滝川家の人びと

卯花月影

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4 羅生門

4-3 月の仙女

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  ようやく北伊勢に戻ったばかりというのに、早くも越前出陣の沙汰が下った。
「浅井家の者が一人、我らに寝返ったとのこと。上様はこれを好機と見て、浅井・朝倉を討つおつもりのようじゃ」
 そう告げられた瞬間、誰の顔にも、安堵よりも先に疲労の色が浮かんだ。
「我らは甲冑を脱ぐ暇もなく…任重くして道遠し、ですな」
 繰り言めいた佐治新介の声に、義太夫がふっと笑った。
「泣く子も黙る佐治新介様もお疲れか。わしなどは忙しゅうて妻帯する暇もない。新介は早、隠居でも考えるか」
「何を申すか。わしは殿が、すりこ木のようにこき使われているのを案じておるのじゃ」
 新介が得意げに言い放つと、これまで口を閉ざしていた一益が、苦笑混じりに口を開いた。
「そう申すな。江北が終われば、また、全軍をあげて一揆勢との戦いになる。皆もしばらくは休む間はないと思うてくれ」
 辺りが薄暗くなる中、軍議が終わり、家臣たちが広間を出ていった。義太夫だけがその場に残った。何か話があるようだ。
「三九郎がことか?」
「はい。藤九郎が、国友にて奇妙な噂を耳にしたとか。杉谷の者と共に鉄砲を買い求めに現れたと申します」
 織田家の追撃から逃れ、江北に逃げているのだろう。危険を冒しても近江から離れないのは、近江に資金源があるからだ。
「銭の出所は……蒲生快幹か」
「御意。快幹は六角にまで金を貸していたとのこと。重丸を討てば、快幹も意気を失いましょう。さすれば杉谷の者たちも動きを失うはず」
 義太夫が灯明皿に火を入れた。ふっと灯る火が、部屋を仄かに照らし出した。
「重丸も共におるのか」
「恐らくは。此度の戦さで密かに鶴を狙うてくるやもしれませぬ」
 一益は、無言で扇子を手に取り、パチパチと折りたたむ音を響かせ始めた。何かを考えるとき、いつもこうだ。
(後顧の憂いを断つべきか)
 重丸は、息のある限り忠三郎の家督を狙う。しかし、あの忠三郎の性格では、それを斬ることはできまい。
「誘い出せるか?」
「鶴を囮に使えば…」
 それは、忠三郎が決して承知しない手段だろう。杉谷の者が背後に控えている以上、なおさらのことだ。だが、危険を避けていては、永遠に重丸を討てない。
 それに、もう一つの懸念がある。
「…上様のお命を狙うた者のことじゃ」
「そればかりは、杉谷衆すべてを捕らえて拷問にかけでもせねば、真実は見えませぬ」
 もし三九郎が信長方に捕らえられたら、その身分も、一益の子であることも、すべて白日の下に晒される。
(そうなる前に捕えるか、それとも…)
 パチパチと、扇子の音が激しくなった。かつてなら即座に結論を下せた事柄に、今は、答えが見い出せない。
 義太夫は、そんな主君の姿を静かに見つめていたが、やがて堪えかねたように口を開いた。
「殿。どうかこの義太夫にだけはお心の内をお聞かせくだされ」
 一益が顔を上げると、義太夫の眼が、静かに己を射ていた
「余人はいざ知らず、それがしには分かっておりまする。殿が狙うた獲物を取り逃がす筈はありませぬ。殿はあの猿楽の折、故意に急所を外されましたな。まことは、三九郎様をお助けになりたかったのではありませぬか?」
 一益は黙したまま、視線を逸らした。やがて、苦い笑みを浮かべる。
「あの時、倒すべきであった」
「殿!」
「そなたが思うほど、わしは腑抜けてはおらぬ」
 心を読まれた悔しさが滲む言葉だった。だが、それが強がりであることを、自身もまた自覚していた。
 あのとき、確かに撃った。だが、咄嗟に迷いが生じ、狙いを逸らした。それが事実だった。
 義太夫は黙って見ていたが、やがて深々と頭を下げた。
「承知つかまつりました。では、此度の北江攻め……これを好機といたしましょう」
 一益は静かに頷いた。その顔には、もはや情も慈悲も見えなかった。ただ、覚悟と寂しさだけが、薄明かりの中に滲んでいた。

 峠を越えて江北へ入ると、信長本隊がすでに国友近くにある月ヶ瀬城の攻略中だった。
「山本山城主の阿閉貞征がこちらに寝返っとる。あのような城、日暮れ前には落ちやぁす」
 快活な声とともに現れたのは、苗字を木下から羽柴へと改めた秀吉であった。浅井家の家中を巧みに調略した張本人だ。小男ながら、声に覇気が満ちている。
「朝倉の援軍は?」
 と一益が問えば、
「早、越前を出た由。明日・明後日には現れやぁす。…にしても、いつ見ても左近殿の軍勢は装備がええですなぁ」
 そう言って、秀吉は鉄砲を手にした兵たちをざっと見渡す。新介も藤九郎も怪訝な面持ちでそれを見た。尾張訛りの言葉に慣れぬためか、どうにも秀吉が掴みどころのない人物に見える。
 一益は兵の装備に関して抜かりがなかった。蔵入りの大半を鉄砲に注ぎ込み、命中精度と発射速度を徹底して鍛え上げている。秀吉の目も、そこに鋭く向けられていた。
「何じゃ、禿ねずみ。何用で参った?」
 一益の声音にはどこか柔らかな皮肉が交じる。秀吉がこれを真に受けたかはわからぬが、満面の笑みを崩さず頭を下げた。
「左近殿に、拙者の弟、小一郎のことで一つご相談がありゃす」
「弟?そちの弟のことか」
「左近殿の姫、葉月殿を小一郎の嫁にいただきてゃあというご相談で」
 その言葉に、新介と藤九郎が目を剥いた。まさか、と思うような申し出である。
 一益はしばし黙し、軽く視線を落とす。葉月は未だ赤子であり、いかに冗談とはいえ、時を弁えぬ話である。
「葉月はまだ赤子じゃが」
 冷ややかに言うが、秀吉はひるまず続けた。
「それは無論、知っとりまする。それゆえ、今すぐとではにゃあて、他家との縁談が決まるみゃあに、行く行くというお約束をいただきてゃあて」
 軽妙な言葉回しではあるが、その裏にはしたたかな計算が透けて見える。秀吉は今、急速に頭角を現している。軍才もさることながら、調略に長け、人の心の機微を読むことにかけては非凡なものがある。
 一益は、秀吉が自分を強く意識していることを感じていた。信長の寵臣として台頭する羽柴秀吉。だが、自らは秀吉より年長であり、織田家に仕えた年季も深い。嫉妬も対抗心もなく、ただ静かにその才を測っていた。
(まこと、よく見ておる)
 素破の身から叩き上げてきた一益にとって、秀吉の上昇志向と執拗な観察眼には既視感すらあった。それゆえ、軽んじる気も起こらず、かといって肩を並べようとも思わない。
「考えておく」
 それだけを口にし、場を収めた。
 秀吉は深々と頭を下げて去っていったが、その背にはどこか満足げな色があった。返事の中に、一益が自分を無視してはいない、という確信を得たのだろう。
 一益は小さく息を吐いた。
(進む道は我が歩む道とは異なれど…あやつ、侮れぬ)
 ひととき、風が吹いた。戦塵の匂いと共に、秀吉の足音が遠ざかっていった。

 その日の夕刻、月ヶ瀬城はついに落城した。雨脚は次第に強まり、翌日には豪雨のなか、朝倉勢が籠もる大嶽城と丁野山城までもが陥落した。
 夜半近く、雨が上がった頃、本陣からの使者が駆けてきた。
「朝倉勢、すでに撤退の兆しあり。追撃を開始せよ、との上意でございます」
「では皆々、支度を整えよ」
 義太夫が素早く立ち上がり、幔幕の外へ出ようとしたその時――
「殿。右の山の手より、不審な狼煙が上がっておりまする」
 佐治新介が駆け込んでくる。濡れた裃の裾からは、まだ雨の匂いが立ちのぼっていた。
「右の山の手…? 敵のいる方角ではありますまい。あちらは確か、蒲生勢の…」
 義太夫の声に、幾分の動揺が混じる。だが、一益の眼差しは既に静かに遠くを見据えていた。
 狼煙――あれは、決めていた合図だ。
「やはり来たか」
 一益は小さく呟いた。
「彦一郎、義太夫」
 彦一郎が頷いて姿を消し、義太夫が立ち上がった。
(杉浦衆が、鶴の居場所を知らせたか)
 確信にも似た思いが、一益の胸を過ぎる。
 それを証すかのように、遠く夜空に、もう一筋、白煙が揺らめいた。

 夜半、雲ひとつなく、月は冴え冴えと空に懸かっていた。蒼銀に煌めくその光は、地を照らすばかりか、遠い記憶の襞までも静かに撫でていく。
 唐土ではこの晩を「中秋節」と呼ぶという。最も美しき月を愛でる風習は、わが国にも渡り、平安の昔より、風雅をたしなむ人々の間に「月見の宴」として根づいていった。
『月には仙女が住んでおり、兎どもに薬を練らせておるのじゃ』
 かつて、誰かがそう語ってくれたことがあった。
 その仙女は、地上に流行り病が蔓延すると、心を痛め、兎たちに命じて薬を届けさせるという。
『仙女?』
『母上のような、美しく心根の優しい――』
 あの時、確かにそう言っていた。
 それは重丸だった。まだ互いに幼く、争いなど夢にも思わなかった頃。ふたりで縁側に並んで、夜空を見上げていたことがあった。
 母を信じ、母のような存在を天に見ていた――そんな無垢な心が、あの短い言葉に込められていた。
 忠三郎は、帷幕の中に一人座し、薄絹の帳越しに月を仰ぎながら、ふいに胸奥を過るその光景に、しばし心を浸した。
 お桐――あの母は、小柄で、温和で、物静かで、何より、ふたりの子に分け隔てなく深い愛情を注いだ人だった。人前では控えめで、どこか影のように立つ女であったが、その眼差しは、誰よりもあたたかく、優しかった。
 あの頃はただ、夢のような話として耳を傾けていた。だが今になって、その一言が胸に沁みる。
(母上のような…仙女…。あのときの重丸の言葉には、偽りはなかった筈だ)
 信じたい、と忠三郎は思った。たとえ、あれほどの刃を向け合うことになった今でさえ。
 重丸の所在は、未だに掴めぬままだった。百済寺の焼き討ち以降、消息は杳として知れず。滝川助太郎の様子から、何かを知っていると薄々感じてはいたが、問い詰めたところで何も出まい。
(それでも――あの日、あの言葉は、確かに重丸自身の心から発せられたものだった。ならば…)
 忠三郎が思いをめぐらせていたその時だった。
「若殿。なにやら狼煙の上がった先で、この者が若殿に会わせよと…」
 町野左近が、怪しげな僧形の男を連れて幕内に入ってきた。
 一目見て、只者ではないと感じられる男だった。
 その男が忠三郎の方に歩み寄ると、滝川助太郎がとっさに間に入る。
 忠三郎は立ち上がり、声をかけた。
「わしが蒲生忠三郎じゃ。その方は?」
 すると僧侶は、ひと呼吸置いてから答えた。
「重丸様の使いの者でござりまする」
 その言葉を聞いた瞬間、忠三郎の胸は熱くなり、躍り上がらんばかりに声をあげた。
「生きておるのか、重丸は…!」
 喜びと戸惑いが胸をよぎり、思わず僧侶の目を見つめる。
「百済寺より落ち延び、この先の寺に身を隠しておりましたが、流行り病にかかり、もはや明日をも知れぬお命とのこと。忠三郎様に一目会い、今生の別れを告げたいと―」
「なんと……それは、どこの寺じゃ」
 忠三郎が詰め寄ると、すかさず助太郎と町野左近が制した。
「若殿、これは明らかに罠にござりまする!」
「なぜ罠とわかっていて、わざわざ行かれようと…!」
「止めるな、助太郎。会いたいのじゃ。話がしたいのじゃ、罠と知っていても、会わずにはいられぬ。重丸に…」
 熱に浮かされた様に繰り返す忠三郎に、二人はかえって必死になって止める。
「ならば、この助太郎を斬ってからお行きくだされ!」
 助太郎が身を挺して立ちはだかる。
 そのとき、二人の制止を冷ややかに眺めていた僧侶が、ふいに一歩踏み出した。
 次の瞬間、棒のようなものが音もなく振り下ろされ――助太郎と町野左近が倒れ伏した。
 僧侶が手にした杖で、助太郎と町野左近の後頭を、見事な手際で殴り倒したのだ。
「ぬしは、甲賀の者か」
 唖然として問いかける忠三郎に対し、僧侶は何も答えなかった。ただ、冷ややかな眼差しのまま振り返り、
「ご家中の者に気づかれる前に、早う参られよ」
 とだけ言った。
 忠三郎は一歩踏み出し、ふと足を止めた。
「なぜ――わしを斬らなんだ」
 僧は微かに首を傾け、月の方へと目をやる。
「生かした覚えはござらぬ。ただ、道があるゆえ示したまで」
 短い沈黙。梢の間から、冴えた光が垂れる。
 僧はその光を一瞥し、独り言のように呟いた。
「……仙女もまた、病を見捨てはせぬ――月のあるうちは」
 その声の調べに、どこかで聞いたような響きがあった。
 誰のものかは思い出せない。だが胸の奥が、なぜか痛んだ。
 僧はふと月を仰ぎ、袖の陰に光を受けながら、静かに言葉を継いだ。
「参りましょう。その『病める御方』のもとへ――」
 忠三郎はその言葉に導かれるように頷き、闇の中へ歩みを進めた。
 その背を、蒼い月光が淡く照らしていた。

 闇を縫うようにして、草深い山道を進む。月明かりだけを頼りに歩くには、あまりに険しい道であったが、僧侶は何の躊躇もなく進んでいく。
(これほどの暗がりを迷いもせず…やはり、ただの僧ではない)
 甲賀の素破――その名が忠三郎の脳裏をかすめる。
 夜目の利かぬ忠三郎は、何度も足を取られそうになりながら、必死にその背を追った。
 やがて道が開け、古木の根元にぽつんと小さな祠が現れた。僧侶はそこで立ち止まり、黙して振り返った。
「寺ではなかったのか」
 忠三郎が苦笑まじりに問うと、僧侶は表情ひとつ動かさずに応じた。
「最初から、寺などないとお分かりであったはず」
 僧侶の言葉が終わるより早く、杖が静かに構えられた。
 それはただの杖ではない。鞘に見せかけた、仕込みの刀だ。
(仕込み杖…まさか、本当に…)
 その時、祠の背後の木陰から、もう一人の人影が現れた。
 足を引き摺り、刀を杖のようにして現れたのは――重丸だった。
「重丸…その足は?」
 忠三郎が言葉を詰まらせると、重丸は乾いた笑みを浮かべて言い放った。
「盗人猛々しいとは、まさに貴様のことよ。その足も、この傷も、すべて貴様のせいじゃ!」
 その声を合図にしたかのように、周囲の林から素破たちが次々に姿を現す。
「違う! わしは…」
「黙れ!」
 重丸は憤怒に燃えた目で忠三郎を睨みつけた。
「わしは生まれたその時より、罪の子として蔑まれ、御爺様に利用され、母上にも抱かれぬままここまで生きてきた! すべてを――おぬしが奪った! 母上の心も、家の跡目も、光も!」
 忠三郎の胸に、激しい痛みが走った。
(母上は、あの人に辱められ、その果てに重丸を産んだ。重丸は母上の愛を受けられず、御爺様に縛られて生きてきた。憎むべきは重丸ではない。御爺様……)
「それでも――わしは、兄上を斬りとうはない!」
 一瞬、重丸の刀が震えた。だがその揺らぎをかき消すように、素破たちの鬨の声が闇に響いた。
 月は冴え冴えと輝き、さながら仙女が二人の兄弟を見下ろすように夜空に懸かっていた。
 忠三郎が呆然と見とれていると、重丸が声をあげて斬りかかってきた。
 その動きを見て、忠三郎も慌てて身構える――だがその瞬間、谷間に響き渡る銃声。
「彦一郎!」
 木全彦一郎が現れ、無言のまま返す刀で隣の素破を一閃した。
 続けて素破たちが襲いかかるが、彦一郎は舞うように切り伏せていく。
「重丸!」
 重丸の身体が、糸が切れたように崩れ落ちた。
 駆け寄った忠三郎がその胸に触れると、すでに心の臓を撃ち抜かれ、事切れていた。
 火縄銃の匂いも煙もない。遠くから、風と共に放たれた一撃――。
(どこから撃ったのだ…)
 忠三郎は茫然とし、その場に膝をついた。
「鶴!無事か!」
  義太夫と助九郎が手勢を連れて現れた。
「これは…重丸か」
 傍らに横たわる亡骸を見て、義太夫が低く問うた。
 忠三郎は真っ赤に腫れた目で、力なく頷いた。
「童の頃…二人で国を守ると約束したのに…言えなんだ…」
 忠三郎は、重丸の冷たい手を取って、震える肩を揺らした。
「鶴、しっかりいたせ」
 義太夫がそっと声をかける。
「重丸がおると分かっていて、百済寺に火を放った…」
「それは――」
 義太夫は何かを言いかけて口を閉じた。
 百済寺が六角に通じ、兵糧を送り続けていたのは事実。信長の下知であれば、焼き討ちはやむなしと、理では分かっている。だが、心は別だ。
「このような遠間から、一撃で…撃てる者など、ただ一人」
 忠三郎は、月明かりの下に目を凝らしながら、低く呟いた。
 一益――義兄であるあの男しかいない。
「鶴、それはのう…」
 義太夫が言葉を探していると、忠三郎が顔を上げた。
「なぜに…義兄上は、こんなことを…」
 その問いに、義太夫は少し冷めた調子で応じた。
「おぬしは、殿を恨むのか」
「重丸のことは、わしが始末をつけると申したはずじゃ!」
「守る価値もなき奴よ。殿は、それでもおぬしを上様の前でかばい、身を削って守っておられた。今宵もまた、ふらふらと誘われ、危うい目に遭う…それを見て、殿はよいとしても、わしらが馬鹿を見る」
 忠三郎は重丸の亡骸を見つめ、黙り込んだ。
 すると義太夫の声音が、ふいに和らいだ。
「…されど、殿は仰せられた。鶴は、今のままでよいと」
「今のまま…?」
「そうじゃ。鶴は、いつも大人びた考えをする。周りもそれを求める。じゃが、身内のことになると急に童のようになる。それでよいのだと、殿は言われた。若さに任せて無謀をやる時期を経なければ、人は何も学べぬ。最初から分別ばかり身につけた者は、歳を重ねる頃にはもう老人のようになってしまう…と、な」
 忠三郎は目を伏せ、唇を噛んだ。
「義兄上が…そんなことを…」
 あの何を考えているのか分からぬ義兄が、そんな思いで自分を見ていたのか――初めて知った気がした。
「重丸の亡骸は、我が者に命じて信楽院へ運ばせよう」
 義太夫がそっと促す。
「そろそろ戻らねばな…おぬしは、一軍の将であろう?」
 忠三郎は、黙って涙を拭った。
 そして、ふらつく足で、ゆっくりと立ち上がった。

 忠三郎と義太夫が自陣へ戻ると、あたりには誰の姿もなかった。軍勢はすでに移動していたらしい。
「我ら滝川勢は、先陣を仰せつかっていた…朝倉勢が動いたため、追撃に向かったのだろう」
 忠三郎が唖然として言った。
「我らも同じく、先陣を任されていたはず。されど、大将を残してゆくとは――」
 どうやら、先に戻った一益が滝川・蒲生勢を率いて追撃に移ったようだった。 忠三郎が顔を曇らせる。
「急がねば。わしはともかく、鶴がおらぬと知れればまずかろう」
 忠三郎は慌てて馬を走らせるが、霧が立ちこめる峠道を越える頃には、討ちもらした残党らが、どこへ姿を消したのかさえわからなくなっていた。
 いくら馬を走らせても先鋒には追いつけなかった。汗に濡れた甲冑が肌にまとわりつき、肺の奥が焼けるようだった。
(遅れた……)
 木之本の地蔵山にて、ようやく本隊に追いついた。そこは越前へと通じる要路、敦賀に続く街道の要衝であった。

 その場には、すでに信長とともに秀吉の姿もあった。自ら軍を率いて先んじて追撃に出たと聞いていたが、それはまるで――他の者が遅れをとるのを見越していたかのような、見事な采配だった。
(抜け目ない…)
 忠三郎はそう思いながらも、一益の背を見た。一益は微動だにせず、ただ風の音に耳を傾けている。
 忠三郎に気付いた一益が馬上から声をかけてきた。
「やっと参ったか」
「朝倉勢の追撃は…」
「上様に先を越された」
「上様が、先陣を…」
 秀重、忠右衛門が追撃に加わり、蒲生勢からは町野左近が兵を率いて進んだ」
 忠三郎が目を見開いた。
「上様は大層なお怒りじゃ。命を受けていた家臣――柴田、丹羽、羽柴など二十名ほど、皆が後れをとった。先ほど皆で詫びを入れ、ようやく戻ったところよ」
「皆で…では、上様は、わしが…おらなんだことに――」
 一益が苦笑を浮かべる。
「案ずるな。常のそなたを知っておれば、誰も怪しみはせぬ。それより、町野左近に追いついて朝倉勢の尻を撃て。敵は刀根山を越え、敦賀へ退いておる」
「心得た!」
 忠三郎は頷いて馬にまたがり、颯爽と駆け去っていった。
 しばし後、義太夫が控えめに口を開く。
「殿。重丸の亡骸は信楽院に送り届けました」
 一益は騎乗しながらもちらりと義太夫を見た。
「重丸を仕留めたのは、そなたか」」
 義太夫が驚いたように目を見開いた。
「あれは殿が…撃ったものかと…」
「どこを撃たれておった?」
「心の臓を一発。即死でござりました」
 一益は馬の手綱を緩めながら、しばし黙し、やがて低く言った。
「わしならば…生かして捕える」
 義太夫は少し感心したように言った。
「なるほど。殿も人の子でござりますな。鶴があれほどに思うておるゆえ、生かして捕えると…」
 一益は鼻で笑った。
「ちがう。上様を撃った者を突き止めねばならぬ。重丸は、何かを知っていた」
 その一言に、義太夫の顔色が変わる。
「それでは、誰かが――口封じを……?」
「然様。江北が平定されれば、逃げ場は消える。杉谷衆を急ぎ捕えねば、他の者に先を越される」
「とはいえ、どこを探せと…」
 一益はすぐに答えた。
「蒲生快幹を見張れ。あの男の動きに、鍵がある」
「ハハッ」
 一方、信長の軍勢は敦賀へと追撃を続け、ついに朝倉義景のこもる一乗谷城を陥落させた。勝鬨も冷めやらぬまま、織田勢は北近江へ転じ、小谷城を囲み、浅井久政・長政父子を滅ぼした。かくして、越前・北近江は、織田のものとなった。
 だがその背後で、目に見えぬ謀と猜疑が、次の戦を呼び寄せていた――。
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日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

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