126 / 146
22 死児の齢を数う
22-1 戦禍再び
しおりを挟む
明けて天つ正しき十二の年。
大坂城本丸が完成し、城下には屋敷や寺院が立ち並んだ。高山右近らが奔走して、河内にあった教会もこの地へと移されつつある。
都を飛び出した三九郎は、ロレンソとともにその教会を訪ねた。
敷地に足を踏み入れると、庭先で草をむしる老人の姿が目にとまる。河内の信徒かと思い、さして気にも留めなかったが、ふとその顔に見覚えがあった。
「もしや、貴殿は――」
声をかけると、老人がゆるやかに顔を上げた。
「おぉ、これは滝川殿じゃ」
その声に聞き覚えがあった。紛れもなく、三箇老人である。
明智に与した罪により、その首には褒美が懸けられ、命からがら大和へ落ちのびたと聞く。
追う者、追われる者――あれから一年。右近の執り成しによって赦され、今は息子の頼連とともにこの教会に身を寄せていた。
日差しの下、土に手を染めるその姿は、もはや浪人でも敗残の将でもなく、ただ穏やかな老人であった。
(このご仁は、変わらぬな)
三箇にいたころも、領主でありながら下働きの者に交じってよく立ち働いていた。今もまた、草を抜き、土を返している。
「三箇殿は、もう戦場へは出られぬのですな」
問うと、老人は笑みを深くして言った。
「いやはや、今の暮らしに不自由はない。戦場に出ぬと考えると、むしろ、もっと早うこうした暮らしを選ぶべきであったと――心底そう思うておる」
負け惜しみでも虚勢でもなく、心からそう言っているようだった。
(父上もまた、草をむしるように、一つひとつ過去を抜き取っておられるのかもしれぬ)
家中の者も他国の者も、一益にもう一度旗を掲げよと望む声は多い。だが一益は黙して語らず。
暘谷庵で風花や子らと過ごすその姿を見れば、たしかにもう争いを望んではいないのだと、誰もが悟るであろう。
――もっと早う、こうした暮らしを選び取るべきであった。
三箇老人の言葉が胸に残る。
武田攻めの折、一益はすでに隠居を望んでいた。広大な関東を返上してでも、伊勢で静かに暮らしたいと語っていたのだ。
だが――。
(織田家に仕えて得たものすべてを失った今、このまま終わるわけにはいかぬ)
父が得たものは、地位や領土ばかりではなかったはずだ。
もっと別の、目には見えぬ尊い何か――。
だが三九郎には、それが何であるのか、まだ見えてはいない。
奪われるたび、取り返すことばかりを考え、なお戦いの中に己を置いている。
北伊勢五郡を取り戻さねばならぬ。
それが叶わぬうちは、父も、そして己も、まだ戦の途上にあるのだ。
庭の向こうで鐘が鳴った。
抜かれた草の根が、陽に透けていた。
洛外、暘谷庵。
秀吉が織田信雄に安土からの退去を命じた話がつたわって来た。天下の情勢が怪しくなってきたことを知った滝川家の家臣たちが次々に一益の前に伺候する。
「洛中では、羽柴筑前が織田家を滅ぼそうとしているのではないかという噂が広まっておりまする。これは北伊勢を取り戻すときも近いかもしれませぬぞ」
伊勢から来た道家彦八郎が言うと、義太夫、谷崎忠右衛門、津田小平次といった家臣たちは互いに顔を見合わせて喜ぶ。
「再び伊勢が戦場になること必定かと」
一益が退去した長島城。今は北伊勢を掌握した織田信雄が居城としている。
「中将様が兵を挙げれば戦場となるのは尾張、伊勢。この流れであれば、再び…」
と義太夫が言いかけたとき、表門に人の気配を感じた。
「誰か来たような…」
家人にしては賑やかだ。
「客人か」
一益が顔を上げると、満面笑顔で入ってきたのは蒲生忠三郎だ。
「鶴ではないか。また己の屋敷であるかのように…。案内も請わずに入ってくるな」
義太夫の声に、ざわめいていた家臣たちがふと息をのんだ。
当の忠三郎は家臣たちの冷ややかな視線を気に留める風もなく、目の前を通り過ぎ、常の笑顔で一益の前に座る。
「義兄上に折り入ってお話が」
「中将殿のことであろう?」
「さすがは義兄上。仰せの通り」
秀吉は大坂城築城により、将軍職の任官と、大坂遷都を朝廷に求めた。秀吉が天下の覇権を京・安土から大坂へ移そうとしていることが明るみになり、織田信雄が傀儡であることは皆が認めることになった。さすがの信雄もそれに気づき、秀吉への不信感を強めている。
「両者の間を取り持つため、池田殿と相談して、お二人を近江の園城寺にお呼びし、話し合う時を設けたのですが…」
忠三郎はそこで扇を置き、軽く息をついた。
信雄が園城寺まで出向いてきたのに対し、秀吉は信雄が自分を殺そうとしていると言って大坂から動かず、信雄に大坂まで来いといいだした。これには仲裁をしている池田恒興も忠三郎も困ってしまい、致し方なく秀吉の求めるままに信雄の下にいる四人の家老を大坂へと連れ出し、秀吉に会わせた。
「中将殿には他意はなく、家老たちの口から、筑前殿を闇討ちしようなどというのはただの噂であると、言上した次第にて」
秀吉は、信雄が暗殺を企てていることを夢で知らされた、と言ったという。
「そして誓紙を出すようにと家老たちに命じたところ、岡田重孝、津川雄光、浅井田宮丸の三名は素直にそれに応じ、それぞれ筑前殿に人質を出したものの…」
「滝川三郎兵衛は拒んだと」
「はい。ようお分かりで」
北畠家の庶流木造家出身の滝川三郎兵衛雄利。一益が南伊勢を攻略するときに北畠家を懐柔するため、寺にいたのを還俗させて滝川姓を与え、信雄の家老にした経緯がある。
滝川三郎兵衛には抜け目なく世を渡れるような素養があり、今回も秀吉の言いなりになって誓紙を出すことの危うさを見抜いていたようだ。
「結局、両者の会談はならず。中将殿は長島に戻られました」
一益は目を閉じた。
園城寺の鐘の音が、ふと耳に蘇った。
池田恒興も忠三郎も、善意で仲裁をかってでたようだが、見事に秀吉の思惑通りに動いている。
忠三郎は戦場で兵を率いて戦うことはできるが、謀将だった祖父快幹と違い、謀略は苦手だ。信長の近臣だったとはいえ、堀久太郎、長谷川藤五郎のような奉行衆とは異なり、どこかの家の取次ぎをしていたわけでもなく、文官として働いたことがない。武道、遊芸には長けてはいても政治《まつりごと》には疎いところがある。
「中将殿も戦を避けようと、家老を筑前殿のもとへ送り、両者の行き違いを埋めようとされたのは事実」
忠三郎は、その言葉にすがるように笑った。戦を避ける道は、どこかにあると信じていたのだ。
「それで戦さが回避できるかもしれぬと、そなたはそう思うていたのか」
人が良すぎる。信雄をけしかけて、戦さに持ち込もうとしているのは秀吉だ。家老たちは信雄が送ったのではなく、秀吉が話し合いのためにと呼びだしたに過ぎない。
一益は眉をひそめた。
(三家老ももう終わりか)
秀吉に懐柔されている。勝家の時と同じで、配下の者を手懐けて、いざ合戦となったときに寝返るように仕向けている。例えそうでなくとも、滝川三郎兵衛の口から、三家老が誓紙を出し、人質を送ったことを信雄に伝えれば、信雄は三人が寝返ったと思い、始末するだろう。
「最早戦さは避けられぬ状況かと。されど、義兄上。これは朗報。千載一遇の機会でござりまする。葉月殿と北伊勢を取り戻すのは、今この時をおいてありませぬ」
「そなたは筑前の使いで参ったか」
秀吉に何か言い含められてきたのだろう。忠三郎は悪びれることもなく、はい、と答え、
「中将殿と手切れとなりしときには、どうか羽柴筑前にお味方くだされ。此度の戦さ、お味方いただければ、勝っても負けても葉月殿をお返しするとのことにござりまする」
信雄が兵をあげると困るのは蒲生家になる。
今や美濃、尾張だけではない。伊勢全土が織田信雄の支配下にある。その中でただ一つ。忠三郎の叔父、関盛信のいる亀山城だけがポツンと取り残されたようになっていた。
(関安芸守はいい餌だ)
一益の胸に冷たいものが走った。
秀吉が好むのは、いつもこうした駒である。
秀吉と織田信雄が手切れになれば、伊勢において関盛信の亀山城だけが羽柴方の城になり、いの一番に攻略される。
「更に、勝った暁には義兄上に北伊勢五群をお返しすると」
「それはまことか!」
義太夫が身を乗り出すと忠三郎は笑って
「まことじゃ。負けても義兄上には三千石、三九郎には一万五千石を約束するとのことであった。ただし、」
「ただし?」
「滝川勢の大将は三九郎ではなく、あくまで義兄上であることが条件でござります」
主戦場となるのは桑名、長島あたり。もしくはかつて一益が領していた蟹江城を含む尾張二郡。この辺りを一番知っているのは一益だ。当然、信雄側からも味方に付くようにと使者が来るだろう。しかし葉月が捕らわれている以上、選択の余地はない。
忠三郎は、しばし目を伏せた。義兄の顔を直視できなかった。
――見えぬのは、義兄の顔か、それとも己の行く末か。
「忘れておるようじゃが、南伊勢は如何する?」
信雄の配下の北畠の旧臣の多くは南伊勢を領している。
「それは…三十郎殿を味方につけられぬでしょうか」
それしかない。
信長の弟、織田三十郎信包。信雄の配下ではあるが、娘は秀吉の側室となって姫路にいる。説き伏せれば味方につくだろうと思われた。
フムフムと聞いていた義太夫が、そういえば、と思い出し、
「鶴、その方、三十郎殿とともに峯城を攻撃してきたではないか。いうなれば戦友、いや糞友じゃ。糞馬の友じゃ。おぬしが三十郎殿に使者を送ればよい」
峯城攻略の際、三十郎は蒲生勢とともに石垣を登ろうとして糞尿まみれにされている。家中の誰もが、義太夫の冗談にどう反応してよいか分からず、苦笑を噛み殺した。
忠三郎は嫌なことを思い出させる義太夫をちらりと恨めし気に見てから、
「それは…なかなかに難しく…」
苦笑いするばかりで明言しない。忠三郎自身もそうだが、蒲生家の家臣の中にも弁のたつものがいない。これから家を背負って立つ身でなんとも心もとない。
「致し方ない。誰もいないのであれば、義太夫、彦八郎の二人を送り込むゆえ、案ずるな」
「へ?それがしが…」
義太夫はにわかに名前を出されて、眼を瞬かせる。
なんの武功もあげられない三十郎に、刀ではなく剃刀を研いでさっさと出家しろ、などと矢文を送ったのはつい数か月前だ。三十郎やその下にいる家臣たちに会うのは気まずい。義太夫がちらりと道家彦八郎の顔を見て、顔をしかめていると、
「義太夫殿、頼み入る」
忠三郎が頭を下げる。
(こんなことになると分かっていたら、つまらん矢文など送りつけねばよかったわい)
これは何か手土産を用意していかねば、と義太夫はまた頭を悩ますことになった。
「三十郎殿を説くのはよいとしても、兵を挙げるとなると事はそう容易ではない。二つ返事というわけにもいくまい」
意に反して乗り気ではない一益の返事に、忠三郎はもどかしげに膝をにじり寄せ、
「なにを迷っておいでで?これ以上ない好条件ではありませぬか」
いかに忠三郎が急かせても、一益は目を閉じたまま、言葉を発しようとはしない。居並ぶ者は皆、一益が情に動くか、理を貫くか、その一言を待っていた。
場の空気が重くなり、義太夫が周囲を見回し、人払いする。
皆が立ち上がって場を去り、三人だけになってもなお、一益は黙ったままだ。
見かねた義太夫が忠三郎に声をかける。
「鶴、中将殿は主筋。前回の戦さは、我らが織田家の兄弟の諍いに巻き込まれたにすぎぬ。されど此度は羽柴筑前が織田家から天下の覇権を奪い取ろうとしていることは明白。殿は主筋に弓引くことに躊躇いがあるのじゃ」
「これは笑止千万。では中将殿に天下人が務まるとでも?」
言いながらも、胸のどこかに引っかかりがあった。
下人の子が天下を取る――理では分かっても、心が追いつかない。
名家の家に生まれた忠三郎には、まだ現のこととは思えなかった。
「おぬしに中将殿を責める資格があるのか」
「わしが北伊勢に攻め入ったことを言うておるのか。それとこれとは違う。あれは義兄上が関家の城を奪い取ったがために…」
「おぬしにはおぬしの大儀があって兵を差し向けてきたのであろう。それと同じように中将殿には中将殿の大儀があろうよ。所詮、兄弟は他人の始まり。己の利となるのであれば、闇に葬ることもいとわぬのが乱世。されど領地を失った我等からすれば、そうそう割り切って考えることなどできぬわい」
愚将と言われる織田信雄と同列にされたのが余程腹に据えかねたのか、忠三郎は憮然となって口を閉じた。
再び場が静まり返り、離れたところから子供たちが遊ぶ声が響いてくる。いつまでも機嫌の悪い忠三郎に、一益は重い口を開く。
「鶴。家を守り、国を守るために兵を挙げたそなたを、わしは責めようとは思わぬ。されど、如何なる戦さであっても戦さは戦さ。戦さに大儀などはない。互いに大義を掲げ、大掛かりな戦さをすればするほど、多くの者に憎まれ、その憎しみは増大し、復讐の応酬を呼び込む。泥沼と化した長島願証寺との戦さを忘るるな」
一益の声が少し低くなった。
「欲や怒りに捕らわれ、己の思いだけで突き進み、他国を屍の山とするなら、やがては地をさすらうこととなる」
庭の外では、風が竹を鳴らしていた。その音が一瞬、遠い戦場の鬨の声のように聞こえた。
「いにしえより、兵を好む君主をもって栄えた国などはない」
「では義兄上はご助勢くださらぬと?」
忠三郎が思わず目を見開いた。
一益は、いや、と首を横に振る。
どうやら言いたいことの半分も伝わっていないようだ。
沈黙を見かねて、義太夫がぽつりとつぶやいた。
「……殿は、戦の是非ではなく、戦の在りようを問うておられるのじゃ」
一益の口元がわずかに緩んだ。
「兵を挙げよう」
短くそう言ったので、忠三郎は手を打って喜んだ。
「さすが義兄上!そう仰せくださると思うておりました」
一益は黙ってうなずくと、手を打って津田小平次を呼び、酒肴の支度をさせる。
外では風が竹を揺らしていた。静けさの底で、また戦の気配が動きはじめている。
次の戦さも戦場は伊勢、尾張。大掛かりな戦いになりそうだ。
夜も更け、皆が寝静まり、忠三郎と義太夫の二人は盃を片手にふらふらと庭先に出る。
「洛外は昼も夜も変わらず静かじゃ」
蒲生家の屋敷がある洛中と違い、洛外は往来する人もおらず、付近に建物もない。
「義兄上はもっと喜ばれるかと思うていたが」
忠三郎が月を見上げてポツリとつぶやく。
今宵は忠三郎が気を利かせ、屋敷から上質の酒を持参してくれた。美味い酒にありついた義太夫は上機嫌だ。
夜風が少し冷たくなり、二人の盃の酒が底をつく。
義太夫が空を仰いで、月を指さす。
「鶴。世も変わったのう。殿のような御仁が蟄居の身、猿が天下の要とは」
義太夫は杯を掲げ、にやりと笑って言った。
「では一つ、時世の歌でも」
猿は舞い 鶴は見下ろす 池の月
照るも曇るも 時のいたずら
詠み終えると、杯の底を軽く鳴らし、得意げに笑った。
「どうじゃ。ちと出来がよかろう?」
忠三郎は眉を上げて笑う。
「妙に耳障りのいい句じゃな。誰の歌じゃ?」
「里に伝わる素破歌じゃ」
「……ほう。素破も、ずいぶん雅になったものよ」
しばし沈黙ののち、忠三郎が盃を傾けながら言う。
「義太夫、それはおぬしの作であろう?」
「はは、よう見抜いたのう」
二人は笑いあい、盃を軽く合わせる。
庭の草むらから虫の声が聞こえ、月が雲間に滲んだ。
忠三郎はその光を仰ぎながら、ぽつりとつぶやく。
「……照るも曇るも、時のいたずらか」
義太夫は笑みを浮かべたまま、そっと視線を落とした。
「殿はその方と同じ。伊勢を戦場にされるのが嫌なのであろう」
鼻歌交じりにそう言う。
「我らは伊勢攻略であちこち焼き払って歩いたせいで、未だに評判が悪い。何万人もの民を葬った罪は重すぎて負いきれるものではない。されど殿は悪評に耐え、辛抱強く、田畑を捨てて逃げた百姓どもが戻ってくるのを待った。民が少しずつ、北勢に戻ってからは、荒廃した土地を何年もかけて豊穣な地に変えた。あの日永周辺を切り開いたのも、雨季になると水害に悩まされていた地で堤を築かせたのも殿じゃ」
義太夫の声が夜気に溶けていく。竹の葉が擦れ合い、どこかで梟が鳴いた。
「我等、滝川の者が何年もかけてなしてきたことは、領主が変わったとて、なくなるようなものではない。その方、日永に行ったのであれば、目にしたであろう。一面に広がる畑を」
長島で何万人もの民を葬ったのは一益一人ではない。忠三郎も、織田家に連なる多くの武将も参戦し、この地は屍の山と化した。
戦後、残された滝川家の人々は、どんな思いで荒廃した地を復興させてきたのか。
「われらは己が利だけを求めて北勢を復興させたのではない。今や、誰が領主であっても作物は毎年実を実らせるし、民は収穫を喜んでおる。後の時代の人々には我らのことが記憶に残ることはないかもしれぬ。されど、思い起こすものがいなくなっても種蒔く者がいる限り、この地には豊かな実が実る。そう考えると、我らの役目はもう、終わっておるのかもしれぬな」
北勢を取り返せるかもしれないと話したときにはあんなに喜んでいたのに、今は、何の未練もないかのように言う。
「義太夫、おぬしは伊勢を取り戻したいと思うたのではないのか」
「それは無論、取り戻したい。されど殿が乗り気ではあるまい。手塩にかけて育てた伊勢を焼け野原にするくらいであれば、このまま静かに隠遁したいと、殿は、そうお考えではなかろうか」
桑名とその城下を焼き払ったのは忠三郎だ。そう言われてしまうと何も言えなくなる。
「義兄上は、やがては地をさすらう者となると、そう仰せであった。あれは如何なる意味か」
正直、何の話か分からなかった。一益は何を言いたかったのだろうか。
「あれは…」
義太夫は疲れたと見えて広縁に腰を下ろす。
「おぬしを案じておるのじゃ」
「案じるとは、何を?」
前回の戦で、主家の子を討ったのは他ならぬ織田家の家臣たち。秀吉も、忠三郎も、その血を見た。
理では割り切れぬ思いが、それぞれの胸に残っていた。
「分からんじゃろ。今の鶴は筑前に利用されているだけ。今は分からずとも、直に分かるようになる。分かった時におぬしがどうするのか。戦うことをやめるのか、戦い続けるのか、それはようわからんが、そのときに今日のことを思い起こすがよい」
秀吉は理で人を測らない。忠三郎は理でしか人を見られない。
互いに遠く、決して交わらぬ二人だった。
義太夫の言うときとは、いつ訪れるのだろうか。いずれにせよ、望むと望まざるとに関わらず、雪解けにはまた大きな戦さになる。次はもう織田家の内部の争いには留まらない。徳川家康、長曾我部元親、雑賀・根来衆を巻き込み、天下分け目の大戦さになるだろう。
忠三郎は杯の中の月影を見つめた。酔いは醒め、夜の静けさが骨にしみた。
その光の底に、己の影を見た気がした。
庭の草を渡る風が、遠くで灯を揺らした。
大坂城本丸が完成し、城下には屋敷や寺院が立ち並んだ。高山右近らが奔走して、河内にあった教会もこの地へと移されつつある。
都を飛び出した三九郎は、ロレンソとともにその教会を訪ねた。
敷地に足を踏み入れると、庭先で草をむしる老人の姿が目にとまる。河内の信徒かと思い、さして気にも留めなかったが、ふとその顔に見覚えがあった。
「もしや、貴殿は――」
声をかけると、老人がゆるやかに顔を上げた。
「おぉ、これは滝川殿じゃ」
その声に聞き覚えがあった。紛れもなく、三箇老人である。
明智に与した罪により、その首には褒美が懸けられ、命からがら大和へ落ちのびたと聞く。
追う者、追われる者――あれから一年。右近の執り成しによって赦され、今は息子の頼連とともにこの教会に身を寄せていた。
日差しの下、土に手を染めるその姿は、もはや浪人でも敗残の将でもなく、ただ穏やかな老人であった。
(このご仁は、変わらぬな)
三箇にいたころも、領主でありながら下働きの者に交じってよく立ち働いていた。今もまた、草を抜き、土を返している。
「三箇殿は、もう戦場へは出られぬのですな」
問うと、老人は笑みを深くして言った。
「いやはや、今の暮らしに不自由はない。戦場に出ぬと考えると、むしろ、もっと早うこうした暮らしを選ぶべきであったと――心底そう思うておる」
負け惜しみでも虚勢でもなく、心からそう言っているようだった。
(父上もまた、草をむしるように、一つひとつ過去を抜き取っておられるのかもしれぬ)
家中の者も他国の者も、一益にもう一度旗を掲げよと望む声は多い。だが一益は黙して語らず。
暘谷庵で風花や子らと過ごすその姿を見れば、たしかにもう争いを望んではいないのだと、誰もが悟るであろう。
――もっと早う、こうした暮らしを選び取るべきであった。
三箇老人の言葉が胸に残る。
武田攻めの折、一益はすでに隠居を望んでいた。広大な関東を返上してでも、伊勢で静かに暮らしたいと語っていたのだ。
だが――。
(織田家に仕えて得たものすべてを失った今、このまま終わるわけにはいかぬ)
父が得たものは、地位や領土ばかりではなかったはずだ。
もっと別の、目には見えぬ尊い何か――。
だが三九郎には、それが何であるのか、まだ見えてはいない。
奪われるたび、取り返すことばかりを考え、なお戦いの中に己を置いている。
北伊勢五郡を取り戻さねばならぬ。
それが叶わぬうちは、父も、そして己も、まだ戦の途上にあるのだ。
庭の向こうで鐘が鳴った。
抜かれた草の根が、陽に透けていた。
洛外、暘谷庵。
秀吉が織田信雄に安土からの退去を命じた話がつたわって来た。天下の情勢が怪しくなってきたことを知った滝川家の家臣たちが次々に一益の前に伺候する。
「洛中では、羽柴筑前が織田家を滅ぼそうとしているのではないかという噂が広まっておりまする。これは北伊勢を取り戻すときも近いかもしれませぬぞ」
伊勢から来た道家彦八郎が言うと、義太夫、谷崎忠右衛門、津田小平次といった家臣たちは互いに顔を見合わせて喜ぶ。
「再び伊勢が戦場になること必定かと」
一益が退去した長島城。今は北伊勢を掌握した織田信雄が居城としている。
「中将様が兵を挙げれば戦場となるのは尾張、伊勢。この流れであれば、再び…」
と義太夫が言いかけたとき、表門に人の気配を感じた。
「誰か来たような…」
家人にしては賑やかだ。
「客人か」
一益が顔を上げると、満面笑顔で入ってきたのは蒲生忠三郎だ。
「鶴ではないか。また己の屋敷であるかのように…。案内も請わずに入ってくるな」
義太夫の声に、ざわめいていた家臣たちがふと息をのんだ。
当の忠三郎は家臣たちの冷ややかな視線を気に留める風もなく、目の前を通り過ぎ、常の笑顔で一益の前に座る。
「義兄上に折り入ってお話が」
「中将殿のことであろう?」
「さすがは義兄上。仰せの通り」
秀吉は大坂城築城により、将軍職の任官と、大坂遷都を朝廷に求めた。秀吉が天下の覇権を京・安土から大坂へ移そうとしていることが明るみになり、織田信雄が傀儡であることは皆が認めることになった。さすがの信雄もそれに気づき、秀吉への不信感を強めている。
「両者の間を取り持つため、池田殿と相談して、お二人を近江の園城寺にお呼びし、話し合う時を設けたのですが…」
忠三郎はそこで扇を置き、軽く息をついた。
信雄が園城寺まで出向いてきたのに対し、秀吉は信雄が自分を殺そうとしていると言って大坂から動かず、信雄に大坂まで来いといいだした。これには仲裁をしている池田恒興も忠三郎も困ってしまい、致し方なく秀吉の求めるままに信雄の下にいる四人の家老を大坂へと連れ出し、秀吉に会わせた。
「中将殿には他意はなく、家老たちの口から、筑前殿を闇討ちしようなどというのはただの噂であると、言上した次第にて」
秀吉は、信雄が暗殺を企てていることを夢で知らされた、と言ったという。
「そして誓紙を出すようにと家老たちに命じたところ、岡田重孝、津川雄光、浅井田宮丸の三名は素直にそれに応じ、それぞれ筑前殿に人質を出したものの…」
「滝川三郎兵衛は拒んだと」
「はい。ようお分かりで」
北畠家の庶流木造家出身の滝川三郎兵衛雄利。一益が南伊勢を攻略するときに北畠家を懐柔するため、寺にいたのを還俗させて滝川姓を与え、信雄の家老にした経緯がある。
滝川三郎兵衛には抜け目なく世を渡れるような素養があり、今回も秀吉の言いなりになって誓紙を出すことの危うさを見抜いていたようだ。
「結局、両者の会談はならず。中将殿は長島に戻られました」
一益は目を閉じた。
園城寺の鐘の音が、ふと耳に蘇った。
池田恒興も忠三郎も、善意で仲裁をかってでたようだが、見事に秀吉の思惑通りに動いている。
忠三郎は戦場で兵を率いて戦うことはできるが、謀将だった祖父快幹と違い、謀略は苦手だ。信長の近臣だったとはいえ、堀久太郎、長谷川藤五郎のような奉行衆とは異なり、どこかの家の取次ぎをしていたわけでもなく、文官として働いたことがない。武道、遊芸には長けてはいても政治《まつりごと》には疎いところがある。
「中将殿も戦を避けようと、家老を筑前殿のもとへ送り、両者の行き違いを埋めようとされたのは事実」
忠三郎は、その言葉にすがるように笑った。戦を避ける道は、どこかにあると信じていたのだ。
「それで戦さが回避できるかもしれぬと、そなたはそう思うていたのか」
人が良すぎる。信雄をけしかけて、戦さに持ち込もうとしているのは秀吉だ。家老たちは信雄が送ったのではなく、秀吉が話し合いのためにと呼びだしたに過ぎない。
一益は眉をひそめた。
(三家老ももう終わりか)
秀吉に懐柔されている。勝家の時と同じで、配下の者を手懐けて、いざ合戦となったときに寝返るように仕向けている。例えそうでなくとも、滝川三郎兵衛の口から、三家老が誓紙を出し、人質を送ったことを信雄に伝えれば、信雄は三人が寝返ったと思い、始末するだろう。
「最早戦さは避けられぬ状況かと。されど、義兄上。これは朗報。千載一遇の機会でござりまする。葉月殿と北伊勢を取り戻すのは、今この時をおいてありませぬ」
「そなたは筑前の使いで参ったか」
秀吉に何か言い含められてきたのだろう。忠三郎は悪びれることもなく、はい、と答え、
「中将殿と手切れとなりしときには、どうか羽柴筑前にお味方くだされ。此度の戦さ、お味方いただければ、勝っても負けても葉月殿をお返しするとのことにござりまする」
信雄が兵をあげると困るのは蒲生家になる。
今や美濃、尾張だけではない。伊勢全土が織田信雄の支配下にある。その中でただ一つ。忠三郎の叔父、関盛信のいる亀山城だけがポツンと取り残されたようになっていた。
(関安芸守はいい餌だ)
一益の胸に冷たいものが走った。
秀吉が好むのは、いつもこうした駒である。
秀吉と織田信雄が手切れになれば、伊勢において関盛信の亀山城だけが羽柴方の城になり、いの一番に攻略される。
「更に、勝った暁には義兄上に北伊勢五群をお返しすると」
「それはまことか!」
義太夫が身を乗り出すと忠三郎は笑って
「まことじゃ。負けても義兄上には三千石、三九郎には一万五千石を約束するとのことであった。ただし、」
「ただし?」
「滝川勢の大将は三九郎ではなく、あくまで義兄上であることが条件でござります」
主戦場となるのは桑名、長島あたり。もしくはかつて一益が領していた蟹江城を含む尾張二郡。この辺りを一番知っているのは一益だ。当然、信雄側からも味方に付くようにと使者が来るだろう。しかし葉月が捕らわれている以上、選択の余地はない。
忠三郎は、しばし目を伏せた。義兄の顔を直視できなかった。
――見えぬのは、義兄の顔か、それとも己の行く末か。
「忘れておるようじゃが、南伊勢は如何する?」
信雄の配下の北畠の旧臣の多くは南伊勢を領している。
「それは…三十郎殿を味方につけられぬでしょうか」
それしかない。
信長の弟、織田三十郎信包。信雄の配下ではあるが、娘は秀吉の側室となって姫路にいる。説き伏せれば味方につくだろうと思われた。
フムフムと聞いていた義太夫が、そういえば、と思い出し、
「鶴、その方、三十郎殿とともに峯城を攻撃してきたではないか。いうなれば戦友、いや糞友じゃ。糞馬の友じゃ。おぬしが三十郎殿に使者を送ればよい」
峯城攻略の際、三十郎は蒲生勢とともに石垣を登ろうとして糞尿まみれにされている。家中の誰もが、義太夫の冗談にどう反応してよいか分からず、苦笑を噛み殺した。
忠三郎は嫌なことを思い出させる義太夫をちらりと恨めし気に見てから、
「それは…なかなかに難しく…」
苦笑いするばかりで明言しない。忠三郎自身もそうだが、蒲生家の家臣の中にも弁のたつものがいない。これから家を背負って立つ身でなんとも心もとない。
「致し方ない。誰もいないのであれば、義太夫、彦八郎の二人を送り込むゆえ、案ずるな」
「へ?それがしが…」
義太夫はにわかに名前を出されて、眼を瞬かせる。
なんの武功もあげられない三十郎に、刀ではなく剃刀を研いでさっさと出家しろ、などと矢文を送ったのはつい数か月前だ。三十郎やその下にいる家臣たちに会うのは気まずい。義太夫がちらりと道家彦八郎の顔を見て、顔をしかめていると、
「義太夫殿、頼み入る」
忠三郎が頭を下げる。
(こんなことになると分かっていたら、つまらん矢文など送りつけねばよかったわい)
これは何か手土産を用意していかねば、と義太夫はまた頭を悩ますことになった。
「三十郎殿を説くのはよいとしても、兵を挙げるとなると事はそう容易ではない。二つ返事というわけにもいくまい」
意に反して乗り気ではない一益の返事に、忠三郎はもどかしげに膝をにじり寄せ、
「なにを迷っておいでで?これ以上ない好条件ではありませぬか」
いかに忠三郎が急かせても、一益は目を閉じたまま、言葉を発しようとはしない。居並ぶ者は皆、一益が情に動くか、理を貫くか、その一言を待っていた。
場の空気が重くなり、義太夫が周囲を見回し、人払いする。
皆が立ち上がって場を去り、三人だけになってもなお、一益は黙ったままだ。
見かねた義太夫が忠三郎に声をかける。
「鶴、中将殿は主筋。前回の戦さは、我らが織田家の兄弟の諍いに巻き込まれたにすぎぬ。されど此度は羽柴筑前が織田家から天下の覇権を奪い取ろうとしていることは明白。殿は主筋に弓引くことに躊躇いがあるのじゃ」
「これは笑止千万。では中将殿に天下人が務まるとでも?」
言いながらも、胸のどこかに引っかかりがあった。
下人の子が天下を取る――理では分かっても、心が追いつかない。
名家の家に生まれた忠三郎には、まだ現のこととは思えなかった。
「おぬしに中将殿を責める資格があるのか」
「わしが北伊勢に攻め入ったことを言うておるのか。それとこれとは違う。あれは義兄上が関家の城を奪い取ったがために…」
「おぬしにはおぬしの大儀があって兵を差し向けてきたのであろう。それと同じように中将殿には中将殿の大儀があろうよ。所詮、兄弟は他人の始まり。己の利となるのであれば、闇に葬ることもいとわぬのが乱世。されど領地を失った我等からすれば、そうそう割り切って考えることなどできぬわい」
愚将と言われる織田信雄と同列にされたのが余程腹に据えかねたのか、忠三郎は憮然となって口を閉じた。
再び場が静まり返り、離れたところから子供たちが遊ぶ声が響いてくる。いつまでも機嫌の悪い忠三郎に、一益は重い口を開く。
「鶴。家を守り、国を守るために兵を挙げたそなたを、わしは責めようとは思わぬ。されど、如何なる戦さであっても戦さは戦さ。戦さに大儀などはない。互いに大義を掲げ、大掛かりな戦さをすればするほど、多くの者に憎まれ、その憎しみは増大し、復讐の応酬を呼び込む。泥沼と化した長島願証寺との戦さを忘るるな」
一益の声が少し低くなった。
「欲や怒りに捕らわれ、己の思いだけで突き進み、他国を屍の山とするなら、やがては地をさすらうこととなる」
庭の外では、風が竹を鳴らしていた。その音が一瞬、遠い戦場の鬨の声のように聞こえた。
「いにしえより、兵を好む君主をもって栄えた国などはない」
「では義兄上はご助勢くださらぬと?」
忠三郎が思わず目を見開いた。
一益は、いや、と首を横に振る。
どうやら言いたいことの半分も伝わっていないようだ。
沈黙を見かねて、義太夫がぽつりとつぶやいた。
「……殿は、戦の是非ではなく、戦の在りようを問うておられるのじゃ」
一益の口元がわずかに緩んだ。
「兵を挙げよう」
短くそう言ったので、忠三郎は手を打って喜んだ。
「さすが義兄上!そう仰せくださると思うておりました」
一益は黙ってうなずくと、手を打って津田小平次を呼び、酒肴の支度をさせる。
外では風が竹を揺らしていた。静けさの底で、また戦の気配が動きはじめている。
次の戦さも戦場は伊勢、尾張。大掛かりな戦いになりそうだ。
夜も更け、皆が寝静まり、忠三郎と義太夫の二人は盃を片手にふらふらと庭先に出る。
「洛外は昼も夜も変わらず静かじゃ」
蒲生家の屋敷がある洛中と違い、洛外は往来する人もおらず、付近に建物もない。
「義兄上はもっと喜ばれるかと思うていたが」
忠三郎が月を見上げてポツリとつぶやく。
今宵は忠三郎が気を利かせ、屋敷から上質の酒を持参してくれた。美味い酒にありついた義太夫は上機嫌だ。
夜風が少し冷たくなり、二人の盃の酒が底をつく。
義太夫が空を仰いで、月を指さす。
「鶴。世も変わったのう。殿のような御仁が蟄居の身、猿が天下の要とは」
義太夫は杯を掲げ、にやりと笑って言った。
「では一つ、時世の歌でも」
猿は舞い 鶴は見下ろす 池の月
照るも曇るも 時のいたずら
詠み終えると、杯の底を軽く鳴らし、得意げに笑った。
「どうじゃ。ちと出来がよかろう?」
忠三郎は眉を上げて笑う。
「妙に耳障りのいい句じゃな。誰の歌じゃ?」
「里に伝わる素破歌じゃ」
「……ほう。素破も、ずいぶん雅になったものよ」
しばし沈黙ののち、忠三郎が盃を傾けながら言う。
「義太夫、それはおぬしの作であろう?」
「はは、よう見抜いたのう」
二人は笑いあい、盃を軽く合わせる。
庭の草むらから虫の声が聞こえ、月が雲間に滲んだ。
忠三郎はその光を仰ぎながら、ぽつりとつぶやく。
「……照るも曇るも、時のいたずらか」
義太夫は笑みを浮かべたまま、そっと視線を落とした。
「殿はその方と同じ。伊勢を戦場にされるのが嫌なのであろう」
鼻歌交じりにそう言う。
「我らは伊勢攻略であちこち焼き払って歩いたせいで、未だに評判が悪い。何万人もの民を葬った罪は重すぎて負いきれるものではない。されど殿は悪評に耐え、辛抱強く、田畑を捨てて逃げた百姓どもが戻ってくるのを待った。民が少しずつ、北勢に戻ってからは、荒廃した土地を何年もかけて豊穣な地に変えた。あの日永周辺を切り開いたのも、雨季になると水害に悩まされていた地で堤を築かせたのも殿じゃ」
義太夫の声が夜気に溶けていく。竹の葉が擦れ合い、どこかで梟が鳴いた。
「我等、滝川の者が何年もかけてなしてきたことは、領主が変わったとて、なくなるようなものではない。その方、日永に行ったのであれば、目にしたであろう。一面に広がる畑を」
長島で何万人もの民を葬ったのは一益一人ではない。忠三郎も、織田家に連なる多くの武将も参戦し、この地は屍の山と化した。
戦後、残された滝川家の人々は、どんな思いで荒廃した地を復興させてきたのか。
「われらは己が利だけを求めて北勢を復興させたのではない。今や、誰が領主であっても作物は毎年実を実らせるし、民は収穫を喜んでおる。後の時代の人々には我らのことが記憶に残ることはないかもしれぬ。されど、思い起こすものがいなくなっても種蒔く者がいる限り、この地には豊かな実が実る。そう考えると、我らの役目はもう、終わっておるのかもしれぬな」
北勢を取り返せるかもしれないと話したときにはあんなに喜んでいたのに、今は、何の未練もないかのように言う。
「義太夫、おぬしは伊勢を取り戻したいと思うたのではないのか」
「それは無論、取り戻したい。されど殿が乗り気ではあるまい。手塩にかけて育てた伊勢を焼け野原にするくらいであれば、このまま静かに隠遁したいと、殿は、そうお考えではなかろうか」
桑名とその城下を焼き払ったのは忠三郎だ。そう言われてしまうと何も言えなくなる。
「義兄上は、やがては地をさすらう者となると、そう仰せであった。あれは如何なる意味か」
正直、何の話か分からなかった。一益は何を言いたかったのだろうか。
「あれは…」
義太夫は疲れたと見えて広縁に腰を下ろす。
「おぬしを案じておるのじゃ」
「案じるとは、何を?」
前回の戦で、主家の子を討ったのは他ならぬ織田家の家臣たち。秀吉も、忠三郎も、その血を見た。
理では割り切れぬ思いが、それぞれの胸に残っていた。
「分からんじゃろ。今の鶴は筑前に利用されているだけ。今は分からずとも、直に分かるようになる。分かった時におぬしがどうするのか。戦うことをやめるのか、戦い続けるのか、それはようわからんが、そのときに今日のことを思い起こすがよい」
秀吉は理で人を測らない。忠三郎は理でしか人を見られない。
互いに遠く、決して交わらぬ二人だった。
義太夫の言うときとは、いつ訪れるのだろうか。いずれにせよ、望むと望まざるとに関わらず、雪解けにはまた大きな戦さになる。次はもう織田家の内部の争いには留まらない。徳川家康、長曾我部元親、雑賀・根来衆を巻き込み、天下分け目の大戦さになるだろう。
忠三郎は杯の中の月影を見つめた。酔いは醒め、夜の静けさが骨にしみた。
その光の底に、己の影を見た気がした。
庭の草を渡る風が、遠くで灯を揺らした。
1
あなたにおすすめの小説
獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【戦国時代小説】 甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助
蔵屋
歴史・時代
わたしは、以前、甲斐国を観光旅行したことがある。
何故、甲斐国なのか?
それは、日本を象徴する富士山があるからだ。
さて、今回のわたしが小説の題材にした『甲斐の虎•武田信玄と軍師•山本勘助』はこの甲斐国で殆どの戦国乱世の時代を生き抜いた。そして越後の雄•上杉謙信との死闘は武田信玄、山本勘助にとっては人生そのものであったことだろう。
そんな彼らにわたしはスポットライトを当て読者の皆さんに彼らの素顔を知って頂く為に物語として執筆したものである。
なお、この小説の執筆に当たり『甲陽軍鑑』を参考にしていることを申し述べておく。
それでは、わたしが執筆した小説を最後までお楽しみ下さい。
読者の皆さんの人生において、お役に立てれば幸いです。
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
【アラウコの叫び 】第3巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎週月曜07:20投稿】
3巻からは戦争編になります。
戦物語に関心のある方は、ここから読み始めるのも良いかもしれません。
※1、2巻は序章的な物語、伝承、風土や生活等事を扱っています。
1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる