滝川家の人びと

卯花月影

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11 君に引く弓

11-2 川面に咲く花

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 荒木村重が逃げ込んだという尼崎城の近く。距離にして一里もない場所にたつ七松八幡。創始は寛仁年間というから、五百年以上前になる。河内源氏の祖である源相模守が松を植えたところから七松と名付けられたという。信忠はここに本陣を置き、尼崎城にいるであろう荒木村重を牽制している。
 その信忠本陣のすぐ目の前に開けた場所があり、義太夫と新介が視察に訪れていた。
「ここが刑場?」
 新介が辺りを見回して言うと、義太夫が頷き、
「然様。尼崎城におる摂津守への面当てじゃろう」
「並びきるかのう。磔の柱だけでも百本はあるわい」
 柱を持たせて連れてきた足軽たちを振り返って、義太夫もため息をつく。
「百はないはず。赤子は母に抱かせたまま柱にかけてよいとのことじゃ。遠目にもよう見えるように、一列に並べろと」
 新介があぁ、と頷き、手をあげ、足軽たちに柱を置かせる。
「あとの五百名は如何いたす?」
「あれなる百姓の家に捕り込めるか」
 義太夫が目の前にある家屋を見ていう。
「あの家か。いやいや五百人も入らぬわ」
「では、あちら二軒と、こちらの家も使おう。家の者に話し、金を渡して立ち退かせよ、との仰せじゃ」
 家の者にとっては寝耳に水で驚くだろう。
「元はといえば、つまらぬ仏心からあの公達が摂津守を逃がしたのが悪い。摂津守さえ捕えておれば、我らはかようなことをせずとも済んだではないか」
 新介が怒ってそう言う。あの夜の一件を知っている者は皆、口には出さないがそう思っているだろう。
「そうじゃったのう…忘れておったわ」
 あの夜、義太夫は忠三郎を残して先に城に戻った。
(よもやあのようなところに摂津守が潜んで居るとはな)
 分かっていれば取り押さえることもできた。せめて忠三郎と一緒に残っていればと悔やまれる。
「汚れ仕事はいつも我らで、上様はあの公達には一切やらせぬ。危ない戦さにも駆り出さず、やっていることと言えば、相撲やら使いやら人目をひくような煌びやかなことばかり。わしゃもう一年以上、伊勢に戻っておらぬというに、あやつは上様のお膝元でのうのうと過ごしておる。今頃は都に戻って女子を集め、遊び呆けておるにきまっておる。全く阿保らしゅうなるわ」
 新介は余程腹にすえかねたのだろう。俄かに刀を抜いて辺りの木の枝を切り落とした。義太夫は返す言葉もなく、うーんと俯いた。
「あやつは連枝衆扱いされておるのに比べ、殿は所詮、単なる家来。同じ上様の娘を正室としておるのにこれでは…」
「やめい、新介、もう言うな!」
 義太夫が珍しく大声を張り上げて怒ったので、新介が驚いて、口をつぐむ。――その声は意外なほど震えていた。普段は笑って誤魔化す者が、初めて笑いを割って見せたような、そのひびきには、長年押し込めてきた苛立ちと虚しさがにじんでいた。
 その声に、何かがひび割れた。いつもの道化が、ひとりの人として立ち上がった瞬間だった。
 義太夫自身、その大声に自分が驚き、ばつの悪そうに声を落とした。
「もうよい、新介。有岡に戻り、早う終わらせよう…。時をかけると余計、嫌気がさしてくる」
 馬に乗り、人質を連れに有岡城へ向かう。明日には処刑を執り行わなければならない。

 十二月十三日。都では荒木一族が市中引き回しの上、全員斬首された。その一方で、尼崎の信忠本陣の前では、荒木家に属する士分の妻子百二十二名が木にかけられ、それ以外の五百十二名は付近の家に押し込められて生きたまま焼かれた。
 忠三郎が都から信忠本陣に戻って来たときには、まだ終わっておらず、阿鼻叫喚の声が響き渡っていた。あまりのことに、忠三郎はその場を去ろうとしたが、普段から兎角目立つことが裏目に出て、佐治新介が気づいて近づく。
「どちらへおいでで?」
「新介…いや…」
「都の処刑は見届けて来られたのでしょうな?」
 忠三郎は青ざめただけで返事をしない。まさか逃げて来たのかと新介が怒りをあらわにしようとしたとき、義太夫が気づいて走り寄って来た。
「おぉ、鶴。戻ったか」
「義太夫…」
 忠三郎があからさまに安堵の表情を浮かべたので、義太夫は笑って肩を叩いた。
「何じゃ、わしに会えて嬉しいか」
 忠三郎が恥ずかしそうにうなずく。
「殿はその先の河原じゃ」
「河原?」
「あれは恐らくは…そなたが戻るのを待っているのではないか」
 なんだろうか、と忠三郎が義太夫の指さした方へ向かって歩いていく。しばらく歩くと、川が見え、川上に一益らしき姿が見えた。
(あれは…)
 川面に何かが照らされて光っている。目を凝らしてみると、日に照らされ、いくつも光が見えた。
(思い出した…あれは長島で見た…何か…)
 あの日、真っ赤に染まった長島の大川で見た光る何か。川に走り寄り、流れてきたものを手に取る。
(色紙…色紙で作った花だったのか)
 川上を振り向くと、一益がいくつもの花を川に流しているのが見えた。
「義兄上!」
 走り寄ると一益が顔をあげる。
「戻ったか」
「はい。今ほど」
「よう戻って参った。見届けるつもりだったか」
 言い当てられて、忠三郎は返事に詰まりながらも、
「都の処刑を一人で見届ける自信がなく…ここに戻って参りましたが、やはりここでも…」
 一益の顔を見てホッと気が抜けたのもあり、急に涙がこみ上げ、唇をかみしめる。一益はそんな忠三郎を見て、静かに歩み寄る。
「鶴…そなたが悪いわけではない」
 意外なことを言われ、忠三郎は溢れる涙を拭いながら一益を見上げる。
「されど、あのとき、摂津守を逃がしたのは…」
「今生に、如何にいとおし不便と思うとも、存知のごとく助けがたければ、この慈悲始終なし。人は皆、無力なもの。あれなる哀れな者どもを救う術がなかったのは、そなたもわしも同じこと。しかるに、ここで一年、戦ってきてこの結果を招いたのは一重に我が身の不徳の致すところ。責めを負うべきはそなたではない」
「義兄上…」
 何故、いつも責めないのか、と言いたかった。しかし忠三郎を見る一益のまなざしが、深い水のように澄み、己の心の底まで見透かされるようで、言えなくなった。
(あの時も…ただ…静かに…戦さで家臣を失ったときの作法を教えてくれた)
 長島攻めのときのことを思い出した。
 一益はいつのときも必ず、討死したものがいると弔った。忠三郎はそれに倣い、長島攻めが終わって日野に戻った時、戦で果てた者たちを思い起こし、
誰ひとり忘れまいと、静かに天を仰いだ。
 そのとき流した涙も、今、川に溶けていた。水はすべてを映し、すべてを流す。理に抗わぬその流れに、己の情も委ねるしかなかった。
「便りを送ると、風花が必ず送ってよこす」
 一益がそう言って色紙で作った花を川に流す。風がちらりと紙を撫で、紙縒りの先端が水面を掠めると、小さな光の輪がいくつも震えた。色紙の薄さは毛先のように脆く、それがゆえに、流れに溶ける様がいっそう哀しく見えた。
 風にほどけて散る花は、赦しの形にも似ている——と胸の内でつぶやく。
 風が渡るたび、川の端に残るススキが揺れ、まるで花々の行方を見送るようだった。
 明では古くから放活燈と呼ばれる風習があり、色紙で作った蓮華燈と呼ばれる花を川に流し、死者の霊を弔うという。
 忠三郎はしばらく、川面に流れる花をじっと見ていたが、やがてその場に屈むと、風花が作ったという花を手に取り、そっと川に流した。
 
 有岡城が落城したことで、残るは尼崎城、花隈城のふたつの城を残すのみとなった。
「もはや摂津守は尼崎から花隈へ逃げたという噂もありまする。そう考えると尼崎城の兵糧も残りすくないものかと」
 有岡落城により荒木村重の軍の士気は下がり、残る二つの城の攻略も時間の問題だ。
「然様か…では…」
 信忠が何か言おうとしたとき、にわかに帷幕の外が騒がしくなった。。
「何の騒ぎか」
 一益が訝し気に立ち上がり、幔幕を出る。
 外は辺り一面、煙だらけだ。『鳥の子』と呼ぶ煙玉が投げ込まれたのだ。すでに消えかかっている煙の中から喧騒が聞こえてくる。
(誰が…)
 そこここで、掴み合いになっており、よく見ると、その中に佐治新介と森勝蔵の家臣の大塚丹後守の姿が見えた。
 一益は木にたてかけてある火縄銃を手に取り、空に向かって撃ち、銃声を轟かせた。
「皆、やめい!やめねば今すぐ打ち殺す!」
 一益が怒鳴ると、皆、急に静まり返ってその場に片膝ついた。
「何事じゃ」
 信忠も帷幕の中から現れ、驚いて居並ぶ者たちを見回す。
「森殿の手の者が暴れだしたのを我らが止めようとして喧嘩になったのでござりまする」
 傷だらけになった新介が、ふらつきながら訴えると、
「何を申すか。その方らがしかけてきたのではないか」
 大塚丹後が言うと、森家の家人たちが皆、うなずく。
「何と申す?言いがかりも甚だしい。そもそも事の発端は、勝蔵殿が殴りかかってきたのが原因じゃ」
「妙なところにいるおのれが悪いのじゃ!」
 勝蔵が顔を真っ赤にして怒る。
 殴られたのは新介。忠三郎を殴ろうとしたようだが、忠三郎が避けたせいで勝蔵の拳が隣にいた新介の顔面を直撃し、怒った新介が勝蔵に飛び蹴りを入れたのがはじまりのようだ。
(これだけの騒ぎで死人がでないとは…)
 不幸中の幸いであるが、死人がでなかったのは奇跡に近い。滝川家の家来たちは幾分、冷静だったのか刀を抜いていないが、森家の何名かが刀を抜いている。誰かが投げた鳥の子のお陰だろうか。新介ではないようだが、新介以外であれば義太夫の筈だ。
 ところが見回してみても、義太夫のお姿がない。
「義太夫…それに鶴もおらぬではないか」
 喧嘩の発端を作った当の張本人はどこへ行ったのか。
「一人は臆病者。もう一人はお調子者。大事になって、青くなり、二人してどこかに隠れておるのでは」
 新介がそう吐き捨てる。
(何か…妙な)
 違和感を感じた。
(何かがおかしい…。殴ったのは森勝蔵…。避けたのは鶴…)
 合点の行かない部分がいくつかある。釈然としなかったが、顎をしゃくって助九郎に二人を探しに行かせた。
 
 信忠に詫びを入れて後、二人が戻って来た。
「鶴めが、気分が悪いと言い出し、少し河原まで行き、休ませておりました」
 見ると、確かに忠三郎の顔色が悪い。新介が舌打ちし、
「親父も、やれ病の何のと戦さから逃げておると思えば、その子も同じ病か」
 イライラとして言う。
「新介…ちと言い過ぎではないか」
 義太夫が不快そうに言うと、
「いや、新介はわしのせいで殴られ、喧嘩騒ぎとなった。許せ、新介。それと…」
 忠三郎が顔をあげ、嬉しそうに付け加える。
「ここ最近では父上の病がようなって、戦さに出ることが増えたのじゃ」
 余程嬉しいのだろう。誇らしげに言うと新介が呆れた様子で、
「武士が戦さに行くなど、当たり前のことじゃ」
 白々と言うが、忠三郎はさして気にも留めていないようだ。
 一益はオヤと思ったが、三人に向かって厳しい顔を向けた。
「私闘は堅く禁じられておる。次に騒ぎを起こした者は罰を与えるゆえ、肝に銘じておけ」
 どうも最近、新介の忠三郎への当たりが強い。これまで気にもとめていなかったようなことでも腹を立てている。他の者に対しても何事につけ、文句をつける。厭戦気分は新介だけではない。丹波、播磨、そして摂津。次々に戦場を渡り歩き、そろそろ家臣たちも限界にきているのかもしれない。
(一度、国元に帰らねば、これ以上、戦場に留まるのは難しいかもしれぬ)
 少し様子を見るか、信長に願い出るか、どうしようかと思案していると伊勢から思わぬ連絡が入った。長島で留守居している道家彦八郎からで、伊賀との抗争に甲賀衆が関わっているという内容だった。
「伊賀がらみとは、また面倒なことに巻き込まれるのでは」
 義太夫が苦笑する。
 これまで中立を保ってきていた伊賀と事を構えるようになったのは、この九月なので三か月ほど前のことになる。荒木村重が有岡城から逃げたころだ。
「北畠中将が寝た子を起こしてくれたからのう」
 新介がうんざりして言う。
 伊賀は甲賀と同じ傭兵集団で、長年、中立の立場を保ってきていた。南伊勢にいる信長の次男、北畠信雄が家臣たちに促されて伊賀を服従させようと動き出したのは二月。反発した伊賀衆の抵抗にあい、九月になって信雄は信長に相談もなく、八千の兵を集めて、伊賀に攻め入った。
「あの御曹司は素破を小ばかにしておる。兵さえ集めれば、簡単に服従させられると甘く見たのじゃ」
 滝川勢も北畠勢と何度か戦場を供にしている。義太夫も新介も、見下されて面白くない思いをしてきているようだ。
 新介の言うように、甘く見ていたためか、結果は惨敗。伊賀衆のたくみな遊撃戦に振り回され、信雄軍は重臣の柘植保重を失って伊勢に逃げ帰った。信長は激怒して親子の縁を切るとまで言い渡し、信雄はそのまま謹慎。有岡城攻めの際中だったため、伊賀は手つかずの状態で置かれている。
 その伊賀攻めの際、甲賀衆の何家かが、伊賀に入り、信雄の兵と戦ったらしいというのが道家彦八郎の報告だった。
(伊勢に戻る口実ができたが…)
 村重は未だ花隈城におり、本願寺も健在だ。この状況下で再び伊賀に攻め入ることは難しいが、織田家に弓を引いた甲賀衆がいると聞いては見過ごすことはできない。
(誰が…伊賀に肩入れしたのか)
 道家彦八郎に便りを送り、調べるようにと命じ、その一方で一度帰国させてほしいと信長、信忠に便りを送った。
 
 ようやく信長の許しが出たのは翌月。伊勢に戻るため、陣払いをしているところに、今度は先に日野へ戻った忠三郎から知らせがきた。
「鶴まで知らせを送ってくるとは、殿もお忙しいことで」
 いつにも増して義太夫の口数が多いのは、伊勢に戻れば、待ちに待った祝言をあげることができるからだろう。
「兵を連れて先に伊勢に戻るように新介に伝えよ」
「ハッ…殿は…」
「日野へ寄れと書いてある。何か心にかかることがあるようじゃ」
「はて。父の賢秀が病から回復したとか、喜んでおりましたが」
 忠三郎は、急いでいるときと人に知られたくないときは、祐筆を通さず、自筆で文を送ってくる。
(この手跡てあとは、鶴の…)
 なんとも言い難い癖のある筆跡は、見まごうことなく忠三郎の筆跡だ。何か内密の話があると思われた。
 滝川勢が戦線を離脱し、本国伊勢に戻ったのは年が明けた二月。家来たちと兵を先に伊勢へ返し、一益は都を経由して近江に入った。
 忠三郎は信楽院近くに作った茶室で待っていた。
「義兄上、如何でありましょう。この茶は」
 忠三郎が何かを待つように、一益の顔を覗き込みながら尋ねる。義太夫が、あぁと気づき
「結構なお点前で…」
 神妙な顔つきで言うと、忠三郎が笑い出した。
「そうではなく…これは若草清水と名付けた、そこに湧き出る日野の名水で煎れた茶にて」
 日野の城下は傍に流れる日野川の流れに沿ってできた階段状の地形で形成されており、信楽院付近は地下水が地表に湧き出ている個所がいくつも見える。
 そして忠三郎自慢の名水は、麿やかというよりは、幾分飲みごたえがある。
 一益は返事に困り、
「…美味である…」
 一言、そう言うと、忠三郎が笑顔を見せる。
「でありましょう。日野の水は天下逸品。春の息吹を思わせる生きた水でござります」

 手に摘みて いつしかも見む紫の
              根にかよひける野辺のわかくさ
              
源氏物語、若紫。紫草に繋がる野辺の若草を手に摘みたいと詠っている。
 いつもながら忠三郎の長い前置きを聞きながら、一体、いつになったら話が本題に入るのかと、義太夫が茶碗の中の濃茶を見る。密談の場所が信楽院から雨露しのげる茶室に変わったのはいいが、茶室に入ったところから、話の本筋に入るまでが毎回、長すぎる。
「賢秀の病がようなったと喜んでおったな」
 何気ない、世間話の延長のつもりだったが、思いがけず忠三郎の顔色が変わった。
(また、急変したのだろうか)
 忠三郎は何度か不自然に瞬きを繰り返す。
「先日、摂津から戻り、お爺様の手文庫を整理しておりましたら、密書が出て参りました」
 蒲生快幹であれば、密書のひとつやふたつ、出てきてもおかしくはない。そう思って忠三郎が差し出した書状を手にしてみると、
「…これは…」
 中勢のことについて書かれている。差出人は細野藤敦。先年、信長の弟、長野信包に背いて叛旗を翻し、一益の一子八郎を人質とすることでどうにか和議を結んだ信包の家臣だ。
(細野藤敦の遣わした間者がこの城に出入りしていた…と)
 快幹は忠三郎がずっと城の二の丸あたりに軟禁しているものと思っていた。
「そなた、快幹から目を離したというか」
「義兄上は何もご存じないと?」
 忠三郎が、多少疑心の籠った目で見る。
「鶴、まさか本気で殿を疑うておるわけではなかろうな」
 義太夫が怒りを収めてそう言うと、忠三郎は義太夫の顔を見て、
「御爺様のことは、用心深く見張りを幾人も置いていた。細野殿の手の者が会うことなど、できるはずがない」
「無礼者!言うにことかいて、なんたるたわけたことを!何故、殿がかようなことを…」
 義太夫が中腰になり、刀を抜こうとして手を動かすが、刀を差していないことに気づいて、オヤと腰を見る。
「茶室に入る前に、刀を刀掛に置いてきたことを忘れたか」
 忠三郎が苦笑して言うと、義太夫は頭を掻いて、
「忘れておったわい。…然様か。茶席で腹をたてて刀を抜かぬように、入る前に刀を預けるのか。茶の湯とはまことに奥深い」
「実に、義太夫らしい解釈であるが…ちと違うておるような」
「違うておらぬわ。高山右近に聞いてみい」
「右近殿に、そのような阿呆なことが聞ける筈がない」
 緊張感のない二人の会話を聞きながら、一益は首を傾げる。
「鶴、わしに確かめたいことがあるはず。申してみよ」
「篠山のことでござります」
「篠山?甲賀の篠山理兵衛か」
 かつて桑名を失った時、一番最初に一益に協力を申し出てくれた甲賀二十一家のひとつ、代々甲賀の鳥居野を守っている篠山理兵衛。毒を盛られて病を発した忠三郎の父、賢秀の病を治すため、一益は理兵衛に命じて薬を届けさせていた。
「お爺様が他界された途端、甲賀の篠山なる素破が姿をあらわさなくなりました。如何にそれがしでも可笑しいと気づかぬ筈もなく」
「何?では薬はどうしておった。理兵衛がおらねば薬は…」
 言いかけて途中で気づいた。賢秀は最近になって急に病がよくなったと言っていた。
(薬が切れたからか)
 理兵衛が薬と称して賢秀に飲ませていたものこそ、毒薬だったのだろう。
(快幹の使っていた甲賀の間者は理兵衛だったのか)
 だとすると、一益はもう何年にも渡り、理兵衛に騙されていたことになる。
(いや、逆か。甲賀衆と蒲生家の関わりは長い。甲賀衆は表向きは織田家に恭順の意を表しつつ、金を集めるため快幹の元で働いていた。そして互いに叛旗を翻すときを伺い、協力して細野と通じていた)
 快幹の残した密書を読んだ忠三郎の読みも、一益とほぼ同じだ。
「されど、懸念したのは我が家のことではありませぬ」
「…我が家のことではない、とは?」
「御爺様は、すでにこの世にはなく…お爺様がおらぬようになったことで、役者が足りなくなったということでござります」
「役者が足りなくなった…」
 細野藤敦の兵力では、どうにもならない。甲賀衆とあわせ、もっと兵力がなければ織田家に叛旗を翻すことなどできるはずがない。蒲生家に相当する、もしくはそれを上回る兵力といえば、
「伊賀衆か」
「八郎殿がいる以上、義兄上は迂闊に細野藤敦に手を出すことはできますまい。さりながら、早めに手を打たねば、中勢と伊賀、同時に挙兵され、伊勢は混乱に陥るものと懸念いたしまする」
 忠三郎の言う通りだ。
「もうひとつ、懸念していることがござります。伊賀攻めの失敗から、北畠中将殿の間者と伊賀者が鈴鹿峠付近で小競り合いを続けており、上様の命を受けた間者も大勢、伊勢に潜り込んで居るようにて」
「上様の間者…」
 それはまた面倒な問題だ。この話も、信長の耳に届くのは時間の問題だろう。
「お気をつけくださりませ。織田家中でも北伊勢を狙うて、義兄上を追い落とそうとしている者もおりましょう」
 忠三郎は内も外も敵だらけだと告げていた。短く息を吐き、目を据える。――「ならば我が手にて、守るのみ」と心に決めたその言葉は、声にならずとも沈んだ重みを周囲に落とした。
 一益はフンと笑って、
「片腹痛いわ。このわしから北伊勢を奪えるという者がおるのであれば、奪いにくるがよい。誰であっても容赦はせぬ」
 一益が扇子で脇息を叩く音は、軍太鼓のように鋭く、場の空気を張り詰めさせる。その気迫は場を鎮めたが、同時に、これから待ち受ける試練の荒波を予感させるものでもあった。
 そのとき忠三郎は、義兄の背に一瞬、影を見た――強き者ほど深き谷に落つるのではないかと。
 忠三郎は懸念を隠すように微笑み、
「義兄上であれば、そう仰せになるものと思うておりました。及ばずながら、それがしも滝川家をお守りするため、尽力する所存でござります」
 恭しく頭を下げる。
 忠三郎がいることで、背後に不安はない。目の前にいるのは伊賀・甲賀衆。そして八郎を質としている細野藤敦。
(八郎を奪い返せるだろうか)
 伊勢に戻って、甲賀衆の動向を見なければ、策を練ることはできない。
「やれやれ…婚儀はまた伸びるようじゃな…」
 二人の会話を聞きながら、義太夫がため息まじりに言う声はあまりに小さく、二人とも気づかぬほどだった。春水は、まだ冷たい。理の底で、情がひそやかに息づいていた。
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