滝川家の人びと

卯花月影

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22 死児の齢を数う

22-4 思惑

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 風は止んだが、風の去った後の匂いだけが、これから起こる火を告げていた。
 兵は息を潜め、ただ人の思惑だけが、静かに駒を進めていた。
 三月十四日。
 徳川勢が津島・桑名辺りを行き来しているという情報が入る中、峯城が開城した。
 一益は約定通り城兵を逃がして峯城を掌中に収めると、忠三郎、堀久太郎、長谷川藤五郎とともに神戸城へ進軍を進める。尾張ではこの前日に池田恒興が兵をあげ、留守部隊が守る犬山城を奪取していた。それを聞いた森長可は美濃兼山から兵を進め、舅の池田恒興が犬山を取ったのであれば、と小牧山城に目を付けた。
 かつて信長が美濃攻略のために清須から小牧山へと居城を移したのはこれより二十年前。その後、美濃を手にした信長が小牧山に住んだのはわずか四年だった。
 小牧山付近にある松林は八幡林と呼ばれており、兵を隠すにはもってこいの場所だ。長可はここで兵が集まるのを待ち、小牧山城を奪い取ることにした。
 この森勢につけられた軍目付が羽柴家の家臣の尾藤甚右衛門。元は森長可の父、可成の家人で足軽頭程度の身分の者だったが、羽柴家で出世し、森家とは旧知の尾藤甚右衛門を選んで送り込んできたようだ。
 本来、軍目付が務まるような器ではなかったが、この頃の秀吉は人材不足に悩まされており、尾張、伊勢のほか、北陸や中国、紀州にも敵を抱えていて森長可の元に送り込めるような家人が他にいなかった。
 ところが、そんな秀吉の事情とは裏腹に、信長の元にいたときから軍目付の言うことに耳を貸すようなことがなかった鬼武蔵こと森長可。下人のような尾藤甚右衛門が目付として現れたこと自体、面白くない。
「森様、舅の池田様が犬山におられるというに、合流なさらぬので?」
 恐々尋ねてきたので、
「それゆえ我らは小牧山を取ろうとしておるのがわからぬか!さっさとこの辺りを焼き払え!」
 と一喝すると、尾藤甚右衛門は震えあがり、
「ハハッ!」
 逃げるように去っていった。
「伊勢では次々に城を落としておるというし、舅御も犬山を取った。わしも小牧山を落とさねばなるまい」
 かつての同僚だった蒲生忠三郎や堀久太郎、果ては舅の池田恒興にも先を越され、イライラと焦りを募らせていた。
「まぁ、そう焦るな。小牧山を取れば天下に名が轟くこと間違えなし。用意の酒がある。兵が集まるまで酒を飲んで少し落ち着こうではないか」
 親友であり、姉婿の関武兵衛にそう声をかけられると、それもそうだと納得し、酒宴にすることにした。それが十五日。
 油断しきっていた長可は物見を出すこともせず、二日ほど待ってから小牧山を取ろうと考え、翌日の十六日の夜も酒宴を開いて寝入っていた。
 明け方、何かが燃えているような匂いで目が覚めた。
「これは…」
 見ると、四方の木々が燃えている。
「朝駆けじゃ!」
「皆、起きろ!敵襲じゃ!」
 誰かの叫び声が聞こえ、続けて激しい銃声が鳴り響いた。
 慌てて兜を被り、槍を手にして騎乗すると、敵が雪崩を打って攻め込んできた。
「敵襲じゃ!起きろ!松林から離れろ!」
 馬を走らせ、触れ回って歩く。
 森林から離れて、陣形を整えなおそうと、声を枯らして叫び、敵を突き倒しながら馬を飛ばす。
 時折、見慣れない旗指物が目に入ってきた。
(敵は中将殿ではないのか)
 見慣れた織田の五つ木瓜とは違う紋に気づき、首を傾げていると
「殿!味方の兵が皆、逃げておりまする」
 家臣の一人、野呂助左衛門が馬を走らせてきた。
「何と!」
 退却すると勘違いした兵たちが皆、我先にと逃げ出していくのが見える。その向うに見える黒山の人だかり。あれは敵ではないだろうか。
「拙い、四方を敵に囲まれる」
 敵の動きが速く無駄がない。その上、兵が強い。
(中将殿の軍勢にしては強すぎる…)
 これまで徳川勢の動きを察知していなかった。まさかこの羽黒に布陣した十五日に、家康自らが兵を率いて目の前の小牧山城に入っていることなどは知る由もない。
「敵の将は?」
「徳川の酒井忠次、榊原康政かと」
「徳川…」
「あちらには松平家忠の軍勢も」
 三河兵は尾張兵とは比べ物にならないほど強いと聞いていた。それをはじめて目の当たりにした。その上、敵は味方を上回る兵力で奇襲をしかけ、無駄のない動きで森勢を取り囲み、退路を断った。
 長可はギリギリ歯噛みしながら、
「もはや退路も断たれた。かくなる上は徳川勢に斬りこんで…」
「殿!どうかお逃げくだされ!」
「武蔵守!早まるな!今は兵を引こう」
 関武兵衛がそう促す。
「しかしこのままでは…」
「生きておれば、また好機がくる」
 長可は関武兵衛の言葉に、しばし考え、やがて手にした軍配を投げ捨てた。
「口惜しいが、包囲を突破し、撤退する!貝を吹け!」
 法螺貝が退却の合図を出す。
 馬を走らせ、敵を切り崩そうと槍をふるうが、押し寄せてくる敵の数が多く、なかなか振り切ることができない。この人数の多さは先鋒とも言い難い。家康の本隊が小牧山まで来ているのだと気づいた。
「ひるむな!敵を突き崩せ!」
 残っているわずかな兵に声をかけ、先に進もうとするが、次々に敵が追いすがってくる。
「それがしが、しんがりを務めまする」
 というと、野呂助左衛門が兵を従えて追いすがる敵目掛け飛び込んでいった。
「今が好機!犬山まで走れ!助左衛門を無駄死にさせてはならぬ!」
 関武兵衛が叫ぶ。
「必ず、この雪辱を晴らしてくれよう!」
 長可は馬の首を返すと、舅のいる犬山城目指して逃走した。
 松の香が遠ざかるほど、心の奥の火はなお消えなかった。

 森長可敗走の知らせは、その日のうちに伊勢に届いた。伊勢では神戸城に籠る神戸与五郎との交渉を終え、開城した城に入ったところだった。
 神戸城はかつて、信長の三男、神戸三七信孝が居城としていた城だ。織田家の権勢を誇るようなこの城は、五層六階の天守がそびえ、さらに北東には小天守を備えた荘厳な佇まいをみせていた。ここには信孝の死後も、忠三郎の叔父にあたる神戸蔵人が住んでいたが、今回、城を占拠するにあたり、忠三郎が声をかけて、日野へ招こうとした。
 ところが、
「忠三郎殿はまたわしを追い払おうと言うか」
 信長の命により、十年に渡り日野に幽閉されていた神戸蔵人は蒲生家の世話になることに難色を示した。
「叔父上、お許しあれ。それがしも心苦しゅうござりますが、神戸家が織田に味方した以上、ここに留まれば咎め立てされましょう。どうか、速やかに城から立ち退いてくだされぬか」
 丁重に頼むと、神戸蔵人は渋々頷き、
「よかろう。されど、おぬしの世話にはなりとうない」
 頑なに拒むので、致し方なく、一益に相談した。一益はさもあらんと頷き、
「織田三十郎殿に頼み、安濃津に行っていただくのはどうか」
 織田信包の元へと話すと、神戸蔵人はようやく了承してくれた。忠三郎は一つ肩の荷を下ろし、ほっとした様子で一益の前に現れた。
「他の城将たちは皆、尾張へ向かった様子でござりました」
 森長可が敗走したことで、秀吉が大坂から腰を上げ、犬山へと向かっている。その動きを察知した織田信雄も将たちを尾張、美濃へ集めようとしていた。
「筑前の弟、羽柴小一郎の軍勢の到着を待って南伊勢に攻め入るが、鶴。蒲生勢には尾張まで来るようにと命がくだっておる」
 家康が小牧山まで出てきている。それに対峙するため、忠三郎、堀久太郎、長谷川藤五郎といった織田家の旧臣たちに召集がかけられた。
「尾張では負けたというが、味方の城を取られたわけではない。伊勢では勝ち進んでおる。さほど焦る必要はないが…」
 これから天下に君臨しようとしている秀吉からすると、徳川勢に負けた事実は大きい。このため、秀吉から一益に対し、徳川、北条に対して東から圧力をかけるため、木曽義昌、真田昌幸といった大名たちに働きかけてほしいと依頼がきている。
「我らは尾張へ向かいまする」
 一益は頷き、
「初手を誤ったとしても無理な戦をしなければ最後には勝つ。これほど兵力に差があるゆえ、焦る必要はない」
 それは誰に向かっていったのか。総力を挙げて家康と戦おうとしている秀吉に向かって言っているようにも思えた。
 一益の眼差しは、すでに戦場の先を見ていた。
 勝ち負けではなく、この戦がもたらす人の分断、家のほころび。
 あの八風の風が告げていたように、戦は理を失えば滅びを呼ぶ。
 それを知る者だけが、いま黙している。
「義兄上たちは何処へ?」
「伊勢を南下して松ヶ島城まで行き、志摩の九鬼海賊と合流する」
「では暫しの別れになりまするな」
 忠三郎は辺りを見回したが、いつも一益のそばをうろついている義太夫の姿が見えない。
「義太夫は?」
「昨夜、羽柴の別動隊が楠城を落としたと知らせを受け、楠城へ向かった」
 義太夫の娘がいるという城だ。功を焦る誰かが勝手に城を落としに行ってしまったのだろう。皆、それぞれが功名心に走り、思い思いに城を攻めたり、進軍したりとまるで意思の疎通が取れていない。
(この体たらくで、中将殿だけならまだしも、徳川に勝てるのだろうか)
 だんだん、この戦さの意義さえも見えなくなってきているが、家康と直接対決の場所は伊勢ではなく尾張になりそうだ。
「では義太夫の子なる姫の顔を伏し拝む機会でござりますな」
 これから尾張の犬山城近くまで兵を進めるのであれば、楠城の近くを通っていくことができる。
 こんな機会でもなければ義太夫は娘に会わせてはくれないだろう。義太夫が一益にまで隠していた秘蔵の姫とはどんな姫君なのか。忠三郎はわくわくしながら兵を従えて楠城へと兵を進めることにした。
 
 神戸城から楠城までは距離にして一里半ほど。楠城がある方角から煙が上がっているのは昨日から見えていた。誰かが付近に火を放ったのかと思っていた。
「殿。あれは城が燃えているようで」
 町野長門守に言われてみると、確かに燃えているのは城だった。神戸城の規模と比較すると、楠城はしっかりと土塁に囲まれてはいるが、建物そのものは城というよりは館に近い。付近の村も、林も、すべて火がかけられたらしく、一面が焼け野原で、城の中の館だけがまだ燃えているところだった。城主は留守で城代しかいなかったはずだ。穏便に城明け渡しを求めたのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
 軍勢は昨日のうちに尾張目指して退却したらしく、ひとけがない。
「城の中にいた者たちは如何したのであろうか」
 義太夫も、義太夫の娘らしき姿もなかった。
(どこかに逃がしたのか)
 どうやら出遅れたらしい。
「千載一遇の機会と思うてきたが、すでに遅かったようじゃ」
 忠三郎が少しがっかりして言うと、町野長門守が苦笑する。
「戦さが落ち着けば、いくらでも機会はござりましょう」
 町野長門守が苦笑する。
 忠三郎もつられて笑おうとしたが、唇が乾いて動かない。
 風に乗って、焦げた木と……何か、異様に甘い匂いがした。
 焼け跡の中に、ひと筋の髪のようなものが舞った気がしたが、
 馬の嘶きに紛れて見失った。
 ――遅かったのは、ただ時だけではなかった。
「致し方ない。尾張へ向かおう」
 家康が入城した小牧山城付近ではすでに羽柴勢が付城を築いているという話しだ。義太夫に逃げられたのは残念だが、気を取り直して戦さに集中することにした。
 春の空は澄んでいたが、どこかに見えぬ煙が立っているようだった。
 
 尾張、楽田城。小牧山城の北にあるこの城は、かつては信長の従弟にあたる織田信清の居城だった。秀吉はこの城を本陣として付近に付城を築かせていた。
 忠三郎が到着すると、すでに何名かの武将たちが到着しており、小さな城には似つかわしくない賑わいを見せている。
 軍議が始まるまで少し間がある。
 楽田の空気は、戦の前の静けさよりも、言葉を呑み込む沈黙の匂いがした。
 忠三郎は通された部屋で柱にもたれかかりながら、伊勢のことを思い起こしていた。
(楠城があったのは四日市。あの辺りは滝川家に縁のあるものが多く住んでいるという話であった。であれば、あるいは義太夫は姫をどこかの寺に隠したのかもしれぬ)
 連れ歩くこともできないだろうし、婿の楠木十郎は美濃に向かったというから、戦さが終わるまでの間、安全な場所に避難させたに違いない。
(されど…)
 何かが気になる。城が燃えているのを見たときから、何かが心にかかっている。それは何だろうかと考えていると、
「おい!」
 ふいに耳元で大声がして、驚いて顔をあげた。
「あ…」
 森長可が鬼のような形相で目の前に立っている。
「わしが入って来たというに挨拶もなしとは、如何なることか」
 いつからいたのかは分からないが、随分イライラとしているのが伝わってくる。咄嗟になんと返事をするべきか、言葉がでない。
「聞いておるのか、おぬしはやはり鈍三郎か?」
 どうも機嫌が悪いようだ。これは迂闊なことを言うとかえって火に油を注ぐことになると思い、とりあえず笑顔を返した。周りにいる者は皆、どうなることかと固唾をのんで見守っている。すると、
「二人とも、軍議が始まる。戯れは後にせい」
 ちょうど後ろから堀久太郎が声をかけてきた。それを聞くと森長可は舌打ちをして、忠三郎に背を向けて行ってしまった。
 
 戦さが膠着している。
 秀吉本隊の到着を見た徳川勢は小牧山城から一歩も動かない。両軍にらみ合ったまま何日も経過している。
「我が軍は兵力で圧倒的に勝っておるはず。誘い出して決戦に持ち込むべきところ。ここで決戦を避ける理由はありますまい」
 忠三郎が秀吉の顔色を窺うようにそう言うと、秀吉がうーんと唸る。
(相変わらず、嫌味な奴…)
 森長可がイライラと忠三郎を見る。秀吉が明言を避ける理由がわかっていて、あえて言っているのだろうと思われた。秀吉は野戦で家康に勝つ自信がない。その上、長可の敗北も重なり、これ以上の失敗はできないために、二の足を踏まざるを得ない。
「猿は昔から野戦が不得手じゃ」
 池田恒興が嘲笑うように言うと、居並ぶ諸将が失笑する。秀吉は怒るでもなく、困ったような顔をする。
「では…池田殿に何か策があるかのう?」
 秀吉がそう言うと、池田恒興が待っていたかのように、地図を差し、
「本隊をここに残し、別部隊を三河へ差し向けるのじゃ」
 大胆な作戦に、皆、驚いて恒興を見る。
「徳川本隊は小牧山。居城は手薄な筈。三河へ攻め入れば、徳川勢は慌てふためき、三河へ退却するであろう。そこを本隊が攻めかかり、別部隊と挟み撃ちにし、一気に叩き潰す」
 この作戦は義父の恒興とその子の元助、長可、関武兵衛の四人で練りだした秘策だ。
「なるほど…よい作戦ではある、が…」
 秀吉はいいとは言わない。
 忠三郎は恒興の話を黙って聞きながら、一益との会話を思い起こした。
(義兄上は…無理な戦をしなければ最後には勝つと、そう仰せであった。無理な戦とは…)
 まさにこの作戦は無理な戦ではないだろか。皆が静まり返る中、忠三郎が口を開いた。
「されど、別部隊の動きを敵に察知されたら何とされる。敵に追い打ちをかけられれば、兵の少ない別部隊は大損害を受けるのでは?」
 長可はカッとなり、
「分かり切ったことを申すな!敵に悟られぬように動くのじゃ!」
「されど、それができぬから、羽黒で徳川勢に囲まれたのではないのか」
 長可の胸の奥で、あの羽黒の朝の匂いが甦る。
 焼けた松の煙、逃げ惑う兵の背、己を笑う尾張の風。
 誰も慰めず、誰も叱らず、ただ「敗れた者」として名が残った。
 それが、なにより堪えた。
 忠三郎の言葉は、古傷を指でなぞるようであった。
 長可は顔を真っ赤にして逆上すると、バタッと音をたてて立ち上がり、目にも止まらぬ速さで刀を抜き、忠三郎めがけて振り下ろした。忠三郎は咄嗟に刀の柄を掴んで長可の刃を抑えた。顔色ひとつ変えていない。
 刃の光の中に、忠三郎は自らの呼吸だけを見ていた。
 怒りでも恐れでもない。ただ、風が吹き抜けるような静けさだった。
 堀久太郎と長谷川藤五郎が驚いて長可の両腕を抑える。
「待て!落ち着け、鬼武蔵!」
「もはや許せん!今日こそ斬ってくれるわ!万座の前でわしをコケにしおって!」
 満身の力をこめて振り下ろそうとするが、忠三郎が右手を柄に、左手で鞘を握って離さない。それを見て気づいた。
 通常、刀は右側に置くのが相手への礼儀だ。右に置いた刀を咄嗟に掴めば、右手にくるのは柄ではなく鞘ではないか。
 それが、忠三郎は右手で柄を握っている。最初から左に刀を置いていたのだろう。
「おのれは、はなからわしを怒らせようと…」
 怒りで顔を真っ赤にしてそう言うと、
「そうではない。おぬしは常より、わしがなにか言うと怒るではないか。何をそんなに腹をたてることがあるのじゃ。どうか、腹を立てずに聞いてほしい。羽黒の失敗を取り戻したい思いはわかる。されど徳川勢は長く武田を相手に戦ってきて野戦慣れしておる。姑息な手は…」
 忠三郎はなんとか言って聞かせようとするが、言えば言うほど火に油を注いでいることに気付かない。
「うるさい!黙れ!」
 益々怒った長可が思い切り忠三郎を蹴飛ばした。
 忠三郎が後ろに飛ばされ、秀吉にぶつかる。
「やめい、やめい。もう分かった。わしも別部隊に加わって三河へ攻め上ろう」
 堀久太郎がそう言うと、長谷川藤五郎も
「わしも三河へ兵を進めよう」
 と言ったので、長可はどうにか落ち着き、刀を鞘におさめた。
「然様か…二人とも、忝い」
 長可が二人を見て言う。
「何を申すか。我らは幼き頃よりの古い友垣ではないか」
「然様。武士は相見互いじゃ」
 二人のことばに、長可は胸が熱くなるのを感じる。
 池田恒興がふぅと息をつき、
「では、別部隊の第一陣をわしと元助、第二陣を森武蔵守と関武兵衛、第三陣を堀久太郎、第四陣を長谷川藤五郎としよう」
 一同、頷いてから、秀吉の存在に気づいた。
 この戦いの総大将は秀吉なのに、別部隊に秀吉の家臣が一人も入っていない。
 見ると、長可と忠三郎の仲の悪さを昔から分かっている者はともかく、秀吉をはじめとした他の者は腰を抜かさんばかりに驚いて震え上がっていた。
 ――誰も、秀吉を見ていなかった。
 この場を支配しているのは、まだ織田家の影であり、旧臣たちの記憶だった。
 筑前の名が、ただ『名目』として口にされたとき、秀吉は小さく笑い、誰よりも静かだった。
「おぉ、忘れておった。此度は羽柴筑前の戦さであった」
 池田恒興が笑うと、堀久太郎が、
「では第四陣の長谷川藤五郎のところに筑前の甥の三好殿を入れ、名目上、三好殿を総大将としては?」
 と体裁を整えることにした。
「それは、よい考えじゃ。三好秀次は未だ戦さ慣れしておらぬ。長谷川殿にご教示いただければ、なおよいかと」
 秀吉が頭を下げる。長谷川藤五郎は曖昧に頷き、
「では決まりましたな。早速、支度をはじめまする」
 苦しそうに胸を抑える忠三郎を尻目に、一同が頷き、戦評定が終わった。
 
 戦評定が終わり、次々に諸将が広間を後にする中で、忠三郎は森長可に声をかけた。
 長可はあからさまに警戒するそぶりを見せたが、
「おぉ、先刻は済まなんだな。おぬしの言うことも一理あるゆえ、別部隊の軍勢を増やし、一万三千としたゆえ安堵せい」
 長可としては最大限の譲歩のつもりだったが、忠三郎はエッと驚き、
「待て。兵は神速を尊ぶという。そのような大軍勢では進軍が遅くなるだけではなく、ますます敵に悟られるではないか」
 兵が増えたのは秀吉の後継者ともいわれる三好秀次を別部隊の総大将にしたからだ。
 長可は舌打ちして
「いちいちケチばかりつけてくるのう。戦さのイロハは己に教えてもらわずとも、よう分かっておるわ」
 イライラとそう言う。傍にいる関武兵衛は気が気ではない。だが、忠三郎も負けていない。
「武蔵守、功を焦るな。これまでは猪突猛進しても後ろには故右大臣様がおられ、城介殿もおられた。されど今は…」
「忠三郎。たいがいにせい。もうおぬしと話をするのも詮無い」
 忠三郎には、長可の焦りが見えていた。
 功名に飢えた者の目ではなく、居場所を失った武人の目――。
 だが、誰もその痛みを言葉にすることはない。
 ならば自分が言わねばと思った。
 たとえ憎まれようとも。
 理とは、時に人を怒らせてでも守らねばならぬものではないのか。
「余程、わしに斬られたいと見えるわ」
 関武兵衛を振り返ってそう言う声が聞こえた。
 火と風は相容れることはない。
 だが、どちらも戦の場には欠かせぬものだった。
 火が進軍を駆り立て、風がそれを諌める。
 その均衡の上にこそ、戦の理は保たれていた。だが、その均衡が崩れるとき、戦は理ではなく、運命に支配される。
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