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4 羅生門
4-7 あやかしの薬
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南近江、日野中野城。
三九郎は驚いた。蒲生忠三郎は見張りを一人もつけず、自分をこの居城に留め置いている。甲賀で育った身からすれば不用心極まりない。だがそのおかげで、三九郎は自由に館を歩き、書庫にも出入りすることができた。百余年の歳月を刻んだ蔵書に触れられるなど、甲賀では望むべくもない。
手に取ったのは兵法書ではなく、古き写本の万葉集であった。珍しさに夢中で読み耽り、やがて疲れると、近くを流れる日野川の川辺へと下り、きらめく水面を眺めてはぼんやり過ごす。
その折、ふと気配を感じた。
川辺に一人、花を摘む姿があった。遠目にも、着るものは侍女とは思えない。
(奥方の侍女か、それとも――)
近づいてみれば背は意外に高く、丸みを帯びた顔立ち。目尻は下がり、どこか眠たげに見える。だが着ているのは豪奢な小袖だった。
ふと、書に記された一節が唇をついて出た。花を折る姿に、自然とその句が重なったのだ。
秋の菊 にほふ限りは かざしてん
花よりさきと 知らぬ我が身を
女は驚き、口元に手を当てた。その仕草には侍女にはない気品がある。
「驚かせたか。先ほどの歌がふと浮かんだ」
女はかすかに首を振り、低い声で答えた。
「いえ…」
声は女にしては少し低く、どこかおっとりしている。
「花を摘みに?」
「はい。父上に見せとうて……」
「父御は病いか?」
「日により具合が優れませぬ。今日は臥しておられまする」
その口ぶりに三九郎は目を細めた。
「姫は、いずこの御方じゃ」
「蒲生左兵衛大夫が娘、虎でござります」
三九郎ははっとした。このおっとりとした姫こそ、忠三郎の妹――お虎。噂に聞く織田家の姫君のような美貌はなく、器量はむしろ劣る。それでも、そのおおらかな雰囲気にはひとを包むような柔らかさがあった。
「わしは滝川三九郎」
「左近様の……?」
「左近の一子にて」
人目を憚り、三九郎は早々に辞した。
――だが、心には棘のような違和感が残った。
「父御が病…」
それは蒲生賢秀のことだろう。城の家人たちは怯えたように目を伏せ、賢秀の居間には近づこうとしない。
(もしや、尋常の病ではないのか)
三九郎は再び川に通った。あの薬のことを確かめねば――それだけが胸にあった。
日野川の水面は光をはね返し、水晶のように輝いている。
やがて、木陰に立つお虎の姿を見つけたとき、胸の奥に、わずかな痛みのような温もりが走った。
「お虎殿」
「三九郎様」
微笑む顔はどこか翳りを帯びていた。
「父御の具合は如何に」
「……日によりよう変わりまする。昨日は幼き頃の話を楽しげに。されど今日は、壁を見つめるばかりで」
その言葉に、三九郎は重苦しい既視感を覚える。
「薬などは?」
「祖父が煎じ薬を。飲んだ夜はよく眠れると申しておりました」
「その薬、どのような匂いであったか」
「……香ばしく、けれど甘く、どこか胸の奥に沈む香りで」
三九郎の胸を冷たい記憶が走る。
(蜜香――乾かした罌粟の根か。あるいは…)
甲賀でも限られた者しか扱えぬ薬。疲労と痛みを抑えるが、長く飲めば人の心を少しずつ蝕む――妖しの薬。
「父上が飲み忘れた時は?」
「……城の中をさまよいます。呼んでも耳に入らず、何かに追われているかのように」
(やはり…あやかしの薬に囚われているのか)
お虎の瞳は必死だった。
「三九郎様。甲賀の薬は、命をも延ばすと聞き及びました。どうか父上をお救いくだされ」
その切実な願いに、三九郎は言葉を詰まらせた。
「万病に効く薬、とは……」
あるはずもない。だが泣き伏すお虎の顔を前にすると、冷たく否定することなどできない。
「……必ずや、お父上を癒しましょう」
そう答えた自分に驚きながらも、三九郎は背後でざわめく水音を聞いた。
川の流れは絶えず、しかももとの水にあらず――。
何か取り返しのつかぬ流れに、自ら足を踏み入れてしまったように感じていた。
数日が過ぎ、忠三郎が義兄・一益に従って伊勢より帰還した。一益は義太夫らを連れ城下へ下り、館はひととき静寂に包まれた。
その折を逃さず、三九郎は忠三郎に声をかけた。
「忠三郎、話がある」
柔らかな笑みを浮かべたまま、忠三郎は首を傾げる。
「奇遇よな。わしも今から義兄上を追うところじゃ。おぬしも参れ」
「いや、その前にどうしても伝えたいことがある」
その真剣な調子に、忠三郎は笑みを薄くし、黙って頷いた。二人は館を抜け、日野川の坂道を下る。
歩きながら、忠三郎がぽつりと口にした。
「――ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
方丈記の一節。
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。人も世も、またかくのごとし」
静かな声で詠まれたその言葉に、三九郎は一瞬、背を遠く感じた。
忠三郎の声は、流れ去る水に石を投じぬよう静かであった。その静けさは、心の波をも起こさぬほどだった。――だからこそ、三九郎の言葉は別の岸へと届いた。
川辺に下り立つと、忠三郎が振り返る。
「留守の間に、何かあったか」
三九郎は一度ためらったのち、意を決して言った。
「おぬしの父御のことじゃ」
忠三郎の笑みが揺れる。目の奥に鋭い光が差した。
「父上が如何した」
「……臥せりがちと聞いた。お虎殿も心を痛めておる」
その瞬間、忠三郎の笑顔は崩れぬまま、眼差しだけが氷のように変わった。
「虎に会うたのか。――何を申しておった?」
忠三郎の迫力に思わず身を竦めながらも、三九郎は言葉を選んだ。
「父御の容態がままならず、嫁入りの話も進められぬと……」
言い訳のように口にした言葉を、忠三郎は全く別の意味にとった。
「なるほど、そういうことか」
納得したように頷き、唇に笑みを浮かべる。
「おぬし、虎を娶りたいのか。最初からそう言えばよいものを」
「なに……?」
「滝川家との縁。これ以上ない良縁ぞ。義兄上にも話を通そう」
「待て、違う、それは誤解だ!」
三九郎の抗弁は空しく、忠三郎が嬉しそうに笑みを浮かべる。
「異存はない。元服を済ませ、しかるのち上様へも挨拶せねばな」
「忠三郎、虎殿とはそのような……!」
「よいから参れ。義兄上はすでに城下で待っておる」
三九郎は愕然とした。父賢秀を蝕む「あやかしの薬」のことを告げようとしていたのに、言葉は絡まり、いつしか縁談話へとすり替わってしまった。
(何ということだ。このままでは――)
忠三郎は何も知らぬまま、父の変調の原因に目を背けている。しかも今から、一益にまで話が及ぶのだ。
川面に映る自らの顔を見たとき、三九郎は、己が取り返しのつかぬ流れに巻き込まれているのを悟った。
日野の城下には、幾十軒もの鍛冶屋が並ぶ一角があった。鉄砲伝来からわずか十年余、ここ日野でも鉄砲の製造が盛んに行われている。国友に遅れること六年とはいえ、堺・国友・根来と並び、鉄砲の産地に数えられるのは、ひとえに蒲生快幹の財力と先見の賜であった。
一益はその鍛冶場に図面を広げ、鍛冶師たちに語りかけていた。
「阿武船の側面に並べるのじゃ。一つ二つでは足りぬ。百挺、二百挺は要る」
鍛冶師たちは顔を曇らせる。
「滝川様、それは容易ならぬ数。試し打ちを含めれば、一年はかかりましょう」
「それでは遅い。なんとしても早めねばならぬ」
苛立つ声に、義太夫が間に入った。
「なに、工夫のしようはある。堺から職人を引っ張ってくればよい」
あっけらかんとした物言いに、鍛冶師たちが一斉に目を丸くする。堺は信長直轄の地、迂闊に口にする話ではない。
その場に、忠三郎と三九郎が現れた。
「また乱暴なことを申しておるな、義太夫」
忠三郎は苦笑しながら近づき、鍛冶師らに気さくに声をかける。
「次の戦は大掛かりになるのでしょうな」
「然様。長島は必ず落とす。これまでにない大軍勢で臨む」
一益の声には冷徹な決意が宿っていた。忠三郎は瞳を輝かせ、
「ならば数万の軍の先陣を駆け、わしが一番槍の功名をあげねば」
と息巻く。
(また葉武者めいたことを……)
三九郎は内心で呟いた。一益は忠三郎を船に乗せようとしていたが、船酔いのひどさに諦めざるを得なかったのだ。
そのとき、一益がふと三九郎に目を配せした。
「外で話そう」
二人きりになった途端、一益の声色は鋭さを帯びた。
「その方、あの城で何か気づかなんだか」
「何か、とは……」
言い淀む三九郎の様子に、一益はすぐに悟った。
「鶴の父御の病。――如何なのだ」
有無を言わせぬ調子に、三九郎は観念し、
「忠三郎の妹より聞き及んだのみ。夜ごと乱心のごとき振る舞いをすると」
と答えた。
一益は深く眉を寄せる。
「やはり、毒か」
「甲賀の薬に似た症状が……もしや罌粟か、もしくは…」
「理兵衛も申しておった。毒というより――依りつかれたようなものだとな」
一益はそこで言葉を切り、真剣な眼差しで問う。
「快幹を見たか」
「本丸には姿を見せませぬ」
「快幹が鶴を憎むのは何故だと思う」
突然の問いに三九郎は答えを探した。
「……織田に従ったがゆえ、かと」
「ふむ」
一益はふいに笑った。その笑いは、どこか薄気味悪いほど冷たい。
「大儀であった。何かあれば知らせよ。城には助太郎を残しておく」
「はっ」
返事をしながら、三九郎は身の内が強張るのを覚えた。初めて、一益と真正面から言葉を交わした。
(これが滝川左近……)
ただ立っているだけで圧する威。鋭い眼差しの奥に、何を思うか読み取れぬ深い闇がある。
そこへ義太夫と忠三郎が戻ってきた。義太夫が得意げに叫ぶ。
「殿、半年で鉄砲を揃える段取りがつきましたぞ!」
「甲賀から人を増すと言っていたが」
忠三郎が不安げに尋ねると、義太夫は鼻で笑った。
「いざとなれば堺からかっさらってくればよい」
「……全く。おぬしには呆れるばかりだ」
忠三郎が苦笑すると、一益は義太夫の軽口には触れず、低い声で告げた。
「快幹殿に今宵、膳を並べてもらう。取り計らえ」
「お爺様と……」
忠三郎の声が震えた。目を伏せ、無意識に拳を握る。その微細な変化を、一益は逃さなかった。
「鶴。潮時じゃ。わかっておろう」
一益の言葉は、鍵のように忠三郎の胸奥を開いた。そして観念したように呟く。
「……例の場所へ」
密談の場、信楽院。今や二人の秘密を覆い隠す闇の砦となっていた。
信楽院を訪れるのは、前回からまだ一月も経ってはいない。
それにもかかわらず、僧たちは何も問わず、一益と忠三郎に深々と頭を下げた。寺の境内はひどく静まり返り、あたかもすべてを承知の上で動いているかのように、張りつめた空気が漂っている。
二人きりになった途端、忠三郎は押し殺すような声で口を開いた。
「……どうか、いま一度だけお待ちくだされ。父上の薬――それを調達しておるのは、お爺様にござります」
一益の瞳が闇の中で鋭く光った。
「その薬が途絶えたら、どうなる」
「……」
「乱心するか」
その一言に、忠三郎は顔を上げ、ぎょっとしたように一益を見た。
「やはり、存じておいでで」
「鎌掛谷を探らせた。あの白き花よ」
人を寄せつけぬ森に咲く花。美しさの裏に妖しき効猿楽を隠し持ち、甲賀でも恐れられる「あやかしの薬」。飲み続ければ心を侵し、やがては戻れぬ深みに沈める。
「そなたも気づいていたのではないか」
「ここ数年の父上を見れば……されど、どうすればよいか……」
篠山理兵衛の調べでも結論は出ていない。減薬しかない、としか。
「理兵衛に調合を任せる。だが――問題はそなたの覚悟だ」
一益の声は刃のように冷ややかだった。
「薬を絶ち、父が斃れても、国を守るためと受け入れられるか」
「……」
忠三郎の目に迷いと悲しみが入り混じる。父と祖父、そのどちらをも切り捨てねばならぬ岐路。幼子のころから愛と誇りを求め続け、裏切られ続けてきた家――その重みが肩にのしかかる。
「快幹が兵を集め、寺社に籠もれば、この地は戦場となる。焼き払うか否かを裁すのは、日野を治めるそなただ」
忠三郎の瞳がわずかに濡れた。それは怒りとも悲しみともつかぬ光であった。
幾度も命を狙われ、父は病に倒れ、祖父は影のような権威を振るう。家の誇りも忠義も、既に内から崩れかけている。
「鶴、なぜそこまで快幹に従う。まだ何かを期待しておるのか」
その問いに、忠三郎は唇を噛み、遠くを見つめた。かつて鶴千代と呼ばれていた頃、自ら一益に告げた言葉を思い出す。
――「お爺様は鶴千代のことなど、何とも思うておりません」。
あの時もまた、一益は冷徹に真実を射抜いていた。
「義兄上……」
「何度も命を狙われ、まともに飯も食わず、夜は刺客に怯える。それでも耐え忍ぶか。やがては快幹の手にかかって死ぬることを、天命と受け入れるのか」
沈黙ののち、忠三郎は乾いた笑いを漏らし、山上憶良の辞世を低く口ずさむ。
おのこやも 空しくあるべき 万代に
語り継ぐべき 名はたてずして
(漢がただ空しく朽ちてよいのか)
その胸の声が、夜気にかすかに滲んだ。
「わしが許さぬ」
一益の声は凍てつく風のようだった。
「快幹を討てぬなら、そなたを縛り上げてでも、わしがその首を落とす。それでもよいか」
忠三郎は涙を浮かべ、震える声で答えた。
「……いいえ。それがしが……義兄上の仰せのままに」
その言葉に、一益はようやく静かに頷いた。
「ならば今宵の毒味は不要。その代わりに――」
一益は忠三郎の耳元に低く囁いた。
寺の灯火が吹く風に揺らぎ、影を深く伸ばす。
これから始まる夜が、穏やかなものでないことを告げているかのようであった。
日野中野城・広間。
隠居の快幹が姿を現すのは、戦場ではなく、こうした場である。一益が顔を合わせるのは、上洛戦以来、実に五年ぶりであった。
「飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家宿老、滝川左近殿が、わざわざ我が城にお越しとはのう」
快幹は笑みを浮かべる。齢六十五にして、なお衰えを知らぬ眼光。
「快幹殿も息災で何より」
一益は淡々と応じ、静かに卓を見やった。
やがて膳が運ばれてくる。
その瞬間、一益の眼差しが、光を宿したまま静かに凍った。
かねてより、忠三郎の毒見役が幾人も命を落としてきたことを聞き及んでいた。
にもかかわらず忠三郎本人は無事――。その不自然さに、一益は既に答えを得ていた。
(器に塗られておるのか)
信楽院で忠三郎に、言い含めていた。
「器を換えよ。――その場で快幹を糾す」
忠三郎は一瞬ためらったが、義兄の眼光に逆らえなかった。
広間で、快幹が膳を見て首を傾げる。
「これは……器が違う。忠三郎のものであろう」
「いえ。それがしはすでにいただきました。どうぞお爺様がお召し上がりを」
忠三郎がにこやかに答えると、快幹の顔がわずかに強張った。
一益は穏やかな笑みを浮かべたまま、声を落として語り出す。
「この数年、忠三郎の毒見役が幾人も命を落としたと聞き及ぶ。……にもかかわらず、忠三郎は無事であった」
広間の空気が張りつめる。快幹は沈黙し、唇を引き結ぶ。
忠三郎自身も、不思議に思ったことはあった。
幾度も毒見役が斃れていくのに、自分だけが難を逃れている――。
思い返せば幼い日、兄の重丸とともに鎌掛谷で遊んだことがある。あの谷は人を寄せつけぬ地で、毒虫や得体の知れぬ草が繁っていた。
「谷で遊ぶなら、この草を口にせねばならぬ」
重丸がそう言って、山独活や式部草を噛ませてくれた。
鎌掛谷に入る前には、必ず薬草を口にする。いつしかそれは習慣となり、忠三郎は今日まで続けてきた。
(あの日、重丸と噛んだ草の苦味が、今もわしを生かしている)
一益の声がさらに低く落ちる。
「不可思議なことよな。毒は膳か、食材か。……いや、そうであれば毒見役とて一様に倒れはすまい」
「……」
「常に仕込まれていたのは同じところ。器よ。器をすげ替えれば、誰が口にしても同じこと」
快幹の手がかすかに震え、指が膳の縁をなぞった。
一益はそこを見逃さない。
快幹の笑みが崩れ、乾いた声が漏れる。
「……戯れが、過ぎたわ」
その動揺を見逃さず、一益が低く語る。
「ここへ来る道すがら、綿向神社を通りがかりました。立派な神輿がありましたぞ。神主の話では、忠三郎の誕生を喜び、快幹殿が祭礼を復興させ、神輿を三基も寄進したとか」
馬見岡綿向神社――千年の古社。応仁の乱で焼け落ちたが、快幹は蒲生家の氏神として修復し、孫の誕生を祝って豪奢な神輿を奉納した。かつての喜びは、今では想像もつかぬほどだった。
一益の声が冷たくなる。
「孫を祝ったその手で、毒を盛るとは如何なる道理か」
快幹の笑みが消える。
「我が蒲生は俵藤太・藤原秀郷公の後裔。代々この地を守り続けてきた。それを、尾張の片田舎の成り上がり――信長風情に蹂躙され、孫までもが織田の走狗となって戻る……その恥辱、耐えられるものか」
怒りの言葉に、一益は鼻で笑った。
「片腹痛い。忠三郎を人質に差し出したのは他ならぬ快幹殿。命じられるまま、家のために従った孫を、毒で殺そうとは――言語道断。忠三郎に免じて命は取らぬが、次はないと思われよ」
快幹の手が震えた。膳の縁を指でなぞる仕草は病的ですらあった。
忠三郎が堪えきれず口を開いた。
「お爺様。二の丸へお引き取りくだされ。以後、一歩も出てはなりませぬ」
「なに……そなた、このわしを幽閉するというのか!信長の差し金か!」
快幹が怒声を放つと、忠三郎は静かに手を挙げた。
町野左近らが現れ、快幹を取り囲む。
「おのれ……信長ずれに尻尾を振り、わしを捕らえるか!魔王の手先め!」
広間を出るその背に、ふと控えの間の襖がわずかに開いた。中で静かに座っていたのはお虎だ。
快幹と孫娘の視線が交わる。声もなく、微笑みもなく、ただ深く見据える眼差し。
快幹の顔から血の気が引き、額に薄い汗が浮かんだ。
「……お虎」
町野左近に促され、快幹は歩みを進める。
その背には、いつまでもお虎の視線が突き刺さるように感じられた。
嵐が過ぎ去ったあとのように、広間はしんと静まりかえった。
虫の音だけが障子越しに響き、先ほどまでの激しい応酬が夢であったかのようだ。
「……あの日のことを思い出す」
一益が口を開いた。
「信楽院で、思いがけずそなたに会うた折、『詮無きこと、誰のせいでもない』と申したな」
忠三郎が顔をあげる。疲れ切った面持ちに、常の微笑みも輝きもない。
「そのようなことも、ありましたな」
「だが、本心からではなかった。己に言い聞かせていたのであろう」
「義兄上……」
一益の眼差しは厳しかったが、その奥には温かさがあった。
「そなたは、人を恨みたくはないのだろう。それでよい。乱世ゆえ、憎しみは火となりて身を焦がす。母御もきっと、そう願うておられる。――今のままのそなたでおれ」
そう言って一益は忠三郎の肩に手を置いた。
その掌の重みに、忠三郎はわずかに震え、やがて弱々しく笑みを浮かべる。
「ロレンソがな……」
一益がふと思い出すように言った。
「悪に勝たるることなく、善をもって悪に勝てと申しておった」
「伴天連の教え、でござりましょうか」
忠三郎が興味深そうに尋ねる。
「わしも詳しくは知らぬ。されど、聡いそなたならば面白い話と感じるやもしれぬ。いつかロレンソと語らうがよい」
「義兄上は以前にも、そのように仰せでしたな。……義兄上にとって、ロレンソ殿はそれほどの御仁に映るのでしょうか」
「何故にそう思う」
「日乗が刀を振るったとき、義兄上はただ一言、『鶴!』と呼ばれた。その一声で、わしは身を投げ出し、ロレンソ殿を庇うたのです。義兄上が色を変えられるなど、あのとき以外に見たことはございませぬ」
忠三郎はふと笑みを見せる。
「……あの騒ぎの中で、よく見ておったな」
一益は苦笑し、食えぬやつよと心中でつぶやいた。
忠三郎はふと目を細める。
「義兄上。先ほどの怒りのお言葉……あれで胸のつかえがすうと晴れ申した。わしの心を、まるで映すかのように仰せくださった」
一益は静かに頷いた。
「然様か。そなたの気が晴れたのならば、それでよい」
忠三郎は大きく息を吐き、いつもの調子に戻った。
「さて、皆を呼んで酒宴といたしましょう。……腹が減って目が回りそうじゃ」
軽く手を叩くと、すでに常の忠三郎の顔であった。
だがその背に、ひととき見せた涙と影が、淡く揺れているのを、一益は黙って見ていた。
三九郎は驚いた。蒲生忠三郎は見張りを一人もつけず、自分をこの居城に留め置いている。甲賀で育った身からすれば不用心極まりない。だがそのおかげで、三九郎は自由に館を歩き、書庫にも出入りすることができた。百余年の歳月を刻んだ蔵書に触れられるなど、甲賀では望むべくもない。
手に取ったのは兵法書ではなく、古き写本の万葉集であった。珍しさに夢中で読み耽り、やがて疲れると、近くを流れる日野川の川辺へと下り、きらめく水面を眺めてはぼんやり過ごす。
その折、ふと気配を感じた。
川辺に一人、花を摘む姿があった。遠目にも、着るものは侍女とは思えない。
(奥方の侍女か、それとも――)
近づいてみれば背は意外に高く、丸みを帯びた顔立ち。目尻は下がり、どこか眠たげに見える。だが着ているのは豪奢な小袖だった。
ふと、書に記された一節が唇をついて出た。花を折る姿に、自然とその句が重なったのだ。
秋の菊 にほふ限りは かざしてん
花よりさきと 知らぬ我が身を
女は驚き、口元に手を当てた。その仕草には侍女にはない気品がある。
「驚かせたか。先ほどの歌がふと浮かんだ」
女はかすかに首を振り、低い声で答えた。
「いえ…」
声は女にしては少し低く、どこかおっとりしている。
「花を摘みに?」
「はい。父上に見せとうて……」
「父御は病いか?」
「日により具合が優れませぬ。今日は臥しておられまする」
その口ぶりに三九郎は目を細めた。
「姫は、いずこの御方じゃ」
「蒲生左兵衛大夫が娘、虎でござります」
三九郎ははっとした。このおっとりとした姫こそ、忠三郎の妹――お虎。噂に聞く織田家の姫君のような美貌はなく、器量はむしろ劣る。それでも、そのおおらかな雰囲気にはひとを包むような柔らかさがあった。
「わしは滝川三九郎」
「左近様の……?」
「左近の一子にて」
人目を憚り、三九郎は早々に辞した。
――だが、心には棘のような違和感が残った。
「父御が病…」
それは蒲生賢秀のことだろう。城の家人たちは怯えたように目を伏せ、賢秀の居間には近づこうとしない。
(もしや、尋常の病ではないのか)
三九郎は再び川に通った。あの薬のことを確かめねば――それだけが胸にあった。
日野川の水面は光をはね返し、水晶のように輝いている。
やがて、木陰に立つお虎の姿を見つけたとき、胸の奥に、わずかな痛みのような温もりが走った。
「お虎殿」
「三九郎様」
微笑む顔はどこか翳りを帯びていた。
「父御の具合は如何に」
「……日によりよう変わりまする。昨日は幼き頃の話を楽しげに。されど今日は、壁を見つめるばかりで」
その言葉に、三九郎は重苦しい既視感を覚える。
「薬などは?」
「祖父が煎じ薬を。飲んだ夜はよく眠れると申しておりました」
「その薬、どのような匂いであったか」
「……香ばしく、けれど甘く、どこか胸の奥に沈む香りで」
三九郎の胸を冷たい記憶が走る。
(蜜香――乾かした罌粟の根か。あるいは…)
甲賀でも限られた者しか扱えぬ薬。疲労と痛みを抑えるが、長く飲めば人の心を少しずつ蝕む――妖しの薬。
「父上が飲み忘れた時は?」
「……城の中をさまよいます。呼んでも耳に入らず、何かに追われているかのように」
(やはり…あやかしの薬に囚われているのか)
お虎の瞳は必死だった。
「三九郎様。甲賀の薬は、命をも延ばすと聞き及びました。どうか父上をお救いくだされ」
その切実な願いに、三九郎は言葉を詰まらせた。
「万病に効く薬、とは……」
あるはずもない。だが泣き伏すお虎の顔を前にすると、冷たく否定することなどできない。
「……必ずや、お父上を癒しましょう」
そう答えた自分に驚きながらも、三九郎は背後でざわめく水音を聞いた。
川の流れは絶えず、しかももとの水にあらず――。
何か取り返しのつかぬ流れに、自ら足を踏み入れてしまったように感じていた。
数日が過ぎ、忠三郎が義兄・一益に従って伊勢より帰還した。一益は義太夫らを連れ城下へ下り、館はひととき静寂に包まれた。
その折を逃さず、三九郎は忠三郎に声をかけた。
「忠三郎、話がある」
柔らかな笑みを浮かべたまま、忠三郎は首を傾げる。
「奇遇よな。わしも今から義兄上を追うところじゃ。おぬしも参れ」
「いや、その前にどうしても伝えたいことがある」
その真剣な調子に、忠三郎は笑みを薄くし、黙って頷いた。二人は館を抜け、日野川の坂道を下る。
歩きながら、忠三郎がぽつりと口にした。
「――ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
方丈記の一節。
「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。人も世も、またかくのごとし」
静かな声で詠まれたその言葉に、三九郎は一瞬、背を遠く感じた。
忠三郎の声は、流れ去る水に石を投じぬよう静かであった。その静けさは、心の波をも起こさぬほどだった。――だからこそ、三九郎の言葉は別の岸へと届いた。
川辺に下り立つと、忠三郎が振り返る。
「留守の間に、何かあったか」
三九郎は一度ためらったのち、意を決して言った。
「おぬしの父御のことじゃ」
忠三郎の笑みが揺れる。目の奥に鋭い光が差した。
「父上が如何した」
「……臥せりがちと聞いた。お虎殿も心を痛めておる」
その瞬間、忠三郎の笑顔は崩れぬまま、眼差しだけが氷のように変わった。
「虎に会うたのか。――何を申しておった?」
忠三郎の迫力に思わず身を竦めながらも、三九郎は言葉を選んだ。
「父御の容態がままならず、嫁入りの話も進められぬと……」
言い訳のように口にした言葉を、忠三郎は全く別の意味にとった。
「なるほど、そういうことか」
納得したように頷き、唇に笑みを浮かべる。
「おぬし、虎を娶りたいのか。最初からそう言えばよいものを」
「なに……?」
「滝川家との縁。これ以上ない良縁ぞ。義兄上にも話を通そう」
「待て、違う、それは誤解だ!」
三九郎の抗弁は空しく、忠三郎が嬉しそうに笑みを浮かべる。
「異存はない。元服を済ませ、しかるのち上様へも挨拶せねばな」
「忠三郎、虎殿とはそのような……!」
「よいから参れ。義兄上はすでに城下で待っておる」
三九郎は愕然とした。父賢秀を蝕む「あやかしの薬」のことを告げようとしていたのに、言葉は絡まり、いつしか縁談話へとすり替わってしまった。
(何ということだ。このままでは――)
忠三郎は何も知らぬまま、父の変調の原因に目を背けている。しかも今から、一益にまで話が及ぶのだ。
川面に映る自らの顔を見たとき、三九郎は、己が取り返しのつかぬ流れに巻き込まれているのを悟った。
日野の城下には、幾十軒もの鍛冶屋が並ぶ一角があった。鉄砲伝来からわずか十年余、ここ日野でも鉄砲の製造が盛んに行われている。国友に遅れること六年とはいえ、堺・国友・根来と並び、鉄砲の産地に数えられるのは、ひとえに蒲生快幹の財力と先見の賜であった。
一益はその鍛冶場に図面を広げ、鍛冶師たちに語りかけていた。
「阿武船の側面に並べるのじゃ。一つ二つでは足りぬ。百挺、二百挺は要る」
鍛冶師たちは顔を曇らせる。
「滝川様、それは容易ならぬ数。試し打ちを含めれば、一年はかかりましょう」
「それでは遅い。なんとしても早めねばならぬ」
苛立つ声に、義太夫が間に入った。
「なに、工夫のしようはある。堺から職人を引っ張ってくればよい」
あっけらかんとした物言いに、鍛冶師たちが一斉に目を丸くする。堺は信長直轄の地、迂闊に口にする話ではない。
その場に、忠三郎と三九郎が現れた。
「また乱暴なことを申しておるな、義太夫」
忠三郎は苦笑しながら近づき、鍛冶師らに気さくに声をかける。
「次の戦は大掛かりになるのでしょうな」
「然様。長島は必ず落とす。これまでにない大軍勢で臨む」
一益の声には冷徹な決意が宿っていた。忠三郎は瞳を輝かせ、
「ならば数万の軍の先陣を駆け、わしが一番槍の功名をあげねば」
と息巻く。
(また葉武者めいたことを……)
三九郎は内心で呟いた。一益は忠三郎を船に乗せようとしていたが、船酔いのひどさに諦めざるを得なかったのだ。
そのとき、一益がふと三九郎に目を配せした。
「外で話そう」
二人きりになった途端、一益の声色は鋭さを帯びた。
「その方、あの城で何か気づかなんだか」
「何か、とは……」
言い淀む三九郎の様子に、一益はすぐに悟った。
「鶴の父御の病。――如何なのだ」
有無を言わせぬ調子に、三九郎は観念し、
「忠三郎の妹より聞き及んだのみ。夜ごと乱心のごとき振る舞いをすると」
と答えた。
一益は深く眉を寄せる。
「やはり、毒か」
「甲賀の薬に似た症状が……もしや罌粟か、もしくは…」
「理兵衛も申しておった。毒というより――依りつかれたようなものだとな」
一益はそこで言葉を切り、真剣な眼差しで問う。
「快幹を見たか」
「本丸には姿を見せませぬ」
「快幹が鶴を憎むのは何故だと思う」
突然の問いに三九郎は答えを探した。
「……織田に従ったがゆえ、かと」
「ふむ」
一益はふいに笑った。その笑いは、どこか薄気味悪いほど冷たい。
「大儀であった。何かあれば知らせよ。城には助太郎を残しておく」
「はっ」
返事をしながら、三九郎は身の内が強張るのを覚えた。初めて、一益と真正面から言葉を交わした。
(これが滝川左近……)
ただ立っているだけで圧する威。鋭い眼差しの奥に、何を思うか読み取れぬ深い闇がある。
そこへ義太夫と忠三郎が戻ってきた。義太夫が得意げに叫ぶ。
「殿、半年で鉄砲を揃える段取りがつきましたぞ!」
「甲賀から人を増すと言っていたが」
忠三郎が不安げに尋ねると、義太夫は鼻で笑った。
「いざとなれば堺からかっさらってくればよい」
「……全く。おぬしには呆れるばかりだ」
忠三郎が苦笑すると、一益は義太夫の軽口には触れず、低い声で告げた。
「快幹殿に今宵、膳を並べてもらう。取り計らえ」
「お爺様と……」
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「鶴。潮時じゃ。わかっておろう」
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密談の場、信楽院。今や二人の秘密を覆い隠す闇の砦となっていた。
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それにもかかわらず、僧たちは何も問わず、一益と忠三郎に深々と頭を下げた。寺の境内はひどく静まり返り、あたかもすべてを承知の上で動いているかのように、張りつめた空気が漂っている。
二人きりになった途端、忠三郎は押し殺すような声で口を開いた。
「……どうか、いま一度だけお待ちくだされ。父上の薬――それを調達しておるのは、お爺様にござります」
一益の瞳が闇の中で鋭く光った。
「その薬が途絶えたら、どうなる」
「……」
「乱心するか」
その一言に、忠三郎は顔を上げ、ぎょっとしたように一益を見た。
「やはり、存じておいでで」
「鎌掛谷を探らせた。あの白き花よ」
人を寄せつけぬ森に咲く花。美しさの裏に妖しき効猿楽を隠し持ち、甲賀でも恐れられる「あやかしの薬」。飲み続ければ心を侵し、やがては戻れぬ深みに沈める。
「そなたも気づいていたのではないか」
「ここ数年の父上を見れば……されど、どうすればよいか……」
篠山理兵衛の調べでも結論は出ていない。減薬しかない、としか。
「理兵衛に調合を任せる。だが――問題はそなたの覚悟だ」
一益の声は刃のように冷ややかだった。
「薬を絶ち、父が斃れても、国を守るためと受け入れられるか」
「……」
忠三郎の目に迷いと悲しみが入り混じる。父と祖父、そのどちらをも切り捨てねばならぬ岐路。幼子のころから愛と誇りを求め続け、裏切られ続けてきた家――その重みが肩にのしかかる。
「快幹が兵を集め、寺社に籠もれば、この地は戦場となる。焼き払うか否かを裁すのは、日野を治めるそなただ」
忠三郎の瞳がわずかに濡れた。それは怒りとも悲しみともつかぬ光であった。
幾度も命を狙われ、父は病に倒れ、祖父は影のような権威を振るう。家の誇りも忠義も、既に内から崩れかけている。
「鶴、なぜそこまで快幹に従う。まだ何かを期待しておるのか」
その問いに、忠三郎は唇を噛み、遠くを見つめた。かつて鶴千代と呼ばれていた頃、自ら一益に告げた言葉を思い出す。
――「お爺様は鶴千代のことなど、何とも思うておりません」。
あの時もまた、一益は冷徹に真実を射抜いていた。
「義兄上……」
「何度も命を狙われ、まともに飯も食わず、夜は刺客に怯える。それでも耐え忍ぶか。やがては快幹の手にかかって死ぬることを、天命と受け入れるのか」
沈黙ののち、忠三郎は乾いた笑いを漏らし、山上憶良の辞世を低く口ずさむ。
おのこやも 空しくあるべき 万代に
語り継ぐべき 名はたてずして
(漢がただ空しく朽ちてよいのか)
その胸の声が、夜気にかすかに滲んだ。
「わしが許さぬ」
一益の声は凍てつく風のようだった。
「快幹を討てぬなら、そなたを縛り上げてでも、わしがその首を落とす。それでもよいか」
忠三郎は涙を浮かべ、震える声で答えた。
「……いいえ。それがしが……義兄上の仰せのままに」
その言葉に、一益はようやく静かに頷いた。
「ならば今宵の毒味は不要。その代わりに――」
一益は忠三郎の耳元に低く囁いた。
寺の灯火が吹く風に揺らぎ、影を深く伸ばす。
これから始まる夜が、穏やかなものでないことを告げているかのようであった。
日野中野城・広間。
隠居の快幹が姿を現すのは、戦場ではなく、こうした場である。一益が顔を合わせるのは、上洛戦以来、実に五年ぶりであった。
「飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家宿老、滝川左近殿が、わざわざ我が城にお越しとはのう」
快幹は笑みを浮かべる。齢六十五にして、なお衰えを知らぬ眼光。
「快幹殿も息災で何より」
一益は淡々と応じ、静かに卓を見やった。
やがて膳が運ばれてくる。
その瞬間、一益の眼差しが、光を宿したまま静かに凍った。
かねてより、忠三郎の毒見役が幾人も命を落としてきたことを聞き及んでいた。
にもかかわらず忠三郎本人は無事――。その不自然さに、一益は既に答えを得ていた。
(器に塗られておるのか)
信楽院で忠三郎に、言い含めていた。
「器を換えよ。――その場で快幹を糾す」
忠三郎は一瞬ためらったが、義兄の眼光に逆らえなかった。
広間で、快幹が膳を見て首を傾げる。
「これは……器が違う。忠三郎のものであろう」
「いえ。それがしはすでにいただきました。どうぞお爺様がお召し上がりを」
忠三郎がにこやかに答えると、快幹の顔がわずかに強張った。
一益は穏やかな笑みを浮かべたまま、声を落として語り出す。
「この数年、忠三郎の毒見役が幾人も命を落としたと聞き及ぶ。……にもかかわらず、忠三郎は無事であった」
広間の空気が張りつめる。快幹は沈黙し、唇を引き結ぶ。
忠三郎自身も、不思議に思ったことはあった。
幾度も毒見役が斃れていくのに、自分だけが難を逃れている――。
思い返せば幼い日、兄の重丸とともに鎌掛谷で遊んだことがある。あの谷は人を寄せつけぬ地で、毒虫や得体の知れぬ草が繁っていた。
「谷で遊ぶなら、この草を口にせねばならぬ」
重丸がそう言って、山独活や式部草を噛ませてくれた。
鎌掛谷に入る前には、必ず薬草を口にする。いつしかそれは習慣となり、忠三郎は今日まで続けてきた。
(あの日、重丸と噛んだ草の苦味が、今もわしを生かしている)
一益の声がさらに低く落ちる。
「不可思議なことよな。毒は膳か、食材か。……いや、そうであれば毒見役とて一様に倒れはすまい」
「……」
「常に仕込まれていたのは同じところ。器よ。器をすげ替えれば、誰が口にしても同じこと」
快幹の手がかすかに震え、指が膳の縁をなぞった。
一益はそこを見逃さない。
快幹の笑みが崩れ、乾いた声が漏れる。
「……戯れが、過ぎたわ」
その動揺を見逃さず、一益が低く語る。
「ここへ来る道すがら、綿向神社を通りがかりました。立派な神輿がありましたぞ。神主の話では、忠三郎の誕生を喜び、快幹殿が祭礼を復興させ、神輿を三基も寄進したとか」
馬見岡綿向神社――千年の古社。応仁の乱で焼け落ちたが、快幹は蒲生家の氏神として修復し、孫の誕生を祝って豪奢な神輿を奉納した。かつての喜びは、今では想像もつかぬほどだった。
一益の声が冷たくなる。
「孫を祝ったその手で、毒を盛るとは如何なる道理か」
快幹の笑みが消える。
「我が蒲生は俵藤太・藤原秀郷公の後裔。代々この地を守り続けてきた。それを、尾張の片田舎の成り上がり――信長風情に蹂躙され、孫までもが織田の走狗となって戻る……その恥辱、耐えられるものか」
怒りの言葉に、一益は鼻で笑った。
「片腹痛い。忠三郎を人質に差し出したのは他ならぬ快幹殿。命じられるまま、家のために従った孫を、毒で殺そうとは――言語道断。忠三郎に免じて命は取らぬが、次はないと思われよ」
快幹の手が震えた。膳の縁を指でなぞる仕草は病的ですらあった。
忠三郎が堪えきれず口を開いた。
「お爺様。二の丸へお引き取りくだされ。以後、一歩も出てはなりませぬ」
「なに……そなた、このわしを幽閉するというのか!信長の差し金か!」
快幹が怒声を放つと、忠三郎は静かに手を挙げた。
町野左近らが現れ、快幹を取り囲む。
「おのれ……信長ずれに尻尾を振り、わしを捕らえるか!魔王の手先め!」
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快幹と孫娘の視線が交わる。声もなく、微笑みもなく、ただ深く見据える眼差し。
快幹の顔から血の気が引き、額に薄い汗が浮かんだ。
「……お虎」
町野左近に促され、快幹は歩みを進める。
その背には、いつまでもお虎の視線が突き刺さるように感じられた。
嵐が過ぎ去ったあとのように、広間はしんと静まりかえった。
虫の音だけが障子越しに響き、先ほどまでの激しい応酬が夢であったかのようだ。
「……あの日のことを思い出す」
一益が口を開いた。
「信楽院で、思いがけずそなたに会うた折、『詮無きこと、誰のせいでもない』と申したな」
忠三郎が顔をあげる。疲れ切った面持ちに、常の微笑みも輝きもない。
「そのようなことも、ありましたな」
「だが、本心からではなかった。己に言い聞かせていたのであろう」
「義兄上……」
一益の眼差しは厳しかったが、その奥には温かさがあった。
「そなたは、人を恨みたくはないのだろう。それでよい。乱世ゆえ、憎しみは火となりて身を焦がす。母御もきっと、そう願うておられる。――今のままのそなたでおれ」
そう言って一益は忠三郎の肩に手を置いた。
その掌の重みに、忠三郎はわずかに震え、やがて弱々しく笑みを浮かべる。
「ロレンソがな……」
一益がふと思い出すように言った。
「悪に勝たるることなく、善をもって悪に勝てと申しておった」
「伴天連の教え、でござりましょうか」
忠三郎が興味深そうに尋ねる。
「わしも詳しくは知らぬ。されど、聡いそなたならば面白い話と感じるやもしれぬ。いつかロレンソと語らうがよい」
「義兄上は以前にも、そのように仰せでしたな。……義兄上にとって、ロレンソ殿はそれほどの御仁に映るのでしょうか」
「何故にそう思う」
「日乗が刀を振るったとき、義兄上はただ一言、『鶴!』と呼ばれた。その一声で、わしは身を投げ出し、ロレンソ殿を庇うたのです。義兄上が色を変えられるなど、あのとき以外に見たことはございませぬ」
忠三郎はふと笑みを見せる。
「……あの騒ぎの中で、よく見ておったな」
一益は苦笑し、食えぬやつよと心中でつぶやいた。
忠三郎はふと目を細める。
「義兄上。先ほどの怒りのお言葉……あれで胸のつかえがすうと晴れ申した。わしの心を、まるで映すかのように仰せくださった」
一益は静かに頷いた。
「然様か。そなたの気が晴れたのならば、それでよい」
忠三郎は大きく息を吐き、いつもの調子に戻った。
「さて、皆を呼んで酒宴といたしましょう。……腹が減って目が回りそうじゃ」
軽く手を叩くと、すでに常の忠三郎の顔であった。
だがその背に、ひととき見せた涙と影が、淡く揺れているのを、一益は黙って見ていた。
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