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第一章 隣の部屋に住む人は
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次の週の土曜日。
午前は仕事があった目雲の帰宅を待って、ゆきがやってきたのは午後二時過ぎだった。
「お邪魔します」
掃除しやすいように髪を縛りパーカーとストレッチデニムでやってきたゆきを、ゆったりしたハイネックニットとストレートパンツのダークカラーのシンプルなスタイルの目雲が出迎えた。その服装のあまりの似合い具合にゆきはじっと見つめてしまわないようにとあちこちと視線を散らして挙動不審になっていた。
目雲は特に気にした様子もなく、ゆきを招き入れる。
「今日はありがとうございます」
以前は開け放たれていたリビングのドアが閉まっていて、目雲が開けてゆきを通してくれる。
「あれ、なんだか綺麗になってますか?」
「少しだけ。服はしまっただけで、あと捨てられる物は運び出しました」
床に置かれていた服も山になっていた段ボールも、ごみ袋に入れられて積まれていたペットボトルたちも、すっかりなくなっていた。
「私いらなかったですかね」
物が乱雑に置かれてたキッチンカウンターもダイニングテーブルもソファー前のテーブルも見違えるように物がない。
「いえ、床を拭いたりはまだできてないので」
「じゃあ私はそれを」
「僕は窓ふきをします、なにかあったら声かけてください」
目雲はゆきにフローリングワイパーとシートを数種類渡すと、窓に向かっていった。
ゆきは言われたままにダイニング、リビング、キッチン、廊下、玄関と丁寧に拭き上げていく。
目雲は黙々と掃除をしているゆきが予想通りだと、色目を使うどころか近づいても来ない姿を宮前に教えた時の反応がどうなるだろうかと他人事のように考えながら自分も窓をせっせと拭いていた。
「目雲さん、他の部屋はどうしますか?」
玄関から戻ってきたゆきがリビングのドアの辺りで声を掛ければ、始めはベランダに出ていた目雲が今は室内で仕上げをしていてゆきの方へ振りむいた。
「寝室だけ、あとの部屋は物置のようになってるので」
「わかりました」
寝室の扉を開けると、そこもきちんとベッドメイクされていて、ここの窓ふきはもう終わっていたのかカーテンも開けられ、余分な物はなにもない。
目雲が気を利かせてくれてリビングダイニングも寝室も暖房がしっかり効いていて、水仕事もウエットのシートを取り換えるくらいで全くないので凍えることもない。玄関だけはそれでも寒さを感じたが、そこまで広大な玄関ではないのでわずかな時間で終えることができてゆきは冷えずに済んだ。
だからこそ、有難い上にどこも床に物が置かれておらず実に拭きやすい部屋だと思いながら、ゆきは手を次々動かしていく。
そんな風に空拭き、水拭き、隅の埃なんかも拭いて、それなりの時間が過ぎていた。
部屋の暗さが気になりだした頃、ゆきは腰に手を当て頷いた。
「目雲さん大体拭き終わりました!」
寝室から顔出して、目雲を探すと窓ふきは終わっていて、キッチンで作業していた。
「はい、僕の方もこれくらいにしておきます。お茶でも飲みましょう」
「ありがとうございます」
目雲に導かれてティッシュ箱一つないダイニングテーブルに着くと、目雲に何を飲むか聞かれる。
「コーヒーは苦手じゃないですか?」
「好きです、お砂糖だけいただいてもいいですか」
「はい、少々お待ちください」
少しすると部屋にコーヒーのいい香りが漂う。
「どうぞ」
ソーサーに乗ったコーヒーカップが目の前に置かれて、ゆきが軽く会釈で返す。
「目雲さんは本当に丁寧な暮らしをされてますね」
自分ではソーサーなんて誰か来た時でも使わないなと思わず苦笑しながら反省してしまい目雲にそれを不思議そうに見られる。
「そうですか?」
「はい」
特に深く説明せずにただの笑顔の返事で終わらせて、いただきますと、ゆきがそっと口をつける。
「美味しいです」
お世辞ではない感想だった。ただ日頃溶かすだけのインスタントコーヒーが多いゆきなので、特別コーヒーに詳しいわけではなく、ただ好きで大まかな味の違いくらいしか分からない。
だから純粋に思ったままを口にした。
「良かったです」
目雲もゆきの反応を見てからコーヒーに口を付ける。
「コーヒーよく飲まれるんですか?」
目の前に座った目雲も同じセットのカップで飲んでいて、美味しいコーヒーも淹れるので深い意味もなく聞いた。
「たまにです。あまり飲むと僕の場合はよくないので」
そう言われカフェインの摂取は自律神経の乱れにあまり良くないんだとゆきは頷く。
「今日は大丈夫なんですか?」
「最近は調子もいいので大丈夫です。香りが好きなので少しだけ。ゆきさんは?」
「私は仕事するときのお供です、こだわりもないので自分で買うのはインスタントなんですけど」
「これも簡単なドリップパックですよ」
「ドリップパックを開くのも惜しむような人間で、面目ないです」
ものぐさな自分に苦笑しながら頭に手をやるゆきに、そんなことないですよと目雲は言う。
「今日もとても丁寧に掃除してもらっていますよ」
「優しいですね、目雲さん。手伝いに来たんですから、当たり前ですよ」
「優しいのはゆきさんだと思います」
表情のあまり変わらない目雲だが、それが余計に真摯に言われてしまっているようで体温が上がりそうになるのをなんとか誤魔化すように手を振って慌てて否定する。
「いえいえ、そんな。とんでもないです。私より優しい人は五万といますし、目雲さんだって絶対私なんかより素晴らしい人ですよ」
「いえ、ゆきさんの方が素晴らしいです」
また咄嗟に否定したくなったが、このままでは一生押し問答になると悟ったゆきは恐れ入りますと受け入れることにした。
そしてコーヒーで自分を落ち着ける。
格好良くて、仕事も熱心で、落ち着いていて、余裕さえあれば暮らしぶりも比べるまでもなく丁寧で、心遣いまでできる人間が本の中以外にも存在することにゆきは感銘を受けるほどだった。
これまでも小説の登場人物のようだと思った人は良くも悪くも何人かいるゆきだったが、小説の中でさえ幻のように言われている存在が実在することに驚きを通り越して、少し研究材料になってしまいそうなほど知れば知るほど興味を惹かれていた。
けれどもちろん深入りするつもりは無い。
小説の中にいそうな人物だからこそ、それこそ山の様に本を読んでいるゆきはただ隣に住んでいるだけの存在が下手に興味を示すことを嫌がるだろうと簡単に予想できる。
お隣さんとはできるだけ良好な関係を築いていたいゆきは、猫をも殺す好奇心をきちんとしまい込んだ。
「ゆきさん、今日は夕ご飯のご予定はありますか?」
ふいな目雲の問いに、ゆきは冷蔵庫の中身を思い返した。
「うーん、お豆腐の消費期限が心配なので、それを食べようかなと」
「誰かと食べるとか」
「一人ですよ」
愛美はもう次の来週まで帰れないと連絡を貰っていたので、ゆきはあっさりと答えると、目雲は特に感情も込めない風でゆきに提案をする。
「それならごちそうさせてもらえませんか?」
「そんな、床拭いただけですから」
当然の謙遜をするゆきに目雲があっさり引くわけもなかった。
「ご迷惑ばかりかけたお詫びも兼ねて」
やっぱり気にしてるよなと、ゆきは目雲の胸中を察する。当初ゆきが抱いていた印象の通り、基本的には自立心の高い人なのだ。だから、顔見知り程度の自分に世話になったことを簡単に水に流したりはできなのだろうとゆきは穏やかな笑顔になる。
「お詫びはもういただいてますよ」
「お詫びと言っても豪勢な物ではないので、食べていってください」
そこまで言われると遠慮し過ぎるのも失礼だなと、目雲の気持ちも汲み取りゆきは頷いた。
「じゃあお言葉に甘えて」
ようやく一つ頷いた目雲は、早速立ち上がった。
「好き嫌いやアレルギーはありますか?」
「なんでも食べられます」
キッチンに歩く目雲を目で追いながらゆきはコーヒーのカップを傾ける。キッチンのカウンターとゆきの座る席は丁度向かい合っていたので、目雲の様子が伺えた。
冷蔵庫を開けていた目雲が振り返るとゆきを見た。
「お豆腐が心配でしたら、僕が使ってもいいでしょうか?」
「それは助かります!」
勢いよくゆきは立ち上がった。
さっそく隣に戻り豆腐を持ってきたゆきを今度はエプロン姿の目雲が玄関を開けて迎える。シンプルな黒いエプロンは細身の目雲にとても似合っていた。
豆腐を受け取った目雲はキッチンに行く前にゆきをリビングに導く。
「ソファーにでも座っていてください」
「何か手伝えることがあればおっしゃってくださいね」
キッチンに向かう目雲に言うと、作業に取り掛かりながらカウンター越しに返事が来る。
「簡単な物だけなので、お気持ちだけ」
ゆきもそれ以上言わない。キッチンは人によっては聖域だったりするからと、ゆきの母の教えだ。
「お暇でしょうから、本読んで貰っていいですよ。この前の続きでも」
「……あの本、図書館で借りて読んでしまいました。つい続きが気になって」
そして申し訳なさげな表情をしたゆきに目雲の方が恐縮する。
「僕がお貸しすれば良かったですね」
「私こそ、買ってお知り合いの方に貢献するべきだったと読み終わった後に気が付いて」
考えたことのないことで、目雲には新たな視点だった。
「それは出版に携わる方の感覚ですね」
ゆきもそうと思っていてもできない現実がある。
「本だけは無限に増えていってしまうので、制御しないと本に埋もれて暮らすことになってしまって。だから図書館に行くとつい借りてしまって」
これはゆきの謙遜でも言葉の綾でも何でもなく、新刊は必ず買うことにしているがそれだけでも一瞬で部屋は本でいっぱいになり、古本なんか買いだしたら加速度的に床が見えなくなっていくので、返せる図書館というのはゆきにとっては本当に居住スペースとしても金銭的にも救世主以外の何者でもない。
それでも購入する本も毎月必ずあり定期的に整理するようにしていても、完全に減らし切ることは難しかった。
「まだ読んでないのがあれば読んでください、今度はお貸ししますので」
目雲がどうやら話しながらでも料理をできるタイプなんだと、キッチンを眺めながら思う。
欲望に負けたゆきは立ち上がり、本を一冊手に取り戻る。
目雲の本棚の並ぶ小説でゆきが未読な本は半分ほどだった。
前回読んだ著者はどうやらいわゆるベストセラーになっているような作家ではなかったようだが、一般の図書館に貯蔵されるほどには知名度がある人物のようでここ数年はかなりハイペースで執筆しているようだった。
学生時代、図書館の本を端から借りていくようなゆきでもここ最近はそこまでの時間はなく知らない作家もたくさんいる。
知っている本を読むのも好きだが、未知との遭遇もやはり心躍るゆきがそうなると本の世界に没入するのは一瞬のことだった。ただ流石に普段一人で読むときのように集中し過ぎないように気を付けているつもりだったが、結局目雲に声を掛けられるまでは本から意識が逸れることはなかった。
午前は仕事があった目雲の帰宅を待って、ゆきがやってきたのは午後二時過ぎだった。
「お邪魔します」
掃除しやすいように髪を縛りパーカーとストレッチデニムでやってきたゆきを、ゆったりしたハイネックニットとストレートパンツのダークカラーのシンプルなスタイルの目雲が出迎えた。その服装のあまりの似合い具合にゆきはじっと見つめてしまわないようにとあちこちと視線を散らして挙動不審になっていた。
目雲は特に気にした様子もなく、ゆきを招き入れる。
「今日はありがとうございます」
以前は開け放たれていたリビングのドアが閉まっていて、目雲が開けてゆきを通してくれる。
「あれ、なんだか綺麗になってますか?」
「少しだけ。服はしまっただけで、あと捨てられる物は運び出しました」
床に置かれていた服も山になっていた段ボールも、ごみ袋に入れられて積まれていたペットボトルたちも、すっかりなくなっていた。
「私いらなかったですかね」
物が乱雑に置かれてたキッチンカウンターもダイニングテーブルもソファー前のテーブルも見違えるように物がない。
「いえ、床を拭いたりはまだできてないので」
「じゃあ私はそれを」
「僕は窓ふきをします、なにかあったら声かけてください」
目雲はゆきにフローリングワイパーとシートを数種類渡すと、窓に向かっていった。
ゆきは言われたままにダイニング、リビング、キッチン、廊下、玄関と丁寧に拭き上げていく。
目雲は黙々と掃除をしているゆきが予想通りだと、色目を使うどころか近づいても来ない姿を宮前に教えた時の反応がどうなるだろうかと他人事のように考えながら自分も窓をせっせと拭いていた。
「目雲さん、他の部屋はどうしますか?」
玄関から戻ってきたゆきがリビングのドアの辺りで声を掛ければ、始めはベランダに出ていた目雲が今は室内で仕上げをしていてゆきの方へ振りむいた。
「寝室だけ、あとの部屋は物置のようになってるので」
「わかりました」
寝室の扉を開けると、そこもきちんとベッドメイクされていて、ここの窓ふきはもう終わっていたのかカーテンも開けられ、余分な物はなにもない。
目雲が気を利かせてくれてリビングダイニングも寝室も暖房がしっかり効いていて、水仕事もウエットのシートを取り換えるくらいで全くないので凍えることもない。玄関だけはそれでも寒さを感じたが、そこまで広大な玄関ではないのでわずかな時間で終えることができてゆきは冷えずに済んだ。
だからこそ、有難い上にどこも床に物が置かれておらず実に拭きやすい部屋だと思いながら、ゆきは手を次々動かしていく。
そんな風に空拭き、水拭き、隅の埃なんかも拭いて、それなりの時間が過ぎていた。
部屋の暗さが気になりだした頃、ゆきは腰に手を当て頷いた。
「目雲さん大体拭き終わりました!」
寝室から顔出して、目雲を探すと窓ふきは終わっていて、キッチンで作業していた。
「はい、僕の方もこれくらいにしておきます。お茶でも飲みましょう」
「ありがとうございます」
目雲に導かれてティッシュ箱一つないダイニングテーブルに着くと、目雲に何を飲むか聞かれる。
「コーヒーは苦手じゃないですか?」
「好きです、お砂糖だけいただいてもいいですか」
「はい、少々お待ちください」
少しすると部屋にコーヒーのいい香りが漂う。
「どうぞ」
ソーサーに乗ったコーヒーカップが目の前に置かれて、ゆきが軽く会釈で返す。
「目雲さんは本当に丁寧な暮らしをされてますね」
自分ではソーサーなんて誰か来た時でも使わないなと思わず苦笑しながら反省してしまい目雲にそれを不思議そうに見られる。
「そうですか?」
「はい」
特に深く説明せずにただの笑顔の返事で終わらせて、いただきますと、ゆきがそっと口をつける。
「美味しいです」
お世辞ではない感想だった。ただ日頃溶かすだけのインスタントコーヒーが多いゆきなので、特別コーヒーに詳しいわけではなく、ただ好きで大まかな味の違いくらいしか分からない。
だから純粋に思ったままを口にした。
「良かったです」
目雲もゆきの反応を見てからコーヒーに口を付ける。
「コーヒーよく飲まれるんですか?」
目の前に座った目雲も同じセットのカップで飲んでいて、美味しいコーヒーも淹れるので深い意味もなく聞いた。
「たまにです。あまり飲むと僕の場合はよくないので」
そう言われカフェインの摂取は自律神経の乱れにあまり良くないんだとゆきは頷く。
「今日は大丈夫なんですか?」
「最近は調子もいいので大丈夫です。香りが好きなので少しだけ。ゆきさんは?」
「私は仕事するときのお供です、こだわりもないので自分で買うのはインスタントなんですけど」
「これも簡単なドリップパックですよ」
「ドリップパックを開くのも惜しむような人間で、面目ないです」
ものぐさな自分に苦笑しながら頭に手をやるゆきに、そんなことないですよと目雲は言う。
「今日もとても丁寧に掃除してもらっていますよ」
「優しいですね、目雲さん。手伝いに来たんですから、当たり前ですよ」
「優しいのはゆきさんだと思います」
表情のあまり変わらない目雲だが、それが余計に真摯に言われてしまっているようで体温が上がりそうになるのをなんとか誤魔化すように手を振って慌てて否定する。
「いえいえ、そんな。とんでもないです。私より優しい人は五万といますし、目雲さんだって絶対私なんかより素晴らしい人ですよ」
「いえ、ゆきさんの方が素晴らしいです」
また咄嗟に否定したくなったが、このままでは一生押し問答になると悟ったゆきは恐れ入りますと受け入れることにした。
そしてコーヒーで自分を落ち着ける。
格好良くて、仕事も熱心で、落ち着いていて、余裕さえあれば暮らしぶりも比べるまでもなく丁寧で、心遣いまでできる人間が本の中以外にも存在することにゆきは感銘を受けるほどだった。
これまでも小説の登場人物のようだと思った人は良くも悪くも何人かいるゆきだったが、小説の中でさえ幻のように言われている存在が実在することに驚きを通り越して、少し研究材料になってしまいそうなほど知れば知るほど興味を惹かれていた。
けれどもちろん深入りするつもりは無い。
小説の中にいそうな人物だからこそ、それこそ山の様に本を読んでいるゆきはただ隣に住んでいるだけの存在が下手に興味を示すことを嫌がるだろうと簡単に予想できる。
お隣さんとはできるだけ良好な関係を築いていたいゆきは、猫をも殺す好奇心をきちんとしまい込んだ。
「ゆきさん、今日は夕ご飯のご予定はありますか?」
ふいな目雲の問いに、ゆきは冷蔵庫の中身を思い返した。
「うーん、お豆腐の消費期限が心配なので、それを食べようかなと」
「誰かと食べるとか」
「一人ですよ」
愛美はもう次の来週まで帰れないと連絡を貰っていたので、ゆきはあっさりと答えると、目雲は特に感情も込めない風でゆきに提案をする。
「それならごちそうさせてもらえませんか?」
「そんな、床拭いただけですから」
当然の謙遜をするゆきに目雲があっさり引くわけもなかった。
「ご迷惑ばかりかけたお詫びも兼ねて」
やっぱり気にしてるよなと、ゆきは目雲の胸中を察する。当初ゆきが抱いていた印象の通り、基本的には自立心の高い人なのだ。だから、顔見知り程度の自分に世話になったことを簡単に水に流したりはできなのだろうとゆきは穏やかな笑顔になる。
「お詫びはもういただいてますよ」
「お詫びと言っても豪勢な物ではないので、食べていってください」
そこまで言われると遠慮し過ぎるのも失礼だなと、目雲の気持ちも汲み取りゆきは頷いた。
「じゃあお言葉に甘えて」
ようやく一つ頷いた目雲は、早速立ち上がった。
「好き嫌いやアレルギーはありますか?」
「なんでも食べられます」
キッチンに歩く目雲を目で追いながらゆきはコーヒーのカップを傾ける。キッチンのカウンターとゆきの座る席は丁度向かい合っていたので、目雲の様子が伺えた。
冷蔵庫を開けていた目雲が振り返るとゆきを見た。
「お豆腐が心配でしたら、僕が使ってもいいでしょうか?」
「それは助かります!」
勢いよくゆきは立ち上がった。
さっそく隣に戻り豆腐を持ってきたゆきを今度はエプロン姿の目雲が玄関を開けて迎える。シンプルな黒いエプロンは細身の目雲にとても似合っていた。
豆腐を受け取った目雲はキッチンに行く前にゆきをリビングに導く。
「ソファーにでも座っていてください」
「何か手伝えることがあればおっしゃってくださいね」
キッチンに向かう目雲に言うと、作業に取り掛かりながらカウンター越しに返事が来る。
「簡単な物だけなので、お気持ちだけ」
ゆきもそれ以上言わない。キッチンは人によっては聖域だったりするからと、ゆきの母の教えだ。
「お暇でしょうから、本読んで貰っていいですよ。この前の続きでも」
「……あの本、図書館で借りて読んでしまいました。つい続きが気になって」
そして申し訳なさげな表情をしたゆきに目雲の方が恐縮する。
「僕がお貸しすれば良かったですね」
「私こそ、買ってお知り合いの方に貢献するべきだったと読み終わった後に気が付いて」
考えたことのないことで、目雲には新たな視点だった。
「それは出版に携わる方の感覚ですね」
ゆきもそうと思っていてもできない現実がある。
「本だけは無限に増えていってしまうので、制御しないと本に埋もれて暮らすことになってしまって。だから図書館に行くとつい借りてしまって」
これはゆきの謙遜でも言葉の綾でも何でもなく、新刊は必ず買うことにしているがそれだけでも一瞬で部屋は本でいっぱいになり、古本なんか買いだしたら加速度的に床が見えなくなっていくので、返せる図書館というのはゆきにとっては本当に居住スペースとしても金銭的にも救世主以外の何者でもない。
それでも購入する本も毎月必ずあり定期的に整理するようにしていても、完全に減らし切ることは難しかった。
「まだ読んでないのがあれば読んでください、今度はお貸ししますので」
目雲がどうやら話しながらでも料理をできるタイプなんだと、キッチンを眺めながら思う。
欲望に負けたゆきは立ち上がり、本を一冊手に取り戻る。
目雲の本棚の並ぶ小説でゆきが未読な本は半分ほどだった。
前回読んだ著者はどうやらいわゆるベストセラーになっているような作家ではなかったようだが、一般の図書館に貯蔵されるほどには知名度がある人物のようでここ数年はかなりハイペースで執筆しているようだった。
学生時代、図書館の本を端から借りていくようなゆきでもここ最近はそこまでの時間はなく知らない作家もたくさんいる。
知っている本を読むのも好きだが、未知との遭遇もやはり心躍るゆきがそうなると本の世界に没入するのは一瞬のことだった。ただ流石に普段一人で読むときのように集中し過ぎないように気を付けているつもりだったが、結局目雲に声を掛けられるまでは本から意識が逸れることはなかった。
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