。譜代の宿将たる秋山が、そう易々と寝返るはずもない。上様も義太夫も、甘言に乗せられたまで。案の定、秋山は城を固め、裏切る気配すら見せませぬ。――騙されたと気づいたのは、その後のことでございましょう」
――だが、なお解せない。
なぜ、信長も義太夫も、そんな不確かな話を、あれほど容易く信じたのか。
「その、不確かにして俄かには信じがたいことを吹き込んだのが――誰か。そこが肝要にござりましょう」
一益は眉をひそめる。織田掃部の顔が脳裏をかすめたが、あの虚飾まみれの男を信じる者など家中に多くはない。信長はもちろん、義太夫ですら……。
「まさに色即是空。人は『見えている理』ではなく、『誰かの想い』に動かされるものにござります」
にこやかに言い放つ忠三郎。
(誰かの想い…なんのことだ)
忠三郎の真意がつかめない。
「先年の合戦にて、掃部が岩村に入り、おつやの方を説き伏せ、城を開けさせたと聞き及びまする」
古くから武田との折衝を行ってきた掃部が、裏で動き、秋山とおつやの方の婚儀を進めたと聞いている。
「然様。上様の四男、御坊丸様の命と引き換えに、城を明け渡し、秋山伯耆守の正室となられた」
「義兄上から伺う勘九郎様の様子を思えば、皆、こう考えておるように見えまする――武田は御坊丸様を殺めることはあるまい。されど、章姫殿の命はわからぬ、と」
そう。それも不可思議な話だ。
むしろ逆であれば理は通る。御坊丸は男児、章姫は女子。命の危うさがあるとすれば、章姫ではなく御坊丸のはず。
(おかしな話が多すぎる)
行き詰まりを覚え、一益は視点を転じ、武田方の立場で思案してみた。
「そもそも秋山は章を人質とするため、縁組を申し入れてきたのじゃ」
「されど、人質ならば御坊丸様でも事足りましょう。何故に章姫殿を望んだのか…」
一益は黙し、眉間に皺を寄せる。
(章は女子。御坊丸は男子。常なら逆であろうに――)
「御坊丸様では、人質の値打ちがないのでござりましょう。なぜなら、武田が御坊丸様を殺めることはないと、上様は先刻ご承知だから」
――では、武田にとって御坊丸とは何者なのか。
「わからぬな」
「一番わかりやすい者から落としていくのが近道にございましょう」
忠三郎が笑って言う。
「義太夫か。そなたは何を知っていて、何を隠しておる?」
『いやぁ、わしは女のことばかりで……』義太夫ならそう言って肩をすくめて笑い飛ばしそうだ。だが、これまでの軽口の裏に、何かを必死に覆い隠している気配が見え隠れしていた。
「いえ。知っているのも隠しているのも義太夫でござります。それがしは義太夫の顔色と態度から勝手に憶測しておるまで。それがしの憶測が正しければ、義太夫は岩村城に何度か足を運んでおり、章姫殿の救出も、あるいは…」
「鶴、いい加減に申せ。その憶測とやら、聞かせよ」
一益がじれたように促すと、忠三郎は声をあげ、腹の底から笑った。
「色恋のこととなれば、さしもの義兄上も…」
「そなたから色恋の手ほどきなど受けとうはない。まことは義太夫の相手を存じておろう?」
忠三郎は笑みを残したまま、あっさりと「はい」と答えた。
「おつやの方では?」
「何?そのようなことがあろう筈もない」
「いやいや、これは義太夫が一方的に想うておるだけのこと。義太夫がおつやの方の話をする折の様子――あれを見て気づかぬのは義兄上くらいのもので、他の者は皆、薄々察しておりましょう」
一益は眉をひそめる。言われてみれば、義太夫が妙におつやの行方や安否に執心していたことも、これで合点がいく。
「だからあやつ…あのように顔色を変えて…」
章姫が一益の子であると知っているのは義太夫だけ。そのため章姫を案じてくれているのだと思っていたが――。
「一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く。傾国とはまさにこのこと。おつやの方に言われるままに、金を渡していたと思われますが…もっとも、これはあくまで、それがしの推論にて」
だとすれば――。
『我らには見えていない事柄が潜んでいるものかと』
義太夫が口にしたその言葉。
おつやに欺かれたと知った時、義太夫には見えたのだろう。これまで見えていなかった『何か』が。
「皆が皆、義太夫と言えば女子、というは、そういうことであったか。我が甥ながら、なんという愚か者よ…」
一益が深くため息をつくと、忠三郎は苦笑いを浮かべた。
「義兄上、そう仰せられますな。『相思はぬ人を思うは大寺の餓鬼の後に額づくがごと』と申しまする。義太夫は尾張にいたころより、もう十年以上も、ただひたすらに、一途に、おつやの方を想うて…」
庇うように、ゆったりと語る忠三郎を、一益は手で制した。
「鶴と義太夫が手籠めにした女子。岐阜の屋敷で子を産んでおる」
「えっ」
忠三郎の顔から笑みが消え、目を大きく見開いた。
「手籠めとは…義兄上も人聞きの悪い…して、その子は…」
「男じゃ」
「男子?…それは、それはまた…」
声が震え、忠三郎は思わず町野長門守の姿を探すように目を泳がせた。
一益は畳みかける。
「九郎と名付けた。滝川左近の四男じゃ。岐阜に行った折は風花に事の仔細を話せ。そなたが何も告げぬゆえ、わしは痛くもない腹を探られておる」
忠三郎は口を開きかけ、思い直して口を閉じた。
一益はその様子を冷ややかに見つめ、心中で吐き捨てる。
(一途が聞いて呆れる。愚かさの果てに、皆が誰かの思惑に絡め取られ、章を武田の手に渡してしまったのだ)
――岩村城へ向かった義太夫。その背を追うように、夕風がひとすじ吹き抜けた。
差し出された書状には、勘九郎率いる尾張・美濃勢が設楽原の戦場から、そのまま東美濃の岩村城へ向かったと記されている。この勢いをもって武田を叩き、東美濃を手中に収める腹づもりらしい。
「岩村城と申せば、章姫様の御嫁ぎ先。城主・秋山伯耆守虎繁は、此方に寝返るとの約定であったかと」
佐治新介が眉をひそめる。
「その約定どおり、秋山が城を開き、武田攻めに加わるのであれば、事は荒立たずに済みましょう」
三九郎が静かに言えば、津田秀重が首を傾げた。
「されど、この時節にわざわざ知らせを寄こすとは、雲行き怪しき兆しとも見えまする」
一益も同じ懸念を抱いていた。
(勘九郎殿の真意は、城攻めが始まる前に章姫を奪い返したい、ということではあるまいか)
岩村城――常に霧に包まれる堅固な山城。城内に手引きする者なくして、忍び入るのは容易ではない。
広間に重苦しい沈黙が落ち、居並ぶ者たちが一様にうなずいた。
(――上様は、岩村城を力攻めになさるおつもりか。それとも、つや殿は約定を違え、武田に与する腹を固められたのか)
胸中に渦巻く疑念は晴れぬまま、戦の嵐が再び迫っていることはわかる。
これまでの経緯を思い返すにつけ、腑に落ちぬ点がいくつも浮かび上がってくる。
先日、わざわざ屋敷まで足を運んできた勘九郎は、章姫の安否ばかりを案じていた。
(――されど、武田方には上様の四男、御坊丸がおるはず…)
あの日、岩村城が秋山虎繁の手に落ちたとき、城内にはおつやの養子となっていた信長の四男、御坊丸がいた。
落城ののち、御坊丸はそのまま武田信玄のもとへ人質として送られ、信玄自らが「養子に迎えたい」と申し入れてきたと聞く。信玄が没した後も、御坊丸は甲斐に留め置かれているはずであった。
(助けよと申すならば、まずは御坊丸であろう。それに……)
「おつや殿をお許しになられたのか」と問いかけた折、勘九郎は一瞬、言葉を詰まらせた。
(上様は身内に甘い。ましてや、女子を刃に掛けるなど…常ならば考えられぬ)
だが、その勘九郎が即答を避けた。そこには、一益が知らない深い事情が潜んでいるのかもしれない。
おつやは信長の叔母にして、岩村の女城主。城兵を救わんがために武田家家臣・秋山虎繁の妻となり、城を明け渡した。その決断は恩義か、あるいは裏切りか――。
霧深き岩村城のごとく、その真意は未だ掴み得ない。
これ以上思案を巡らせるには、あまりにも手掛かりが少ない。
「誰ぞ、おつや殿のこと、もそっと詳しく存ずる者はおらぬか」
一益の声が広間に低く響く。
敵国の動向なら素破を潜り込ませ、逐一探らせてきた。しかし尾張・美濃――それも織田一門の女に関しては、深入りした者はいなかった。
三九郎と秀重が「うむ……」と唸りかけたそのとき、新介がふと思い出したように口を開いた。
「おつやの方様のこととあらば、義太夫が何やら存じておるやもしれませぬ。先日も、一人でぶつぶつと呟いておりましたゆえ」
「義太夫が?」
「女子とあらば義太夫にてござる。昔、尾張におりました折、殿の恋文をおつや様の御許へ届けたのも、義太夫でござりましたからな」
三九郎が「えっ」と短く息を呑み、一益の顔をうかがった。
新介の物言いは誤解を招く響きがあったが、事実としてはその通りだった。
あのとき義太夫が手にしていたのは、一益の筆跡を真似て書き上げた――偽の恋文。
今となっては笑い話にできぬこともない。しかし、あの一件がもたらした妙な気まずさは、年月を経ても消えることはなかった。
一益は眉をひそめ、低く命じる。
「義太夫を呼べ」
本来なら、しばらく屋敷で大人しくさせておくつもりだった。だが、この件ばかりは致し方ない。
蟄居を命じ、桑名城でおとなしくしているはずの義太夫を、至急呼び寄せるよう使者を走らせた。
おつやの方――その人は、信長の父・信秀の妹にあたり、信長より幾ばくか年若であった。
もとは美濃・斎藤氏の重臣に嫁いでいたが、夫は戦火に散り、その命を奪ったのは他ならぬ甥・信長であった。
その折、清洲へ戻ったおつやのもとへ届けられた一通の文――。
義太夫が一益の名を騙り、筆跡までも写して仕立てた偽りの恋文である。軽口半分の悪戯に過ぎなかったが、一益にとっては笑って済ませられることではなく、胸の内に奇妙な因縁の種を残す出来事となった。
のちに、おつやは信長の命によって再び嫁ぎ、その夫もまた戦場で斃れた。幾度も夫を喪い、岐阜に留まったのち、さらに信長の命で岩村城主・遠山景任の正室として迎えられる。
遠山が病没した後は、信長の四男・御坊丸を養子に据え、女城主として城を守った。
しかし、武田の大軍を前に抗しきれず降伏を余儀なくされたとき、寄せ手の将・秋山虎繁は、おつやの美貌と気丈さに心を奪われ、彼女を正室として迎えた。
それは彼女にとって四人目の夫であり、選択は果たして城兵を救うための政略であったのか、それとも己の生を繋ぐための賭けであったのか――いまはもう、誰も確かめる術はない。
閉門を解かれ、喜び勇んで飛んで来るだろうと思われた義太夫が姿を見せたのは、呼び出しから二日後のことだった。
「閉門中の身で、どこをほっつき歩いておった?まさか…」
佐治新介が肘鉄をくれると、義太夫はカハハと笑い飛ばす。
「いやはや、桑名から長島までも一苦労じゃ」
桑名から川を越えて渡る道は確かに厄介ではある。だが二日も要すはずがない。
「たわけたことを申すな。桑名から長島まで二日もかかったと、そう申すか?」
詰問されても、義太夫は涼しい顔で肩をすくめる。
「ちと薬草を取りに行った帰りに、道に迷うておっただけよ」
あまりにも見え透いた嘘を、さらりと口にする。その顔には悪びれる影すらない。
一益は軽く手を振り、二人のやり取りを遮った。
「義太夫、そなた、おつや殿に会うたことがあろう?」
「殿、それがしを急に呼び出されたわけは、それでござったか。もっと早う仰せくだされば、いかようにも一肌脱ぎ、話を整え申したものを。それにしても……もはや手遅れにござりましょう。あのお方は、今や岩村城の敵将――秋山虎繁の奥方にて」
妙な勘違いをしている。
一益は眉をわずかにひそめ、面倒になって顎をしゃくった。
「……新介、事の仔細を話してやれ」
新介が一歩進み出て、岩村城の情勢とおつやの経緯を語り聞かせると、義太夫の顔色がさっと変わった。
「では…勘九郎様は岩村城を攻め落とすと?」
「それはあくまで秋山が約定を違えたときの話じゃ」
義太夫は思いつめた顔でしばらく沈黙し、やがて口を開いた。
「これは…妙な筋立てに、我らが見事に乗せられておるやもしれませぬな」
唇に笑みを浮かべるが、その目は笑っていない。
「妙な話?とは?」
「そもそも、おつやの方様が易々と城を明け渡し、敵将・秋山虎繁の正室となられたこと。さらに武田入道が、敵である上様の御子・御坊丸を養子としたこと…いずれも不可思議にござります」
義太夫にしては珍しく鋭い指摘だった。その鋭さこそ、逆に違和感を呼ぶ。
おつやは何故、城を枕に討死する道を選ばず、敵に嫁いだのか。
信玄は何故、御坊丸を助け、養子にまで迎えようとしたのか。
「まだありまする」
義太夫は声を落とし、さらに続けた。
「武田家譜代の宿将たる秋山が、容易く寝返りの約定を交わし、さらには章姫様がその嫡子に嫁がれたこと…これもまた、妙にござります」
「……つまり、秋山が寝返るなどという話は、もとより無かったと申すか」
「それは、あくまでそれがしの推量にござります」
奇妙さは増すばかりだった。
信長は確かな手応えがあったからこそ、愛娘を差し出したのではなかったのか。
(あの上様が、敵将の口車に乗せられ、章を敵の許へ送り出すなど……あり得ぬ)
必ず、何かがある。信長を信じさせた『何か』が――。
「おつや様が清州の城下でお過ごしの折、それがし、何度もお屋敷へ足を運びましたが…」
「何!」
思わず一益の声が鋭くなる。聞き捨てならない。何を企んで通い詰めていたのか。
「あ、いえいえ、それは殿のためというより、おつや様の侍女に用向きがありまして」
苦しい言い訳を口にしながら、義太夫は鼻の頭をかいて笑う。
「その折、幾度も目にしたのが――」
「織田掃部か」
「ご慧眼、恐れ入りまする」
尾張・日置城主だった織田掃部は織田家の連枝で、早くから武田家との交渉を任されていた。
一時は信長の勘気をこうむって姿を消していたが、やがて許され、今では何事もなかったかのように連枝衆に名を連ねている。
この一連の裏に、掃部の影があることは、一益もおぼろげに感じていた。しかし、それだけでは腑に落ちない。
「……上様が、あのような者の口車に乗り、章を易々と敵に渡されるとは思えぬ」
信長が掃部に丸め込まれたと考えるのは、早計だ。もっと別の、信長が動かざるを得なかった要因があるはず。
「それは…未だ我らの目に映らぬ事柄が、奥底に潜んでおるやもしれませぬ」
義太夫は殊更に真剣な顔で言ったが、その口ぶりはどこか怪しくもある。
(未だ映らぬ……というよりは――。見えていながら、己が気づかなんだだけでは……)
一益は心中で呟き、胸の奥に引っかかる記憶を探り始めた。
これまでの中で、わずかに胸に引っかかったことがあった。
勘九郎は何故、わざわざ屋敷まで足を運び、婚儀のことを告げたのか。
(…わしと話していることを、知られたくない誰かがいたということか)
それは、信長なのか、あるいは織田掃部なのか。
掃部にしても腑に落ちないことが多すぎる。そもそも信長は織田掃部を好まぬ様子だった。
(それが何故か、帰参を許し、今も武田との交渉に使い、言われるままに章姫を嫁がせた)
何故、織田掃部はのこのこと信長の前に姿を現したのだろうか。まるで、許しを得られることを初めから知っていたかのように。
さらに、設楽原での発言がある。
あの豪雨の中、信長に撤退を強く迫った。
(雨だけが理由ではない、としたら)
雨は口実に過ぎず、真に隠していたのは「武田と戦わせたくない」何か――。
(掃部は身を隠しておったあの歳月、どこで何をなし、何を土産にして帰参を許されたのか。そもそも、何をしでかして上様の怒りを買ったのか)
「義太夫、その、何度も用向きがあったという侍女から探り出せばよいではないか」
佐治新介がにやりと笑いながら口を挟む。
すると義太夫は妙に真剣な顔をしてから、急に大げさに肩をすくめた。
「いやいや、新介よ。女のことばかり掘り返されたら、わしの評判が地に落ちるわ!それに……あの侍女も、今ごろはきっと、立派な婆になっておるはずじゃ。婆御に色仕掛けされても、わしとて困るわい」
カハハと笑って場を和ませるように見えたが、その笑顔はどこかぎこちない。
「ほう。では女の尻ばかり追うて、肝心のことは何も知らぬと?」
一益が冷ややかに問いかけると、義太夫は「は、はは……」と乾いた笑みを浮かべ、すぐに視線をそらした。
「義太夫、滝川助九郎と共に、少し探って参れ」
「ハハッ!」
ようやく閉門が解けたからか、義太夫はいつにも増してやる気満々に返事をする。
一益は頬杖をつき、じっと義太夫を眺めた。
(――可笑しきものは、他にもおる。それも、この目の前に)
夕日が障子越しに淡く射し込み、義太夫の笑顔の影が揺れた。
その陰に、何かを必死に隠しているように見えてならなかった。
夕暮れ、城内が静まり、家臣たちがそれぞれの屋敷へ引き揚げるのを見届けると、一益は密かに山村一朗太を呼び寄せた。
障子の隙間から洩れる橙の光が、二人の影を長く伸ばす。
「閉門中、義太夫はどこへ出歩いていたか、存じておるか」
「恐らくは…日永の安国寺にございましょう」
「安国寺?」
「はい。休天殿に呼ばれていると、そう申されていたような…」
であれば、休天を問い質せば、すぐに理由は明らかになる。
だが一益の胸には、それ以上に気掛かりなことがあった。
「義太夫が博打で得た金。あれは、いずこへ消えたと思う?」
休天に金を用立てていたとは思えない。一朗太は、はて、と首を傾げる。
「桑名あたりの傾城町では?」
「わしも、初めはそう踏んでおったが……」
どうにも腑に落ちない。
この三月ほどの間に、義太夫は突如として博打に手を染めた。
甲賀を出て以来、一度もそんな素振りを見せなかった男が――今さら何故。
「では、やはり、それは女子でござりましょう。義太夫殿であれば他に思いつきませぬ」
一朗太の答えに、一益は鼻で笑った。
「女子……あやつが女に惑うは常のこと。されど今回は…」
ただの道楽では済まぬ気がする。
「どこの誰じゃ」
「そこまでは……。されど義太夫殿のこととあれば、それがしよりも懇意の鶴殿にお訊ねなされば早かろうかと」
「相わかった。そなた先に日野へ行き、明後日、例の場所で待つと伝えよ」
「ハハッ」
短く返事をし、一朗太は闇に溶けるように去った。
――忠三郎にせよ、義太夫にせよ、いつも手古摺らせる。だが厄介なのは、彼らの外に別の盤面を描く者たちがいることだ。おつや、その背後の織田掃部。そして、何かを知りながら沈黙を守る信忠。
全ての糸は複雑にもつれ合い、結び目となっている。
章姫を救うには、その結び目を一つひとつ手繰り解くほかはない――。
夕暮れの光が山門を赤く染め、標《しるべ》の松の影が境内の石畳に長く伸びていた。境内を吹き抜ける風は涼しげでありながら、どこか寂しさを含んでいる。
忠三郎はその松の根元にしゃがみ込み、吐息に紛れるような声で和歌をこぼした。
「人はただ むなしき色を こころにて
風も目にみぬ 山のあまひこ」
あまひこは尼彦とも表記され、厄災や疫病から逃れる方法を人に教えると伝えられた存在。むなしき色とは色即是空、すなわち実体のなきもののこと。この和歌は、形なき救いを心に求める、人の弱さと切なさを詠んだものだ。あたりに響いたその声は、夕風にさらわれ、空に溶けていくようだった。
一益が背後に近づくと、忠三郎が振り向き、ふっと笑みを見せる。
「それは高祖父という蒲生智閑の歌か」
「はい。齢五十を過ぎ、仏門に入りながらも、槍の穂先に阿弥陀仏を掛け、戦場に立たれたそれがしの高祖」
ちょうど、いまの一益と同じ齢――。
「静かな暮らしを退け、死ぬまで戦うことを選んだお方でござります」
「……死ぬまで戦う、か」
ぞっとする響きだった。だが、信長の許に身を置く限り、それは決して荒唐な話ではない。むしろ、それこそが己の行く末であるかのように、背を冷たい風が撫でた。
「鶴、そなたはいつ来ても、今来たばかりのような顔をしておるが――いつからここにおった?」
「よう覚えてはおりませぬが……城を出たのは、昼を少し回った頃であったような」
昼過ぎから日暮れまで、ずっと信楽院に腰を据えていたということか。
境内に射す夕陽が、鶴の頬を朱に染めている。そののどかさは、戦場で血に塗れて駆ける姿とは別人のようだった。
「ここで何をしておる?」
「取り立てて申すほどのことは……。ただ、目上のお方をお待たせしてはならぬと、幼き頃より教えられておりまするゆえ」
そう言って、照れたように笑う。
常に時の流れが人と異なるような男――馬ではなく牛にまたがって歩むかのような悠長さ。助太郎や町野長門守が陰でどれほど振り回されているか、想像に難くない。
「まぁ、よい。それよりも、義太夫が金を借りに来たであろう」
「義兄上、それは…」
忠三郎が一瞬、言葉を詰まらせた。
「あれはどこの女子に金を用立てておるのじゃ」
「何度か聞いたことがありまするが、義太夫も口が堅く、尾張におるころからの馴染みとしか聞き及んではおりませぬ。ただ…」
「ただ?」
「義太夫が金を借りにくるようになったは、ここ三月ほど。博打で『大いに儲けた』と吹聴しておきながら、なお『足りぬ』と申す。…よほどのことがあるのではと」
そんな重大なことを、主である自分に隠していたのかと思うと、腹立たしさが胸をかすめた。だが、忠三郎が事情を知らぬ以上、取沙汰するわけにもいかない。
仕方なくこれまでの経緯を語ると、忠三郎はあっけらかんと笑った。
「それは容易く説明のつくこと。章姫殿が輿入れされたのが、ちょうど三月前にござりましょう?」
――それだ。
章姫が岩村城へ向かったのは三月前。勘九郎の供回りに混じり、滝川家からも何人かが随行していた。思えば、その頃から義太夫の様子がおかしくなっていた。
「となれば、その馴染みの女子とやらは、岩村城におる者と見るのが自然かと」
「……なに。では、あやつは敵に金を用立てておると申すか」
それが事実であれば重大な軍規違反である。
忠三郎は首をかしげつつも、柔らかな声で続けた。
「義太夫も、秋山伯耆守が此方に寝返ると信じていたゆえではありませぬか。譜代の宿将たる秋山が、そう易々と寝返るはずもない。上様も義太夫も、甘言に乗せられたまで。案の定、秋山は城を固め、裏切る気配すら見せませぬ。――騙されたと気づいたのは、その後のことでございましょう」
――だが、なお解せない。
なぜ、信長も義太夫も、そんな不確かな話を、あれほど容易く信じたのか。
「その、不確かにして俄かには信じがたいことを吹き込んだのが――誰か。そこが肝要にござりましょう」
一益は眉をひそめる。織田掃部の顔が脳裏をかすめたが、あの虚飾まみれの男を信じる者など家中に多くはない。信長はもちろん、義太夫ですら……。
「まさに色即是空。人は『見えている理』ではなく、『誰かの想い』に動かされるものにござります」
にこやかに言い放つ忠三郎。
(誰かの想い…なんのことだ)
忠三郎の真意がつかめない。
「先年の合戦にて、掃部が岩村に入り、おつやの方を説き伏せ、城を開けさせたと聞き及びまする」
古くから武田との折衝を行ってきた掃部が、裏で動き、秋山とおつやの方の婚儀を進めたと聞いている。
「然様。上様の四男、御坊丸様の命と引き換えに、城を明け渡し、秋山伯耆守の正室となられた」
「義兄上から伺う勘九郎様の様子を思えば、皆、こう考えておるように見えまする――武田は御坊丸様を殺めることはあるまい。されど、章姫殿の命はわからぬ、と」
そう。それも不可思議な話だ。
むしろ逆であれば理は通る。御坊丸は男児、章姫は女子。命の危うさがあるとすれば、章姫ではなく御坊丸のはず。
(おかしな話が多すぎる)
行き詰まりを覚え、一益は視点を転じ、武田方の立場で思案してみた。
「そもそも秋山は章を人質とするため、縁組を申し入れてきたのじゃ」
「されど、人質ならば御坊丸様でも事足りましょう。何故に章姫殿を望んだのか…」
一益は黙し、眉間に皺を寄せる。
(章は女子。御坊丸は男子。常なら逆であろうに――)
「御坊丸様では、人質の値打ちがないのでござりましょう。なぜなら、武田が御坊丸様を殺めることはないと、上様は先刻ご承知だから」
――では、武田にとって御坊丸とは何者なのか。
「わからぬな」
「一番わかりやすい者から落としていくのが近道にございましょう」
忠三郎が笑って言う。
「義太夫か。そなたは何を知っていて、何を隠しておる?」
『いやぁ、わしは女のことばかりで……』義太夫ならそう言って肩をすくめて笑い飛ばしそうだ。だが、これまでの軽口の裏に、何かを必死に覆い隠している気配が見え隠れしていた。
「いえ。知っているのも隠しているのも義太夫でござります。それがしは義太夫の顔色と態度から勝手に憶測しておるまで。それがしの憶測が正しければ、義太夫は岩村城に何度か足を運んでおり、章姫殿の救出も、あるいは…」
「鶴、いい加減に申せ。その憶測とやら、聞かせよ」
一益がじれたように促すと、忠三郎は声をあげ、腹の底から笑った。
「色恋のこととなれば、さしもの義兄上も…」
「そなたから色恋の手ほどきなど受けとうはない。まことは義太夫の相手を存じておろう?」
忠三郎は笑みを残したまま、あっさりと「はい」と答えた。
「おつやの方では?」
「何?そのようなことがあろう筈もない」
「いやいや、これは義太夫が一方的に想うておるだけのこと。義太夫がおつやの方の話をする折の様子――あれを見て気づかぬのは義兄上くらいのもので、他の者は皆、薄々察しておりましょう」
一益は眉をひそめる。言われてみれば、義太夫が妙におつやの行方や安否に執心していたことも、これで合点がいく。
「だからあやつ…あのように顔色を変えて…」
章姫が一益の子であると知っているのは義太夫だけ。そのため章姫を案じてくれているのだと思っていたが――。
「一たび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く。傾国とはまさにこのこと。おつやの方に言われるままに、金を渡していたと思われますが…もっとも、これはあくまで、それがしの推論にて」
だとすれば――。
『我らには見えていない事柄が潜んでいるものかと』
義太夫が口にしたその言葉。
おつやに欺かれたと知った時、義太夫には見えたのだろう。これまで見えていなかった『何か』が。
「皆が皆、義太夫と言えば女子、というは、そういうことであったか。我が甥ながら、なんという愚か者よ…」
一益が深くため息をつくと、忠三郎は苦笑いを浮かべた。
「義兄上、そう仰せられますな。『相思はぬ人を思うは大寺の餓鬼の後に額づくがごと』と申しまする。義太夫は尾張にいたころより、もう十年以上も、ただひたすらに、一途に、おつやの方を想うて…」
庇うように、ゆったりと語る忠三郎を、一益は手で制した。
「鶴と義太夫が手籠めにした女子。岐阜の屋敷で子を産んでおる」
「えっ」
忠三郎の顔から笑みが消え、目を大きく見開いた。
「手籠めとは…義兄上も人聞きの悪い…して、その子は…」
「男じゃ」
「男子?…それは、それはまた…」
声が震え、忠三郎は思わず町野長門守の姿を探すように目を泳がせた。
一益は畳みかける。
「九郎と名付けた。滝川左近の四男じゃ。岐阜に行った折は風花に事の仔細を話せ。そなたが何も告げぬゆえ、わしは痛くもない腹を探られておる」
忠三郎は口を開きかけ、思い直して口を閉じた。
一益はその様子を冷ややかに見つめ、心中で吐き捨てる。
(一途が聞いて呆れる。愚かさの果てに、皆が誰かの思惑に絡め取られ、章を武田の手に渡してしまったのだ)
――岩村城へ向かった義太夫。その背を追うように、夕風がひとすじ吹き抜けた。
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