滝川家の人びと

卯花月影

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5 狂せる者

5-2 狂せる者

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 天正二年六月。
 織田領の隅々にまで密使が駆け、伊勢長島一揆討伐の命が下った。
 七月十三日、津島には美濃・尾張の諸将が続々と集まり、旗は野を埋め、総勢七万の大軍となった。
 先陣を務めるのは織田勘九郎の二万。織田家の後継ぎの若武者が馬を進めると、兵の鬨の声が響き、一揆勢との戦は瞬く間に始まった。
 翌十四日には、信長自らが小木江に入り、周囲の一揆衆を蹴散らしつつ長島へ迫る。
 この戦は、信長の弟・彦七郎の弔い合戦――織田一門はこぞって参陣していた。
 蒲生忠三郎は柴田権六の旗下に属し、香取口より進んで長島の目前に陣を敷く。
 旗幟の波が視界を埋め尽くす中、遠く川向こうに広がる長島を見やり、忠三郎は深く息を吐いた。
(この大軍は、勝利を約束されたものなのか。いや、数が多ければ勝つとは限らぬ……)
 民の嘆きと怒りが積もり、幾重もの柵に守られた長島。その堅牢さを前に、忠三郎の胸中にはかすかなざわめきが広がっていた。
 だが表情は崩さず、冷ややかな目で戦場を見渡す。

(この旗の下に、いかほどの血が流れるのか。わしもまた、その流れの一滴に過ぎぬのだろうか……)
 その目に映るは常ならぬ光景だった。
 川の対岸にうごめく黒き群れ。兵にしては秩序なく、領民にしては荒ぶりすぎている。
 白装束の女が歩み、僧形の男が鉄砲を構え、幼子すら杭を抱えて走っていた。
「あれが……敵か」
 思わず口を衝いて出た言葉は、自分でも気づかぬほどかすかだった。
「狂っておる……」
 自らの声が、ひどくかすれて響いた。
 これまでの戦には理があり、敵にも武士の形があった。
 だが今、長島に籠る者らにはそれがない。彼らは「生きるために戦う」のではなく、「死ぬために戦う」ように見えた。
 うなじを冷たい汗が伝う。
(よい。ならば、我らも命を賭して応じるまで。名を挙げる機会は、ここにある)
 忠三郎は馬のたてがみに手をやり、静かに呼吸を整えた。背後には数千の近江勢が旗を揺らしている。目の前の大川を越えれば、いよいよ地獄が始まる。
「長門、見よ」
 忠三郎が指さす先、大川を跨ぐ小さな浅瀬が見えている。
「あれが松之木の渡りじゃ。船を要さず、馬で渡れる絶好の道よ」
 助太郎が険しい顔をする。
「されど、あそこは砦の真正面。火を浴びるは必定にござる」
「ならばなお好機!」
 忠三郎の唇に笑みが浮かんだ。
「尾張から来る勝蔵どもは船を探しておる。我らが先んじて松之木砦を落とせば――『忠三郎ここにあり』と名が立つ!」
「お待ちを!」
 助太郎が声を荒げる。
「此度の戦はこれまでとは違う。根来・雑賀の鉄砲衆が加わり、大量の鉄砲を手にしておると殿も仰せでした!」
 町野左近も口を添える。
「今度ばかりは、ただの撹乱では済みませぬ」
 だが忠三郎は常の笑顔を見せる。
「おぬしら、怖気づいたか」
「いえ、そうではなく……」
「ならば、このわしが行く!」
 馬の腹を蹴ると同時に、声を張り上げた。
「――皆、我に続け!」
 その叫びが終わるより早く、忠三郎の馬は松之木の渡りへ駆け出していた。
 砦の方角から、一斉に火花が散った。
 轟音、火煙、――叫び声。
 川面はたちまち赤黒く染まり、血の匂いが風に混じって鼻を突く。
 そのさなか、助太郎が馬を寄せ、低く呟いた。
「……古くより、この渡りは『血の渡り』と呼ばれておるとか」
「何?」
 忠三郎が振り向くと、助太郎は苦々しい顔をして続ける。
「戦さのたびごとに、この川が人の血で赤く染まるゆえ、地の者どもがそう申しておりました。不吉なしるしでござります」
 荒唐無稽な噂――そう笑い飛ばすこともできた。だが、眼前の光景が、その伝承を現実へと変えていた。
 血に染まる川を見て、忠三郎の胸に一瞬だけ寒気が走る。
 しかし、すぐさま馬の腹を蹴り、声を張り上げた。
「――蒲生忠三郎、長島一番乗り!」
 だが、その声すらも、念仏と断末魔が入り混じる狂気の渦に呑まれていく。
 念仏に火縄のかすかな燃焼音がかぶさった。
 助太郎が背後から必死に声を張り上げる。
「忠三郎様、危のうござりまする! 皆が揃うまでお待ちを!」
 忠三郎は振り返り、血で濡れた顔に笑みを張りつけた。
「大将が後ろに構えて、誰が命を捨てようか! 大将が前におればこそ、兵はついてくるのじゃ!」
 その目には、もはや常の烈しさを超えた、どこか危うい光が宿っていた。
「敵が狂うなら――」
「……!」
 助太郎は息を呑み、返す言葉を失う。
 忠三郎は血の渡しを睨みつけ、声を張り上げた。
「狂気には――狂気で応ずる!」
 その叫びは、戦場にこだまする念仏と断末魔の中に響き渡り、伝承が今、目の前で再び繰り返されるかのようであった。
 
 一方、滝川一益は、大湊で密かに建造していた大型の阿武船に大砲を取りつけ、大湊から長島目指して大川を北上している。
 その姿は、戦国の世に忽然と現れた城砦のよう。水の上を滑る巨塔である。
 長島が遠望できる辺りで、先行していた九鬼嘉隆の阿武船と合流し、二手に分かれる。
 一益は手前の大島城を砲撃、九鬼は尾張側の殿名砦を攻める段取りだ。
 とはいえ、阿武船はあまりに巨大。小回りが利かず、進軍は遅い。
 このため、すでに蟹江・荒子・熱田・桑名・白子・大湊など各地から、小早船や関船といった機動力の高い舟が数百艘、川を埋め尽くして集結していた。
 ざっと六百――水上の軍団である。
 この艦隊が川を封鎖し、本願寺からの兵糧・武器弾薬の補給を断つというわけだ。
「まこと阿武船の天主は見晴らしがようござりますなぁ」
 佐治新介が四方を見渡して感嘆する。
「新介、よう見ておれ」
 一益は風を受ける帆の先を見据えながら言った。
「名乗り合い、槍を交える源平の戦は、古き戦。これからの戦は、遠くから大砲・鉄砲を放ち、敵の戦意を削ぎ、抗う力を奪う戦となるのじゃ」
 追い風に乗った阿武船は、百人の漕ぎ手を率いて川面を静かに滑る。
 その動きは緩やかでありながら、確実に死を運んでくる威容があった。
「殿。ここにおられましたか」
 甲板の後方から義太夫と津田秀重が現れた。後ろに続いてきたのは、煌びやかな甲冑に身を包んだ三九郎である。
 胸板には金の装飾。織田家の若武者にも見劣りしないその姿に、一益の口元が自然とほころぶ。
 義太夫は内心ひやりとした様子で、
「いやぁ……鶴めが気を利かせすぎまして、このような装いに……加減というものを知らず…」
 と弁明しかけるが、
「義太夫、大儀であった」
 一益の口から返ってきたのは、意外な労いの言葉だった。
「ハッ。思わぬお褒めのことばにて」
 一益は、何も言わず三九郎の目を見つめる。
「三九郎。よう見ておけ。いずれはそなたにも水軍を預けねばならぬ。目に焼き付けておけ。これが、これからの戦さじゃ」
「ハッ」
 三九郎が堅い表情で答える。だがその顔には、やや不満もにじんでいた。
「しかし……」
 何か言いたげに一益を見る三九郎に、義太夫と秀重も顔を向ける。
「このまま船にいては、我らは槍働きができぬのでは…」
 一益は思わず微笑んだ。
(やはり、あれの影響か。鶴め……)
「そなたも陸に上がって名をあげたいか?」
「無論。それがしも武士でござりまする」
 一益は頷き、地図を広げて三九郎に示した。
「よいか。我らはまず、この大島城を砲撃する。船上から大筒を撃ち込めば、一揆勢は恐れをなし、長島へ退くであろう。さほど手間はかからぬ。落ちればそのまま北へ進軍、対岸の大鳥居へ向かう」
 指先が地図上の拠点をなぞる。
「ここだ。大鳥居城の前で船を下ろす。陸にいる我が家の篠岡平右衛門、道家彦八郎と合流し、城を落とせ。――その時こそ、そなたの出番となろう」
「ハハッ!」
 三九郎は晴れやかな顔で去っていった。背筋は伸び、甲冑の背板が陽に光っていた。
 その背中を見送りながら、義太夫が苦々しく呟く。
「……鶴のせいで、三九郎様まであのように」
「若いのは良いこと。功を焦る気持ちも分からぬではない。されど、いささか危うい」
 その声に、かすかに憂いを含んだ苦味が漂う。
「皆で守り支えてくれ。道家・篠岡の両名がおれば、大事にはならぬだろう」
 水面を裂きながら進む阿武船。
 新たな戦の時代は、すでに始まっていた。
 
 やがて、船団は大島城の射程圏へと入った。
 先陣を切る九鬼嘉隆の阿武船から、大筒が轟音とともに火を噴いた。それを皮切りに、城と船のあいだで激しい銃撃戦が始まる。
 これまで耳にしたこともない大筒の炸裂音に、一揆勢はたじろいだ。轟く音に耳をふさぎ、砕ける土塁の衝撃に目を見張り、ついには武器を放り出して、次々と長島城へ退いていった。
 その様子を見届けた九鬼嘉隆は、尾張からの援軍を渡すべく、大島城の右手へと船を転じる。
 一方の一益は、左手をまわり、大鳥居城を目指して進撃を続ける。
 やがて大鳥居に近づくと、小舟を出し、三九郎らを陸へと送り出す。続いて、阿武船の大筒が次々と火を噴いた。轟音とともに砲弾が飛び交い、城壁は崩れ、土塁が穿たれ、鉄砲の弾幕が敵兵の頭上をなぞるように降り注ぐ。
 海上の退路はたちまち封鎖され、陸では柴田・伊勢衆の軍勢が城を包囲し、兵糧攻めへと持ち込んだ。
 ひとまず戦況が落ち着いたのを見届けると、一益は静かに甲冑の緒を締め直し、重々しい足取りで船を降り、柴田権六の陣へ向かった。
 香取口から南下してきた佐久間信盛、稲葉貞通、蜂谷頼隆らが合流し、やがて軍議が開かれる。
 帷幕の中は、戦塵がまだ抜けきらぬような、ざらついた空気が満ちていた。
「大鳥居、あと何日もつかのう」
「城中には女子供も混じっておると聞く。せいぜい五日ももたぬであろう」
「ならば兵糧攻めで干し殺しよ。それが手っ取り早い」
 笑い混じりの声も聞こえる。戦の常道を語るだけで、誰もその先を案じてはいない。
 一益は静かに口を開いた。
「一つ、お願いしたき義がござる」
 軍議の空気がわずかに緊張する。
「兵に乱妨取りを禁じていただきたい」
 再び、空気が揺らぐ。
 乱妨取り――戦場での略奪、人をさらい、売り払うことすら常とされてきた習わし。兵糧を賄えぬ足軽は乱取りを糧とし、大名によってはこれを褒美のごとく黙認することもあった。だが、一度それが始まれば村々は焼け、人は売られ、地は人影が絶える。戦さは勝っても、国が滅ぶ。
 織田家では都や岐阜周辺では厳しく禁じられていたが、それはあくまで信長が上洛する行程のみの話だ。
「この地で、これだけの大軍が乱妨取りに及べば、長島から人の影が消えてしまう」
 一益の言葉に、諸将の顔が一斉に曇った。乱妨取りは戦場では当たり前の所作。それを禁じよとは、場違いな訴えに等しかった。
「左近殿、何を申される。戦の後の褒美もまた兵を養う策ぞ」
 佐久間信盛が苦笑し、他の者たちも失笑した。一益は諸将の顔を見渡し、静かに言葉を重ねた。
「皆々はこの地を治めるお立場にはあらぬゆえ、思うは勝手。しかし我は違う。戦が終われば、この地を預かり、民を取り戻さねばならぬ。ここで民を根絶やしにすれば、田畑も、船も、人の営みも、何一つ残らぬ」
 その言葉に誰も返さなかった。返すまでもなく、諸将の胸中には――「それは滝川一益の都合」という冷ややかな思いがある。
 やがて柴田権六が短く言った。
「上様も長島では躊躇無用と仰せじゃ。なにをしても構わぬと」
(躊躇無用──)
 その一言が、すべてを物語っていた。
 女も、子も、年寄りも──生き残る価値なしと決めた、無慈悲な殲滅戦。
 それが、一向一揆との戦い方だ。
 信長は「火を持ちて火を制す」と公言していた。信仰という炎には、より大きな火で焼き尽くすしかない──。
 この戦さは、敵の心を折るものではない。敵の「存在そのもの」を消す戦だ。
 軍議が静かに終わる。誰も一益の言葉に賛同はしなかった。

 一益は本陣を離れ、宙を仰いだ。
 雲は黒く、潮の匂いに血の気が混じっていた。大地はまだ、人の死を飲み干しきれていない。
(門徒は根切り。領民は乱取り……そして、我らは…)
 遠く、大鳥居の方角から、また念仏が聞こえてきた。それは祈りではなく、狂気と絶望の咆哮だった。
 風が頬を打ち、一益の心を現実へと引き戻す。
 やがて馬を返すと、陣の方角から足音が近づいてきた。
 忠三郎と三九郎だ。
「義兄上、大筒の威力をこの目でしかとみましたぞ」
 忠三郎は笑みを浮かべていたが、どこか心ここにあらずといった声色だった。 戦の熱が、どこか抜け落ちている。
「如何いたした。長島一番乗りを果たして、もっと意気揚々としているかと思うていたが」
 一益が問いかけると、忠三郎はう~んと唸って、苦笑いを浮かべた。
「我らも共におりましたが、忠三郎が敵の首を捕って上様の元へはせ参じたところ、上様はそれを全くご覧にならず、そればかりか、忠三郎をお叱りになりました」
「なんと仰せじゃった?」
「端武者のような真似をするなと」
 当然だろう。一益の胸中にも、思わず同じ言葉が響いた。
「されど、その後に現れた森勝蔵が敵の首を二十以上も持ってきたときには、上様は大変喜ばれ、武勇を称えておられた」
 忠三郎は唇を噛み、不満げに目を伏せた。
「それはのう、鶴。そなたが娘婿じゃから…」
 後ろから現れた義太夫が、そう言うと、
「そうであろうか」
「わからぬのか。賢いと思うておったが、まこと異なことを申すのう」
 義太夫は肩をすくめ、やれやれと呆れたように笑った。
 忠三郎はなおも納得のいかぬ様子で、不満をこぼし続ける。その横顔を見やりながら、一益は胸の内で思った。
(いずれ鶴ならば気づこう。上様の、真に案じるゆえの叱声であると)
 その時が来るまで、余計な言葉を添える必要はない――忠三郎ならば、いずれ自ら悟るはず。
 だが今はまだ、若いが故に危うい。
「そなたは分かっておるか?上様の仰せの意味が」
「ハッ。それは、分からぬわけがございませぬ。助太郎は、敵より忠三郎を追うほうに骨が折れると申しておりました」
「ではな。彼奴原は懲りずにまた一人で飛び出していくであろう。危なくなったら鳥の子を大量に投げて合図せい」
 三九郎が頭を下げるのを見届けて、一益は黙って船へ向かう。
 義太夫が慌てて追いついてきて馬を寄せてきた。
「殿。先ほどの軍議にて、いささかお気を悪くされたのでは」
「いや。予想はしていた」
 一益は静かに言い、遠くに浮かぶ長島の城を見やる。
「皆、それぞれの戦をしておる。名乗りを上げ、褒美を得、それでよいという戦を」
 義太夫はしばし黙り、やがて思い切って問いかけた。
「では、殿にとってこの戦は……何でござりまするか?」
 その言葉に、一益は一度深く息を吐き、ぽつりと呟いた。
「鶏を割くに牛刀を用うべからず、というが――」
「孔子でござりますな」
「――されど牛を割くにも鶏の血を踏まずには済まぬ」
 一益の声が潮風に溶けるように低く沈む。
「本来ならば、長島攻めごときに七万の大軍や大筒は要らぬ。されど宗門の炎を消すには、この牛刀をもってせねばならぬ。その途上で、無辜の民をも巻き添えにせざるを得ぬ……理に合わぬようでいて、それが戦の理よ」
 義太夫は言葉を失ったまま、一益の横顔を見つめる。
「長島はこれで終わらぬ。討ち滅ぼしたのちの領国統治こそ、何よりも難しい。民は戻らねばならぬ。水も、稲も、船も、人の声も……」
 一益の声に、憂いが滲む。しかしそれも一瞬のことで、その響きは静かに消えて、もとの冷静さを取り戻す。
「だからこそ、民の血を無用に流してはならぬ。戦は荒ぶるもの、されど、政《まつりごと》を司る者は、時に石の如くあるべし」
「……石の如く…」
「情を抱きながら、情を切る。それが、治める者の務めよ」
 義太夫は小さく頷いた。冷徹さの奥に潜む苦みと覚悟――その重さを、黙して受け止めるしかなかった。

 ☆☆☆

 長島一向一揆との戦は、すでに夏の盛りを迎えていた。
 包囲の輪は狭まり、各城の兵の顔にも疲弊の色が濃く刻まれている。川面を渡る湿った風は、陣に積まれた火薬の匂いを鼻を突き、じっとりと肌にまとわりつく。
 阿武船の天守台に、義太夫と佐治新介の姿があった。
「飯炊きの煙が上がらなくなって、もう幾日も経つのう」
 義太夫が腕を組み、重苦しい空を仰ぐ。
「そればかりか、馬のいななきも聞こえぬ」
 新介が低く応じ、鋭い目を城内へ注いだ。
「おお、耳は相変わらず達者じゃのう。甲賀にいた折は、鶏泥棒の足音すら聞き分けた新介じゃ」
 義太夫が笑い混じりにからかう。
 だが新介は鼻で笑っただけで、再び目を細めて城を見据えた。そこには馬影もなく、櫓をうろつく兵はやつれ、今にも崩れ落ちそうに見えた。
「杖をついて歩く者が見える」
「……孫子の『行軍篇』にもある。杖つきて立つは餓うるなり。飢えが城中を覆っておる証よ」
 義太夫は軽く笑いながらも、瞳の奥は真剣だった。
「まあ、これは殿の受け売りじゃがな」
 一益がここにいれば、きっと同じことを見抜いているだろう。

 八月に入ると、大鳥居城から餓死者が出ていると判明した。
「腹減らして死ぬなんざ、わしはごめんじゃ。そろそろ詫びを入れてくる頃ではないか?」
 義太夫が吐き出すように言う。
「詫びを入れられるほど、気力が残っていればのよいがのう」
 新介の棘ある返しに、義太夫は「相変わらずじゃのう」と苦笑した。
 ほどなく、城を守る水谷与三兵衛から使いが来て、降伏を願い出てきた。
「水谷一人が腹を切るゆえ、城の者どもを許してほしい――とのことにございまする」
 香取口の総大将、柴田権六は信長に使いを送り、指示を待った。
 間もなく戻った使者が告げたのは、容赦なき言葉であった。
「降伏など許さぬ。全員、干し殺しにせよとの仰せでござりました」
 その知らせは水軍にももたらされた。
「干し殺し――か」
 義太夫が低く呟く。
 戦国の常にあっても、これは苛烈きわまりない仕置きである。
 人を討ち取るのではなく、兵糧を断って飢え死にさせる。声も涙も枯れ果て、最後には屍と化す。
「彦七郎殿の弔い合戦ゆえ、さもあらん」
 新介は唇の端をわずかに歪めた。
 やがて陣中には、大鳥居城で死者の骸を喰らう者が出ている――との噂まで流れ始めた。
「人の肉を食うほどの飢えか……」
 義太夫が顔をしかめ、声を低くする。
「妖怪《もののけ》も化け狐も、わしは苦手じゃが……こればかりはそのどれよりも恐ろしい」
 新介は即座に鼻で笑い、
「比べ方が間違うておる。これは妖怪ではなく、人の絶望が生んだ現実よ」
 と冷ややかに言い捨てた。
 風が湿り気を帯びて陣に流れ込み、城内からはなおも呻き声や念仏が混じりあって響いてくる。
「干し殺しにするにしても、数日後には落城となろう」
 義太夫が言った。
 寄せ手の陣には、誰しもが勝敗は既に決したと知りながら、ただ待つしかない苛立ちが漂っていた。重く垂れ込める雲は、さながら時を押しとどめるかのように低く、湿った風は火薬と血の匂いを運んでくる。
 その夜、雨風が強まり、明日は大筒が使えないかもしれないと思っていると、大鳥居から突如、鬨の声が響いた。
「義太夫。あれは?」
「この雨にまぎれて大鳥居から逃げた者たちを寄せ手が追っておるようじゃ」
「餓えて死ぬより戦って死ぬか」
 新介の声は冷ややかだった。
 その夜、千人が討ち取られ、大鳥居城はついに落城した。寄せ手は討ち取った者の耳と鼻を削ぎ、小舟に積み込み、長島へ送った。
「あれは、弔いをせいと、上様はそう仰せなのであろうか」
 義太夫が眉を寄せると、新介は即座に言い捨てた。
「そんな殊勝な話ではない。ただの見せしめじゃ」
 そんなところだろう。長島に籠る門徒たち、そしてその先の大坂本願寺への恫喝に等しい。

 翌朝、九鬼嘉隆と相談の上、滝川勢は屋長島砦へ向かうこととなった。
「三九郎様には大変な初陣になってしもうた」
 義太夫がため息まじりに漏らす。
 しかし、新介は視線を逸らすことなく、吐き捨てるように言った。
「女子供をなで斬りにしても、武名は上がらぬ」
 その声音には、一益への忠誠と同時に、冷徹に命を遂行する主への複雑な思いがにじむ。命令には従う。しかし心の奥底には、抗えぬわだかまりが芽吹いていた。
「長島も屋長島も、まだまだ時間がかかろう」
 義太夫が声をひそめて呟く。
 城には兵糧が多く備わっているはずで、結局は大筒を撃ち込み、小競り合いを繰り返し、飢えに屈するのを待つしかない――。

 九月に入ると、長島の状況は悪化していった。一揆勢は敗北濃厚となり、何度か和睦の使者が信長本陣を訪れている。長期戦はもはや、兵たちの士気にも悪影響を与え始めていた。戦さが長引くことで、命令の伝達も滞り、近隣の村々に乱暴狼藉が頻発していた。三ヶ月の間、昼夜を問わず砦から聞こえてくる念仏が、兵のこころをじわじわと蝕んでいる。
「腹が減っては兵も荒れる、とは申すが……この乱れよう、さすがに見過ごせませぬな」
 義太夫が苦々しく漏らす。
 新介は視線を鋭く砦へ向け、短く言った。
「念仏に怯え、酒に逃げ、女を攫う。――戦の名を借りた乱れよ」
 一益は二人のやり取りに口を挟まず、ただ黙して城の方を見つめ続ける。
やがて低く言葉を落とした。
「……兵もまた人。長き戦は、人の心を削る」
 その静かな声に、義太夫は口をつぐみ、新介も言葉を飲み込んだ。
 重苦しい空気の中で、一益はふと、若い二人――忠三郎と三九郎の顔を思い浮かべた。長きにわたる膠着戦に、さぞ退屈し、また焦燥を募らせていることだろう。
「殿、陸のお味方から知らせが入り、三九郎様が何か案じておられるとのことで」
 屋長島包囲に加わっている道家彦八郎からの報せであった。
「はて……鶴がまた何かしたか」
 一益は眉をひそめ、しばし考えたのち、若い二人を船に迎え入れることにした。せめて気を紛らわせ、心を整える機会を与える必要がある。
「おぉ、鶴。よいところに参ったな。飯の支度ができたところじゃ」
「義太夫はわしの顔をみると飯と言うのう」
 忠三郎が少し笑いながら言う。それは一益の指示でもあったが、義太夫は無頓着に返す。
「おぬしは我が家に飯を食いにきておるのじゃろう?」
「飯の支度は義太夫か?」
 忠三郎が困ったなという顔をする。義太夫の味付けが口にあわないようだ。
「何を申す。わしとていつまでも飯炊きをしているわけではない。今日は滝川藤九郎じゃ」
「藤九郎では、義太夫と変わらぬわ」
「おぬしは何を食べてもうまいというではないか」
 義太夫と忠三郎が賑やかに奥へ消えていくと、一益は三九郎に近づき、声を潜めて問いかけた。
「何があった?」
「あの夜、雨の中、逃げる敵を追っていたため、それがしも助太郎も忠三郎の傍を離れており申した。気づくと、妙な様子で、訳を聞いても煙に巻くばかりにて…」
 言葉の端にわずかな逡巡が混じる。簡単には言えぬ事情があるのだろう。
「町野左近は何か存じておろう」
「それが、町野殿にもわからぬと…」
 忠三郎について歩いている町野左近は、ああ見えて意外に口が堅い。
 一益は小さく息を吐き、(木全彦一郎に探らせるか)と心に留めた。

 やがて、奥から笑い声が漏れてきた。どうやら腹も満ちたらしく、忠三郎が満足そうな笑顔をたたえて現れる。
「義兄上、長島から知らせは?」
「届いておる。もう餓えて死ぬものがでておるようじゃ。直に落城となろう」
「天守からなら長島城もよう見えますぞ。三九郎様も鶴もこちらへ」
 義太夫が胸を張るように言い、二人を天守へ案内した。
 そこへ長島城の寄せ手から使者が来た。
「長島城に籠る下間頼旦がついに音を上げて降伏を申し入れて参りました」
「…で、上様はなんと?」
「降伏を受け入れると。明日、城明け渡しとなりましょう」
 居並ぶ者からどよめきが起こる。
「ついに長島が落ちるか」
 残すところは目の前の屋長島と中江のふたつの砦を残すのみ。こちらももう兵糧が尽きているのは見て取れる。降伏してくるのは時間の問題だ。
「殿。ついにやりましたな」
 義太夫が感慨深げにそう言う。一益もうむと頷いた。
「小木江と桑名を奪われてから、早四年か」
 あれ以来、戦さ続きで休まる暇もなかった。
 織田彦七郎の討死から始まり、二度にわたる長島攻めの失敗、北勢四十八家との戦い、桑名奪還、甲賀攻め、そしてようやく長島攻略にたどり着いた。
「長うござりましたな」
 佐治新介も感慨深げだ。
「義兄上、祝着至極に存じまする」
 忠三郎も常の笑顔でそう言った。だがその笑みは、どこか張りついた面のようで、疲労か、それとも別の思いを押し隠しているかのように見えた。
 一益は横目でそれを見たが、何も言わなかった。いずれ自ら吐き出す時が来る――そう考えて、ただ黙って頷いた。
「いや、まだ戦さは終わっておらぬ。この屋長島と中江を終わらせねばな」
 あと数日というところだろう。
 この日は早めに軍議を終わらせ、武将たちを休ませた。
 
 翌日、長島から次々と知らせが届いた。
「ご注進!織田大隅守様、華々しく御最期を遂げられ候!」
「何、大隅殿?それは一体、何が…」
 織田大隅守は信長の兄、織田信広のことだ。勘九郎信忠の軍とともに長島城攻撃に加わっていた。
「長島は今日、城明け渡しとなるはず…」
 居並ぶ者たちがその場で戸惑い、状況をつかみきれずにいると、
「織田孫十郎様、敵陣深く斬り入り、討死なされ候!」
 また使者が現れ、そう告げる。
「何かあったな。義太夫、急ぎ調べよ」
「ハッ!」
 義太夫が滝川助九郎や山村一朗太を伴って姿を消す。
(降伏と見せかけて、討ってでてきたか)
 義太夫たちが戻るのを待つ間にも、次々に報告が入る。
「織田半左衛門様、勇戦のうちにお討死にござりまする」
「織田又八郎様、これも華々しく討死にあそばされました!」」
 一益は眉をひそめ、沈黙のうちに思案をめぐらす。
(なにゆえ、かくも連枝衆ばかりが……)
 その謎は、義太夫たちが血相を変えて戻ってきて分かった。
「長島は、ただいま地獄と化しておりまする!」
 声はわずかに震え、普段の軽口は影もない。
「何が起きた?」
 一益の問いに、義太夫は大きく息を吸い込み、言葉を選びながら吐き出した。
「城を明け渡した一揆ども、渡し場にて船に乗ろうとした折……我が方が三千挺の鉄砲を浴びせかけ、生き残った者らを容赦なく斬り伏せたとのことにて」
 居並ぶ者の顔が強張る。
「だまし討ちを恐れておった一揆衆、衣を脱ぎ捨て、裸身のまま刀を振りかざし、狂気のごとく斬りかかって参りました」
 義太夫の額から汗が流れ落ちる。
「その勢い、ただならず。憎しみの矛先は織田の旗へとまっしぐら。酒宴のさなかで油断しておった連枝衆の陣は瞬く間に破られ、次々に討ち取られていったのでござりまする!」
 義太夫の声は震え、血の気が引いていた。
 三九郎は信じられぬといった目で義太夫を見つめ、口を開こうとしても声が出なかった。若き胸に突きつけられた現実はあまりに重く、言葉を失わせた。
 戦場では油断が命取り――誰もが承知していることだった。だが「降伏」と聞かされれば、刃を収めてしまうのもまた人の常。そこを突かれたのだ。
 一益は目を細め、黙然と天を仰いだ。
(……これが長島か。これが、信に狂せる者どもの執念か)
 義太夫がかすれ声で続ける。
「されどお味方は決死の覚悟で一揆勢を返り討ちにし、長島の前を流れる川は、おびただしい血で真っ赤に染まっておりまする」
 その惨劇で、織田連枝衆は十人以上が討死、織田勢は千人あまりを失った。
「上様は大変なお怒りにて」
「……さもあらん」
 一益の低い声が帷幕に落ちた。前代未聞の惨劇――。

 『武者は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候』。
 かつて越前一乗谷の朝倉宗滴がそう語った。勝つためには騙し討ちもまた一つの術。
 だが、すでに勝敗は定していた。それをなお欺き、開城を迫ったがゆえに、この無益な犠牲が広がったのだ。

 翌日、信長本陣からの使者が訪れた。知らせを受けると、一益は津田小平次以外の家臣を遠ざけ、ひとり口上に耳を傾けた。
 静まり返った帷幕の中で、信長の命が伝えられる。
 すべてを聞き終えると、一益は無言のまま甲板に出た。川面を渡る風が重く、遠く屋長島から絶え間なく響いてくる念仏の声は、もはや祈りではなく、飢えと絶望の呻きのように聞こえた。
 眼前には餓死者の屍が折り重なり、地も水も人の苦しみを吸い込んで沈黙している。
「殿、上様からは……いかなるお達しで?」
 義太夫が恐る恐る問い、佐治新介もその横顔をうかがう。
 一益はすぐには答えず、代わりに低く問いかけた。
「義太夫、屋長島と中江には、なおいかほど籠っておる」
「およそ……一万ずつにござりましょう」
「ふたつ合わせて二万か」
 一益は遠くを見やり、しばし黙考した。兵糧攻めの果て、各砦から逃げた者がここに集まり、数は膨れ上がっている。だが今やその二万は、力を振るう兵ではなく、餓えに蝕まれた影に過ぎない。
「もはや気力なき者ども。恐るるには足りませぬ」
 佐治新介の言葉に、一益は小さく頷いた。
 ふと脳裏をよぎるのは、三九郎と忠三郎の姿だ。まだ若いふたりに、この地獄をさらに背負わせることが果たして正しいのか。戦場の狂気は人を容易に獣へと変える。憎悪と報復が理を奪い、やがて民の命さえ軽んじるようになる――それを知るがゆえに、一益は二人を遠ざけねばと思った。
「義太夫、道家彦八郎に伝えよ。三九郎と鶴を船へ戻せ」
「は? は、はぁ……二人を船へ。委細、承知いたしました」
 義太夫は何かを感じ取ったのか、首をかしげつつも、急ぎその場を去っていった。
 
 小舟に乗り、屋長島に陣を構える道家彦八郎の元へと向かった義太夫。舟をつけた揖斐川ほとりから屋長島を囲む織田勢が見えた。
(大変な数じゃ……まるで蟻のごとく)
 その圧倒的な兵力に改めて息を呑む。
 足早に進むと、目の前におびただしい死体が積み重なっているのが見えた。船からの砲弾が命中したのか、躯が山のように重なり合い、その場の空気が重く濁っている。
(あれは農夫ではないか)
 衣のほころび、粗末な草鞋――戦う者ではなく、かつて田畑を耕していた村人であるとすぐに分かった。
 義太夫は思わずひざまずき、手を合わせた。合掌の指先に、死の冷気がまとわりつくような錯覚を覚える。
 立ち去ろうとしたその時、山積みの屍が微かに蠢いた。
(おや…)
 一瞬、背筋に冷たいものが走る。
(動く屍とは!恐ろしや…。これは気の迷いか、はたまた怨霊か、物の怪のしわざか)
 義太夫はその場に立ちすくんだ。だが、不安に駆られながらも、すぐにそれが気の迷いではないと気づく。そっと近づき、死体の山をよく観察してみると、槍で突き刺されている者や銃弾で撃たれている者の姿が目に入った。それは、船からの攻撃ではなく、陸の兵によるものだと分かった。
(手を合わせ、涙ながらに命ごいする者にも容赦ないというからのう)
 その無情さに、義太夫の胸が締め付けられる。息を呑んでじっと見つめていると、再び死体の山がわずかに動いた。
(ひぇぇぇぇ!こりゃ、目の錯覚でも気の迷いでもない!まことに動いたわい!)
 一瞬、血の気が引き、腰が抜けそうな程驚いたが、よく考えれば気の迷いでもなく、怨霊の仕業でもなく、この死体の山の下に生きた人間が隠れているのではないだろうかと気づいた。
(どうしたことか)
 義太夫は息を呑み、屍の山にそっと手を伸ばした。血に濡れた衣を一枚ずつ退けていくと、その下に小さな体が横たわっていた。
「……こりゃ」
 まだ十にも満たぬ子どもである。手足に浅い銃創を負い、顔は泥にまみれていたが、胸はわずかに上下していた。
 義太夫は思わず口を押さえ、しばし立ち尽くした。
(死者のふりをして……生き延びようとしておるのか)
 その幼い身体に宿る必死の生存への執念が、戦の理不尽さを突きつけてくる。
 義太夫はすぐに子を抱き上げ、雑木林の陰へ駆け込んだ。湿った草の上に寝かせ、袋から薬草を取り出して傷口に当てる。
「しっかりせい。命はまだ、そなたのものじゃ」
 囁きながら、竹筒を傾けて水を口に含ませる。
 子はかすかに目を開け、怯えきった視線で義太夫を見上げた。その瞳は何も言わずとも「生きたい」と訴えていた。
(かような童を殺めて、何の功名が立つものか……)
 義太夫は深く息を吐き、懐から兵糧丸を取り出すと、小さな手に握らせた。
「こいつはわしの特製じゃ。食うて養生せい。夜まで待てば逃げおおせるやもしれん」
 そして独り言のように呟いた。
「南へ向かい、日永・安国寺の然休天和尚を頼れ……滝川左近様の弟御じゃ。――わしの名は出すな。後で叱られる」
 義太夫はふぅと息を吐いた。
「さてと、わしも戻らねばの」
 草の上の童を一瞥し、船の方角へ歩き出す。

 途中でふと立ち止まった。
(おお、いかん。道家彦八郎殿へ伝言を……)
 思い出して足を返そうとしたが、すでに空は暮れかけ、揖斐川の水面も闇に沈もうとしていた。
「これでは船に戻れなくなる。やむをえぬ、まずは殿のもとへ戻り、明朝にいたすとしようかの」
 肩をすくめ、己を納得させるように呟くと、義太夫は船へと急いだ。
 子の目がわずかに潤み、義太夫の姿を追う。義太夫はそれ以上振り返らず、静かに林を後にした。
 
 同じころ、信長からの使者を迎えた柴田権六は、諸将を集めて軍議を開いている。
「屋長島を二重三重の柵で取り囲む…とは、つまりは、中にいるものの逃亡を阻止し、外部との接触を絶てと、斯様なことでありましょうな」
 忠三郎が冷静に言うと、柴田権六は無言でうなずいた。言葉が重く場を支配し、その場にいた者たちの顔には緊張が走った。
「…で、柵で取り囲んだあとは…」
 稲葉貞通が尋ねると、
「火をかけて、みな、焼き殺せと仰せじゃ」
 権六のことばに、場の空気は凍り付き、誰も何も言えなくなった。
 軍議が終わると、陸の滝川勢を取りまとめている一益の甥、道家彦八郎が青ざめて忠三郎に話しかけてきた。
「初陣の三九郎様には、いささか荷が重すぎましょう」
 忠三郎はいつもの穏やかな笑みを崩さず答える。
「されど…三九郎も上様の禄をはむ滝川家の者。時には重き荷を背負うも忠義のうち」
 道家彦八郎は少しじれたように、身を乗り出して言った。
「忠三郎殿。我が家の三九郎様は忠三郎殿や奉行衆とは異なりまする。かように非情な仕置きは三九郎様には早すぎる」
 奉行衆とは、信長の側近である堀久太郎や万見仙千代を指す。彼らは信長の命に従い、冷徹な手段をも厭わない者たちだ。家中でもその冷酷さを恐れられ、影で揶揄されることもしばしばであった。
(わしは、あの連中と同じに見られておるのか)
 胸の奥に、言葉にならぬ影がひとすじ、静かに沈んでいった。
 だが顔に浮かぶ笑みは揺るがず、声もまた穏やかに保たれる。
「然様か。それはわしの考えが足りなかった。そなたのいうこと尤もじゃ。柴田殿にはわしから申し上げておこう。三九郎を船に戻せ。もはやこれは戦さではない」
 道家彦八郎が息をつくのを横目に、忠三郎は静かに自陣へ戻った。
 町野左近を呼び寄せ、心を切り替えたかのように、淡々と指示を与えていった。

 翌日、屋長島砦と中江砦に火がかけられた。火の唸りが銃声を呑み、銃声が嘆きを裂く。
 炎は黒煙を噴き上げ、空を焦がし、悲鳴と断末魔が川風に乗って響いた。匂いは鼻を突き、肌にまとわりつく。まさしく地獄絵図そのものであった。
「この叫び声もさることながら、耐えがたき匂いにて……」
 義太夫が鼻と口を押さえ、船の中へ逃げ込む。船に戻された三九郎も顔を青くし、義太夫の後に続いた。やがて家臣らも次々と中へ駆け込み、甲板にはわずかな人影しか残らなかった。
 銃声が絶え間なく轟き、砦を穿つ弾丸の響きが空気を震わせる。
「不甲斐なき方々でござる」
 佐治新介が口の端を歪め、冷笑を洩らす。
 一益は無言でその横顔を見やり、再び燃え上がる砦に目を戻した。
 炎と叫びの渦、その中にある勝利を冷徹に見定めていた。
「まぁ、よい。もはや勝敗は喫している」
 新介の言葉に重なるように、炎の唸りが轟いた。

 夜が深まり、炎は衰えぬまま燃え続けていた。
 叫び声は途絶え、ただ不気味な火柱だけが闇を裂いて立ち上る。
 一益は船を降り、忠三郎の陣営へと足を運んだ。降り立った途端、臭気が一層濃くなり、風に乗って鼻を刺す。鼻を押さえて通り過ぎる兵の顔は皆、疲弊で青ざめていた。
 忠三郎はひとり、燃え盛る砦を見据えていた。
 一益が近づくと、わずかに目を上げ、気づいたことを示すように微笑む。
 その笑みの裏に潜むもの――若き覚悟か、言葉にせぬ迷いか。
 炎に照らされた横顔を見ながら、一益にはそれを判じることができなかった。
しばらく黙していたが、忠三郎がふと口を開いた。
「この戦ほど、女子供を斬ったことはなかった……」
 言葉のあとに落ちる静寂が、炎の音をいっそう際立たせた。
「義兄上はこれまでずっと、兵糧攻めを考えて敵を逃がしてこられたのじゃな」
 忠三郎の声には、悔いと問いかけとが混じっていた。
 一益は軽く頷き、静かに答えた。
「然様……川を埋め尽くすほどの船も、そのためのもの」
 兵糧攻めで息絶えるより、逃げれば生き延びられる――そういう余地を残してきた。
 だが今回は違う。最初から殲滅の戦。
「最初から、焼き殺すつもりで?」
 一益は短く息を吐いた。返す言葉を探す間にも、火の粉が夜空を舞う。
 信長からは幾度も「根切りせよ」と命じられてきた。その時点で、女も子も 老人も皆、首の数に数えられることは分かっていた。
 最初に考えたのは火攻めではなかった。だが――結末がそこに至ることは、初めから定まっていたのかもしれない。
 一益が黙っていると、忠三郎は思い悩んだ顔になる。
「世に従えば身苦し。従わねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき」
 方丈記の一節が胸に重く響く。従うも苦、逆らうも苦。心の安らぐところは、どこにもない。
「このようなことが平然とできることが、武士たるものでありましょうか」
 言葉は炎の中に投げ込まれ、渦を巻いて忠三郎の胸に返ってくる。
「このようなことが平然とできるのであれば、それはもはや人ではない」
 一益の声は静かだった。
「それはもはや犬畜生と同じになり下がったということじゃ」
 忠三郎ははっと顔を上げる。
「義兄上は、そのようにお考えであったか」
 微かに息をつき、苦笑が浮かぶ。
「わしが敬服する義兄上は、そういう方じゃと思うておりました」
 忠三郎の口元に苦笑が浮かんだ。それでもその笑顔の裏に、深い疲労と心の痛みが見え隠れしていた。
「鶴、三九郎が船に戻ったが…」
「道家殿に言われ、戻るようにと伝えました」
「彦八は何と言うた?」
 一益が忠三郎と三九郎の二人を船に戻せと知らせを送ったのに対し、戻って来たのは三九郎だけだった。忠三郎が船に戻ることを拒んだものと思っていたが、どうも違うらしい。
 忠三郎は少し迷ったように視線を外し、やや声を沈めて言った。
「いえ…ただ…三九郎には荷が重いと…」
「然様か」
 忠三郎の顔に浮かぶのは、言葉にできぬ重荷。それは肉体だけでなく、心の奥深くに沈むものだろう。荷が重いのは忠三郎も同じだったのではないだろうか。
(義太夫は彦八に伝えておらぬのか)
 あの日、義太夫の帰りは遅く、暗くなってから戻っても何も報告してこなかった。
(まさか、途中で油を売り、使者の役目を忘れて戻って来たのか)
 呆れたが、今更咎めても後の祭り。
「そなたはどうじゃ」
一益が問いかけると、忠三郎は常の笑顔で応じた。
「それがしは、家中で人ではない者、傀儡と言われており申す」
 飄々とした声音に、一瞬の翳りが差す。
「上様に従えば傀儡、従わねば狂せる者といわれる」
 笑みを浮かべながら吐き出されたその言葉は、胸の奥に澱のように沈む寂寞を、かすかに映し出していた。
「その傀儡が、僧を逃がしたか」
 一益の問いに、忠三郎はわずかに肩を揺らし、苦笑を浮かべた。
「早、存じておいでか……上様の目はごまかせても、義兄上の目はごまかせぬ」
 逃がしたのは、まだ幼い僧だった。侍女が泣きながら命乞いするのを、忠三郎はどうしても斬れなかった。
「……で、その僧を如何いたす所存か」
「家来をつけて日野に逃がしました。いずれ寺を建て、この戦で死んだ者の霊を弔ってもらおうかと」
 願証寺の復興。戦のただ中にありながら、その先を見据えている。
 一益はしばし忠三郎を見つめ、短く言った。
「大した奴よ」
 その声音には、嘲りとも賞めともつかぬ響きがある。信長の眼前で命を救うなど、常ならば愚行に過ぎない。だが忠三郎はそれをやり遂げた――恐れを知らぬ、いや、恐れをも呑み込んで進む若者らしい姿だった。
 一益がひとしきり笑うと、忠三郎は思わず目を見張った。
「咎められるかと思うておりました」
「いや、そなたは正しいことをした」
 驚きに目を見開く忠三郎に、一益は静かに続ける。
「槍働きばかりが、勇士の証ではない。いかに狂せる者と言われようとも、よいではないか。上様に背いてまで正しいことをしたいと、そう思うたのであれば」
「義兄上……」
「そなたが傀儡ではない証じゃ。胸を張れ」
 忠三郎はふいに目頭が熱くなり、顔を隠すようにうつむいた。
 一益は燃え残る砦を仰ぎ、ふと呟いた。
「冬は、雪をあはれぶ。積もり、消ゆるさま、罪障にたとえつべし……もうこの地にも冬が訪れつつある。わしもそなたに倣って、この地で死んでいった者たちの霊を弔わねばなるまい」

 砦は三日三晩燃え続け、ようやく炎が鎮まったとき、長島一帯には荒涼たる風景が広がっていた。
 炎に呑まれた命の痕跡は、白く乾いた骨となり、地を覆い尽くす。かつて三万を超える一向衆の声が響いた土地は、今や風の音と骨の軋みにのみ支配されていた。
 わずかに逃れた者も、乱取りの末に連れ去られ、跡には誰一人残らない。そこはまさしく、死者の国であった。
 一益は戦功によって長島城と尾張二郡、北伊勢五郡を賜った。だが信長の軍勢が去ったのち、一益に託されたのは人ひとりいない焦土だ。
(これで勝ちと呼べるのか)
 長きにわたる攻囲で兵も財も費え、田畑は灰と化した。次の収穫を待たずして飢えが訪れることは避けられない。
 一益は燃え残る大地を見渡し、胸に重く刻んだ。
 自らの手で焼き払い、斬り伏せた屍の上に、なお国を築かねばならない。遠く、干上がった川底の向こうで、なお念仏の名残が風に揉まれ、潮鳴りのようにくぐもった。
 炎の跡に立ち上るのは、勝利の凱歌ではなく、煙に溶けた無数の呻きであった。
 その呻きを抱きしめながら進むほかに道はなかった。
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