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第一章 隣の部屋に住む人は

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 次の日、宮前は目雲の引っ越し先のマンションに来ていた。
 1Kの部屋にベッド以外の家具はなく、あとは仕事に必要なものと最低限の服だけがクローゼットに詰め込まれていた。
 一見ワンルームではあるが壁付けのキッチンはダイニングには狭いが作業台くらいなら置けるスペースが取られ完全に独立するよう仕切りの引き戸があり、閉めてしまうと部屋の中にはぽつんとベッドだけ。そのせいでベッドがダブルサイズにも関わらず部屋がやたらと広く見える。

 その広すぎる居室と狭いとも広いとも言えないキッチンルーム。目雲の事務所には近かったが、その偏った妙な間取りのせいでなかなか借り手がつかない、清潔だけが強みの築年数のある部屋だった。

 少し重苦しくも感じる暗いフローリングも建具を囲う木材の経年の茶色も張り替えられた壁紙だけが妙に綺麗な違和感も、あちこちにあるそんなちぐはぐさが今の目雲には、何も気にならなかった。

 家電も冷蔵庫と洗濯機だけ。食器や料理器具もなく、冷蔵庫の中身も水だけだ。

 勝手に室内を物色しているのを無視してベッドの上のパソコンで仕事のメールを打っていた目雲の傍に宮前は立った。

「他の物は?」
「トランクルームだ」

 目線を寄越さない目雲に宮前は慣れたものだ。

「捨てたと言わなかったことだけは褒めてやる」

 自分で招いた事態なのに、どうしてお前の方が荒んでるんだと宮前は罵ってやりたい気持ちでいっぱいだったが、それが目雲にとっては何の意味もないことも分かっていた。
 宮前の目には過去一で投げやりな状態に映り呆れてしまっていたのが、最悪な状況ではないことだけが唯一の安心材料だった。

 ゆきといる時の目雲が柔らか過ぎるだけで、以前から素っ気ないのが本来の姿だともいえる。今の部屋程ではないが、もともと物に執着はなく、長く使える方が結果買い替えの手間がないという理由で値の張るものを買うこともあるが本当に良い物だけを調べてから買うので、値段に関係なくその一つを本当に長く丁寧に使う。何かを収集したりもなく、値段に価値を見たりもしない。
 合理性を突き詰めたとするならば、今の目雲も全く変わってしまったとも言い難かった。物がないので部屋が荒れないのであれば寧ろ良いこととして捉えることもできる。

 そしてなにより倒れてしまうような雰囲気がない。
 最悪な時を知っている宮前はどうしてもその時と比べてしまうから、宮前の連絡を無視することもなく、顔色もまだギリギリ正常範囲内で、食事も外食でそれなりに食べていると言われれば、まだなんとか大丈夫だと思えた。
 これを超えると、ゆきが遭遇したように倒れたり、さらにそれを超えると宮前が無理やり世話を焼くことで体調を最低限維持するような状態になってしまう。

「お前って本当に世話が焼けるよね」
「頼んでいない」
「ひどっ、ゆきちゃんが聞いたら幻滅するな」

 宮前がわざと名前を出しても目雲は冷静に返す。

「そんなことはない」
「それはどっちの意味かな? ゆきちゃんならそんなことぐらい笑ってくれるってこと? それとも聞いたらってところに係ってる? もう聞いてもらうこともないって?」

 目雲は無言のまま手を動かし続けている。
 宮前は大きなため息をついて、ベッド脇に胡坐で座り、自分の膝で頬杖をついた。

「ゆきちゃんも引っ越したんだってさ」

 せわしなく動いていた指がぴたりと止まった。

「そう、か」
「早くしないとお前とのこと思い出にされちゃうぞ」
「早くそうなればいい」

 再び動き出した指は慣れた動きでキーボードを叩くが、思考が別にあることは宮前には分かった。

「気圧とか気候とかで調子崩してるのは分かるけど、それにしたって、思い詰め過ぎだろ」
「思いつめてるわけじゃない」
「じゃあなんで突然ゆきちゃんのこと突き放したんだ? 仲良さそうにしてただろう」
「気のせいだ」
「ゆきちゃんのこと好きだっただろ」
「好きになられても困らせるだけだ」

 気持ちそのものは否定しなかったことにも宮前は一つの前進を見たが、そうだからこそ盛大に呆れてしまう。

「困るって、ゆきちゃんはお前のことが好きだって言ったんだろ? それで何を困るんだよ」
「困るから困るんだ」

 説明になっていない説明を目雲は繰り返しているが、わざとではなく今の目雲はそう言うことしかできなかった。
 目雲はずっといろいろ考えて、考えて、それでも有益な結論はどこにも見つけられずにいた。ゆきのことも考えて、思って、出したはずの結論も後悔していないつもりなのに何も楽にならない。でも正しいと信じるしかなかった。

「お前、いつまで過去の事引きずってるんだよ」
「引きずってるわけじゃない」
「そんなわけないだろ、じゃなきゃ意味がマジで分かんない」
「誰かと一緒にいるのが不向きな人間もいるってだけだ」

 それは勿論目雲自身の事を指していて、一緒にいる相手の負担になると思っている。

「そんなもん一緒にいてみないと分からないだろ」

 自分はそうじゃないと知ってしまったから今があるんだと目雲は口にはしなかった。

 部屋の中に沈黙が訪れる、ただキーボードを叩く音だけが僅かに響いていた。

 少しして、ようやく目雲の手は止まり、ノートパソコンは閉じられた。
 そしてこの日が初めて目雲と宮前は目が合った。

「不幸にすると分かっててどうして一緒にいれる」

 宮前にはどうしてそんな未来しか描けないのか、ゆきといる姿を見ているだけに理解しがたかった。

「ならないかもしれないだろ」
「なったらどうするんだ」

 目雲の不安を知ってはいるが、それがゆきを諦める理由になるとは宮前にはどうしても思えない。ゆきという人間を信じてしまっている宮前は、無責任に何の確証もなく二人が一緒にいる雰囲気だけを根拠に目雲を過去から解放してほしいと切に願い始めていた。

「それはゆきちゃんが決めることだろ」
「ゆきさんには、泣いてほしくない」

 目雲は本気でそう思おうとしていた。
 自分のせいで泣くようなことになって欲しくなかった。
 それがゆきの幸せのためだとその時は本当に思っていたのだ。

「他の男に不幸にされても知らないからな」

 宮前の言葉は思わぬ棘となって目雲に刺さった。

 宮前が上手いと思うのはここで幸せになってもと言わないところだと目雲も分かっている。わざとゆきが誰かに不幸にされることを一瞬でも想像させるだけで目雲の不安を煽ると知っているからだ。

「幸せになるかもしれないだろ」
「それならいいのか? 知らない男とゆきちゃんが幸せになっても」
「それが」

 一番だと思っているのに、口に出せなかった。

 ゆきはきっと誰にでも優しいに違いない。
 想像のゆきは誰かと笑い合っている、そんなことは簡単に頭に浮かぶ。自分との未来はどうにもほの暗いのに、どうして他の男となんか笑っているのだろうと。身勝手で理不尽な嫉妬心を目雲は自覚してしまう。だから宮前にはそれ以上何も言えなくなってしまった。

 よく考えろ、そう言って宮前は帰って行った。

 すでに結論も結果も出ていて、何も変えることはできないのだから考えることは何もないと思っているのに、目雲はゆきの幸せについて考える。そしてそれは自分が考えることではないと打ち消してまた考える。
 目雲はその抜けだせない思考回路に振り回される感情をずっと持て余していた。

 そしてその始まりを思い返す。
 春が終わろうとしていたその頃、目雲はゆきを突き放すつもりではなかった。最初はただ心配を掛けたくなくて、頭痛がある日や体のだるさがある日は接触を持たないようにしただけだった。季節の変わり目はそんなもんだと自分ではわかっていたが、そんな日が少し多くなってくると、思いのほか気分が落ち込むことがあり、ますますゆきに連絡できなかった。

 その体調のことを正直に言えば良かったのかもしれない。
 けれど心配ばかりかける自分が情けなくて、つい言い出せなった。顔を見られて顔色の悪さを指摘されるのも分かっていたから、会わないようにしてしまった。

 そのうちそんなことばかりが頭を巡って、これからもこんなことの繰り返しなのかとネガティブに拍車がかかったことは言うまでもない。
 けれど、ゆきと少しだけでも繋がっていたくて、本の返却を先延ばしにしてしまったり、姑息だと思えることだけは止められなかった。

 目雲にはそんなに時間が立っているとは実感できていなかった。苦痛で永遠の中にいるような感覚が逆に過ぎる時の長さ分からなくさせていた。

 そんな時、ゆきが珍しく引くことなく会いたいと連絡が来て、嫌な予感がした。
 そう、目雲には嫌な予感だったのだ。
 どうしてと聞かれたら? 
 何て説明すればいいのだろうか。
 体調が悪くて少し会えなかったと言えない。
 どうして言えないのか。
 問いつめられたら目雲の気持ちが知られてしまう。
 こんな自分に付き合わせるつもりもないのに、気持ちを知られるのは避けたかった。
 振られるのも思わせぶりになるのも期待させるのも、全部嫌で、それで会えないでいたのに。

 それが、なんて自分勝手だったんだろう。そう気が付いた時にはもう遅かった。
 ゆきに告白されたのだと理解した時に、想像できなかったゆきの気持ちを気付かされた。

 ただ、言われた瞬間はその気持ちが嬉しくてゆきがただ輝いて見えて、何も考えられなかった。
 だから思わず唇を奪ってしまって、それなのに、拒絶してしまった。

 けれどゆきが走り去ったあと、それで良かったんだとその考えに戻る。
 自分となんかいたらきっと心配ばかりかけて迷惑を掛けて、ゆきの負担になるだけだからと。

 だからこれで良かったんだ。目雲は宮前の言葉が刺さったまま再度思い込もうとした。
 自分より酷い男なんていくらでもいるかもしれない。
 でもゆきならずっと良い奴を見つけられるとも思う。
 自分なんかよりずっとゆきを大事にできる誰かときっと出会う。
 それが一番いい。
 そう思い込むことでなんとか毎日をやり過ごし、相変わらずすぐれない体調に振り回されていた。

 その数日後、目雲は朝から鈍い頭痛を抱えながらもクライアントに会うために車で外に出ていた。そして偶然歩いてるゆきを見つけてしまった。
 楽し気に見知らぬ男と二人歩いてるところを。




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