滝川家の人びと

卯花月影

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5 狂せる者

5-1 海戦

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 伊勢と尾張の境にそびえる走井山。その突端に築かれた矢田城は、町屋川を見下ろし、東海道と員弁街道が交わる要衝を押さえていた。木曽三川が織りなす湿地と湾の匂いが、風とともに石垣を洗う。
 戦火に荒れ果てた往時の名残をなお留めつつも、修復を終えた矢田城はいま、一益の居城として、堅牢にして新たな戦を待つ姿を見せていた。

 広間には伊勢湾と木曽三川を描いた大地図が広げられ、諸将と海賊衆が列座している。尾張・伊勢・志摩――各地の勢力を一堂に集めての戦評定である。
 中央に座す一益が、ゆるりと扇を差し、低く響く声で口を開いた。
「まずは阿武船を並べ、隙間を関船・小早で埋めよ。これにて長島の四方を封じ、息の根を止める」
 その言葉に、広間の空気がひときわ張り詰めた。外から吹き込む潮風は、はるか伊勢湾の匂いを運び、地図に描かれた青が現実の海原となって広間に迫ってくるようであった。
「これは日の本でも類をみぬ規模の海戦じゃな」
 いつもながら、九鬼嘉隆の声には、甲板のきしみや波濤を踏みしめてきた者にしか持ちえぬ重みがこもっている。
「然り。九鬼殿には、阿武船を率い五明輪中へ向かい、尾張・美濃の兵を長島へ揚陸してもらう」
 尾張常滑城主、水野八郎二郎が口を挟む。
「されど、長島ばかりではあるまい。この周りには十以上の砦があろう」
 一益はうなずき、すぐさま答える。
「敵船を撃ち破ったのち、陸の兵と合流して各砦を潰す。勢州と江州の兵は、陸路にて砦を制圧せよ」
「撃ち破るとは……妖術でも用いるのか?」
「うむ。皆の者、驚くなかれ。此度のために、新たなる『鉄の化け物』を用意した」
 九鬼嘉隆が得意げに笑うと、義太夫が襖を押し開いた。
 その瞬間、広間の空気が一変した。
 湿った潮の匂いの中に、鉄を焼いたような焦げ臭さが混じる。
 外では波が岩を叩き、どこかで鉄鎚の響きが反響しているようだった。
 襖の向こうから、低くうなるような音が忍び寄る。
 やがて、数人の兵が縄を引き、板間を軋ませながら、黒々とした巨塊を運び込んできた。
 松明の炎が鉄肌を舐め、油の匂いが広間に立ちこめる。
 それは、海原を渡る船よりも重々しく、生き物のように息づいて見えた。
 鉄の腹には鋲がびっしりと打たれ、わずかな隙間から漏れた油煙が、白く立ちのぼる。
 灯火が反射して、金属の肌を赤く染めた。
 息を呑む将たちの顔に、揺らめく炎が映りこむ。
「これぞ――大筒」
 嘉隆の声が、雷鳴のように広間を揺らした。
「阿武船の舳先に据え、敵船を一撃で沈める鉄の咢よ!」
 その瞬間、兵たちが引いた縄を放すと、巨筒が床を打ち、
 ドン、と地の底から響くような音が走った。
 塵が舞い、壁の絵図がかすかに震える。
 誰もがその異様な生き物に目を奪われた。
 触れた者の指先からは氷のような冷たさが伝わり、それに抗えぬほどの吸い寄せられる力があった。
 恐怖か、歓喜か――誰にもわからない。
 諸将は静かにうなずいた。その目の奥に映るのは、勝利への決意か、それとも迫りくる血の惨劇を予感する影か。

 その夜、評定を終えた一益は、九鬼嘉隆とともに桑名の浜へ向かった。
 月は薄雲に隠れ、浜は墨を流したように暗い。
 松明の火だけが波頭を朱に染め、風は塩と海藻と油の匂いを運んでくる。
 黒々たる大筒が台車に据えられ、兵たちが息を潜めて立ち並んだ。
 嘉隆は火桶のそばにしゃがみ、濡れ縄で車輪を縛らせ、楔を砂に打ち込ませる。
「よいか、まずは半装薬じゃ。胴の癖を見ておく」
 麻嚢の薬包が喉の奥へ押し込まれ、槊杖で力任せに突き固められる。
 続いて砲弾――油に濡れた鉄の球が、鈍い音を残して呑み込まれた。
 火皿に焔硝が盛られ、導火線が蛇の舌のように踊る。

 一益は一歩退き、砂に沈む足の重みを確かめた。
 風向き、潮の走り、遠浅の呼吸――すべてが戦の一部に見える。
 義太夫が水桶と濡れ褌を抱え、こそこそと近づいてくる。
「殿、火の子が飛べば、すぐ押さえまする。……顔は、なるたけ守りとうござる」
「顔より筒を守れ」
 一益が笑いもせずに返すと、義太夫は「はは」と肩をすくめた。

 嘉隆が立ち上がる。
「――火取れ」
 導火の先が松明で白く光り、じり、と乾いた音を立てる。
 火皿へ近づく赤が、潮風に揺れては戻り、戻っては揺れる。
 浜にいる者全ての息が、そこで止まった。

 遅れて、世界が裂けた。
 雷鳴のような衝撃が海を叩き、黒い口から炎の舌が噴き出す。
 砂が跳ね、台車が唸り、楔が悲鳴を上げた。
 空気が丸ごと押し退けられ、胸骨に拳を叩き込まれたような痛みが来る。
 沖で白い水柱が立ち、夜の鳥が一斉に飛び立った。

 嘉隆は耳を澄ます。
「……銃身鳴き、なし。後座もよい。砲耳の歪み、見当たらず」
 一益は水柱の消えた暗がりを見つめた。
 目に見えぬ線が、浜から沖へ一本、ぴんと引かれている――
 その線の先に、数え切れぬ命が結ばれる。
「この咢で、道を開く」
 そう呟くと、義太夫が肩越しに覗いた。
「道、でござりますか」
「道じゃ。生きて、帰るための」
 義太夫は短くうなずき、濡れ布を絞った手を見た。
 指の隙間から、黒い水がぽたりと砂に落ちる。
「二発目、装填」 
 嘉隆の声が浜の縁まで鋭く飛ぶ。
 装填役が走り、槊杖がまた喉奥を叩く。
 潮が寄せ、引く。 
 夜はなお深い。
 だが、浜にはもう、戦の朝が匂っていた。
 嘉隆が再び声を張り上げる。
「これで奸徒どもを一網打尽ぞ!」
 雄叫びが夜の浜を満たし、鉄と潮の匂いが熱気の渦と化した。
 だが、扇をたたく一益の音が、すべてを裂く。
「倒すべきは坊主だけではない。女子、子供、老いたる者とて容赦は無用」 
 場が凍りついた。
 荒ぶる波音が消え去ったかのように、浜辺には一瞬の沈黙が落ちる。
 誰もが顔を伏せ、あるいは目を逸らした。だが、それは戦の現実を知る者ならば避けられぬ命と分かっていた。
 沈黙を破ったのは九鬼嘉隆だった。
「然様。奴らは女子供とて、一向宗の狂信者。我らを討てば極楽往生できると吹聴しておる。もはや人の形をした獣よ」 
 一益は扇を閉じ、火影の中で薄く笑んだ。
「行き着く先が極楽か地獄か――骨の髄まで思い知らせてやろう。よいな、皆々。しかと心得よ」
 諸将は静かにうなずいた。その目の奥に映るのは、勝利への決意か、それとも迫りくる血の惨劇を予感する影か。
 桑名の潮鳴りは、先ほどより一段高く聞こえた。

 一益は城へ戻り、天守の上から再び闇の海を見下ろした。
 潮の匂いに、鉄と火薬の香がまだ混じっている。
(次なる戦――三九郎を初陣に立たせるときが来たか)
 矢田城の天守から眺める伊勢湾は、闇の底に沈んでなお白波を立てている。あの波の向こうに、長島がある。
 一益は筆をとり、日野へ便りをしたためた。
 三九郎を岐阜へ連れてくるように――と。

 矢田城の高殿に戻ると、義太夫が待っていた。
「殿、何やら筆を執られておりましたな」
 一益は軽くうなずき、硯を押しやりながら口を開く。
「三九郎を岐阜に呼んだ。次の戦で初陣を飾らせる」
 義太夫の目が丸くなる。
「おお……ついにでござりまするか」
「この機を逃せば、またいつになるか分からぬ。いずれは伊勢へ召し寄せ、我が傍で育てるつもりだ」
 そう言うと、一益はふと表情を和らげ、義太夫を見た。
「烏帽子親は――義太夫、おぬしに頼む」
「ハッ、それがしが……。これは身に余る光栄にござりまする」
 義太夫は畏まりつつも、どこか誇らしげに顔を輝かせた。

 夜明けとともに岐阜へ到着すると、千畳敷館の前には忠三郎が三九郎を伴って待っていた。
「上様への目通り、すでに願い出ておりまする」
 相変わらずの手際のよさに、一益は小さく感心しつつも、緊張を隠せぬ三九郎の横顔を見やった。

 すぐに拝謁が許され、広間に控えると、信長の鋭い眼差しが三九郎に注がれる。
 忠三郎の声に、信長は片眉を上げた。
「なに、左近に子がおったか」
 一益が答えるより早く、忠三郎が重ねる。
「はっ、此度元服を迎え、次の戦にて初陣仕る所存にございます」
 三九郎が驚いて振り返ると、忠三郎はおどけたように笑みを返した。
(……また、鶴にしてやられたか)
 一益は苦笑を洩らすしかなかった。
「いかほどの齢か」
 信長が問う。
「ハッ、十七にござります」
「三介と同じか」
 信長の声が広間の梁に響きわたり、空気が一瞬、止まった。
「よい。そなたは三九郎一忠と名乗れ。わしの嫡子・勘九郎信忠の偏諱へんきを許す」
 広間の空気がざわめき、三九郎は額を地に擦りつけて平伏した。
 信長はわずかに唇を緩めると、
「父とともに、次の戦で一揆どもに目にもの見せよ」
 と告げた。
 三九郎が偏諱を賜った後、さらに忠三郎が一歩進み出た。
「恐れながら、上様に申し上げます」
「如何した?」
 信長の視線が鋭く向けられる。
「北伊勢平定の暁には、我が妹と三九郎との祝言――すでに申し合わせてございます」
 その一言に、一益と三九郎は思わず顔を見合わせた。思いもよらぬ言葉であった。
 だが、信長は微動だにせず、まっすぐに三九郎を見据える。
「……さようか」
 信長の声は低く、広間の空気が一層張り詰める。
 三九郎はうつむいたまま、膝が震えるのを抑えられなかった。
(何も聞かされておらぬ……これは、忠三郎の仕掛けか)
 返答をためらう三九郎に代わり、一益が口を開こうとした時、信長は鋭く言葉を継いだ。
「左近の子にして一忠と名乗るからには、この縁は相応しかろう。祝言は認める」
「ハハッ――」
 三九郎は慌てて地に額をすりつけた。
 一益は横目で忠三郎を見やる。
 その顔には、常ののほほんとした笑みが浮かんでいる。だが、その笑みの奥に潜む狡猾さを、一益は見逃さなかった。
(鶴め……すべて、上様の前で既成事実に仕立ておったか)
 信忠から偏諱へんきを受け、忠三郎の妹を妻に迎える。この若者は、もはやただの「三九郎」ではない。
(さすがあの快幹の孫か…)
 穏やかな物腰とは裏腹に、忠三郎は場の空気を読む鋭さとしたたかさを併せ持っていた。すべてを信長の前で既成事実として整え、一益には一言の相談もなかった。
 だが、それでよい。そうした胆力なくして、この乱世を生き抜けようはずもないのだから――。

 忠三郎と三九郎が下がり、広間には重臣たちが呼び集められて、戦さ評定が始まった。だが一益の胸の内には、なお先ほどの三九郎の姿が残っていた。
 信長の前で平伏していたあの若者が、本当に己の子か――今さらながら、不思議な感慨がこみ上げる。
「蒲生の子倅と共にいたのは、滝川家のお方か?」
 隣に座していた九鬼嘉隆が、ふいに声をかけてきた。
「わしの子じゃ」
 一益が短く答えると、嘉隆は「ほう」と目を細めた。
「なるほど。あの子倅の従者にしては、目が据わっておった。只者ではあるまいと思うたが……では、船にも乗せねばならぬな」
「おお、船か……」
 一益の脳裏に、戦の布陣がゆっくりと浮かび上がる。
 阿武船に積める兵はせいぜい八百。船に乗り切らぬ兵をどう動かすか。陸で指揮を取る者が必要だ。陸と海、両面から攻めるとなれば、意思の疎通が何よりも肝心。
(よい潮目かもしれぬ)
 北伊勢を手にし、家臣団は膨れ上がってきた。だが、その数に見合うだけの将がまだ足りない。
 三九郎が加われば――滝川家はもう一段、地歩を固めることができる。
(その前に、まず話さねばなるまい)
 屋敷に戻ったら、風花にこのことを打ち明けるつもりだった。予期せぬ形で持ち上がった婚儀の話もある。戦が始まる前に、きちんと向き合っておかねばならない――。

 信長の元を下がった忠三郎と三九郎は、控えの間に戻ってからも、しばらく二人であれこれと語り合っていた。
「忠三郎。父上に話す前からもう、あのような場で婚儀の話をはじめるとは、如何な了見じゃ」
 三九郎が困惑してそう言うと、忠三郎は常のくったくない笑顔を浮かべたまま、少しだけ首をかしげて見せた。
「義兄上が驚く顔が見とうて……いや、それは戯れじゃ。これは我が家にとって、またとない良縁。ちと強引だったが、あの場で話を通すのが一番よいと踏んだのじゃ」
 言葉とは裏腹に、どこか挑戦的な色を宿したその目に、三九郎は一瞬、違和感を覚える。
(油断ならぬやつ……)
 内心でそう驚いていると、また別の武将が声をかけてきた。
「忠三郎。お隣はどなたじゃ?」
 もう何人目になるのか、分からない。
「滝川左近が一子、三九郎でござりまする」
 三九郎がそう名乗ると、相手はハッと驚いた顔を見せ、すぐに態度を改めた。
「これはこれは、ご無礼仕りました。それがしは、上様の側近にて奉行を仰せつかっております堀久太郎でござりまする」
 精悍な面持ちの堀久太郎は深々と頭を下げると、そのまま広間へと姿を消した。
「滝川左近の名を出すだけで、こうも皆の態度が変わるとは…」
 三九郎があっけにとられてそう言うと、忠三郎は笑みを保ったまま、わずかに口元を歪めた。
「義兄上は織田家の重臣、何の不思議もない。それほどの身分ということ。譜代の連中にとっては、多少面白くないのかもしれぬが」
 忠三郎の目に、冷えた光が一瞬だけ宿った。
「慣れぬ、というか…どうにも落ち着かぬ」
 戸惑う三九郎に、忠三郎が笑ったとき、ふいに声がした。
「そこの若造、そちは誰じゃ!」
 勢いよく歩いてきた若者が、ずかずかと三九郎の前に来て、ドカリと無遠慮に腰を下ろす。後からついてきた、いかにも気苦労が絶えなさそうな男も黙って隣に座った。
(誰だ、この無作法者は…)
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「おぉ、忠三郎。聞け。わしは勘九郎様とともに、伊勢へ出陣することになったぞ!」
 声と態度は大きいが、どこか少年のような無邪気さもある。忠三郎は眉を上げて応じた。
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「めでたくなどないわ! わしが一番槍を取る。それもこの戦でな。戦場にわしの名が響き渡る日も近いわ!」
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 三九郎が驚きに目を見開くと、勝蔵も彼をまじまじと見つめ返してくる。
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 名乗ると、勝蔵の顔つきが一変した。家人らしき男が慌てて頭を下げる。
「これは、これは……ご無礼を。それがしは尾張の関武兵衛。こちら、美濃・兼山の森勝蔵でござりまする」
「三九郎も、伊勢が初陣となる。誰が一番手柄か、競うとしようぞ」
 忠三郎が襟を正し、苦笑まじりに言った。
「鈍三郎と競うだと? 片腹痛いわ。わしは誰にも負けぬ。よう覚えておけ!」
 勝蔵はそれだけ言い捨てると、鼻息荒く、襖を乱暴に開けて出て行った。
「あのような無礼者がおるのか…」
 三九郎が唖然として呟くと、忠三郎は肩をすくめ、いつもの笑顔を崩さずに言った。
「面妖というか、直情というか…。だが案ずるな、おぬしにあのような乱暴狼藉を働くことはあるまい」」
「それはわしが滝川左近の子だからか」
 三九郎の声に、皮肉が混じった。
 甲賀では、こうまで露骨な上下関係はなかった。各家がそれぞれに誇りを持ち、対等であろうとした。ここでの「身分」とは、まるで異なる秩序のように感じる。
「無論、それもあるが…」
 忠三郎は、ふっと目を細めて言った。
「侮られておるのは、わしの方じゃな」
 三九郎が思わず顔を上げる。忠三郎は、なおも笑顔を崩さぬまま続けた。
 蒲生家は外様。父・賢秀には目立った軍功がなく、小身の家柄。にもかかわらず、忠三郎は信長の娘婿という立場と、自身の戦場での功績によって軍議の上座に座る。
 ――それが、面白くないのだ。譜代の家柄で育った者たちには。
「勝蔵も、ああは言いながら、帰するところははそれじゃ。わしが上座に座ることが、腹に据えかねるのであろう」
 忠三郎の声には、どこか乾いた響きがあった。笑ってはいても、心中では燻るものがあるようだ。
「だからと言うて…」
 三九郎が言いかけると、忠三郎は手で制した。
「織田家では戦さ評定の席次は感状の数で決まる」
「感状?」
「戦場での一番槍、一番首、退き口を守る。目覚ましい働きには、上様から感状が与えられる。それが、次の戦の席次を決める。上座に座る者から、意見を述べるのが織田家の流儀よ」
 武功こそがすべて。家柄や血筋よりも、ただ戦で証を立てる。それが、信長の築いた「実力主義」だった。
「わしは、広間で声を張るよりも、戦さ場で槍を振るいたい。感状の数は、口先でどうにかできるものではない。借りは、戦さ場で返す」
 忠三郎が笑いながらそう言ったとき、その笑みの奥に、炎のような静かな闘志が見えた。
 ――この男は、飄々として見えるが、折れてはいない。譜代の者たちに囲まれても、退かぬ心を持っている。
 三九郎は、ようやく忠三郎という男の底知れなさに触れたような気がして、無言のまま、深く息をついた。

 岐阜城下、滝川屋敷――。
 初陣を間近に控え、滝川三九郎が元服の日を迎えた。
 烏帽子親を務めるのは義太夫だ。普段は軽口ばかりの男も、この時ばかりは真顔で烏帽子を手にし、三九郎の頭に載せる。三九郎は静かに背筋を伸ばし、正面を見据えた。
「滝川三九郎一忠、これにて元服致す。傅役は津田秀重、以後、何事あらば秀重に尋ねよ。秀重、頼んだぞ」
 秀重がハッと短く返事をする。
「三九郎様、初陣となれば惑うことも多いかと存じまする。どうか遠慮なく、我らにお尋ねくだされ」
 そう言われた三九郎は、早速、口を開いた。
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「そのかわり、重すぎて、最初は馬にもまともに乗れなかったとか」
「されど、今では鍛えに鍛えて、その鎧を着たまま走り回っておる。鶴殿の執念とでも申しましょうか」
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「しかも、あの者らしいというか、上下真っ黒で――」
 と義太夫が口を挟む。
「黒漆塗りの甲冑に、金箔の飾りがいたるところにあしらわれておる。遠目にもあれが蒲生忠三郎とわかる。つまりは……」
「ますます鉄砲の良い的、というわけか」
 一斉にどっと笑いが起こった。
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 義太夫はにっこりと笑い、三九郎に目配せした。
「三九郎様の甲冑を鶴に誂えさせる折、わしの腹巻きも――ついでに一つ、洒落たものを頼んでおきましょうかの」
 と、真面目くさった顔で言った。
 広間の空気がゆるみ、笑いが静かに広がった。三九郎が苦笑いを返すと、義太夫はしてやったりと鼻を鳴らした。
 笑いのあと、潮鳴りだけが残った。
 それは喜びにも嘆きにも似て、夜の底を渡っていった。
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