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第一章 隣の部屋に住む人は

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 それからというもの、意図せずゆきと目雲は遭遇することが増えた。
 帰ってきて玄関を開けようとすると、ちょうど目雲も部屋を出てくる。
帰りの駅で出会う。
 いつも時間は違うから、本当に偶然だ。

 そんな偶然がたびたび起こる。
 エントランスから部屋までの間や駅との間を一緒に歩けば、短い会話をする。
 寒いですね、と特に深い話をするわけではない。

 そんな些細な時間に、真冬生まれのゆきが寒さは苦手なことや、目雲は季節の変わり目よりは寒いばかりの方がずっと体調が安定していること、寒いからゆきは辛い物を夕飯に食べることを話せば、次に会ったときに家では辛い物は食べたことがなかった目雲が食べてみた話をしたり。

 そんな風に特別ではない話をいつのまにか重ねて、短い期間で今までになく話をしていた。

 二月に入ってすぐの土曜日。
 朝からちらりちらりと雪が舞う中、ゆきは用事があり電車に乗って外出していた。それを済ませると昼食も取らずに帰ることを優先したのだが、ゆきがマンションの最寄り駅に降り立った瞬間、淀んだ空から大粒の雪が目の前を真っ白にしようかとばかりに降り出した。
 駅の出入り口に立つと、それがより分かり思わず声が出てしまった。

「わぁぉ」

 人通りを避けて屋根の続く端の方で空を見上げる。
 普段見ない雪の量に少しの興奮と、これからこの中を帰るのかと気が滅入る思いが交錯していた。
 昨日見た予報では雪が本格的に降るのは夜中からだとあったので傘は持っておらず、これだけ吹きすさぶ中を帰るのは安全なのかという不安もある。
 けれど、積もるとより帰り辛くなってしまうのも分かっている。

 ゆきは躊躇う気持ちを押し殺して見上げていた空から視線を戻して、一歩足を踏み出そうとした時だった。
 突然後ろから腕を掴まれた。

「ッえ」
「ゆきさん」

 驚く声と名前を呼ぶ声はほぼ同時だった。

「めくもさん」

 振り返る前に呼び方と声で誰か分かったゆきは、思わず息を吐く。

「すみません、驚かせてしまって」

 すぐに手は離れ、ゆきは目雲と向き合い少し呆然としながらも、なんとか首を振った。
「いえ、大丈夫です」
「この中を傘もなく帰ろうとしていたので、思わず」

 目雲は申し訳なさそうにさらに一歩下がった。
 振り返ったことで背後になった雪景色を首だけ回して改めて見れば、目雲の行動も頷けた。

「傘持ってこなくて、でも積もる前の方がまだいいかなと思って」

 再度目雲を見上げて、ゆきはいたずらが見つかった子供の様に笑って誤魔化した。
 ただ目雲は冷静に状況を見ていてそれをゆきに教えた。

「さっきスマホで予報を確認したら、この雪は一時間くらいで一度やむようです」
「あ、そうなんですね」

 それは尚更引き留めたくなるよなと、ゆきは更に納得した。
 目雲はゆきを優しく諭す。

「少ししたら弱まるとも思いますので、様子を見ても良いのではないかと」

 もっともだとゆきは目雲を見上げて頷いた。

「そうですね、この中を帰るのはちょっと怖いくらいだったのでそうします」
「よかったらそこのカフェで一緒にどうですか?」
「いいんですか?」
「はい」

 駅に併設されているカフェなので、吹雪いていても壁や店のガラス窓を伝っていけばほとんど影響はなく店内に入ることができた。

 案内されて向かい合って席に着くと、コートとマフラーを脱ぐ目雲の前で、ゆきは手袋やぐるぐる巻きのストールを取り、肩から掛けていたカバン下ろして分厚いダウンをせっせと脱いだ。
 目雲は先にメニューを見やすいように広げてから、ゆきのその様子を眺めていた。

「今日はより寒いですから、大丈夫ですか?」

 マフラーにしていたストールを肩から羽織なおしたゆきは、微笑んだ。

「大丈夫ですよ、もう雪が降るくらいになるといっそ寒さの感覚が麻痺してちょっとあったかいんじゃないかって思うほどです。寒いですけど」

 ゆきが最後嫌そうに言えば目雲は目元を緩めた。

「温まってください、何を飲まれますか?」

 柔らかい視線で見つめてくれる目雲に、ゆきはふと自分の空腹を思い出した。

「実はまだお昼ご飯を食べてなくて、頼んでもいいですか?」

 目雲がこれくらいなら気分を害すことはないとすでに知っているので、ゆきは素直にお願いしてみる。すると予想よりもずっと躊躇いなく目雲はすぐに頷く。

「どうぞ」

 メニューをわざわざゆきの方へ向けなおす目雲にゆきはぺこりと会釈する。

「ありがとうございます」

 ゆきはすぐにエビのトマトソースパスタとスープとサラダのセットにすると告げ、目雲にメニューを返す。

「目雲さんはどうされますか?」
「僕は、ゆず茶にしておきます」
「体調が悪いんですか?」

 カフェインを抜いているのだと分かりゆきは心配になったが、目雲はわずかに首を振った。

「いえ、さっき仕事でコーヒーをいただいたので、念のため控えておこうかと思っただけです」
「午前中はお仕事だったんですね、お疲れ様です」

 目雲は軽く頷くと、注文しますね、といって店員を呼んだ。
 注文後、ゆきはちょっとした疑問を口にした。

「コートとリュックはお仕事用ですけど、今日はスーツじゃないんですね」

 ゆきの前にいる目雲は、モスグリーンのジャケットに丸首の黒のセーター、首元からノーネクタイの白襟が少しだけ覗いている。

「清潔感があって派手過ぎなければわりと自由です」
「そうなんですね、私が引っ越してきた時からスーツ姿が多かったような気がしてたので、勝手にお仕事の時はスーツだと思い込んでました」

 おしぼりを袋から出して手を拭きながら何気なく言うゆきに、目雲は一瞬だけ説明することを迷って、ゆきに誤魔化すことに意味がないことを瞬時に思い出し素直に白状した。

「それは、選ぶ必要がないことと、クリーニングに出してしまえば洗濯しなくてもいいという理由です」

 そしてゆきはそこから正しく目雲の事情を聞き取った。

「忙しかったからってことですね」

 ゆきが微笑みながら言えば、目雲は目を伏せて頷いた。

「そういうことです」
「合理的でいいですね」
「それでもあれだけ散らかってましたけど」

 自虐が痛々しくないくらいには、目雲が元気になっていることがゆきに他人事なのに裏しかった。

「衣替えができなかったんですよね、私もつい先延ばしによくします」

 ゆきは部屋にあふれるほどの衣装持ちではなかったが、それでも衣替えは手間だと思っていた。だからこそ目雲以上にその感覚を理解できると意味もなく胸を張りそうだった。

 すぐに目雲の頼んだものが届き、ゆきにもサラダとスープが先に届く。
 カトラリーが入ったケースを差し出す目雲に、ゆきは改めて謝った。

「一人だけすみません」
「どうぞ、時間はありますから」
「ありがとうございます、いただきます」

 小さなサラダにフォークを刺し始めるゆきを、目雲は甘酸っぱい温かさを口に感じながら眺めていた。

「ゆきさんはあまり優柔不断ではないんですね」

 程なくしてパスタが届いたタイミングで目雲が聞いた。
「どうしてでしょうか?」

 どこから導いた印象なのかゆきには分からず、フォークを握ったまま目雲に視線を向ける。

「そちらのメニューを決めるのがとても早かったので」
「あ、お腹が空いていたのでランチメニューで早く出てきそうなものを選んだだけなんです」

 フォークを持ったまま止まっているゆきに自分が話しかけたせいだと食事を促す。

「どうぞ、食べてください」
「ありがとうございます」

 パスタを巻き始めたゆきに目雲は質問を続けた。

「普段は迷うこともあるんですか?」
「うーん、食事に関してはあまり。美味しいものは好きなんですけど、食べれればいいと思ってるところもあるので、そこまで拘りがないんです」

 パクリとパスタを頬張るゆきが飲み込むタイミングでまた目雲は口を開く。

「他のこともですか?」
「そうですね、吟味することはあっても、迷うことはないかもしれないです」
「なるほど」
「目雲さんは迷う方なんですか?」
「僕も迷うというよりは吟味ですね。物を買うときなどは特に。食事に関してもゆきさんと一緒です」

 緩やかなテンポで進む会話は、目雲と食事をするのはまだ三度目でそれぞれシチュエーションが違っていても、もう当たり前のものになりつつあった。
 今回に至っては目雲は飲み物だけなのに、雪がやむまでの時間潰しだとしても、目雲が落ち着いた雰囲気で座っているからなのか、見つめられていてもゆきが緊張することもなければ、目雲が退屈そうにすることもなく会話は進んでいく。

 食後のセットのドリンクとして選んだ紅茶がやってきた後、ゆきは今になって少し気恥ずかしくなり再度謝った。

「すみません、なんだか遠慮もなく食事してしまって」
「いえ、空腹を無理して耐えてもらうよりいいですから。遠慮は必要ありません」
「目雲さんは本当に優しいですね」

 ゆきがしみじみと言えば、目雲は首を横に振った。

「これくらいは普通の事だと思います」
「目雲さんの普通が優し過ぎて恐縮します」
「優しいと思うゆきさんが優しいんですよ」

 ゆきは真面目な顔で言う目雲に思わず笑ってしまった。

 温かくなる気持ちと勝手に心拍数が上がる気配に、ゆきはこの感情の名前を思い出しそうになっていた。
 心配してもらう温かさと、些細な会話を重ねたことで話すことが気楽になっていていること、少しの我儘なら言えてしまうこと。
 心をセーブする必要はどこにもないように感じるが、けれどゆきはそれを育もうとは思わなかった。

 現状維持で十分楽しい。
 不思議とどうしてだか、長く続く関係ではないように思えていたこともあった。

 愛美の暮らしが落ち着いたらゆきは引っ越そうと決めていた。
 あのマンションの部屋は愛美にとって本当に大切な場所だと知っているゆきは、例え愛美に居てもいいと言われても自分のためにも新しい生活を始めることにしていた。
 そして引っ越してしまえば目雲との関係も自然と終わる。それは予感ではなく、予知夢でも見た様なはっきりとした意識だった。
 なぜなのかは目雲から感じる一種の壁のようなものがゆきには見えていたからでもあるし、それは目雲自身ももしかしたら気が付いていないのかもしれないと考えもした。

 ゆきに対して年上なのに丁寧に接するからとかではなく、ふと目を伏せるタイミングだったり、言葉の端だったり、あと宮前のゆきに対する警戒心と目雲をフォローする言動が何かをそうさせるものがあると語っているようだった。

 目雲から自分と同じ気持ちが返ってくることはない。それはもう確信に近いゆきの感触だった。
 けれど、それらをゆきは特に分かっても気にしていない。

 ゆきの気持ちとそれらは別物だときっぱりと分けられるからだ。
 でも別だからこそ、発展させる必要も感じなければ、終わりが来るならばそれまでは今を大事にするだけだと思うだけ。
 たとえそれが恋と名の付くものだったとしても、落ちるようなその感情には振り回されたくないのはゆきの事情だった。

「すっかりやみましたね、まだ降りそうな空ではありますけど」

 きっちり自分の分の代金をお互い払って店を出ると雪は足元を濡らすだけになっていた。

「降ってこないうちに帰りましょう」

雪で濡れた道を二人で歩き出した。

「ゆきって名前なのに雪に困らされるなんてちょっと笑い話ですね」

 慎重に足を進めるゆきの横で目雲は普段と変わらない。けれどゆきに合わせて歩く速度をいつも以上に落としている。

「天候を予測するのは難しいですから」

 少ししてみぞれのような道に慣れたゆきは歩きながら目雲を見上げる。

「そうだ、目雲さんはチョコレートも食べられませんか?」

 カフェインを気にしている人はチョコレートも制限しているかもしれないと思ったゆきの質問だったのが、唐突な問いであったにも関わらず、目雲はゆきを見下ろすだけで特に追及もせず答えた。

「チョコレートくらいなら」

 時期的に思い当たる話題でも目雲が勘違いしたりはないと思っていたが、それ以上に今回も季節イベントは完全に意識の外らしくどこか不思議そうに頷く目雲にゆきはさらに質問を重ねる。

「甘いものが嫌いでもないですか?」

 ゆず茶を飲むくらいだから大丈夫だろうとは思いながらも念のためゆきは確認する。

「すごく食べるわけではないですが、嫌いでもないです」

 良かったと微笑んだゆきは、ようやく訳を説明した。

「じゃあこの前のお食事のお礼にちょっとだけ珍しいチョコレートをプレゼントしますね」
「お気になさらずに」
「宮前さんにもお渡しするので、目雲さんも貰ってください」
「隼二郎にも?」

 やや怪訝な表情な目雲に説明する。

「昨日メッセージが来たので、ついでに聞いてみたんです。そうしたら喜んでました。バレンタインの愛の告白かって聞かれました」
「あい……」

 宮前のからかいを真似して言えば慣れているはずの目雲が戸惑うので、ゆきは笑ってしまう。

「もちろん冗談ですよ、ただ確かにバレンタインが近いんで特別なチョコが手に入りやすいんです。それでプレゼントにしようかなと」
「隼二郎は何の用事で連絡を?」

 ゆきはてっきり目雲の承知の話だと思っていたので、それは予想外の質問だった。

「次暇なとき教えてと、また一緒に飲もうって言ってましたよ。目雲さんの部屋でって話だったので知ってるのかと思ってました」
「今知りました」
「なんだか、すみません」
「いえ、全然大丈夫ですよ」

 ゆきは宮前との連絡の内容を思い出して目雲に確認する。

「ちなみにバレンタイン前後の週末あたりになりそうです」
「なんとかします」
「あ、その時にお借りした本もお返ししますね」

 ゆきは最初の一冊を返した後なんとなく一カ月に一冊、目雲から借りた本はそれくらいのペースで返すつもりになっていた。読むこと自体にそれほど時間は掛からないゆきだが、気に入った本は読み終わったすぐ後でも何度か読み返すので、空いた時間にそうやって手に取っていた。あとは忙しい目雲をあまり煩わせないためでもあった。

「続きはどうされますか?」
「よければお貸しいただけますか?」

 特に固辞する理由もなかったのでゆきは素直に聞いた。

「ぜひどうぞ」

 ありがとうごさいますとお礼を言った後に、ゆきは目雲の最近の状況を尋ねる。

「まだ忙しいの変わらないままですか?」
「忙しいですが、去年よりはマシです。以前言っていた同僚が育休から復帰して時短ではありますが戻ってきたので。事務所の人間に僕自身の仕事の調節もしてもらっています」

 改善の話で、ゆきも安堵する。

「ペース整うといいですね」
「今年は大丈夫だと思います」

 そう言った目雲がふと思い出したようにゆきに聞く。

「ゆきさんのお誕生日は何日ですか?」

 ゆきはぴくりと反応して視線をさ迷わせる。
「え、えーっと」

 変に言いよどむゆきに目雲が改めて確認する。

「二月でしたよね?」

 少し気恥ずかしそうにゆきは口を開く。
「十四日です」
「二月十四日」

 目雲に礼寧に繰り返されて、ゆきは開き直って微笑んだ。

「バレンタイン生まれなんです。それでチョコレート貰う機会の方が多くて、ちょっとだけ美味しいチョコレートに詳しいんです」
「それならチョコレートのお礼にプレゼントを贈ります」

 ゆきは慌てて自分の体の前で両手を振った。そうなりそうな予感がしたので言うのを躊躇ったのだが見事に当たってしまったと、なんとか遠慮する。

「チョコがお礼なので、それにお礼を貰ってしまうと元の木阿弥と言いますか振り出しに戻ると言いますか」
「ではチョコレートのお返しはホワイトデーに贈ります。誕生日プレゼントは誕生日のお祝いです」
「一つ増えてませんか」
「何もおかしくありませんよ」

 譲らない様子にゆきの方が諦めて、質問の方向を変えてみる。

「目雲さんのお誕生日は?」
「九月三十日です」
「ちょっと先ですね。分かりました、では私もホワイトデーにお返しを贈りますので、それで一旦まっさらな状態にしましょう」

 ゆきの妙な気合に目雲が生暖かく微笑んでるのを分かりながらも、ゆきも譲れないとばかりにとびっきりの笑顔を目雲に向けた。

 結局宮前と言っていた飲み会はゆきの少し早い誕生日パーティーになって、宮前からフルーツたっぷりのホールケーキと目雲からブランケットを貰った。
目雲はいつも巻いている厚手のストールを以前部屋でブランケット代わりにしてると話したのを覚えていたらしい。寒がりのゆきが温まれるようにふわふわでもこもこで、ひざ掛けにももちろん肩に掛けることもできるサイズのネイビータータンチェックの物だった。

 三月、ゆきはもちろん二人にお返しをした。
 二人それぞれに少しいい小ぶりのお酒と宮前には靴下とハンカチのセット、目雲にはカフェインレスコーヒーとハンカチをセットだ。

 渡した次の日、目雲からコーヒーの感想がスマホに届いた。気に入ってもらえたようで、どこの物か聞かれたゆきは取り寄せできるサイトのURLを教えた。

 ゆきからも借りた本を読み終えたので、いつ返そうかと相談すれば、その本の送り主から感想を求められていると言われ、ゆきもどれくらいの感想か聞き返すと、どれだけでもいいと目雲が言う。
 感想を送るにしても、もう少し情報が欲しいゆきは、思い切って聞いてみた。

【夜にお電話してもいいですか?】
【少し夜遅くなりますがいいですか?】
【私は大丈夫なんですが、ご迷惑でしたらまた後日でも】
【僕も大丈夫です。ただ時間がまだ読めないので、僕からかけてもいいですか?】
【目雲さんの余裕ができた時でもちろん、私は何時でも大丈夫なので】
【それではまたおおよその時間が分かったら連絡をします】
【ありがとうございます】

 それからたまに電話で本の感想を伝える習慣が二人にできた。




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