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第一章 隣の部屋に住む人は
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「ゆきさん、お待たせしました」
没入し過ぎないようにしていたのが功を奏して、ゆきはすぐに顔を上げた。
「あ、つい読みふけって」
それでも時間は意外に過ぎていた。
「今度は持って行ってくださいね、返すのはいつでもいいので」
「ありがとうございます」
作家の事を思えば買う方が良いだろうなと思いながらも目雲の厚意も有難く感じるため素直にお礼を言い一先ず本棚に本を戻してから、視線を移せばダイニングテーブルに広がる光景に思わず感嘆の声が出る。
「わぁ、目雲さん料理お上手なんですね」
「洒落たものは作れませんが」
「十分お洒落だと思いますよ。盛り付けも素敵でSNSで見るみたいです」
家庭の和食の理想が詰まっているようだった。
ごはん、味噌汁、小鉢がふたつにメインの焼き魚に、大皿に煮物が盛られている。食器もシックでモダンなので料理の邪魔をしていない。
箸置きに置かれた箸が丁寧さの象徴のようにゆきには映る。
さっきと同じ席に目雲に椅子を引かれて座ると、同じくその向かいに目雲が座る。
おしぼりまで出してもらい、ゆきはもうここが普通の家だとは思えなくなってきていた。
「どうぞ」
「いただきます」
ゆきは小粋に盛り付けられた雰囲気に合わせて、丁寧に箸を取った。
「お口に合わなければ残してください」
目雲が煮物を取り分けながら言うが、それを受け取って口に運ぶゆきの顔はほころぶ。
「おいしい、すっごくおいしいですよ」
「お口にあったなら良かったです」
「すごいです、和食って難しいですよね」
「そうでもないですよ」
箸を進めるゆきは本当にどれも美味しくて驚いていた。名前の分からない料理は一つもなく、だからこそ誰にでもある程度味の予想をできる品を、飛び切り美味しく作るのは難しいはずだと、定食屋で働くゆきはその手間を知っていた。
「大変じゃなかったですか?」
「いえ、昔から料理はする方だったので、物珍しい献立や食材でない限りは特に考えずに作れますから」
尊敬の眼差しをゆきは向ける。
「これを作り慣れているなんて、基本的な腕前が違いますね。私、何でもただ切って焼くか煮るかくらいしかやらない上に、いつも一品料理です」
「切って焼いて煮るのは、これも同じですし、美味しく食べられればそれで良いと思います」
クオリティーの差は明確にあると思ったゆきだったが、敢えて言わずに、自分が美味しいと思っていることも確かだったので頷いた。
「ほとんど自分で食べるだけだったらいいですよね」
たまに愛美の分も作ることもあるが、愛美もつまみになる料理限定でレパートリーが多いので、たまに帰ってきて夕飯を一緒に食べられるときは愛美が作って一緒に飲むことの方が多かった。
「その魚は骨もないので、気にせず食べてもらって平気です」
「あ、ありがとうございます」
食事の所作も綺麗な目雲についゆきは見惚れてしまう。
「ゆっくり食べてくださいね」
はい、と頷き目雲に調理法を聞き参考にしてみると話しながら、その合間で手はどんどんと進み、決して慌ててるわけではなかったが確実に箸を口に運び続けた。
煮物もご飯も促されるままお替りを貰い、食べ終わった頃温かいお茶まであり、ちょっと食い意地が見えすぎやしないかと内心照れながら、湯飲みを傾けてからゆきは部屋を見回す。
そこに目雲の落ち着いた様子がしっかりと感じられたのも確かだった。
ただ普通に生活するだけのことが多忙な目雲には難しくて、荒れた部屋が目に見えることがさらにストレスになっていると感じられていただけに、こうして整った部屋で食事をゆっくり取れることがどれだけ目雲にとって平穏で充実した日常なんだろうとゆきの方が嬉しくなるようだった。
「これだけ綺麗だと良い年越しができそうですね」
見違える部屋に思わずゆきがそう言うと目雲も今が年末に近いのだと気が付いたように頷いた。
「そうでした、ゆきさんは年末は帰省されるんですか?」
「はい、毎年実家で年越ししてます。目雲さんは?」
「僕の実家はわりと近くなので、年が明けて少し挨拶に顔を出すだけです」
「私のところは乗り継ぎの関係で電車で行っても二時間、車でも二時間という場所なんです。ちょっとだけ遠いんですよね」
特別不便な所に住んでいたわけではないが、中途半端に田舎だからこそ交通の便が少しだけ悪かった。けれどそれはその地域から遠くへ出ようと思った場合の話しで、地元にいれば車さえあれば大抵のものは手に入る、生活には不自由するような土地でもなかった。
「こちらに来たのは大学の進学ですか?」
「そうです、国際文化学科のあるところに行きたくて」
「それで、翻訳なんですね」
ゆきの進学の目的はそうではなかったので、きっかけを説明する。
「翻訳をするようになったのは、成り行きなところが大きいんですけど。ゼミの教授が忙しい時にお手伝いしたのが始まりで。その教授、見た目はほのぼのしてる感じなんですけど、すっごく行動的で時間があると思ったらすぐフィールドワークに出ちゃったりしてました」
教授の専門は偏執的な海外の文化や民俗学だとゆきがいうと、目雲は頷いた。
「それでお手伝いを?」
「私が本ばっかり読んでたので、ついでに読んでおいてと渡された英語の書類が出版社の方が依頼した翻訳のための資料だったみたいで。参考資料のようなものの監修を教授がしてたらしく、それを知らずに外国にいる教授にメールで内容とその修正と疑問点を書いて送ったら、じゃああれも、これもと。最初は課題の一つかなと思ってたので、何してるか分かってなかったんですけど。教授がバイト代だってお金くれて、真実を知ったわけです。そのうち資料じゃなくて、翻訳そのものを出版社の方が私に依頼してくれるようになったんです」
「大学生の頃からしていたんですね、英語が得意だったんですか?」
「役に立つかなってくらいの軽い気持ちで高校は英語科に行ってたんです、それで洋書を読むようになって。その中の登場人物が好きになって、その背景や文化が気になって。だから外国語学部とか言語を専門にじゃなくて、人文学で海外の事を知りたかったんです。自分が知りたかっただけなので、伝える視点で考えるとまた難しいです」
将来のことを考えてのことでは全くなく、単純に興味の探求のために大学に入ったゆきだったので、その知識を使うこと以上に本好きだからこそ今の仕事は当初はかなり戸惑った。
最初は短い専門的な翻訳だったので調べさえすれば何とかなったが、ゆきが洋書もジャンル問わず多く読むと知られてからは徐々に民俗学寄りの文芸の仕事も多くなり、そうなると頭を使うことが格段に多くなった。的確な表現を探すのは多くの本を知っているゆきでも簡単とは言い難かった。
「海外旅行もお好きなんですか?」
海外の文化には興味があるゆきだったが、現地に行きたいとはほとんど思わなかった。多くの作品を読むとそれらをすべてを現実と照らし合わせると矛盾が必ず生じ、ゆきの現実世界はとんでもないことになってしまうので、本の中の世界はその本だけで完結するように自然となっていた。
ただそのことを上手く説明するのはとても難しいと思ったゆきは別の理由を挙げた。
「お金持ちじゃないのでたくさんはないんですけど、ちょっと聖地巡礼みたいなことは何度か。それに話す方は得意じゃないんです。耳から入ってきた音を頭で文字に起こす作業しちゃったり、日常的に話してないから発音が悪いのもあって。だから文章を読む方が好きです」
「日本語でも?」
「もちろん! 本当は何語でもと言いたいところですけど、二つの言語でも本はたくさんあるのでまだ違う言語の習得は難しそうです」
いつかはと思わないでもないゆきだったが、まだまだ先の話になりそうだった。
自分の話ばかりになってしまったので、今度はゆきが目雲のことを尋ねる。
「目雲さんはどうして建築士になったんですか?」
「僕はただ家を建ててみたかったんです」
単純明快な答えにゆきはにっこりと笑う。
「すごく分かりやすいですね」
「子供の頃に思ったので、もう理由も覚えてないんですけど」
「子供の頃からの夢を叶えたなんてすごいことですよ」
ゆきは本心でそう伝えた。
「そうですか?」
「なかなかいないと思いますよ」
「それ以外は考えたことがなかったので、何も思いませんでした」
目雲のあまりにあっさりとしたそれでいて迷いのない回答にゆきは驚いてしまう。
「それもすごいですね」
「そうでしょうか」
「一般的にはそうだと思います、たぶん。私もあまり深く考えたことがないので参考にはならないんですけど」
話しながらも自分のことを振り返ると目雲とは違う意味で成り行きに任せて考えてこなかったことを思い出した。
目雲も頷く。
「必要なことを勉強したら今があるだけなので、僕も深くは考えたことはありません」
「学ぶことがお好きなんですか?」
なんとなくは感じ取っていたが改めて聞いてみたくなったゆきに、目雲はさっきと同じくあっさりと答えた。
「好きというほどではありません、必要があればやるだけです」
必要に迫られても嫌な物は嫌なゆきだったので、目雲が異次元の存在な気さえしてきた。
「勉強が苦にならないと苦手な科目とかもなかったんですか?」
「なかったです」
簡単に答えられてゆきはもう語彙力を失う。
「本当にすごいですね」
「ゆきさんはあったんですか?」
「私も、特別苦手なことはないんですけど、全部大体平均的で得意な教科もなかったですね」
それなりしか頑張らなかったせいだとも分かっているので、ゆきは何も誇れなかった。
「英語もですか?」
その疑問は当然だろうとゆきでも分かる。だが現在仕事にしているとしてもとても得意というのは烏滸がましいと実感があった。
「中学はもちろん、英語科なんて周りは得意な人たちばっかりなので頑張って平均でしたよ。結構先生にお世話になった方です」
分からない問題は考えるより聞く方が理解が早かったので、ゆきはよく教師に聞きに行っていた。
「生徒指導的にではなくということですね」
目雲に言われ、自分の今の言い方だと生活態度に問題があったともとれるかと、笑って頷いた。
「生活態度は二重丸ですよ、基本的に本読んでるだけで、本読む時間を確保するためにも授業中だけはしっかり勉強してました」
「本を読むのがすべての理由なんですね」
ゆきが今度はわざとにっこり笑った。
「はい」
そんな話をしたからもちろん帰る時には目雲から借りていくように促された。
強固に断る理由も見つからなかったゆきは、読みかけの本を素直に受け取った。
「本まで貸してもらってありがとうございます」
「いつでもいいですから、ゆっくり読んでください」
玄関で靴を履き、見送りに来た目雲の前に立つ。僅かな段差ながら、より身長差ができるので、見上げるゆきは改めてそのことを思い出す。
「目雲さんって本当に背が高いですよね」
「遺伝です」
ゆきがいくつと問えば、一八八センチだと返ってきその高さを知る。
「私も平均身長よりちょっとはあるんですけど、こんなに背が高い人に出会ったのは初めてかもしれません」
ゆきは背伸びをして、その高さを実感した。その高さの世界はどう見えるのだろうかとゆきが考えながら、見えない頭上から少し目線を下げればどこか戸惑っているような目雲の表情が目に入る。
「あ、すみません。今日はありがとうございました」
数字の実感を得るための行動が、いつの間にかあざとい行動になっていたと慌てたのはゆきの方だった。
目雲の方は至って冷静そうに頭を下げる。
「こちらこそありがとうございました」
掃除をしに来たことをご飯を出してもらったことですっかり忘れていたゆきは、そうだったと自分に笑った。
そして目雲はきっとこんなあざとい行為を躱すなんてこと日常茶飯事なのだろうと、ほっとする。
たとえ勘違いされてもゆきの印象が下がるだけだからと開き直ったともいえた。気があるのだろうと思われても、目雲にそれを受け入れるつもりがないのはその微動だにしない雰囲気でよく分かり、逆に冷たくあしらわないことにゆきは感心したくらいだった。
その笑顔のまま、帰りの挨拶をした。
「では、良いクリスマスを」
けれどその一言で目雲は一転ピクリと反応した。
「え」
あまりの呆然とした反応がここ最近の街なかの煌びやかさと対照的で、ゆきはその世間の話題も耳に入らず日付の感覚も失われている忙殺っぷりにもう微笑んでしまう。
さっき年越しの話題を出していたのに、その前に来るイベントは少しも気に留まらなかったようだったので、困惑さえ伺わせる目雲にゆきが挨拶の意味を教える。
「明日はクリスマスイブなので」
「あ」
そして世間はまだ終わっていないクリスマスを通り越して、次の準備を始めているので、そこもゆきは真似してみた。
「ついでに、次いつ会えるか分からないので、年越しの挨拶もしておきます。良いお年をお過ごしください」
ゆきが頭を下げたので、目雲も慌てて会釈を返した。
「あ、良いお年を」
つられたような目雲の返答に笑って、玄関のノブに手を掛け振り返った。
「目雲さんは本当にゆっくり過ごしてくださいね、体大事ですよ。今日はごちそう様でした、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ゆきは笑顔のまま玄関を開けて、特に何も考えずに帰った。部屋に残された目雲が沸き上がるいろんな感情に蹲って悶えているとも知らずに。
そしてその年内にゆきと目雲が出会うことはなく、年越しはゆきは実家に帰り、いつも通りの正月を過ごした。
目雲も年が明けてから実家に行って、例年通りの新年の挨拶だけは済ませた。
世間の始業日の前日の夜。
ゆきが本を返すためにスマホにメッセージを送ると、良ければ続刊もどうですかと、目雲と玄関先で本を交換することになった。
「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます」
「本年もよろしくお願いします」
ゆきの丁寧なお辞儀に、目雲も同じように返した。
「お願いします」
早速の本題だとゆきは手にした本を差し出した。
「本もありがどうございました。面白かったです」
「それは良かったです。これ、続きです」
代わりに目雲に差し出された本を受け取る。
「ありがとうございます、お借りしますね」
「どうぞ」
流石にそれで帰るのもと思い、ゆきは当たり障りのないことを聞く。
「目雲さんも明日からお仕事ですか?」
「いえ、もう始めました」
「早いですね」
忙しさは年が明けても健在なのだとゆきは労いの気持ちを持つが、目雲の方はなんでもないことの様に答える。
「少しでも余裕があった方が良いので」
目雲の生活を思えばゆきは大いに納得した。
「そうですね。私も家での仕事は始めました」
「お忙しいんですか?」
「締め切りはまだ先なんですけど、気になるので家にいるとどうしても」
「休める時は休んで下さい」
「目雲さんもですよ。寒い中すみません、夜も暖かくしてくださいね」
「こちらこそ」
ちょっと玄関先に出るだけでもコートとマフラーの類は欠かさないゆきとは違い、目雲は部屋着にジップパーカーに袖を通している程度なので、これ以上は無駄に引き留めずさっさと会話を切り上げた。
「では本お借りしますね、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
部屋に帰ったゆきは早速本を開いた。
没入し過ぎないようにしていたのが功を奏して、ゆきはすぐに顔を上げた。
「あ、つい読みふけって」
それでも時間は意外に過ぎていた。
「今度は持って行ってくださいね、返すのはいつでもいいので」
「ありがとうございます」
作家の事を思えば買う方が良いだろうなと思いながらも目雲の厚意も有難く感じるため素直にお礼を言い一先ず本棚に本を戻してから、視線を移せばダイニングテーブルに広がる光景に思わず感嘆の声が出る。
「わぁ、目雲さん料理お上手なんですね」
「洒落たものは作れませんが」
「十分お洒落だと思いますよ。盛り付けも素敵でSNSで見るみたいです」
家庭の和食の理想が詰まっているようだった。
ごはん、味噌汁、小鉢がふたつにメインの焼き魚に、大皿に煮物が盛られている。食器もシックでモダンなので料理の邪魔をしていない。
箸置きに置かれた箸が丁寧さの象徴のようにゆきには映る。
さっきと同じ席に目雲に椅子を引かれて座ると、同じくその向かいに目雲が座る。
おしぼりまで出してもらい、ゆきはもうここが普通の家だとは思えなくなってきていた。
「どうぞ」
「いただきます」
ゆきは小粋に盛り付けられた雰囲気に合わせて、丁寧に箸を取った。
「お口に合わなければ残してください」
目雲が煮物を取り分けながら言うが、それを受け取って口に運ぶゆきの顔はほころぶ。
「おいしい、すっごくおいしいですよ」
「お口にあったなら良かったです」
「すごいです、和食って難しいですよね」
「そうでもないですよ」
箸を進めるゆきは本当にどれも美味しくて驚いていた。名前の分からない料理は一つもなく、だからこそ誰にでもある程度味の予想をできる品を、飛び切り美味しく作るのは難しいはずだと、定食屋で働くゆきはその手間を知っていた。
「大変じゃなかったですか?」
「いえ、昔から料理はする方だったので、物珍しい献立や食材でない限りは特に考えずに作れますから」
尊敬の眼差しをゆきは向ける。
「これを作り慣れているなんて、基本的な腕前が違いますね。私、何でもただ切って焼くか煮るかくらいしかやらない上に、いつも一品料理です」
「切って焼いて煮るのは、これも同じですし、美味しく食べられればそれで良いと思います」
クオリティーの差は明確にあると思ったゆきだったが、敢えて言わずに、自分が美味しいと思っていることも確かだったので頷いた。
「ほとんど自分で食べるだけだったらいいですよね」
たまに愛美の分も作ることもあるが、愛美もつまみになる料理限定でレパートリーが多いので、たまに帰ってきて夕飯を一緒に食べられるときは愛美が作って一緒に飲むことの方が多かった。
「その魚は骨もないので、気にせず食べてもらって平気です」
「あ、ありがとうございます」
食事の所作も綺麗な目雲についゆきは見惚れてしまう。
「ゆっくり食べてくださいね」
はい、と頷き目雲に調理法を聞き参考にしてみると話しながら、その合間で手はどんどんと進み、決して慌ててるわけではなかったが確実に箸を口に運び続けた。
煮物もご飯も促されるままお替りを貰い、食べ終わった頃温かいお茶まであり、ちょっと食い意地が見えすぎやしないかと内心照れながら、湯飲みを傾けてからゆきは部屋を見回す。
そこに目雲の落ち着いた様子がしっかりと感じられたのも確かだった。
ただ普通に生活するだけのことが多忙な目雲には難しくて、荒れた部屋が目に見えることがさらにストレスになっていると感じられていただけに、こうして整った部屋で食事をゆっくり取れることがどれだけ目雲にとって平穏で充実した日常なんだろうとゆきの方が嬉しくなるようだった。
「これだけ綺麗だと良い年越しができそうですね」
見違える部屋に思わずゆきがそう言うと目雲も今が年末に近いのだと気が付いたように頷いた。
「そうでした、ゆきさんは年末は帰省されるんですか?」
「はい、毎年実家で年越ししてます。目雲さんは?」
「僕の実家はわりと近くなので、年が明けて少し挨拶に顔を出すだけです」
「私のところは乗り継ぎの関係で電車で行っても二時間、車でも二時間という場所なんです。ちょっとだけ遠いんですよね」
特別不便な所に住んでいたわけではないが、中途半端に田舎だからこそ交通の便が少しだけ悪かった。けれどそれはその地域から遠くへ出ようと思った場合の話しで、地元にいれば車さえあれば大抵のものは手に入る、生活には不自由するような土地でもなかった。
「こちらに来たのは大学の進学ですか?」
「そうです、国際文化学科のあるところに行きたくて」
「それで、翻訳なんですね」
ゆきの進学の目的はそうではなかったので、きっかけを説明する。
「翻訳をするようになったのは、成り行きなところが大きいんですけど。ゼミの教授が忙しい時にお手伝いしたのが始まりで。その教授、見た目はほのぼのしてる感じなんですけど、すっごく行動的で時間があると思ったらすぐフィールドワークに出ちゃったりしてました」
教授の専門は偏執的な海外の文化や民俗学だとゆきがいうと、目雲は頷いた。
「それでお手伝いを?」
「私が本ばっかり読んでたので、ついでに読んでおいてと渡された英語の書類が出版社の方が依頼した翻訳のための資料だったみたいで。参考資料のようなものの監修を教授がしてたらしく、それを知らずに外国にいる教授にメールで内容とその修正と疑問点を書いて送ったら、じゃああれも、これもと。最初は課題の一つかなと思ってたので、何してるか分かってなかったんですけど。教授がバイト代だってお金くれて、真実を知ったわけです。そのうち資料じゃなくて、翻訳そのものを出版社の方が私に依頼してくれるようになったんです」
「大学生の頃からしていたんですね、英語が得意だったんですか?」
「役に立つかなってくらいの軽い気持ちで高校は英語科に行ってたんです、それで洋書を読むようになって。その中の登場人物が好きになって、その背景や文化が気になって。だから外国語学部とか言語を専門にじゃなくて、人文学で海外の事を知りたかったんです。自分が知りたかっただけなので、伝える視点で考えるとまた難しいです」
将来のことを考えてのことでは全くなく、単純に興味の探求のために大学に入ったゆきだったので、その知識を使うこと以上に本好きだからこそ今の仕事は当初はかなり戸惑った。
最初は短い専門的な翻訳だったので調べさえすれば何とかなったが、ゆきが洋書もジャンル問わず多く読むと知られてからは徐々に民俗学寄りの文芸の仕事も多くなり、そうなると頭を使うことが格段に多くなった。的確な表現を探すのは多くの本を知っているゆきでも簡単とは言い難かった。
「海外旅行もお好きなんですか?」
海外の文化には興味があるゆきだったが、現地に行きたいとはほとんど思わなかった。多くの作品を読むとそれらをすべてを現実と照らし合わせると矛盾が必ず生じ、ゆきの現実世界はとんでもないことになってしまうので、本の中の世界はその本だけで完結するように自然となっていた。
ただそのことを上手く説明するのはとても難しいと思ったゆきは別の理由を挙げた。
「お金持ちじゃないのでたくさんはないんですけど、ちょっと聖地巡礼みたいなことは何度か。それに話す方は得意じゃないんです。耳から入ってきた音を頭で文字に起こす作業しちゃったり、日常的に話してないから発音が悪いのもあって。だから文章を読む方が好きです」
「日本語でも?」
「もちろん! 本当は何語でもと言いたいところですけど、二つの言語でも本はたくさんあるのでまだ違う言語の習得は難しそうです」
いつかはと思わないでもないゆきだったが、まだまだ先の話になりそうだった。
自分の話ばかりになってしまったので、今度はゆきが目雲のことを尋ねる。
「目雲さんはどうして建築士になったんですか?」
「僕はただ家を建ててみたかったんです」
単純明快な答えにゆきはにっこりと笑う。
「すごく分かりやすいですね」
「子供の頃に思ったので、もう理由も覚えてないんですけど」
「子供の頃からの夢を叶えたなんてすごいことですよ」
ゆきは本心でそう伝えた。
「そうですか?」
「なかなかいないと思いますよ」
「それ以外は考えたことがなかったので、何も思いませんでした」
目雲のあまりにあっさりとしたそれでいて迷いのない回答にゆきは驚いてしまう。
「それもすごいですね」
「そうでしょうか」
「一般的にはそうだと思います、たぶん。私もあまり深く考えたことがないので参考にはならないんですけど」
話しながらも自分のことを振り返ると目雲とは違う意味で成り行きに任せて考えてこなかったことを思い出した。
目雲も頷く。
「必要なことを勉強したら今があるだけなので、僕も深くは考えたことはありません」
「学ぶことがお好きなんですか?」
なんとなくは感じ取っていたが改めて聞いてみたくなったゆきに、目雲はさっきと同じくあっさりと答えた。
「好きというほどではありません、必要があればやるだけです」
必要に迫られても嫌な物は嫌なゆきだったので、目雲が異次元の存在な気さえしてきた。
「勉強が苦にならないと苦手な科目とかもなかったんですか?」
「なかったです」
簡単に答えられてゆきはもう語彙力を失う。
「本当にすごいですね」
「ゆきさんはあったんですか?」
「私も、特別苦手なことはないんですけど、全部大体平均的で得意な教科もなかったですね」
それなりしか頑張らなかったせいだとも分かっているので、ゆきは何も誇れなかった。
「英語もですか?」
その疑問は当然だろうとゆきでも分かる。だが現在仕事にしているとしてもとても得意というのは烏滸がましいと実感があった。
「中学はもちろん、英語科なんて周りは得意な人たちばっかりなので頑張って平均でしたよ。結構先生にお世話になった方です」
分からない問題は考えるより聞く方が理解が早かったので、ゆきはよく教師に聞きに行っていた。
「生徒指導的にではなくということですね」
目雲に言われ、自分の今の言い方だと生活態度に問題があったともとれるかと、笑って頷いた。
「生活態度は二重丸ですよ、基本的に本読んでるだけで、本読む時間を確保するためにも授業中だけはしっかり勉強してました」
「本を読むのがすべての理由なんですね」
ゆきが今度はわざとにっこり笑った。
「はい」
そんな話をしたからもちろん帰る時には目雲から借りていくように促された。
強固に断る理由も見つからなかったゆきは、読みかけの本を素直に受け取った。
「本まで貸してもらってありがとうございます」
「いつでもいいですから、ゆっくり読んでください」
玄関で靴を履き、見送りに来た目雲の前に立つ。僅かな段差ながら、より身長差ができるので、見上げるゆきは改めてそのことを思い出す。
「目雲さんって本当に背が高いですよね」
「遺伝です」
ゆきがいくつと問えば、一八八センチだと返ってきその高さを知る。
「私も平均身長よりちょっとはあるんですけど、こんなに背が高い人に出会ったのは初めてかもしれません」
ゆきは背伸びをして、その高さを実感した。その高さの世界はどう見えるのだろうかとゆきが考えながら、見えない頭上から少し目線を下げればどこか戸惑っているような目雲の表情が目に入る。
「あ、すみません。今日はありがとうございました」
数字の実感を得るための行動が、いつの間にかあざとい行動になっていたと慌てたのはゆきの方だった。
目雲の方は至って冷静そうに頭を下げる。
「こちらこそありがとうございました」
掃除をしに来たことをご飯を出してもらったことですっかり忘れていたゆきは、そうだったと自分に笑った。
そして目雲はきっとこんなあざとい行為を躱すなんてこと日常茶飯事なのだろうと、ほっとする。
たとえ勘違いされてもゆきの印象が下がるだけだからと開き直ったともいえた。気があるのだろうと思われても、目雲にそれを受け入れるつもりがないのはその微動だにしない雰囲気でよく分かり、逆に冷たくあしらわないことにゆきは感心したくらいだった。
その笑顔のまま、帰りの挨拶をした。
「では、良いクリスマスを」
けれどその一言で目雲は一転ピクリと反応した。
「え」
あまりの呆然とした反応がここ最近の街なかの煌びやかさと対照的で、ゆきはその世間の話題も耳に入らず日付の感覚も失われている忙殺っぷりにもう微笑んでしまう。
さっき年越しの話題を出していたのに、その前に来るイベントは少しも気に留まらなかったようだったので、困惑さえ伺わせる目雲にゆきが挨拶の意味を教える。
「明日はクリスマスイブなので」
「あ」
そして世間はまだ終わっていないクリスマスを通り越して、次の準備を始めているので、そこもゆきは真似してみた。
「ついでに、次いつ会えるか分からないので、年越しの挨拶もしておきます。良いお年をお過ごしください」
ゆきが頭を下げたので、目雲も慌てて会釈を返した。
「あ、良いお年を」
つられたような目雲の返答に笑って、玄関のノブに手を掛け振り返った。
「目雲さんは本当にゆっくり過ごしてくださいね、体大事ですよ。今日はごちそう様でした、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ゆきは笑顔のまま玄関を開けて、特に何も考えずに帰った。部屋に残された目雲が沸き上がるいろんな感情に蹲って悶えているとも知らずに。
そしてその年内にゆきと目雲が出会うことはなく、年越しはゆきは実家に帰り、いつも通りの正月を過ごした。
目雲も年が明けてから実家に行って、例年通りの新年の挨拶だけは済ませた。
世間の始業日の前日の夜。
ゆきが本を返すためにスマホにメッセージを送ると、良ければ続刊もどうですかと、目雲と玄関先で本を交換することになった。
「あけましておめでとうございます」
「あけましておめでとうございます」
「本年もよろしくお願いします」
ゆきの丁寧なお辞儀に、目雲も同じように返した。
「お願いします」
早速の本題だとゆきは手にした本を差し出した。
「本もありがどうございました。面白かったです」
「それは良かったです。これ、続きです」
代わりに目雲に差し出された本を受け取る。
「ありがとうございます、お借りしますね」
「どうぞ」
流石にそれで帰るのもと思い、ゆきは当たり障りのないことを聞く。
「目雲さんも明日からお仕事ですか?」
「いえ、もう始めました」
「早いですね」
忙しさは年が明けても健在なのだとゆきは労いの気持ちを持つが、目雲の方はなんでもないことの様に答える。
「少しでも余裕があった方が良いので」
目雲の生活を思えばゆきは大いに納得した。
「そうですね。私も家での仕事は始めました」
「お忙しいんですか?」
「締め切りはまだ先なんですけど、気になるので家にいるとどうしても」
「休める時は休んで下さい」
「目雲さんもですよ。寒い中すみません、夜も暖かくしてくださいね」
「こちらこそ」
ちょっと玄関先に出るだけでもコートとマフラーの類は欠かさないゆきとは違い、目雲は部屋着にジップパーカーに袖を通している程度なので、これ以上は無駄に引き留めずさっさと会話を切り上げた。
「では本お借りしますね、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
部屋に帰ったゆきは早速本を開いた。
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最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
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千歳が遼平に近づくにつれ、『一途な想い』が複雑に交錯していく。
第14回恋愛小説対象にエントリーしています。
※別タイトルで他サイト様掲載作品になります。
番外編は現時点でアルファポリス様限定で掲載しております。
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