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4 羅生門
4-3 月の仙女
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ようやく北伊勢に戻ったばかりというのに、早くも越前出陣の沙汰が下った。
「浅井家の者が一人、我らに寝返ったとのこと。上様はこれを好機と見て、浅井・朝倉を討つおつもりのようじゃ」
そう告げられた瞬間、誰の顔にも、安堵よりも先に疲労の色が浮かんだ。
「我らは甲冑を脱ぐ暇もなく…任重くして道遠し、ですな」
繰り言めいた佐治新介の声に、義太夫がふっと笑った。
「泣く子も黙る佐治新介様もお疲れか。わしなどは忙しゅうて妻帯する暇もない。新介は早、隠居でも考えるか」
「何を申すか。わしは殿が、すりこ木のようにこき使われているのを案じておるのじゃ」
新介が得意げに言い放つと、これまで口を閉ざしていた一益が、苦笑混じりに口を開いた。
「そう申すな。江北が終われば、また、全軍をあげて一揆勢との戦いになる。皆もしばらくは休む間はないと思うてくれ」
辺りが薄暗くなる中、軍議が終わり、家臣たちが広間を出ていった。義太夫だけがその場に残った。何か話があるようだ。
「三九郎がことか?」
「はい。藤九郎が、国友にて奇妙な噂を耳にしたとか。杉谷の者と共に鉄砲を買い求めに現れたと申します」
織田家の追撃から逃れ、江北に逃げているのだろう。危険を冒しても近江から離れないのは、近江に資金源があるからだ。
「銭の出所は……蒲生快幹か」
「御意。快幹は六角にまで金を貸していたとのこと。重丸を討てば、快幹も意気を失いましょう。さすれば杉谷の者たちも動きを失うはず」
義太夫が灯明皿に火を入れた。ふっと灯る火が、部屋を仄かに照らし出した。
「重丸も共におるのか」
「恐らくは。此度の戦さで密かに鶴を狙うてくるやもしれませぬ」
一益は、無言で扇子を手に取り、パチパチと折りたたむ音を響かせ始めた。何かを考えるとき、いつもこうだ。
(後顧の憂いを断つべきか)
重丸は、息のある限り忠三郎の家督を狙う。しかし、あの忠三郎の性格では、それを斬ることはできまい。
「誘い出せるか?」
「鶴を囮に使えば…」
それは、忠三郎が決して承知しない手段だろう。杉谷の者が背後に控えている以上、なおさらのことだ。だが、危険を避けていては、永遠に重丸を討てない。
それに、もう一つの懸念がある。
「…上様のお命を狙うた者のことじゃ」
「そればかりは、杉谷衆すべてを捕らえて拷問にかけでもせねば、真実は見えませぬ」
もし三九郎が信長方に捕らえられたら、その身分も、一益の子であることも、すべて白日の下に晒される。
(そうなる前に捕えるか、それとも…)
パチパチと、扇子の音が激しくなった。かつてなら即座に結論を下せた事柄に、今は、答えが見い出せない。
義太夫は、そんな主君の姿を静かに見つめていたが、やがて堪えかねたように口を開いた。
「殿。どうかこの義太夫にだけはお心の内をお聞かせくだされ」
一益が顔を上げると、義太夫の眼が、静かに己を射ていた
「余人はいざ知らず、それがしには分かっておりまする。殿が狙うた獲物を取り逃がす筈はありませぬ。殿はあの猿楽の折、故意に急所を外されましたな。まことは、三九郎様をお助けになりたかったのではありませぬか?」
一益は黙したまま、視線を逸らした。やがて、苦い笑みを浮かべる。
「あの時、倒すべきであった」
「殿!」
「そなたが思うほど、わしは腑抜けてはおらぬ」
心を読まれた悔しさが滲む言葉だった。だが、それが強がりであることを、自身もまた自覚していた。
あのとき、確かに撃った。だが、咄嗟に迷いが生じ、狙いを逸らした。それが事実だった。
義太夫は黙って見ていたが、やがて深々と頭を下げた。
「承知つかまつりました。では、此度の北江攻め……これを好機といたしましょう」
一益は静かに頷いた。その顔には、もはや情も慈悲も見えなかった。ただ、覚悟と寂しさだけが、薄明かりの中に滲んでいた。
峠を越えて江北へ入ると、信長本隊がすでに国友近くにある月ヶ瀬城の攻略中だった。
「山本山城主の阿閉貞征がこちらに寝返っとる。あのような城、日暮れ前には落ちやぁす」
快活な声とともに現れたのは、苗字を木下から羽柴へと改めた秀吉であった。浅井家の家中を巧みに調略した張本人だ。小男ながら、声に覇気が満ちている。
「朝倉の援軍は?」
と一益が問えば、
「早、越前を出た由。明日・明後日には現れやぁす。…にしても、いつ見ても左近殿の軍勢は装備がええですなぁ」
そう言って、秀吉は鉄砲を手にした兵たちをざっと見渡す。新介も藤九郎も怪訝な面持ちでそれを見た。尾張訛りの言葉に慣れぬためか、どうにも秀吉が掴みどころのない人物に見える。
一益は兵の装備に関して抜かりがなかった。蔵入りの大半を鉄砲に注ぎ込み、命中精度と発射速度を徹底して鍛え上げている。秀吉の目も、そこに鋭く向けられていた。
「何じゃ、禿ねずみ。何用で参った?」
一益の声音にはどこか柔らかな皮肉が交じる。秀吉がこれを真に受けたかはわからぬが、満面の笑みを崩さず頭を下げた。
「左近殿に、拙者の弟、小一郎のことで一つご相談がありゃす」
「弟?そちの弟のことか」
「左近殿の姫、葉月殿を小一郎の嫁にいただきてゃあというご相談で」
その言葉に、新介と藤九郎が目を剥いた。まさか、と思うような申し出である。
一益はしばし黙し、軽く視線を落とす。葉月は未だ赤子であり、いかに冗談とはいえ、時を弁えぬ話である。
「葉月はまだ赤子じゃが」
冷ややかに言うが、秀吉はひるまず続けた。
「それは無論、知っとりまする。それゆえ、今すぐとではにゃあて、他家との縁談が決まるみゃあに、行く行くというお約束をいただきてゃあて」
軽妙な言葉回しではあるが、その裏にはしたたかな計算が透けて見える。秀吉は今、急速に頭角を現している。軍才もさることながら、調略に長け、人の心の機微を読むことにかけては非凡なものがある。
一益は、秀吉が自分を強く意識していることを感じていた。信長の寵臣として台頭する羽柴秀吉。だが、自らは秀吉より年長であり、織田家に仕えた年季も深い。嫉妬も対抗心もなく、ただ静かにその才を測っていた。
(まこと、よく見ておる)
素破の身から叩き上げてきた一益にとって、秀吉の上昇志向と執拗な観察眼には既視感すらあった。それゆえ、軽んじる気も起こらず、かといって肩を並べようとも思わない。
「考えておく」
それだけを口にし、場を収めた。
秀吉は深々と頭を下げて去っていったが、その背にはどこか満足げな色があった。返事の中に、一益が自分を無視してはいない、という確信を得たのだろう。
一益は小さく息を吐いた。
(進む道は我が歩む道とは異なれど…あやつ、侮れぬ)
ひととき、風が吹いた。戦塵の匂いと共に、秀吉の足音が遠ざかっていった。
その日の夕刻、月ヶ瀬城はついに落城した。雨脚は次第に強まり、翌日には豪雨のなか、朝倉勢が籠もる大嶽城と丁野山城までもが陥落した。
夜半近く、雨が上がった頃、本陣からの使者が駆けてきた。
「朝倉勢、すでに撤退の兆しあり。追撃を開始せよ、との上意でございます」
「では皆々、支度を整えよ」
義太夫が素早く立ち上がり、幔幕の外へ出ようとしたその時――
「殿。右の山の手より、不審な狼煙が上がっておりまする」
佐治新介が駆け込んでくる。濡れた裃の裾からは、まだ雨の匂いが立ちのぼっていた。
「右の山の手…? 敵のいる方角ではありますまい。あちらは確か、蒲生勢の…」
義太夫の声に、幾分の動揺が混じる。だが、一益の眼差しは既に静かに遠くを見据えていた。
狼煙――あれは、決めていた合図だ。
「やはり来たか」
一益は小さく呟いた。
「彦一郎、義太夫」
彦一郎が頷いて姿を消し、義太夫が立ち上がった。
(杉浦衆が、鶴の居場所を知らせたか)
確信にも似た思いが、一益の胸を過ぎる。
それを証すかのように、遠く夜空に、もう一筋、白煙が揺らめいた。
夜半、雲ひとつなく、月は冴え冴えと空に懸かっていた。蒼銀に煌めくその光は、地を照らすばかりか、遠い記憶の襞までも静かに撫でていく。
唐土ではこの晩を「中秋節」と呼ぶという。最も美しき月を愛でる風習は、わが国にも渡り、平安の昔より、風雅をたしなむ人々の間に「月見の宴」として根づいていった。
『月には仙女が住んでおり、兎どもに薬を練らせておるのじゃ』
かつて、誰かがそう語ってくれたことがあった。
その仙女は、地上に流行り病が蔓延すると、心を痛め、兎たちに命じて薬を届けさせるという。
『仙女?』
『母上のような、美しく心根の優しい――』
あの時、確かにそう言っていた。
それは重丸だった。まだ互いに幼く、争いなど夢にも思わなかった頃。ふたりで縁側に並んで、夜空を見上げていたことがあった。
母を信じ、母のような存在を天に見ていた――そんな無垢な心が、あの短い言葉に込められていた。
忠三郎は、帷幕の中に一人座し、薄絹の帳越しに月を仰ぎながら、ふいに胸奥を過るその光景に、しばし心を浸した。
お桐――あの母は、小柄で、温和で、物静かで、何より、ふたりの子に分け隔てなく深い愛情を注いだ人だった。人前では控えめで、どこか影のように立つ女であったが、その眼差しは、誰よりもあたたかく、優しかった。
あの頃はただ、夢のような話として耳を傾けていた。だが今になって、その一言が胸に沁みる。
(母上のような…仙女…。あのときの重丸の言葉には、偽りはなかった筈だ)
信じたい、と忠三郎は思った。たとえ、あれほどの刃を向け合うことになった今でさえ。
重丸の所在は、未だに掴めぬままだった。百済寺の焼き討ち以降、消息は杳として知れず。滝川助太郎の様子から、何かを知っていると薄々感じてはいたが、問い詰めたところで何も出まい。
(それでも――あの日、あの言葉は、確かに重丸自身の心から発せられたものだった。ならば…)
忠三郎が思いをめぐらせていたその時だった。
「若殿。なにやら狼煙の上がった先で、この者が若殿に会わせよと…」
町野左近が、怪しげな僧形の男を連れて幕内に入ってきた。
一目見て、只者ではないと感じられる男だった。
その男が忠三郎の方に歩み寄ると、滝川助太郎がとっさに間に入る。
忠三郎は立ち上がり、声をかけた。
「わしが蒲生忠三郎じゃ。その方は?」
すると僧侶は、ひと呼吸置いてから答えた。
「重丸様の使いの者でござりまする」
その言葉を聞いた瞬間、忠三郎の胸は熱くなり、躍り上がらんばかりに声をあげた。
「生きておるのか、重丸は…!」
喜びと戸惑いが胸をよぎり、思わず僧侶の目を見つめる。
「百済寺より落ち延び、この先の寺に身を隠しておりましたが、流行り病にかかり、もはや明日をも知れぬお命とのこと。忠三郎様に一目会い、今生の別れを告げたいと―」
「なんと……それは、どこの寺じゃ」
忠三郎が詰め寄ると、すかさず助太郎と町野左近が制した。
「若殿、これは明らかに罠にござりまする!」
「なぜ罠とわかっていて、わざわざ行かれようと…!」
「止めるな、助太郎。会いたいのじゃ。話がしたいのじゃ、罠と知っていても、会わずにはいられぬ。重丸に…」
熱に浮かされた様に繰り返す忠三郎に、二人はかえって必死になって止める。
「ならば、この助太郎を斬ってからお行きくだされ!」
助太郎が身を挺して立ちはだかる。
そのとき、二人の制止を冷ややかに眺めていた僧侶が、ふいに一歩踏み出した。
次の瞬間、棒のようなものが音もなく振り下ろされ――助太郎と町野左近が倒れ伏した。
僧侶が手にした杖で、助太郎と町野左近の後頭を、見事な手際で殴り倒したのだ。
「ぬしは、甲賀の者か」
唖然として問いかける忠三郎に対し、僧侶は何も答えなかった。ただ、冷ややかな眼差しのまま振り返り、
「ご家中の者に気づかれる前に、早う参られよ」
とだけ言った。
忠三郎は一歩踏み出し、ふと足を止めた。
「なぜ――わしを斬らなんだ」
僧は微かに首を傾け、月の方へと目をやる。
「生かした覚えはござらぬ。ただ、道があるゆえ示したまで」
短い沈黙。梢の間から、冴えた光が垂れる。
僧はその光を一瞥し、独り言のように呟いた。
「……仙女もまた、病を見捨てはせぬ――月のあるうちは」
その声の調べに、どこかで聞いたような響きがあった。
誰のものかは思い出せない。だが胸の奥が、なぜか痛んだ。
僧はふと月を仰ぎ、袖の陰に光を受けながら、静かに言葉を継いだ。
「参りましょう。その『病める御方』のもとへ――」
忠三郎はその言葉に導かれるように頷き、闇の中へ歩みを進めた。
その背を、蒼い月光が淡く照らしていた。
闇を縫うようにして、草深い山道を進む。月明かりだけを頼りに歩くには、あまりに険しい道であったが、僧侶は何の躊躇もなく進んでいく。
(これほどの暗がりを迷いもせず…やはり、ただの僧ではない)
甲賀の素破――その名が忠三郎の脳裏をかすめる。
夜目の利かぬ忠三郎は、何度も足を取られそうになりながら、必死にその背を追った。
やがて道が開け、古木の根元にぽつんと小さな祠が現れた。僧侶はそこで立ち止まり、黙して振り返った。
「寺ではなかったのか」
忠三郎が苦笑まじりに問うと、僧侶は表情ひとつ動かさずに応じた。
「最初から、寺などないとお分かりであったはず」
僧侶の言葉が終わるより早く、杖が静かに構えられた。
それはただの杖ではない。鞘に見せかけた、仕込みの刀だ。
(仕込み杖…まさか、本当に…)
その時、祠の背後の木陰から、もう一人の人影が現れた。
足を引き摺り、刀を杖のようにして現れたのは――重丸だった。
「重丸…その足は?」
忠三郎が言葉を詰まらせると、重丸は乾いた笑みを浮かべて言い放った。
「盗人猛々しいとは、まさに貴様のことよ。その足も、この傷も、すべて貴様のせいじゃ!」
その声を合図にしたかのように、周囲の林から素破たちが次々に姿を現す。
「違う! わしは…」
「黙れ!」
重丸は憤怒に燃えた目で忠三郎を睨みつけた。
「わしは生まれたその時より、罪の子として蔑まれ、御爺様に利用され、母上にも抱かれぬままここまで生きてきた! すべてを――おぬしが奪った! 母上の心も、家の跡目も、光も!」
忠三郎の胸に、激しい痛みが走った。
(母上は、あの人に辱められ、その果てに重丸を産んだ。重丸は母上の愛を受けられず、御爺様に縛られて生きてきた。憎むべきは重丸ではない。御爺様……)
「それでも――わしは、兄上を斬りとうはない!」
一瞬、重丸の刀が震えた。だがその揺らぎをかき消すように、素破たちの鬨の声が闇に響いた。
月は冴え冴えと輝き、さながら仙女が二人の兄弟を見下ろすように夜空に懸かっていた。
忠三郎が呆然と見とれていると、重丸が声をあげて斬りかかってきた。
その動きを見て、忠三郎も慌てて身構える――だがその瞬間、谷間に響き渡る銃声。
「彦一郎!」
木全彦一郎が現れ、無言のまま返す刀で隣の素破を一閃した。
続けて素破たちが襲いかかるが、彦一郎は舞うように切り伏せていく。
「重丸!」
重丸の身体が、糸が切れたように崩れ落ちた。
駆け寄った忠三郎がその胸に触れると、すでに心の臓を撃ち抜かれ、事切れていた。
火縄銃の匂いも煙もない。遠くから、風と共に放たれた一撃――。
(どこから撃ったのだ…)
忠三郎は茫然とし、その場に膝をついた。
「鶴!無事か!」
義太夫と助九郎が手勢を連れて現れた。
「これは…重丸か」
傍らに横たわる亡骸を見て、義太夫が低く問うた。
忠三郎は真っ赤に腫れた目で、力なく頷いた。
「童の頃…二人で国を守ると約束したのに…言えなんだ…」
忠三郎は、重丸の冷たい手を取って、震える肩を揺らした。
「鶴、しっかりいたせ」
義太夫がそっと声をかける。
「重丸がおると分かっていて、百済寺に火を放った…」
「それは――」
義太夫は何かを言いかけて口を閉じた。
百済寺が六角に通じ、兵糧を送り続けていたのは事実。信長の下知であれば、焼き討ちはやむなしと、理では分かっている。だが、心は別だ。
「このような遠間から、一撃で…撃てる者など、ただ一人」
忠三郎は、月明かりの下に目を凝らしながら、低く呟いた。
一益――義兄であるあの男しかいない。
「鶴、それはのう…」
義太夫が言葉を探していると、忠三郎が顔を上げた。
「なぜに…義兄上は、こんなことを…」
その問いに、義太夫は少し冷めた調子で応じた。
「おぬしは、殿を恨むのか」
「重丸のことは、わしが始末をつけると申したはずじゃ!」
「守る価値もなき奴よ。殿は、それでもおぬしを上様の前でかばい、身を削って守っておられた。今宵もまた、ふらふらと誘われ、危うい目に遭う…それを見て、殿はよいとしても、わしらが馬鹿を見る」
忠三郎は重丸の亡骸を見つめ、黙り込んだ。
すると義太夫の声音が、ふいに和らいだ。
「…されど、殿は仰せられた。鶴は、今のままでよいと」
「今のまま…?」
「そうじゃ。鶴は、いつも大人びた考えをする。周りもそれを求める。じゃが、身内のことになると急に童のようになる。それでよいのだと、殿は言われた。若さに任せて無謀をやる時期を経なければ、人は何も学べぬ。最初から分別ばかり身につけた者は、歳を重ねる頃にはもう老人のようになってしまう…と、な」
忠三郎は目を伏せ、唇を噛んだ。
「義兄上が…そんなことを…」
あの何を考えているのか分からぬ義兄が、そんな思いで自分を見ていたのか――初めて知った気がした。
「重丸の亡骸は、我が者に命じて信楽院へ運ばせよう」
義太夫がそっと促す。
「そろそろ戻らねばな…おぬしは、一軍の将であろう?」
忠三郎は、黙って涙を拭った。
そして、ふらつく足で、ゆっくりと立ち上がった。
忠三郎と義太夫が自陣へ戻ると、あたりには誰の姿もなかった。軍勢はすでに移動していたらしい。
「我ら滝川勢は、先陣を仰せつかっていた…朝倉勢が動いたため、追撃に向かったのだろう」
忠三郎が唖然として言った。
「我らも同じく、先陣を任されていたはず。されど、大将を残してゆくとは――」
どうやら、先に戻った一益が滝川・蒲生勢を率いて追撃に移ったようだった。 忠三郎が顔を曇らせる。
「急がねば。わしはともかく、鶴がおらぬと知れればまずかろう」
忠三郎は慌てて馬を走らせるが、霧が立ちこめる峠道を越える頃には、討ちもらした残党らが、どこへ姿を消したのかさえわからなくなっていた。
いくら馬を走らせても先鋒には追いつけなかった。汗に濡れた甲冑が肌にまとわりつき、肺の奥が焼けるようだった。
(遅れた……)
木之本の地蔵山にて、ようやく本隊に追いついた。そこは越前へと通じる要路、敦賀に続く街道の要衝であった。
その場には、すでに信長とともに秀吉の姿もあった。自ら軍を率いて先んじて追撃に出たと聞いていたが、それはまるで――他の者が遅れをとるのを見越していたかのような、見事な采配だった。
(抜け目ない…)
忠三郎はそう思いながらも、一益の背を見た。一益は微動だにせず、ただ風の音に耳を傾けている。
忠三郎に気付いた一益が馬上から声をかけてきた。
「やっと参ったか」
「朝倉勢の追撃は…」
「上様に先を越された」
「上様が、先陣を…」
秀重、忠右衛門が追撃に加わり、蒲生勢からは町野左近が兵を率いて進んだ」
忠三郎が目を見開いた。
「上様は大層なお怒りじゃ。命を受けていた家臣――柴田、丹羽、羽柴など二十名ほど、皆が後れをとった。先ほど皆で詫びを入れ、ようやく戻ったところよ」
「皆で…では、上様は、わしが…おらなんだことに――」
一益が苦笑を浮かべる。
「案ずるな。常のそなたを知っておれば、誰も怪しみはせぬ。それより、町野左近に追いついて朝倉勢の尻を撃て。敵は刀根山を越え、敦賀へ退いておる」
「心得た!」
忠三郎は頷いて馬にまたがり、颯爽と駆け去っていった。
しばし後、義太夫が控えめに口を開く。
「殿。重丸の亡骸は信楽院に送り届けました」
一益は騎乗しながらもちらりと義太夫を見た。
「重丸を仕留めたのは、そなたか」」
義太夫が驚いたように目を見開いた。
「あれは殿が…撃ったものかと…」
「どこを撃たれておった?」
「心の臓を一発。即死でござりました」
一益は馬の手綱を緩めながら、しばし黙し、やがて低く言った。
「わしならば…生かして捕える」
義太夫は少し感心したように言った。
「なるほど。殿も人の子でござりますな。鶴があれほどに思うておるゆえ、生かして捕えると…」
一益は鼻で笑った。
「ちがう。上様を撃った者を突き止めねばならぬ。重丸は、何かを知っていた」
その一言に、義太夫の顔色が変わる。
「それでは、誰かが――口封じを……?」
「然様。江北が平定されれば、逃げ場は消える。杉谷衆を急ぎ捕えねば、他の者に先を越される」
「とはいえ、どこを探せと…」
一益はすぐに答えた。
「蒲生快幹を見張れ。あの男の動きに、鍵がある」
「ハハッ」
一方、信長の軍勢は敦賀へと追撃を続け、ついに朝倉義景のこもる一乗谷城を陥落させた。勝鬨も冷めやらぬまま、織田勢は北近江へ転じ、小谷城を囲み、浅井久政・長政父子を滅ぼした。かくして、越前・北近江は、織田のものとなった。
だがその背後で、目に見えぬ謀と猜疑が、次の戦を呼び寄せていた――。
「浅井家の者が一人、我らに寝返ったとのこと。上様はこれを好機と見て、浅井・朝倉を討つおつもりのようじゃ」
そう告げられた瞬間、誰の顔にも、安堵よりも先に疲労の色が浮かんだ。
「我らは甲冑を脱ぐ暇もなく…任重くして道遠し、ですな」
繰り言めいた佐治新介の声に、義太夫がふっと笑った。
「泣く子も黙る佐治新介様もお疲れか。わしなどは忙しゅうて妻帯する暇もない。新介は早、隠居でも考えるか」
「何を申すか。わしは殿が、すりこ木のようにこき使われているのを案じておるのじゃ」
新介が得意げに言い放つと、これまで口を閉ざしていた一益が、苦笑混じりに口を開いた。
「そう申すな。江北が終われば、また、全軍をあげて一揆勢との戦いになる。皆もしばらくは休む間はないと思うてくれ」
辺りが薄暗くなる中、軍議が終わり、家臣たちが広間を出ていった。義太夫だけがその場に残った。何か話があるようだ。
「三九郎がことか?」
「はい。藤九郎が、国友にて奇妙な噂を耳にしたとか。杉谷の者と共に鉄砲を買い求めに現れたと申します」
織田家の追撃から逃れ、江北に逃げているのだろう。危険を冒しても近江から離れないのは、近江に資金源があるからだ。
「銭の出所は……蒲生快幹か」
「御意。快幹は六角にまで金を貸していたとのこと。重丸を討てば、快幹も意気を失いましょう。さすれば杉谷の者たちも動きを失うはず」
義太夫が灯明皿に火を入れた。ふっと灯る火が、部屋を仄かに照らし出した。
「重丸も共におるのか」
「恐らくは。此度の戦さで密かに鶴を狙うてくるやもしれませぬ」
一益は、無言で扇子を手に取り、パチパチと折りたたむ音を響かせ始めた。何かを考えるとき、いつもこうだ。
(後顧の憂いを断つべきか)
重丸は、息のある限り忠三郎の家督を狙う。しかし、あの忠三郎の性格では、それを斬ることはできまい。
「誘い出せるか?」
「鶴を囮に使えば…」
それは、忠三郎が決して承知しない手段だろう。杉谷の者が背後に控えている以上、なおさらのことだ。だが、危険を避けていては、永遠に重丸を討てない。
それに、もう一つの懸念がある。
「…上様のお命を狙うた者のことじゃ」
「そればかりは、杉谷衆すべてを捕らえて拷問にかけでもせねば、真実は見えませぬ」
もし三九郎が信長方に捕らえられたら、その身分も、一益の子であることも、すべて白日の下に晒される。
(そうなる前に捕えるか、それとも…)
パチパチと、扇子の音が激しくなった。かつてなら即座に結論を下せた事柄に、今は、答えが見い出せない。
義太夫は、そんな主君の姿を静かに見つめていたが、やがて堪えかねたように口を開いた。
「殿。どうかこの義太夫にだけはお心の内をお聞かせくだされ」
一益が顔を上げると、義太夫の眼が、静かに己を射ていた
「余人はいざ知らず、それがしには分かっておりまする。殿が狙うた獲物を取り逃がす筈はありませぬ。殿はあの猿楽の折、故意に急所を外されましたな。まことは、三九郎様をお助けになりたかったのではありませぬか?」
一益は黙したまま、視線を逸らした。やがて、苦い笑みを浮かべる。
「あの時、倒すべきであった」
「殿!」
「そなたが思うほど、わしは腑抜けてはおらぬ」
心を読まれた悔しさが滲む言葉だった。だが、それが強がりであることを、自身もまた自覚していた。
あのとき、確かに撃った。だが、咄嗟に迷いが生じ、狙いを逸らした。それが事実だった。
義太夫は黙って見ていたが、やがて深々と頭を下げた。
「承知つかまつりました。では、此度の北江攻め……これを好機といたしましょう」
一益は静かに頷いた。その顔には、もはや情も慈悲も見えなかった。ただ、覚悟と寂しさだけが、薄明かりの中に滲んでいた。
峠を越えて江北へ入ると、信長本隊がすでに国友近くにある月ヶ瀬城の攻略中だった。
「山本山城主の阿閉貞征がこちらに寝返っとる。あのような城、日暮れ前には落ちやぁす」
快活な声とともに現れたのは、苗字を木下から羽柴へと改めた秀吉であった。浅井家の家中を巧みに調略した張本人だ。小男ながら、声に覇気が満ちている。
「朝倉の援軍は?」
と一益が問えば、
「早、越前を出た由。明日・明後日には現れやぁす。…にしても、いつ見ても左近殿の軍勢は装備がええですなぁ」
そう言って、秀吉は鉄砲を手にした兵たちをざっと見渡す。新介も藤九郎も怪訝な面持ちでそれを見た。尾張訛りの言葉に慣れぬためか、どうにも秀吉が掴みどころのない人物に見える。
一益は兵の装備に関して抜かりがなかった。蔵入りの大半を鉄砲に注ぎ込み、命中精度と発射速度を徹底して鍛え上げている。秀吉の目も、そこに鋭く向けられていた。
「何じゃ、禿ねずみ。何用で参った?」
一益の声音にはどこか柔らかな皮肉が交じる。秀吉がこれを真に受けたかはわからぬが、満面の笑みを崩さず頭を下げた。
「左近殿に、拙者の弟、小一郎のことで一つご相談がありゃす」
「弟?そちの弟のことか」
「左近殿の姫、葉月殿を小一郎の嫁にいただきてゃあというご相談で」
その言葉に、新介と藤九郎が目を剥いた。まさか、と思うような申し出である。
一益はしばし黙し、軽く視線を落とす。葉月は未だ赤子であり、いかに冗談とはいえ、時を弁えぬ話である。
「葉月はまだ赤子じゃが」
冷ややかに言うが、秀吉はひるまず続けた。
「それは無論、知っとりまする。それゆえ、今すぐとではにゃあて、他家との縁談が決まるみゃあに、行く行くというお約束をいただきてゃあて」
軽妙な言葉回しではあるが、その裏にはしたたかな計算が透けて見える。秀吉は今、急速に頭角を現している。軍才もさることながら、調略に長け、人の心の機微を読むことにかけては非凡なものがある。
一益は、秀吉が自分を強く意識していることを感じていた。信長の寵臣として台頭する羽柴秀吉。だが、自らは秀吉より年長であり、織田家に仕えた年季も深い。嫉妬も対抗心もなく、ただ静かにその才を測っていた。
(まこと、よく見ておる)
素破の身から叩き上げてきた一益にとって、秀吉の上昇志向と執拗な観察眼には既視感すらあった。それゆえ、軽んじる気も起こらず、かといって肩を並べようとも思わない。
「考えておく」
それだけを口にし、場を収めた。
秀吉は深々と頭を下げて去っていったが、その背にはどこか満足げな色があった。返事の中に、一益が自分を無視してはいない、という確信を得たのだろう。
一益は小さく息を吐いた。
(進む道は我が歩む道とは異なれど…あやつ、侮れぬ)
ひととき、風が吹いた。戦塵の匂いと共に、秀吉の足音が遠ざかっていった。
その日の夕刻、月ヶ瀬城はついに落城した。雨脚は次第に強まり、翌日には豪雨のなか、朝倉勢が籠もる大嶽城と丁野山城までもが陥落した。
夜半近く、雨が上がった頃、本陣からの使者が駆けてきた。
「朝倉勢、すでに撤退の兆しあり。追撃を開始せよ、との上意でございます」
「では皆々、支度を整えよ」
義太夫が素早く立ち上がり、幔幕の外へ出ようとしたその時――
「殿。右の山の手より、不審な狼煙が上がっておりまする」
佐治新介が駆け込んでくる。濡れた裃の裾からは、まだ雨の匂いが立ちのぼっていた。
「右の山の手…? 敵のいる方角ではありますまい。あちらは確か、蒲生勢の…」
義太夫の声に、幾分の動揺が混じる。だが、一益の眼差しは既に静かに遠くを見据えていた。
狼煙――あれは、決めていた合図だ。
「やはり来たか」
一益は小さく呟いた。
「彦一郎、義太夫」
彦一郎が頷いて姿を消し、義太夫が立ち上がった。
(杉浦衆が、鶴の居場所を知らせたか)
確信にも似た思いが、一益の胸を過ぎる。
それを証すかのように、遠く夜空に、もう一筋、白煙が揺らめいた。
夜半、雲ひとつなく、月は冴え冴えと空に懸かっていた。蒼銀に煌めくその光は、地を照らすばかりか、遠い記憶の襞までも静かに撫でていく。
唐土ではこの晩を「中秋節」と呼ぶという。最も美しき月を愛でる風習は、わが国にも渡り、平安の昔より、風雅をたしなむ人々の間に「月見の宴」として根づいていった。
『月には仙女が住んでおり、兎どもに薬を練らせておるのじゃ』
かつて、誰かがそう語ってくれたことがあった。
その仙女は、地上に流行り病が蔓延すると、心を痛め、兎たちに命じて薬を届けさせるという。
『仙女?』
『母上のような、美しく心根の優しい――』
あの時、確かにそう言っていた。
それは重丸だった。まだ互いに幼く、争いなど夢にも思わなかった頃。ふたりで縁側に並んで、夜空を見上げていたことがあった。
母を信じ、母のような存在を天に見ていた――そんな無垢な心が、あの短い言葉に込められていた。
忠三郎は、帷幕の中に一人座し、薄絹の帳越しに月を仰ぎながら、ふいに胸奥を過るその光景に、しばし心を浸した。
お桐――あの母は、小柄で、温和で、物静かで、何より、ふたりの子に分け隔てなく深い愛情を注いだ人だった。人前では控えめで、どこか影のように立つ女であったが、その眼差しは、誰よりもあたたかく、優しかった。
あの頃はただ、夢のような話として耳を傾けていた。だが今になって、その一言が胸に沁みる。
(母上のような…仙女…。あのときの重丸の言葉には、偽りはなかった筈だ)
信じたい、と忠三郎は思った。たとえ、あれほどの刃を向け合うことになった今でさえ。
重丸の所在は、未だに掴めぬままだった。百済寺の焼き討ち以降、消息は杳として知れず。滝川助太郎の様子から、何かを知っていると薄々感じてはいたが、問い詰めたところで何も出まい。
(それでも――あの日、あの言葉は、確かに重丸自身の心から発せられたものだった。ならば…)
忠三郎が思いをめぐらせていたその時だった。
「若殿。なにやら狼煙の上がった先で、この者が若殿に会わせよと…」
町野左近が、怪しげな僧形の男を連れて幕内に入ってきた。
一目見て、只者ではないと感じられる男だった。
その男が忠三郎の方に歩み寄ると、滝川助太郎がとっさに間に入る。
忠三郎は立ち上がり、声をかけた。
「わしが蒲生忠三郎じゃ。その方は?」
すると僧侶は、ひと呼吸置いてから答えた。
「重丸様の使いの者でござりまする」
その言葉を聞いた瞬間、忠三郎の胸は熱くなり、躍り上がらんばかりに声をあげた。
「生きておるのか、重丸は…!」
喜びと戸惑いが胸をよぎり、思わず僧侶の目を見つめる。
「百済寺より落ち延び、この先の寺に身を隠しておりましたが、流行り病にかかり、もはや明日をも知れぬお命とのこと。忠三郎様に一目会い、今生の別れを告げたいと―」
「なんと……それは、どこの寺じゃ」
忠三郎が詰め寄ると、すかさず助太郎と町野左近が制した。
「若殿、これは明らかに罠にござりまする!」
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「止めるな、助太郎。会いたいのじゃ。話がしたいのじゃ、罠と知っていても、会わずにはいられぬ。重丸に…」
熱に浮かされた様に繰り返す忠三郎に、二人はかえって必死になって止める。
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助太郎が身を挺して立ちはだかる。
そのとき、二人の制止を冷ややかに眺めていた僧侶が、ふいに一歩踏み出した。
次の瞬間、棒のようなものが音もなく振り下ろされ――助太郎と町野左近が倒れ伏した。
僧侶が手にした杖で、助太郎と町野左近の後頭を、見事な手際で殴り倒したのだ。
「ぬしは、甲賀の者か」
唖然として問いかける忠三郎に対し、僧侶は何も答えなかった。ただ、冷ややかな眼差しのまま振り返り、
「ご家中の者に気づかれる前に、早う参られよ」
とだけ言った。
忠三郎は一歩踏み出し、ふと足を止めた。
「なぜ――わしを斬らなんだ」
僧は微かに首を傾け、月の方へと目をやる。
「生かした覚えはござらぬ。ただ、道があるゆえ示したまで」
短い沈黙。梢の間から、冴えた光が垂れる。
僧はその光を一瞥し、独り言のように呟いた。
「……仙女もまた、病を見捨てはせぬ――月のあるうちは」
その声の調べに、どこかで聞いたような響きがあった。
誰のものかは思い出せない。だが胸の奥が、なぜか痛んだ。
僧はふと月を仰ぎ、袖の陰に光を受けながら、静かに言葉を継いだ。
「参りましょう。その『病める御方』のもとへ――」
忠三郎はその言葉に導かれるように頷き、闇の中へ歩みを進めた。
その背を、蒼い月光が淡く照らしていた。
闇を縫うようにして、草深い山道を進む。月明かりだけを頼りに歩くには、あまりに険しい道であったが、僧侶は何の躊躇もなく進んでいく。
(これほどの暗がりを迷いもせず…やはり、ただの僧ではない)
甲賀の素破――その名が忠三郎の脳裏をかすめる。
夜目の利かぬ忠三郎は、何度も足を取られそうになりながら、必死にその背を追った。
やがて道が開け、古木の根元にぽつんと小さな祠が現れた。僧侶はそこで立ち止まり、黙して振り返った。
「寺ではなかったのか」
忠三郎が苦笑まじりに問うと、僧侶は表情ひとつ動かさずに応じた。
「最初から、寺などないとお分かりであったはず」
僧侶の言葉が終わるより早く、杖が静かに構えられた。
それはただの杖ではない。鞘に見せかけた、仕込みの刀だ。
(仕込み杖…まさか、本当に…)
その時、祠の背後の木陰から、もう一人の人影が現れた。
足を引き摺り、刀を杖のようにして現れたのは――重丸だった。
「重丸…その足は?」
忠三郎が言葉を詰まらせると、重丸は乾いた笑みを浮かべて言い放った。
「盗人猛々しいとは、まさに貴様のことよ。その足も、この傷も、すべて貴様のせいじゃ!」
その声を合図にしたかのように、周囲の林から素破たちが次々に姿を現す。
「違う! わしは…」
「黙れ!」
重丸は憤怒に燃えた目で忠三郎を睨みつけた。
「わしは生まれたその時より、罪の子として蔑まれ、御爺様に利用され、母上にも抱かれぬままここまで生きてきた! すべてを――おぬしが奪った! 母上の心も、家の跡目も、光も!」
忠三郎の胸に、激しい痛みが走った。
(母上は、あの人に辱められ、その果てに重丸を産んだ。重丸は母上の愛を受けられず、御爺様に縛られて生きてきた。憎むべきは重丸ではない。御爺様……)
「それでも――わしは、兄上を斬りとうはない!」
一瞬、重丸の刀が震えた。だがその揺らぎをかき消すように、素破たちの鬨の声が闇に響いた。
月は冴え冴えと輝き、さながら仙女が二人の兄弟を見下ろすように夜空に懸かっていた。
忠三郎が呆然と見とれていると、重丸が声をあげて斬りかかってきた。
その動きを見て、忠三郎も慌てて身構える――だがその瞬間、谷間に響き渡る銃声。
「彦一郎!」
木全彦一郎が現れ、無言のまま返す刀で隣の素破を一閃した。
続けて素破たちが襲いかかるが、彦一郎は舞うように切り伏せていく。
「重丸!」
重丸の身体が、糸が切れたように崩れ落ちた。
駆け寄った忠三郎がその胸に触れると、すでに心の臓を撃ち抜かれ、事切れていた。
火縄銃の匂いも煙もない。遠くから、風と共に放たれた一撃――。
(どこから撃ったのだ…)
忠三郎は茫然とし、その場に膝をついた。
「鶴!無事か!」
義太夫と助九郎が手勢を連れて現れた。
「これは…重丸か」
傍らに横たわる亡骸を見て、義太夫が低く問うた。
忠三郎は真っ赤に腫れた目で、力なく頷いた。
「童の頃…二人で国を守ると約束したのに…言えなんだ…」
忠三郎は、重丸の冷たい手を取って、震える肩を揺らした。
「鶴、しっかりいたせ」
義太夫がそっと声をかける。
「重丸がおると分かっていて、百済寺に火を放った…」
「それは――」
義太夫は何かを言いかけて口を閉じた。
百済寺が六角に通じ、兵糧を送り続けていたのは事実。信長の下知であれば、焼き討ちはやむなしと、理では分かっている。だが、心は別だ。
「このような遠間から、一撃で…撃てる者など、ただ一人」
忠三郎は、月明かりの下に目を凝らしながら、低く呟いた。
一益――義兄であるあの男しかいない。
「鶴、それはのう…」
義太夫が言葉を探していると、忠三郎が顔を上げた。
「なぜに…義兄上は、こんなことを…」
その問いに、義太夫は少し冷めた調子で応じた。
「おぬしは、殿を恨むのか」
「重丸のことは、わしが始末をつけると申したはずじゃ!」
「守る価値もなき奴よ。殿は、それでもおぬしを上様の前でかばい、身を削って守っておられた。今宵もまた、ふらふらと誘われ、危うい目に遭う…それを見て、殿はよいとしても、わしらが馬鹿を見る」
忠三郎は重丸の亡骸を見つめ、黙り込んだ。
すると義太夫の声音が、ふいに和らいだ。
「…されど、殿は仰せられた。鶴は、今のままでよいと」
「今のまま…?」
「そうじゃ。鶴は、いつも大人びた考えをする。周りもそれを求める。じゃが、身内のことになると急に童のようになる。それでよいのだと、殿は言われた。若さに任せて無謀をやる時期を経なければ、人は何も学べぬ。最初から分別ばかり身につけた者は、歳を重ねる頃にはもう老人のようになってしまう…と、な」
忠三郎は目を伏せ、唇を噛んだ。
「義兄上が…そんなことを…」
あの何を考えているのか分からぬ義兄が、そんな思いで自分を見ていたのか――初めて知った気がした。
「重丸の亡骸は、我が者に命じて信楽院へ運ばせよう」
義太夫がそっと促す。
「そろそろ戻らねばな…おぬしは、一軍の将であろう?」
忠三郎は、黙って涙を拭った。
そして、ふらつく足で、ゆっくりと立ち上がった。
忠三郎と義太夫が自陣へ戻ると、あたりには誰の姿もなかった。軍勢はすでに移動していたらしい。
「我ら滝川勢は、先陣を仰せつかっていた…朝倉勢が動いたため、追撃に向かったのだろう」
忠三郎が唖然として言った。
「我らも同じく、先陣を任されていたはず。されど、大将を残してゆくとは――」
どうやら、先に戻った一益が滝川・蒲生勢を率いて追撃に移ったようだった。 忠三郎が顔を曇らせる。
「急がねば。わしはともかく、鶴がおらぬと知れればまずかろう」
忠三郎は慌てて馬を走らせるが、霧が立ちこめる峠道を越える頃には、討ちもらした残党らが、どこへ姿を消したのかさえわからなくなっていた。
いくら馬を走らせても先鋒には追いつけなかった。汗に濡れた甲冑が肌にまとわりつき、肺の奥が焼けるようだった。
(遅れた……)
木之本の地蔵山にて、ようやく本隊に追いついた。そこは越前へと通じる要路、敦賀に続く街道の要衝であった。
その場には、すでに信長とともに秀吉の姿もあった。自ら軍を率いて先んじて追撃に出たと聞いていたが、それはまるで――他の者が遅れをとるのを見越していたかのような、見事な采配だった。
(抜け目ない…)
忠三郎はそう思いながらも、一益の背を見た。一益は微動だにせず、ただ風の音に耳を傾けている。
忠三郎に気付いた一益が馬上から声をかけてきた。
「やっと参ったか」
「朝倉勢の追撃は…」
「上様に先を越された」
「上様が、先陣を…」
秀重、忠右衛門が追撃に加わり、蒲生勢からは町野左近が兵を率いて進んだ」
忠三郎が目を見開いた。
「上様は大層なお怒りじゃ。命を受けていた家臣――柴田、丹羽、羽柴など二十名ほど、皆が後れをとった。先ほど皆で詫びを入れ、ようやく戻ったところよ」
「皆で…では、上様は、わしが…おらなんだことに――」
一益が苦笑を浮かべる。
「案ずるな。常のそなたを知っておれば、誰も怪しみはせぬ。それより、町野左近に追いついて朝倉勢の尻を撃て。敵は刀根山を越え、敦賀へ退いておる」
「心得た!」
忠三郎は頷いて馬にまたがり、颯爽と駆け去っていった。
しばし後、義太夫が控えめに口を開く。
「殿。重丸の亡骸は信楽院に送り届けました」
一益は騎乗しながらもちらりと義太夫を見た。
「重丸を仕留めたのは、そなたか」」
義太夫が驚いたように目を見開いた。
「あれは殿が…撃ったものかと…」
「どこを撃たれておった?」
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一益は馬の手綱を緩めながら、しばし黙し、やがて低く言った。
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義太夫は少し感心したように言った。
「なるほど。殿も人の子でござりますな。鶴があれほどに思うておるゆえ、生かして捕えると…」
一益は鼻で笑った。
「ちがう。上様を撃った者を突き止めねばならぬ。重丸は、何かを知っていた」
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「それでは、誰かが――口封じを……?」
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「とはいえ、どこを探せと…」
一益はすぐに答えた。
「蒲生快幹を見張れ。あの男の動きに、鍵がある」
「ハハッ」
一方、信長の軍勢は敦賀へと追撃を続け、ついに朝倉義景のこもる一乗谷城を陥落させた。勝鬨も冷めやらぬまま、織田勢は北近江へ転じ、小谷城を囲み、浅井久政・長政父子を滅ぼした。かくして、越前・北近江は、織田のものとなった。
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