滝川家の人びと

卯花月影

文字の大きさ
34 / 146
4 羅生門

4-7 あやかしの薬

しおりを挟む
 南近江、日野中野城。
 三九郎は驚いた。蒲生忠三郎は見張りを一人もつけず、自分をこの居城に留め置いている。甲賀で育った身からすれば不用心極まりない。だがそのおかげで、三九郎は自由に館を歩き、書庫にも出入りすることができた。百余年の歳月を刻んだ蔵書に触れられるなど、甲賀では望むべくもない。
 手に取ったのは兵法書ではなく、古き写本の万葉集であった。珍しさに夢中で読み耽り、やがて疲れると、近くを流れる日野川の川辺へと下り、きらめく水面を眺めてはぼんやり過ごす。
 その折、ふと気配を感じた。
 川辺に一人、花を摘む姿があった。遠目にも、着るものは侍女とは思えない。
(奥方の侍女か、それとも――)
 近づいてみれば背は意外に高く、丸みを帯びた顔立ち。目尻は下がり、どこか眠たげに見える。だが着ているのは豪奢な小袖だった。
 ふと、書に記された一節が唇をついて出た。花を折る姿に、自然とその句が重なったのだ。

 秋の菊 にほふ限りは かざしてん
   花よりさきと 知らぬ我が身を

 女は驚き、口元に手を当てた。その仕草には侍女にはない気品がある。
「驚かせたか。先ほどの歌がふと浮かんだ」
 女はかすかに首を振り、低い声で答えた。
「いえ…」
 声は女にしては少し低く、どこかおっとりしている。
「花を摘みに?」
「はい。父上に見せとうて……」
「父御は病いか?」
「日により具合が優れませぬ。今日は臥しておられまする」
 その口ぶりに三九郎は目を細めた。
「姫は、いずこの御方じゃ」
「蒲生左兵衛大夫が娘、虎でござります」
 三九郎ははっとした。このおっとりとした姫こそ、忠三郎の妹――お虎。噂に聞く織田家の姫君のような美貌はなく、器量はむしろ劣る。それでも、そのおおらかな雰囲気にはひとを包むような柔らかさがあった。
「わしは滝川三九郎」
「左近様の……?」
「左近の一子にて」
 人目を憚り、三九郎は早々に辞した。
――だが、心には棘のような違和感が残った。
「父御が病…」
 それは蒲生賢秀のことだろう。城の家人たちは怯えたように目を伏せ、賢秀の居間には近づこうとしない。
(もしや、尋常の病ではないのか)
 三九郎は再び川に通った。あの薬のことを確かめねば――それだけが胸にあった。
 日野川の水面は光をはね返し、水晶のように輝いている。
 やがて、木陰に立つお虎の姿を見つけたとき、胸の奥に、わずかな痛みのような温もりが走った。
「お虎殿」
「三九郎様」
 微笑む顔はどこか翳りを帯びていた。
「父御の具合は如何に」
「……日によりよう変わりまする。昨日は幼き頃の話を楽しげに。されど今日は、壁を見つめるばかりで」
 その言葉に、三九郎は重苦しい既視感を覚える。
「薬などは?」
「祖父が煎じ薬を。飲んだ夜はよく眠れると申しておりました」
「その薬、どのような匂いであったか」
「……香ばしく、けれど甘く、どこか胸の奥に沈む香りで」
 三九郎の胸を冷たい記憶が走る。
(蜜香――乾かした罌粟の根か。あるいは…)
 甲賀でも限られた者しか扱えぬ薬。疲労と痛みを抑えるが、長く飲めば人の心を少しずつ蝕む――妖しの薬。
「父上が飲み忘れた時は?」
「……城の中をさまよいます。呼んでも耳に入らず、何かに追われているかのように」
(やはり…あやかしの薬に囚われているのか)
 お虎の瞳は必死だった。
「三九郎様。甲賀の薬は、命をも延ばすと聞き及びました。どうか父上をお救いくだされ」
 その切実な願いに、三九郎は言葉を詰まらせた。
「万病に効く薬、とは……」
 あるはずもない。だが泣き伏すお虎の顔を前にすると、冷たく否定することなどできない。
「……必ずや、お父上を癒しましょう」
 そう答えた自分に驚きながらも、三九郎は背後でざわめく水音を聞いた。
 川の流れは絶えず、しかももとの水にあらず――。
 何か取り返しのつかぬ流れに、自ら足を踏み入れてしまったように感じていた。

 数日が過ぎ、忠三郎が義兄・一益に従って伊勢より帰還した。一益は義太夫らを連れ城下へ下り、館はひととき静寂に包まれた。
 その折を逃さず、三九郎は忠三郎に声をかけた。
「忠三郎、話がある」
 柔らかな笑みを浮かべたまま、忠三郎は首を傾げる。
「奇遇よな。わしも今から義兄上を追うところじゃ。おぬしも参れ」
「いや、その前にどうしても伝えたいことがある」
 その真剣な調子に、忠三郎は笑みを薄くし、黙って頷いた。二人は館を抜け、日野川の坂道を下る。
 歩きながら、忠三郎がぽつりと口にした。
「――ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
 方丈記の一節。
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。人も世も、またかくのごとし」
 静かな声で詠まれたその言葉に、三九郎は一瞬、背を遠く感じた。
 忠三郎の声は、流れ去る水に石を投じぬよう静かであった。その静けさは、心の波をも起こさぬほどだった。――だからこそ、三九郎の言葉は別の岸へと届いた。
 川辺に下り立つと、忠三郎が振り返る。
「留守の間に、何かあったか」
 三九郎は一度ためらったのち、意を決して言った。
「おぬしの父御のことじゃ」
 忠三郎の笑みが揺れる。目の奥に鋭い光が差した。
「父上が如何した」
「……臥せりがちと聞いた。お虎殿も心を痛めておる」
 その瞬間、忠三郎の笑顔は崩れぬまま、眼差しだけが氷のように変わった。
「虎に会うたのか。――何を申しておった?」
 忠三郎の迫力に思わず身を竦めながらも、三九郎は言葉を選んだ。
「父御の容態がままならず、嫁入りの話も進められぬと……」
 言い訳のように口にした言葉を、忠三郎は全く別の意味にとった。
「なるほど、そういうことか」
 納得したように頷き、唇に笑みを浮かべる。
「おぬし、虎を娶りたいのか。最初からそう言えばよいものを」
「なに……?」
「滝川家との縁。これ以上ない良縁ぞ。義兄上にも話を通そう」
「待て、違う、それは誤解だ!」
 三九郎の抗弁は空しく、忠三郎が嬉しそうに笑みを浮かべる。
「異存はない。元服を済ませ、しかるのち上様へも挨拶せねばな」
「忠三郎、虎殿とはそのような……!」
「よいから参れ。義兄上はすでに城下で待っておる」
 三九郎は愕然とした。父賢秀を蝕む「あやかしの薬」のことを告げようとしていたのに、言葉は絡まり、いつしか縁談話へとすり替わってしまった。
(何ということだ。このままでは――)
 忠三郎は何も知らぬまま、父の変調の原因に目を背けている。しかも今から、一益にまで話が及ぶのだ。
 川面に映る自らの顔を見たとき、三九郎は、己が取り返しのつかぬ流れに巻き込まれているのを悟った。

 日野の城下には、幾十軒もの鍛冶屋が並ぶ一角があった。鉄砲伝来からわずか十年余、ここ日野でも鉄砲の製造が盛んに行われている。国友に遅れること六年とはいえ、堺・国友・根来と並び、鉄砲の産地に数えられるのは、ひとえに蒲生快幹の財力と先見の賜であった。
 一益はその鍛冶場に図面を広げ、鍛冶師たちに語りかけていた。
「阿武船の側面に並べるのじゃ。一つ二つでは足りぬ。百挺、二百挺は要る」
 鍛冶師たちは顔を曇らせる。
「滝川様、それは容易ならぬ数。試し打ちを含めれば、一年はかかりましょう」
「それでは遅い。なんとしても早めねばならぬ」
 苛立つ声に、義太夫が間に入った。
「なに、工夫のしようはある。堺から職人を引っ張ってくればよい」
 あっけらかんとした物言いに、鍛冶師たちが一斉に目を丸くする。堺は信長直轄の地、迂闊に口にする話ではない。

 その場に、忠三郎と三九郎が現れた。
「また乱暴なことを申しておるな、義太夫」
 忠三郎は苦笑しながら近づき、鍛冶師らに気さくに声をかける。
「次の戦は大掛かりになるのでしょうな」
「然様。長島は必ず落とす。これまでにない大軍勢で臨む」
 一益の声には冷徹な決意が宿っていた。忠三郎は瞳を輝かせ、
「ならば数万の軍の先陣を駆け、わしが一番槍の功名をあげねば」
と息巻く。
(また葉武者めいたことを……)
 三九郎は内心で呟いた。一益は忠三郎を船に乗せようとしていたが、船酔いのひどさに諦めざるを得なかったのだ。
 そのとき、一益がふと三九郎に目を配せした。
「外で話そう」

 二人きりになった途端、一益の声色は鋭さを帯びた。
「その方、あの城で何か気づかなんだか」
「何か、とは……」
言い淀む三九郎の様子に、一益はすぐに悟った。
「鶴の父御の病。――如何なのだ」
 有無を言わせぬ調子に、三九郎は観念し、
「忠三郎の妹より聞き及んだのみ。夜ごと乱心のごとき振る舞いをすると」
と答えた。
 一益は深く眉を寄せる。
「やはり、毒か」
「甲賀の薬に似た症状が……もしや罌粟か、もしくは…」
「理兵衛も申しておった。毒というより――依りつかれたようなものだとな」
 一益はそこで言葉を切り、真剣な眼差しで問う。
「快幹を見たか」
「本丸には姿を見せませぬ」
「快幹が鶴を憎むのは何故だと思う」
 突然の問いに三九郎は答えを探した。
「……織田に従ったがゆえ、かと」
「ふむ」
 一益はふいに笑った。その笑いは、どこか薄気味悪いほど冷たい。
「大儀であった。何かあれば知らせよ。城には助太郎を残しておく」
「はっ」
 返事をしながら、三九郎は身の内が強張るのを覚えた。初めて、一益と真正面から言葉を交わした。
(これが滝川左近……)
 ただ立っているだけで圧する威。鋭い眼差しの奥に、何を思うか読み取れぬ深い闇がある。
 そこへ義太夫と忠三郎が戻ってきた。義太夫が得意げに叫ぶ。
「殿、半年で鉄砲を揃える段取りがつきましたぞ!」
「甲賀から人を増すと言っていたが」
 忠三郎が不安げに尋ねると、義太夫は鼻で笑った。
「いざとなれば堺からかっさらってくればよい」
「……全く。おぬしには呆れるばかりだ」
 忠三郎が苦笑すると、一益は義太夫の軽口には触れず、低い声で告げた。
「快幹殿に今宵、膳を並べてもらう。取り計らえ」
「お爺様と……」
 忠三郎の声が震えた。目を伏せ、無意識に拳を握る。その微細な変化を、一益は逃さなかった。
「鶴。潮時じゃ。わかっておろう」
 一益の言葉は、鍵のように忠三郎の胸奥を開いた。そして観念したように呟く。
「……例の場所へ」
 密談の場、信楽院。今や二人の秘密を覆い隠す闇の砦となっていた。

 信楽院を訪れるのは、前回からまだ一月も経ってはいない。
 それにもかかわらず、僧たちは何も問わず、一益と忠三郎に深々と頭を下げた。寺の境内はひどく静まり返り、あたかもすべてを承知の上で動いているかのように、張りつめた空気が漂っている。
 二人きりになった途端、忠三郎は押し殺すような声で口を開いた。
「……どうか、いま一度だけお待ちくだされ。父上の薬――それを調達しておるのは、お爺様にござります」
 一益の瞳が闇の中で鋭く光った。
「その薬が途絶えたら、どうなる」
「……」
「乱心するか」
 その一言に、忠三郎は顔を上げ、ぎょっとしたように一益を見た。
「やはり、存じておいでで」
「鎌掛谷を探らせた。あの白き花よ」
 人を寄せつけぬ森に咲く花。美しさの裏に妖しき効猿楽を隠し持ち、甲賀でも恐れられる「あやかしの薬」。飲み続ければ心を侵し、やがては戻れぬ深みに沈める。
「そなたも気づいていたのではないか」
「ここ数年の父上を見れば……されど、どうすればよいか……」
 篠山理兵衛の調べでも結論は出ていない。減薬しかない、としか。
「理兵衛に調合を任せる。だが――問題はそなたの覚悟だ」
 一益の声は刃のように冷ややかだった。

「薬を絶ち、父が斃れても、国を守るためと受け入れられるか」
「……」
 忠三郎の目に迷いと悲しみが入り混じる。父と祖父、そのどちらをも切り捨てねばならぬ岐路。幼子のころから愛と誇りを求め続け、裏切られ続けてきた家――その重みが肩にのしかかる。
「快幹が兵を集め、寺社に籠もれば、この地は戦場となる。焼き払うか否かを裁すのは、日野を治めるそなただ」
 忠三郎の瞳がわずかに濡れた。それは怒りとも悲しみともつかぬ光であった。
 幾度も命を狙われ、父は病に倒れ、祖父は影のような権威を振るう。家の誇りも忠義も、既に内から崩れかけている。
「鶴、なぜそこまで快幹に従う。まだ何かを期待しておるのか」
 その問いに、忠三郎は唇を噛み、遠くを見つめた。かつて鶴千代と呼ばれていた頃、自ら一益に告げた言葉を思い出す。
――「お爺様は鶴千代のことなど、何とも思うておりません」。
 あの時もまた、一益は冷徹に真実を射抜いていた。
「義兄上……」
「何度も命を狙われ、まともに飯も食わず、夜は刺客に怯える。それでも耐え忍ぶか。やがては快幹の手にかかって死ぬることを、天命と受け入れるのか」
 沈黙ののち、忠三郎は乾いた笑いを漏らし、山上憶良の辞世を低く口ずさむ。

 おのこやも 空しくあるべき 万代に
   語り継ぐべき 名はたてずして

(漢がただ空しく朽ちてよいのか)
 その胸の声が、夜気にかすかに滲んだ。
「わしが許さぬ」
 一益の声は凍てつく風のようだった。
「快幹を討てぬなら、そなたを縛り上げてでも、わしがその首を落とす。それでもよいか」
 忠三郎は涙を浮かべ、震える声で答えた。
「……いいえ。それがしが……義兄上の仰せのままに」
 その言葉に、一益はようやく静かに頷いた。
「ならば今宵の毒味は不要。その代わりに――」
 一益は忠三郎の耳元に低く囁いた。
 寺の灯火が吹く風に揺らぎ、影を深く伸ばす。
 これから始まる夜が、穏やかなものでないことを告げているかのようであった。

 日野中野城・広間。
 隠居の快幹が姿を現すのは、戦場ではなく、こうした場である。一益が顔を合わせるのは、上洛戦以来、実に五年ぶりであった。
「飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家宿老、滝川左近殿が、わざわざ我が城にお越しとはのう」
 快幹は笑みを浮かべる。齢六十五にして、なお衰えを知らぬ眼光。
「快幹殿も息災で何より」
 一益は淡々と応じ、静かに卓を見やった。
 やがて膳が運ばれてくる。
 その瞬間、一益の眼差しが、光を宿したまま静かに凍った。
 かねてより、忠三郎の毒見役が幾人も命を落としてきたことを聞き及んでいた。
 にもかかわらず忠三郎本人は無事――。その不自然さに、一益は既に答えを得ていた。
(器に塗られておるのか)
 信楽院で忠三郎に、言い含めていた。
「器を換えよ。――その場で快幹を糾す」
 忠三郎は一瞬ためらったが、義兄の眼光に逆らえなかった。
 広間で、快幹が膳を見て首を傾げる。
「これは……器が違う。忠三郎のものであろう」
「いえ。それがしはすでにいただきました。どうぞお爺様がお召し上がりを」
 忠三郎がにこやかに答えると、快幹の顔がわずかに強張った。
 一益は穏やかな笑みを浮かべたまま、声を落として語り出す。
「この数年、忠三郎の毒見役が幾人も命を落としたと聞き及ぶ。……にもかかわらず、忠三郎は無事であった」
 広間の空気が張りつめる。快幹は沈黙し、唇を引き結ぶ。
 忠三郎自身も、不思議に思ったことはあった。
 幾度も毒見役が斃れていくのに、自分だけが難を逃れている――。
 思い返せば幼い日、兄の重丸とともに鎌掛谷で遊んだことがある。あの谷は人を寄せつけぬ地で、毒虫や得体の知れぬ草が繁っていた。
「谷で遊ぶなら、この草を口にせねばならぬ」
 重丸がそう言って、山独活やまうどや式部草を噛ませてくれた。
 鎌掛谷に入る前には、必ず薬草を口にする。いつしかそれは習慣となり、忠三郎は今日まで続けてきた。
(あの日、重丸と噛んだ草の苦味が、今もわしを生かしている)

 一益の声がさらに低く落ちる。
「不可思議なことよな。毒は膳か、食材か。……いや、そうであれば毒見役とて一様に倒れはすまい」
「……」
「常に仕込まれていたのは同じところ。器よ。器をすげ替えれば、誰が口にしても同じこと」
 快幹の手がかすかに震え、指が膳の縁をなぞった。
 一益はそこを見逃さない。
 快幹の笑みが崩れ、乾いた声が漏れる。
「……戯れが、過ぎたわ」
 その動揺を見逃さず、一益が低く語る。
「ここへ来る道すがら、綿向神社を通りがかりました。立派な神輿がありましたぞ。神主の話では、忠三郎の誕生を喜び、快幹殿が祭礼を復興させ、神輿を三基も寄進したとか」
 馬見岡綿向神社――千年の古社。応仁の乱で焼け落ちたが、快幹は蒲生家の氏神として修復し、孫の誕生を祝って豪奢な神輿を奉納した。かつての喜びは、今では想像もつかぬほどだった。
 一益の声が冷たくなる。
「孫を祝ったその手で、毒を盛るとは如何なる道理か」
 快幹の笑みが消える。
「我が蒲生は俵藤太・藤原秀郷公の後裔。代々この地を守り続けてきた。それを、尾張の片田舎の成り上がり――信長風情に蹂躙され、孫までもが織田の走狗となって戻る……その恥辱、耐えられるものか」
 怒りの言葉に、一益は鼻で笑った。
「片腹痛い。忠三郎を人質に差し出したのは他ならぬ快幹殿。命じられるまま、家のために従った孫を、毒で殺そうとは――言語道断。忠三郎に免じて命は取らぬが、次はないと思われよ」
 快幹の手が震えた。膳の縁を指でなぞる仕草は病的ですらあった。
 忠三郎が堪えきれず口を開いた。
「お爺様。二の丸へお引き取りくだされ。以後、一歩も出てはなりませぬ」
「なに……そなた、このわしを幽閉するというのか!信長の差し金か!」
 快幹が怒声を放つと、忠三郎は静かに手を挙げた。
 町野左近らが現れ、快幹を取り囲む。
「おのれ……信長ずれに尻尾を振り、わしを捕らえるか!魔王の手先め!」
 広間を出るその背に、ふと控えの間の襖がわずかに開いた。中で静かに座っていたのはお虎だ。
 快幹と孫娘の視線が交わる。声もなく、微笑みもなく、ただ深く見据える眼差し。
 快幹の顔から血の気が引き、額に薄い汗が浮かんだ。
「……お虎」
 町野左近に促され、快幹は歩みを進める。
 その背には、いつまでもお虎の視線が突き刺さるように感じられた。

 嵐が過ぎ去ったあとのように、広間はしんと静まりかえった。
 虫の音だけが障子越しに響き、先ほどまでの激しい応酬が夢であったかのようだ。
「……あの日のことを思い出す」
 一益が口を開いた。
「信楽院で、思いがけずそなたに会うた折、『詮無きこと、誰のせいでもない』と申したな」
 忠三郎が顔をあげる。疲れ切った面持ちに、常の微笑みも輝きもない。
「そのようなことも、ありましたな」
「だが、本心からではなかった。己に言い聞かせていたのであろう」
「義兄上……」
 一益の眼差しは厳しかったが、その奥には温かさがあった。
「そなたは、人を恨みたくはないのだろう。それでよい。乱世ゆえ、憎しみは火となりて身を焦がす。母御もきっと、そう願うておられる。――今のままのそなたでおれ」
 そう言って一益は忠三郎の肩に手を置いた。
 その掌の重みに、忠三郎はわずかに震え、やがて弱々しく笑みを浮かべる。
「ロレンソがな……」
 一益がふと思い出すように言った。
「悪に勝たるることなく、善をもって悪に勝てと申しておった」
「伴天連の教え、でござりましょうか」
 忠三郎が興味深そうに尋ねる。
「わしも詳しくは知らぬ。されど、聡いそなたならば面白い話と感じるやもしれぬ。いつかロレンソと語らうがよい」
「義兄上は以前にも、そのように仰せでしたな。……義兄上にとって、ロレンソ殿はそれほどの御仁に映るのでしょうか」
「何故にそう思う」
「日乗が刀を振るったとき、義兄上はただ一言、『鶴!』と呼ばれた。その一声で、わしは身を投げ出し、ロレンソ殿を庇うたのです。義兄上が色を変えられるなど、あのとき以外に見たことはございませぬ」
 忠三郎はふと笑みを見せる。
「……あの騒ぎの中で、よく見ておったな」
 一益は苦笑し、食えぬやつよと心中でつぶやいた。
 忠三郎はふと目を細める。
「義兄上。先ほどの怒りのお言葉……あれで胸のつかえがすうと晴れ申した。わしの心を、まるで映すかのように仰せくださった」
 一益は静かに頷いた。
「然様か。そなたの気が晴れたのならば、それでよい」
 忠三郎は大きく息を吐き、いつもの調子に戻った。
「さて、皆を呼んで酒宴といたしましょう。……腹が減って目が回りそうじゃ」
 軽く手を叩くと、すでに常の忠三郎の顔であった。
 だがその背に、ひととき見せた涙と影が、淡く揺れているのを、一益は黙って見ていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

獅子の末裔

卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。 和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。 前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。

【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助

蔵屋
歴史・時代
 わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。  何故、甲斐国なのか?  それは、日本を象徴する富士山があるからだ。     さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。  そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。  なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。  それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。  読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。  

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史

ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】 3巻からは戦争編になります。 戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。 ※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。 マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、 スペイン勢力内部での覇権争い、 そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。 ※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、 フィクションも混在しています。 動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。 HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。 公式HP:アラウコの叫び youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス insta:herohero_agency tiktok:herohero_agency

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

対米戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。 そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。 3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。 小説家になろうで、先行配信中!

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

処理中です...