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第二章 車内でも隣には

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 駅に入る前にゆきは目雲に止められる。
 立ち止まっていても邪魔にならない人通りの少ない場所に移動すると、目雲がその訳を説明する。

「ゆきさん、僕はゆきさんが今どんな状態なのか量りかねてます」

 ゆきは目雲を見上げて首を傾げる。

「大丈夫だと説明されても実際そうなのか、それにゆきさんのマンションは駅から少し歩きますよね」
「十五分くらいです」

 いつもよりずっとはっきりした口調で簡潔に答えるゆきはやはりいつもと違う。

「今のゆきさんを十五分も一人で歩かせたくありません」

 目雲は本気で心配していた。酔いは問題ないのかもしれないが、別の問題で一人にしたくない。自分自身が出会った頃の素面のゆきを見て楽しそうだと思ったのだから、この更に可愛く楽し気なゆきに声を掛けてくる輩がいないとも限らないと。

「ゆきさん、このままゆきさんを帰すのはとても心配です。体調は大丈夫なのかもしれないですけど、夜道はいろいろ危ないです」

 ゆきは不思議そうに首を傾げるも、否定はしなかった。

「ではタクシーで帰ります」

 その申し出をくみ取らず目雲は続ける。

「それに僕みたいな前例もあるので、あれほど飲んでいると心配なんです」

 ゆきは酔ってはいてもいつもの思考はしっかりとあり目雲の心配も分かるので無下にはしたくなかったのだが、どうやって納得してもらおうかと困ってもいた。
 どしようかとじっと目雲を見詰めていると、目雲が真剣な表情で一つ案を出した。

「僕の家に来ませんか?」

 思わぬ提案にゆきは少し目を見開いた。
 目雲は神妙な面持ちでゆきを説得する。

「正直妙なことをしないという自信はすでにありませんが、無理させるつもりは少しもないですし最大限我慢しますから」

 ゆきは少しだけ考えたがコクンと頷き、いろいろと確認を取るのが面倒になり妙なことになっても良いかと誘いに乗る。
 目雲はゆきの手を取ると、そのまま歩き出した。

「恋人なので、これはいいと思います」

 もちろんゆきの速度に合わせて歩く目雲だったが、ゆきは少しすると止まる。

「ゆきさん?」

 不快だっただろうかと目雲が思う隙もなく、ゆきは目雲とつないでいる手を持ち上げると一旦離して繋ぎなおす。指を絡めるいわゆる恋人繋ぎに変えて、にこりと笑って歩き出した。
 思考は正常だが面倒くさがりは顕著に表れる。だから確認するのも説明するのもいつもならさり気無くするところを全部省略した。相手が目雲だから。
 嬉しいため息をついて目雲はゆきの隣りに並ぶ。

「恋人だからですね」

 ゆきはニコニコと頷き、駅の中へ進む。
 そのまま電車に乗り、目雲のマンションの最寄り駅で降りると、ゆきが指さしたのでコンビニに寄る。ゆきは迷わずメイク落としやスキンケアのグッズと明日のためのコスメなど泊まるために必要な物を次々とかごに入れ、目雲に朝ご飯も買いますかと尋ねる。

 目雲が作ると伝えると、頷いて、続けてゆきはもう少し飲みますか? とアルコール飲料の前に立つ。

「大丈夫ですか?」

 ゆきは躊躇いなく頷く。
 それで目雲はゆきは本当に酒を飲むことが好きなんだと理解した。

「じゃあもう少しだけ」

 目雲の言葉を聞いてゆきは目新しい缶ビールやワインなど適当にかごに入れるとつまみになりそうなデリカやお菓子も追加していく。
 もちろん目雲に払わせる隙も見せずゆきが全部払う。

 コンビニを出るとゆきから手を繋ぎなおしてマンションまで向かった。

 目雲の家にやってきてもゆきはただ喋らないだけで一見普段と変わらない様子で、上着を脱いだり手を洗ったりとしたあと、二人でソファーの前で一旦落ち着くことにした。

「お疲れ様でした」

 グラスや小皿などを用意した目雲がゆきの隣りに座ってから、ビールを両方に注ぎグラスを持つと、ゆきもグラスに手を添えて持ち上げ優しく重ねた。

「甘くなくても大丈夫なんですね」
「コンビニやスーパーでよく売っている甘いお酒は比較的アルコールが抑えられているので、私の体質なら酔いにくいと思って好んで飲んでいます」

 普段の柔らかめの口調ではなく、それどころか一言一句がはっきりと聞き取れるような発声でその分喜怒哀楽はさほど感じられない。微笑みがなければどこか無機質にも聞こえる。

「一人でも本当に飲むんですか?」

 逆に動きはいつもより少なく、グラスを持って少しずつ口に運ぶ以外は目雲の方を見詰めている。

「本当にたまにです。お酒がない生活でも問題ないので日頃飲むことはないんですが、よくお酒をくれる友達がいて、そのお酒が溜まった時だけ飲みます」

 目雲の方がゆきの知らないその姿が刺激的で視線を逸らしそうになりながらも、それももったいない気がして、ゆきが向ける視線を受け止める。

「その方はゆきさんのお酒好きをご存じなんですね」

 友人が多いと言っていた愛美の言葉を思い出していた。

「大学の同期です。卒業後に地元に戻ったのでなかなか会うことはできないのですが、お中元やお歳暮だからとか、旅行に行ったからとか、何かあるといろいろと送ってくれます」

 いつもと違うゆきのそんな話し方をもう少し聞きていたかったが、ゆきに無理をさせるつもりもないので、突然口数が多くなったゆきに目雲は首を傾げ優しく問いかけた。

「ゆきさん、今頑張って話してくれてます?」
「上手く話せていませんか?」

 途端に不安そうに目雲を見つめるので、目雲は安心させるようにゆっくり首を振った。

「すごく上手に話せてますよ」

 ゆきはほっと息を吐く。そしてグラスを傾けて口を潤わせた。
 そんなゆきを見つめる目雲は改めてゆき自身に聞きたいことを口にした。

「頑張らなくても大丈夫ですからね。ゆきさんはそんなに話すのが苦手なんですか?」

 ゆきは首を横に動かす。会話方法が戻ったことが目雲はどこか嬉しかった。

「楽しいですか?」

 コクリと頷く。そして目雲をまたじっと見つめる。

「酔った時だけいつも通り話せなくなってしまうんですか?」

 ゆきは同じく頷いた。

「大学生の時話し方を練習したのはどうしてですか?」

 ゆきは少しだけ考えると、表情を変えることなく目を見て伝える。

「話すことの楽しさを知ったからです」
「それまでは、楽しくなかったんですか?」

 ゆきは否定した。

「じゃあ単純に知らなかった?」

 頷きが返ってきて、目雲はこのコミュニケーション方法もとても楽しかったし、他ではあまりしてほしくないと思ってしまう。

 ゆきは頷くことと首を振ることでほとんどを答えるのだが、その分じっと相手を見る時間が長い。二人きりだとそれがより分かりやすくて、つい引き付けられてしまう。

「ゆきさんは本当に可愛いですね」

 ゆきは止まったまま瞬きだけしたのち、眉をひそめて首を傾げた。
 目雲はつい微笑んでしまう自分を自覚しながら、いつもながらあまり量は飲んでいないにも関わらず酔ったかなと言い訳を考えながら、思ったことをそのまま声にした。

「キスしてもいいですか?」

 目を丸くしたゆきが動き出す前に、目雲は掠めるようにキスをした。

「大丈夫です、これ以上はしません」

 ゆきはしばし固まったのち、ゆっくりコクッと頷いた。

「ゆきさん、僕がいないところでこんな風に酔わないで下さいね」

 今度は深く頷いた。大丈夫だと言うように。

「僕は少し明日の準備とかしてきます。ゆきさんはゆっくりしててくださいね。お好きな本を読んでてください」

 愛美と堺に注意されていたことだったが、暇を持て余らせてしまうよりはと目雲が言うと、ゆきはぴくりと反応して、目雲と一緒に立ち上がった。

 本棚の前に立つゆきを横目にキッチンに立つが、すぐにゆきが元の場所に座る気配を感じ振り返ると、その手には建築の歴史に関する本があり、文芸以外を手に取るのは初めての事で興味深かった。

 話しかけるのは悪いかと思いつつも、目雲は聞けるものならそれを選んだ理由が知りたかった。

「小説ではないですけど、大丈夫ですか?」

 目雲の家でゆきが本を開くことはあまりない。そして小説以外を手にすることもなかったし、それも目雲が薦めてからというのが常だった。ゆきが感想をくれるようになってから、読書家だからなのか、翻訳家だからなのか、作者の胸にしみる感想らしく、目雲の家に送られてくる小説の量が増えたので、ゆきに貸す本に困ることもなかったから、それ以外に興味があるとは思っていなかった。

 冷蔵庫を開けながらゆきを見ている目雲に頷きで返す。
 作業台代わりに置いたカウンターテーブルの前に目雲が立つと、ゆきがベッドにもたれて膝を立てて本を開く姿が映る。

「普段目にしない言葉が多いですけど、それは比較的分かりやすく書かれてるんですよ」

 ゆきはこくこくと頷きながら、ゆっくりとページを捲っていく。

「分からないことがあったら聞いてくださいね」

 ゆきは目雲を見てにっこり笑って頷いた。
 あまりにいきいきした目をしていたので、それを選んだ理由は明日聞くことにして、本を読むゆきを時々眺めながら、風呂の準備や朝食の下ごしらえを済ませた。

 ゆきは本を読みながらも、適度にグラスも手にしていたし、つまみも口に運んでいた。決して本を汚さないようにもう無意識でそれができるくらいに、ゆきにとっては当たり前の行動なのだと見て取れた。
 ただグラスが空になればそれ以上飲むことはなく、本の方に集中していた。

「ゆきさん」

 風呂の準備ができたと声を掛けるが、一度では反応がなく、これが帰ってこないってことだなと目雲は体感した。
 それでも三度も名前を呼べばゆきは目雲を振り向いた。

「お風呂の準備ができました」

 ゆきは本を閉じて、こくりと頷いた。

「お先にどうぞ。これならウエストが絞れるようになっているので何とかはけると思います」

 ゆきは本を元の場所に戻すと差し出されたジャージと無地のTシャツを素直に受け取り、風呂の使い方を説明すると言う目雲に付いて行く。トイレ別の一般的なユニットバスだからと詳細は省きシャンプー類を好きに使っていいことやドライヤーの位置などを簡単に説明するのをゆきは黙って聞いて、ぺこりと小さくお辞儀をしてから、コンビニで買った物も持って脱衣所のドアを閉じた。
 その間に目雲はローテーブルの上を片付けて、ベッドを整えた。
 しばらくするとしっかり髪まで乾かしたゆきが戻ってきて、またペコリとお辞儀をした。

 目雲の服を着たゆきはジャージの裾は足首ギリギリまで折り上げ、Tシャツは袖が肘の辺りまできている。
 メイクを落として普段より少し色のない無垢な状態で、風呂上がりの上気した頬に酒の影響でややとろけた様な瞳で胡乱に見つめられた目雲は一瞬思わず視線を逸らしてしまうが、なんとか平常心を取り戻して上着替わりのジップパーカーを手渡して、座るように促した。

「肌寒かったら羽織って下さい、僕もお風呂入ってきます」

 さっとゆきに湯上りのお茶を出した後、目雲が入れ替わるように風呂に向かうと、そこは特に乱れもなくとても綺麗に使われていて、酔っていてもきっちりしてることがまた証明されたと少し驚いた。

 目雲が気持ち素早く風呂を上がると、ゆきはパーカーを袖だけ通して、たくし上げただけの状態で手元をダボつかせたまま、さっきと同じ本を同じ姿勢で読んでいた。
 目雲は気付かれないようにゆっくり深呼吸して、風呂以上に上がった体温を下げるべくキッチンで冷たい水を一杯煽った。

「面白いですか?」

 目雲が隣に座ると流石にすぐ気が付いて、ゆきは顔を上げて頷いた。

「資料などを普段から読んでるから、そういうのも読むのも慣れてるんですか?」

 ゆきは少し宙を見てから、改めて目雲を見ると微笑んだ。

「文字が書いてあればどんな本でも読みます」

 ドキッとするほどまっすぐな瞳だった。ともすれば失礼な言葉だが、子供のような無邪気さが存分に感じられる純粋さが表れていた。

「本が、好きなんですね」

 ゆきは笑顔で頷いて肯定した。

「でも、そろそろ寝ましょうか」

 本を閉じて笑顔のまま素直に頷いた。

「ゆきさん、奥どうぞ」

 掛け布団を捲り勧める目雲にコクリと頷き疑いもなくベッドで横になろうとするゆきに、それが自分に対する信頼だとは分かっていたが、妙な緊張を抱いている自分がいる分、少し意地悪をしたくもなった。
 枕元だけの電気だけ点けて部屋の電気を消しながら、きっと普段のゆきなら一緒のベッドに入ることを躊躇って床で寝るとか言い出すだろうと目雲は思う。
だから余計に今のゆきの思考に興味もある目雲は、どんな反応をするだろうという、ただの好奇心もあってわざと呼んでみる。

「ゆき」

 ベッドの上で座るゆきの小首を傾げる仕草は可愛らしいが、照れているわけではない。

「俺の名前も呼んで」

 隣に座って見つめて言っても、にっこりとして何の動揺もない。

「周弥」

 躊躇いなく呼ばれると少し物足りなく感じる目雲は自分が欲張りだなと自覚した。
 目雲は何も言わずに手を繋いだ。

「寝ましょうか」

 敢えて話し方を戻して、頷くゆきに布団を掛けて枕元の電気を消して目雲は自分も横になる。
 手は繋いだまま、ダブルベッドでも肩の当たる距離で隣にいるゆきを意識しながら目雲は暗闇に慣れてぼんやりと見える天井を眺めていた。

「ゆきさん」

 横を向いて呼べば、ゆきはゆっくりと目を開けて、始めは顔だけ目雲に向けて、そのあと体も寝返る。
 繋いだ手を目雲が自分の口元に運び口づけるようにして、目線だけゆきから逸らさず話す。

「ゆきさんは、僕とはしたくないですか?」

 されるがままのゆきは首を緩慢な動きで横に振る。

「でも酔ってない時が良いです」

 眠たそうなぼんやりとした声に目雲は微笑む。

「酔ってなければ、いいと」

 ゆきは特に表情を変えることなく頷く。

「じゃあ、そうします」

 目雲がそういうとゆきはまた目を閉じた。

「おやすみなさい」

 優しい目雲の声にゆきはもう返事も頷きもせず、そのまま静かに規則正しい寝息を立て始めた。




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