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第二章 車内でも隣には

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 間もなくゴールデンウイークという日曜日、予定通り四月の吉日にゆきの妹のはるきが入籍したので、そのお祝いに近々ゆきの実家に行こうかと話し合っていた。

 仕事があった目雲と夕方待ち合わせをして、創作居酒屋に来ている。飲むというよりは食事に重きを置いてあれこれと二人でシェアしながら頼んでいた。

 気温の変化が激しくなってきているので車ではなくとも目雲は酒は飲まず、ゆきもそれに合わせたわけでもないが嗜む程度でそれほど飲んでいない。目雲は当然気にすることなくとは言ったが、自家製の辛口ジンジャーエールなどソフトドリンクも凝っているからそれらを楽しんでいると言えば、納得した目雲が二人で店オリジナルドリンク制覇を打ち出した。
 そんなふうに二人とも全く酔いとは関係なく会話を弾ませていた。

「だからウサギの鼻というか口というか、あの振動を見てるとつい止めたくなっちゃうんです」
「それは咬まれそうですね」
「うさぎにもただの迷惑ですからしたことはないですよ、ぐっと堪えます、いえ、もう目を逸らすようにしてます」
「正確な言葉ではないかもしれないですが、単振動や周期運動が耐えらないんですね」

 ゆきはうんうんと頷く。

「なんだかワクワクというがドキドキというか、同じ動きをしてるのを私の手で止めるとどうなるのか好奇心なんです、だから絶対しないようにしてますけどじっと見つめてたらうずうずしてるんだと思って下さい」
「他のはどんなことがあるんですか?」
「卓上の流しそうめんとか、小さな流れるプールみたい形になのがあるんですけど、それを見ているとちょっと堰き止めたくなったり、生き物だとカエルの呼吸してるお腹とかぷにっとしたくなったり」

 ゆきはそろそろと人差し指で突き刺す仕草をする。

「カエルですか、あまり見かけないですけどゆきさんは苦手ではないんですね」
「特別好きなわけでもないんですけど、動物園とかに行くと展示されてますよ。結構綺麗なのもいたりします。虫も爬虫類も苦手じゃないんです」
「虫もですか?」
「捕まえに行こうと思うほどではないですよ」

 そんないつも通りくだらない話をしている。

「僕も子供の頃でもあまり虫捕りは興味なかったですね、颯天はよく行ってましたけど」
「私も、下も妹だからなのか、母が虫嫌いだからか、虫捕りしたこと……アッ、ありました」

 すっかり忘れていた記憶が呼び起こされたゆきに、目雲が微笑む。

「カブトムシですか?」
「カブトムシとかクワガタとか、それも大学生の時に」

 大学時代のゆきは人生で一番アクティブだったと過言でなく宣言できるほどにいろいろ誘って貰って行っていたので、その中にはいくつも埋もれてしまっている記憶もある。そんな一つが深夜の虫捕りだ。

「大学? 授業の一環ですか?」
「いえ、ただの遊びです。ほとんど本物見たことがないと言ったら、実家で山を持ってる友達がいて、ゼミのみんなでそこの地元のお祭りを手伝う条件に泊まりに行って、ついでに虫捕りもしました。罠仕掛けたりして、本気の友達もいて本格的に大人の真剣さを示してましたね」

 当時をすっかり懐かしむ自分にゆきはそれくらいには歳を重ねたんだと感慨深い思いを抱きながら、思い出す。

 目雲は自分の大学時代の友人たちの遊びは毎日酒盛りをしたり、合コンのようなことに明け暮れたりで、健全とは程遠かった記憶しかない。目雲自身は興味がなく付き合い程度だったが、逆に勉強ばかりでゆきに語って聞かせる面白い話もないと自分自身にげんなりする。

「ゆきさんはいろんな経験してますね」

 自分の感情を誤魔化して、ゆきに憧れの眼差しを向ける。

「そうなんでしょうか、ノリのいい友達が多いのかもしれませんね。特に大学の時は異文化に興味がある人がいるところでしたから」
「そうでしたね」


 目雲の脳裏をかすめたのは、ゆきが過去付き合っていた人物のことだった。
 卑怯だと思いながら、つい口から零れてしまった。

「タツジって、どんな人でしたか」

 ゆきは目雲から思いもよらない名前が出てきて目を丸くした。

「あきくん? メグ? に聞いたんですか?」
「二人にです」

 そこしかないことは分かり切っていたが、その二人から語られるその人物像にいささか不安を覚えてしまうゆきは恐る恐る目雲を伺う。

「えっと、何を聞きました?」

 目雲が大学の時にタツジという男と付き合っていたことを聞いたと掻い摘んで答えると、ゆきは申し訳なさそうに頭を垂れた。

「すみません、聞きたくないことですよね」
「いえ、興味深いです」

 存外明るさの感じられる目雲の声にゆきはほっと胸を撫でおろした。過去を一切知りたくない人だったらどうしようかという不安だけは払拭された。

「目雲さんはそっちなんですね」
「はい」

 ゆきは気を取り直す。
 中途半端な話よりもしっかり話した方が誤解も少なくて良いからだ。

「それなら詳しく話すことは吝(やぶさ)かではありませんよ、目雲さんが聞きたくないと思うところまではいくらでも話します。まずは情報の整理ですね、メグ達にはどう聞きました?」

 目雲は聞いた内容を説明する。

「大きくはないが厳つくて酷い奴で、鬼でゆきさんのためなら戦うこともいとわない」

 戦う場面は見たことがなかったとゆきは笑った。

「背は私より少し高いくらいだったんですけど、柔術を習っていたみたいで、そういう筋肉の付き方した人なのは確かですね。世界の伝説とか伝承とか調べるのが好きで、今は国際ジャーナリストのお弟子さんみたいなことしてるんですが、将来はいろいろな先住民の人とかの話を聞いてその独特の文化を発信していきたいって言ってました」
「今も連絡を取ってるんですか?」

 当然の質問だろうとゆきも正直に答える。

「直接はないですよ。連絡方法がないことはないんですが、お互い卒業と同時に別れて以来です。ただ、どうしているかは自然と分かります。彼が発信しているSNSもありますし、私の仕事柄世界の情報を知るために国内外の新聞もある程度目を通りしているので、彼が付いているジャーナリストの方の活動を知れば、何をしているのかくらいは分かります。ちなみに彼も私が翻訳した作品は読んでいるようです。それは別れる前に言っていて、実際そうしていると人づてに聞きました」
「繋がりがないこともないんですね」
「最後に約束したんです。お互い元気で楽しく、したいことして生きるって」
「酷い別れ方をしたようですが、それでそんな約束できたんですか?」
「酷いと言うか、らしいというか。うーん」

 ゆきの躊躇っている様子に目雲はまっすぐ見つめて覚悟を示す。

「どんな話でも大丈夫ですから、聞かせてください」

 眉を下げて微笑むゆきは、一つ頷いてから穏やかな表情で話し始めた。

「達治が最初に海外で生活することを理由に別れを切り出した時は全然納得できなかったんです。他に好きな人ができたと言われた方がまだ別れられたんです。例え後に嘘だと分かっても、その嘘を吐いても別れたかったんだって納得したと思います。実際そう達治に伝えたら、例え嘘でも私の事を傷つけることはできないと言われて、別れることが目的なら手段を選ぶなって私は怒りました。それでも私の存在を否定するようなことで傷つけることは絶対できないと」

 ゆきは苦笑いで語ることに目雲は一応の理解を示す。

「理屈としては分かります」

 自己保身の常套句だと目雲は思ったが、敢えて言いはしなかった。
 ゆきもきっとそれを分かったはずだと、だからこそゆきは怒ったのだろうと十分想像できたからだ。

「それなら別れないと私は言いました。傷つけることが嫌なら一緒にいる選択をしてもいいじゃないかと言うと、近くにもいられないのに、心配させるだけの存在は私には必要ないと言うんです。一緒に居られるならいいのかと付いていくと言ったら、危険な場所に行くこともあるから無理だと。それなら心配もしないから待っててもいいだろうと言えば、ゆきにはそんなことはできないだろうと言われました」

 平気な振りはできたと思うんですけどね、とゆきは当時を思い出し困ったように微笑んだ。

 けれど目雲には達治の言い分が理解できるところもあった。状況は違えど、気を使わせる存在になりたくないからこそ、ゆきの告白を拒絶してしまった自分も同じだと。
 それに物理的距離が離れて、ただ身を案じて待っている暮らしを受け入れるくらいのゆきの思いも分かってしまった。

「好きだったんですね」

 零れるように呟かれた言葉にゆきの方が居た堪れない。

「あの、やめますか?」
「続けてください」

 求められるままに話すことが果たして正しいのか分からないのが今のゆきの感情だったが、隠す必要もないので黙ることで別の誤解を生む可能性を考えると話す方を選択する。

「傷つかずに別れることはそもそも無理だと言えば、達治は好きだからこそ別れるんだって言いました。私という人間は他の誰にも変えることのできない存在だから、大切にしたいから恋人の関係は終わらせるべきなんだと」

 ゆきは達治に言われたままを自分の口から改めて発すると、理屈くらいは分かるが未だに明確に落とし込むことはできなかった。けれどゆきはもう達治にその言い分に抗っていた過去の自分と同じ感情を持ち合わせていないことも事実だった。

「ゆきの人生に俺は必要ない」

 達治の言葉を繰り返してゆきが笑う。

「傷つけたくないって言う人がこんなこと言うんですからびっくりしますよね。俺の人生って逆だったらまだ分かるんです、そうも言ってみたんですけど、ゆきが俺の人生からいなくなることはもうないって言ったりして。別れる気が本当にあるのか疑いたくなりましたよ。それでも私が別れることに納得するまで何度でも話し合うと言うんですから困りますよね」
「勝手に待っていようとは思わなかったんですか?」

 笑ったままだが、ゆきはどこか困ったようだった。

「日本に定住することはあまり期待できない人なので、私がどれだけ待ってても一緒に連れて行ってくれることもないだろうし、たぶん達治はいつかどこか現地の人と結婚すると思います」
「ゆきさんが人生からいなくならないって言ってるのにですか?」
「心に住む人がいると正直に言って、それを許してくれる人をきっと見つけますよ。なんかそういう人なんです。馬鹿正直で、正義感が強くて、優しくて、誠実で、好奇心旺盛で。だから達治が一緒に連れ歩いても大丈夫だと思わせる強い人か、傍を離れられないと思わされる人にきっと出会います、そして私と付き合っていたことを話して聞かせても、受け入れてくれる人なんだと思います。だってそんな風に達治に思わせる人なら私に対する思いとその人に対する思いは絶対に違うと思うんです。私はきっと最初から身内枠だったんだろうなって」

 創作はできないと言っていたゆきがそこまで考えなければならない程、その苦悩の一端が見えた気がして目雲は痛ましさと嫉妬を同時に抱える複雑な心境になる。
 けれど話すことを乞うたのは自分だと、感情を隠して話を進める。

「そうやって自分で理由を見つけて、ゆきさんは最終的には別れることに納得したんですか?」

 ゆきの方もそんな風に解釈できる目雲は流石だなと更に微笑む。

「達治はたぶん私と正しく恋愛はしてなかったんです。もしくは最初は恋だったのが形を変えた想いになったのか。やっぱり身内になったというか、同い年ですけど妹みたいな。理解のある家族にだったら自分の夢を優先することが躊躇なくできるから。なぜだか最後まで私の事を励ましてましたし、翻訳の仕事は絶対続けるようにと、私の天職だと勝手に決めて、必ず読むようにするからと言ってました。自分のことは何も考えるなって言うくせに。でも、だから、納得しました」

 一拍の沈黙。
 目雲はストレートに尋ねる。

「好きだから?」

 思いだすと今でも頭も心も重たくなるが、それはもう感情と切り離された苦労を振り返る様な感覚だった。

「好き、でした。だから、本人の前でも泣きましたし、一人でも泣きました。かなり。でも考えて考えて、達治とも何回も話し合ってもらって、自分の中に落とし込みました。だから最後は笑顔でお互い別れることができました」
「強がりを見せただけではないですか?」

 ゆきはその答えは呆れたように言うしかなかった。

「達治は私の嘘を見抜くんです、野生の勘だって本人は言ってましたけど、些細なことでも気が付いて。少し体調が悪いのを誤魔化そうとした時とか、私がこっそり不安がっている時に一人にさせないようにしたり、言わない寂しいという気持ちも。だから達治は私と別れるという選択をしたんだと思います。私が弱いから」

 ゆきは俯くほどではないが目雲とは視線が合わなくなり、口元が上がっているのは分かるが、その感情が余計に目雲には分からなくなる。

「ゆきさん……」

 明るい声のままゆきの話は続いた。

「だから私が嘘で大丈夫だから別れるよって言っても達治の方が納得しませんでした。このままずるずる別れられないとどうするんだって聞いたら、別れるまでどこにもいかないって言うんですよ、もう卒業後は海外に行くって決まってるのに。私が悪女ならそんな達治の感情を利用するって言ったら、ゆきは大丈夫だって。とんでもない人ですよね、大丈夫じゃないって言ってるのに」

 怒っているとも恨んでいるとも取れない声色は、仕方ない子供を叱る様などこかにぬくもりを感じさえするもので、目雲の感情を騒めかせる。

「ゆきさん」

 目雲が思わずと言った感じで名前を呼ぶので、ゆきは小さな深呼吸の後きちんと目を合わせてにっこりと笑ってみせた。

「私本当にあの時は頑張りました。頑張って、本当に納得したんです、達治の気持ちもきちんと受け入れましたし。投げやりにも自暴自棄にもなりませんでした。応援を素直に受け取って、これからのお互いの人生の健闘を祈って、笑顔で見送りました。だからそれからは泣いたりしませんでしたし、ずっと平穏をほどほどに頑張って生きてます」

 傍から見たら穏やかな別れだったかもしれない。円満なんて言ってしまえば周囲から良かったとさえ言われるような最後だったのに、目雲がゆきの笑顔を見てもとてもそうは言えなかった。だからゆきの側を理解していた愛美や堺は酷い別れ方だと言ったのだと分かった。
 それを思えば自分とは全く違う意味でその存在はゆきの中に残っているのでは目雲には思えてしまう。

 だから聞かずにはいれなかった。

「まだ好きですか?」




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