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第二章 車内でも隣には
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しばらくして、目雲が落ち着いたのを見て取ると、ゆきは目雲の手を布団の中に戻した。
「では、私は片付けしますね。ゴミの分別だけ教えてもらっていいですか?」
「いえ、僕が」
起き上がろうとする目雲をゆきはもちろん制止する。
「目雲さん、休めるときはしっかり休んだ方がいいですからね。頼りないと思いますけど、それくらいはできます」
「ゆきさんは頼りないことなんてないです」
「ではお任せください」
もう目雲は強く拒むことはできなかった。
「……すみません」
ゴミの処理の説明をしてもらいつつ、ゆきが片付けを進めていく。
目雲がどうにも不甲斐なさそうにしているのを感じて、洗い物をしながら、ゆきは少し振り返った。
「また今度ご褒美をいただけませんか?」
「ご褒美」
手元に視線を戻して、作業に意識を向けながらゆきの軽い口調が続く。
「なんでもいいですからねー」
「何が良いですか?」
「うーん、そうですね」
「なんでもいいですよ」
夕飯の片付けの報酬でなんでもなんて、程よいものは何かとゆきはしばし思案した。
そして思いつく。
「じゃあ、オムライス食べたいって言ったらお願いできますか?」
特別な好物ではなかったが、自分で作るくらいにはよく食べるものだった。
「ゆきさん、オムライス好きだったんですか?」
振り返らず、洗い物を継続しながら理由を説明する。
「時々無性に食べたくなるんです、そういう時は自分で作ったりもするんですけど、炊飯器でケチャップライス作って薄焼き卵乗せるだけの簡単なものについついなってしまいまして。お店に食べにいったりもするんですけど、目雲さんが作ったらどんなのかなと思ったりしたり」
卵を巻こうと思えば完成度の程は知れても、ゆきもできないことはない。けれど自分ひとりで食べるくらいではつい楽をしてしまう。
「どんなものがお好みですか? 昔ながらのしっかり焼いて巻き込んでいるものや半熟のものを乗せているもの、オムレツを乗せて食べる時にナイフで切り込みをいれて開くもの、いろいろあります」
ゆきがチラリと背後を見ると目雲はベッドの端に座っていた。
起き上がれるくらいには元気になってきたのだと、安堵して嬉々としてすすぐ作業に入っていく。
「どれも全部好きなんです、いつも迷うんですけど、目雲さんが作りやすいのでいいですよ」
「練習しますからどれでもどうぞ」
声の真剣さに手間を掛けさせ過ぎると分かり、すぐには手元から目を離せないがゆきは慌てる。
「え、いや、そんな、練習したりするほどのことなら、別のものでも十分過ぎですから」
「いえ、思い返せばあまり作ったことがなかったのでいい機会です」
一旦水を止め、けれど手は濡れたままシンクの上にかざして半身だけ振り返る。
洗い物も残りわずかなのでそれをほっぽり出して目雲の傍に寄ることはできないが、ゆきも真面目に考えないと目雲がどこまでやるか気が気でない。
「じゃあ、その練習に私も付き合いますから、目雲さんにオムライスばっかり食べさせるわけにはいきません」
「味は問題ないと思いますが、見た目が悪い可能性があります」
食べられたらそれで良いと思っているのに、見目が悪いだけで不合格になるなど今後へのプレッシャーになってしまう。
「それでこそ練習ですから、味が問題ない時点で満点ですけど。むしろ目雲さんの失敗作の方を食べてみたいくらいです、いつか私が作ったものを食べてもらうときの安心材料になります。でも、失敗作の出来次第では目雲さんにご飯作るのとてつもなく緊張することに……」
「ゆきさんが作ってくれたものなら喜んで食べます」
オムライスの話が一先ず落ち着いたと感じ、ゆきは再び目雲に背を向け水を出す。
「言いましたね、不味くはないくらいは保証しますけど、私の料理は父に教わったものが基本なので繊細さには欠けるんです。大皿料理というか、一撃必殺みたいなメニューが多くて。自分で食べる分には十分なんですけど、お披露目するにはちょっと覚悟か工夫が必要だったんですけど、目雲さんがそんなこと言ってくれるなら、いつも通り出しちゃいますからね」
「嬉しいです」
その声色だけでゆきは呆れ気味に笑ってしまう。
「目雲さんは本当に甘いですね、その代わりがっかりした時はちゃんと言って下さいね。少しくらい努力しないと成長しないんですから」
「がっかりすることなんてないと思います」
水を止めて、布巾を手に取り、洗い終わったものを拭いていく。
「えー、そんなことないとは全然言えない人間性だと思いますよ、がっかりすることばっかりの可能性も大いにあります」
「がっかりではなくて、愛おしいです」
「……えっと」
返事に戸惑っているとふいに背後からそっと抱きしめられた。
ゆきがそれを感じ取った瞬間にはさらに甘い声がする。
「今日泊っていって下さい」
「えっ」
拭いているカップを落さないようにとぎゅっと握る以外ゆきにできることはなかった。
「激しい運動は控えた方が良いので、先週のようなことはできませんが、もっと一緒にいたいんです。ダメですか?」
耳に寄せるように話されるとゆきの心拍数は上がっていく。
「い、いえ」
「じゃあ泊ってください」
「はい、喜んで!」
昨今、居酒屋でも聞かないような返事に、目雲が笑う。
「照れてます?」
「……ちょっとだけ」
「可愛いですね」
それどこではなかったゆきは、いったい目雲には何が見えているんだと疑いながら少し気持ちを落ち着かせた。
「……元気になってきたようで良かったです」
「そうですね、ゆきさんの良いことが効いたみたいです」
目雲の腕の力が少し増す。
「そんなには効果ないと思いますよ」
「いいえ、寝る前に僕を思い出してくれていたということも含めて、とても素晴らしい薬です」
ゆきにはなかった着眼点で、そこに注目されると急に恥ずかしさが増す。
「あ、そ……でしたか、そこは想定外、です」
固まったままのゆきの手の中のカップを布巾ごと目雲が手を重ね、ゆきの手から逃がすと後ろからそのまま拭き始める。目の前で拭きあげられていく食器たちを眺め時折ゆきは振り返り気味に斜め上に視線を上げて目雲の表情を伺う。
どこか楽し気だ。
「散歩がてらコンビニに行きませんか? 何か泊まるのに足りないものがあれば買いましょう」
頭上から降り続ける声に、先週買ったスキンケア用品などは目雲の勧めで置かせてもらっていたゆきは、何が足りないか考える。
腕の間から逃れる隙がないままで、現実逃避も兼ねていた。
「えっと、えーっと、き、着替え、くらい」
「パジャマ代わりは先週のと同じでいいですか?」
「そ、そうですね。貸していただけると助かります」
「今後のためにも、いつでも泊まれるようにしておいた方が良いですね」
現実味が帯びるとゆきの思考は逆に冷静になる。目雲の体温にドキドキしていたのも受け入れ、そこにあるものとしてしまい、目雲の言う今後のための方をきちんと考えると、もういつものゆきだ。
「はい。コンビニの下着が増え続けるのは少し困るので良ければお願いします。意外と着心地はいいんですけどね」
それこそ二人の関係性が深まったような事柄なのに、ゆきは何を置いてもらったら目雲の生活に支障なく自分自身も快適になるかに集中しているから、もう腕の中でも関係なく、嬉しそうでも恥ずかしそうでもない。
「どこか買いに行きますか? 薬もお酒も飲んでもないので車出せますよ」
「疲れちゃったら大変なので今日はコンビニで大丈夫ですよ」
「では買い物は明日にしましょう」
その誘いにはゆきも頷き、そのまま家から持ってこれそうなものと買って置いたほうが良いものを考え始めた。
目雲が残っていたものすべて拭き終わるのをそのまま見届けたゆきはそっと首だけで振り返り見上げた。
「コンビニでアイス買っても良いですか?」
初めて聞く願いだったが、目雲が首を振る訳はない。
「いいですよ」
そのままゆきは同じトーンで尋ねる。
「食べてる時もくっついてても良いですか?」
「……」
今度固まるのは目雲の方だった。
「ダメですか?」
「ダメなんてことないです。ただゆきさんがそんなこというのは珍しいのでうっかり返事をできませんでした」
片付けが終わりそうだったから何か言わなくてはと考えた結果だったが、思いのほか目雲が動揺を見せたのでゆきの方も恐る恐るその理由を述べる。
「アイスは体が冷えるのですっごく温かい部屋か真夏の外でくらいでしか食べないんですけど、こうしてもらってると温かいなという色気も何もない理由だったりします。がっかりしましたか?」
ゆきは甘いものが好きだが、アイス単体で食べることはその後が悲惨なので普段はできない。酒を飲んだ時やホットドリンクを大量に飲める時とさっき目雲に伝えた状況など条件が揃わないと、ゆきは大の苦手な寒さと戦わなくてはならなくなるからだ。
買い物のことを考えている間、ゆきは目雲の体温が自分より高いことが知れてしまい、恥ずかしさもなくなればこの状況なら夕食後のアイスという密かな夢が叶うのではと頭をよぎってしまってつい口走っていた。
隣に座っていることはよくあったが、これほど長時間体を密着させたことがなかったから、今更気が付いたことだった。
「さっきの続きですか?」
目雲の方はがっかりという言葉に引っかかった。
「そういうわけではないんですが」
「ゆきさんがアイス食べる時は必ず抱きしめられるなんて嬉しい意外にあると思いますか?」
目雲に言われてまさか毎回のことになろうとは想像力が足りていなかったと、ゆきは少し反省した。
「なんだか隠語を作ってしまったようで、抱きしめての隠し言葉みたいな」
今後ゆきがアイスを食べたいと言えばそれは抱きしめてと同意義になる。
「隠し言葉……月が綺麗ですね、というやつですね」
愛してると言う代わりにそういえば、伝わる相手には伝わる。
かの文豪の都市伝説的逸話で言われる言葉に、ゆきも定番の返しを思い浮かべた。
「死んでもいいわって答えたら翻訳家としては失格かもしれませんね」
私もです、と言う代わりにそう答えるのだが、こちらもロシア語を訳した言葉なのでゆきの職業柄ひねりが足りないように感じた。
「そう答えてくれますか?」
ゆきは目雲を見上げつつ笑顔で頷く。
「できるだけ長く一緒にいたいので、死なないような台詞を考えておきます」
目雲はゆきをきつく抱きしめた。
「それだけで十分ですよ」
ゆきも目雲に背中を預け、その腕を胸に抱くようにしてその強さに答えると頬に手を添えられ、それに導かれてまたゆきが後ろを見上げると唇が重なる。
少しして離れると、ゆきは閉じていた瞼をゆっくり開けて、少し困ったように微笑んだ。
「うっかりアイス食べたいって言えなくなっちゃいましたね」
「言ってくれても大丈夫です、その度抱きしめられて僕は嬉しいだけですので」
「それは……私も、です」
これ以上は歯止めが利かなくなると自制が効いた目雲がゆきから少し離れる。
「アイス買いに行きましょうか」
出かける準備をしながら、ゆきは思い出す。
「あ、お泊りグッズも忘れないようにしないとですね。うっかりアイスだけ買ってきちゃいそうです」
「そっちの方が本来の目的でしたね。ゆきさんは本当に世界を一変させる天才です」
ゆきは立ち止まって、考える。
「それは、褒められ、てる?」
世界を一瞬で変えてしまうのは、良くない場合も多々あるが故にゆきには良し悪しの判断が難しい。
目雲の方を見ずに首を捻るゆきにお供のストールを掛ける。
「もちろんです。日が沈むとまだ肌寒いですから温かくして早く帰って来ましょう」
微笑む目雲を見上げた。
「そうですね、お風呂入る前にアイス食べないと体が冷えて眠れなくなるので早く買ってこないと食べる時間がなくなっちゃいます」
「……だからゆきさん」
突然俯いた目雲を下から伺い見る。
「ん? どうしました?」
目雲は徐にゆきの両肩に手を乗せると、その動きとは逆に勢いで顔を上げぐっと目を合わせる。
「僕が温めますから大丈夫って、誘ってることになりますよ」
「違います、違います! ただの事実の報告をしただけで」
発想が飛び過ぎだと思わないでもないゆきだが、話の流れを汲むなら仕方ないかと思わないでも無くて複雑な困り顔を浮かべるから、目雲は気合を入れ直してそのままゆきをくるりと回して玄関にいざなう。
「分かってます、行きますよ」
「はい!」
「手も繋いで行きますから」
「やった!」
小さく拳を上げる姿を見て、一つため息を吐いて目雲はゆきをギリギリ抱きしめずに済んだ。
「あー、押し倒したい」
「え!」
玄関前で驚きの表情で見上げるゆきを通り越して、先に靴を履くと目の前に立つ。
「今日ほど自分の体が憎らしいことはないです」
「え、えーっと」
視線をさ迷わせて狼狽えるゆきの足元に靴を差し出した。
「体調が安定したら覚悟してくださいね」
「……御意に」
ゆきが靴を履き終えると、玄関ドアを目雲が開け、外に出る。
「本当に、ゆきさんは。カギ閉めますよ」
「はい」
微笑み呆れる目雲をどこか伺いつつも、控えめに返事をして鍵を掛けるのを見守っていたゆきの手を握り、その手を見てにっこり笑ったゆきと二人、コンビニに向かう。
今までだったら暗く落ち込んだままになるはずの目雲の一日は、信じられない程楽しいまま終わり、そして明けてからもその楽しさは続いていった。
「では、私は片付けしますね。ゴミの分別だけ教えてもらっていいですか?」
「いえ、僕が」
起き上がろうとする目雲をゆきはもちろん制止する。
「目雲さん、休めるときはしっかり休んだ方がいいですからね。頼りないと思いますけど、それくらいはできます」
「ゆきさんは頼りないことなんてないです」
「ではお任せください」
もう目雲は強く拒むことはできなかった。
「……すみません」
ゴミの処理の説明をしてもらいつつ、ゆきが片付けを進めていく。
目雲がどうにも不甲斐なさそうにしているのを感じて、洗い物をしながら、ゆきは少し振り返った。
「また今度ご褒美をいただけませんか?」
「ご褒美」
手元に視線を戻して、作業に意識を向けながらゆきの軽い口調が続く。
「なんでもいいですからねー」
「何が良いですか?」
「うーん、そうですね」
「なんでもいいですよ」
夕飯の片付けの報酬でなんでもなんて、程よいものは何かとゆきはしばし思案した。
そして思いつく。
「じゃあ、オムライス食べたいって言ったらお願いできますか?」
特別な好物ではなかったが、自分で作るくらいにはよく食べるものだった。
「ゆきさん、オムライス好きだったんですか?」
振り返らず、洗い物を継続しながら理由を説明する。
「時々無性に食べたくなるんです、そういう時は自分で作ったりもするんですけど、炊飯器でケチャップライス作って薄焼き卵乗せるだけの簡単なものについついなってしまいまして。お店に食べにいったりもするんですけど、目雲さんが作ったらどんなのかなと思ったりしたり」
卵を巻こうと思えば完成度の程は知れても、ゆきもできないことはない。けれど自分ひとりで食べるくらいではつい楽をしてしまう。
「どんなものがお好みですか? 昔ながらのしっかり焼いて巻き込んでいるものや半熟のものを乗せているもの、オムレツを乗せて食べる時にナイフで切り込みをいれて開くもの、いろいろあります」
ゆきがチラリと背後を見ると目雲はベッドの端に座っていた。
起き上がれるくらいには元気になってきたのだと、安堵して嬉々としてすすぐ作業に入っていく。
「どれも全部好きなんです、いつも迷うんですけど、目雲さんが作りやすいのでいいですよ」
「練習しますからどれでもどうぞ」
声の真剣さに手間を掛けさせ過ぎると分かり、すぐには手元から目を離せないがゆきは慌てる。
「え、いや、そんな、練習したりするほどのことなら、別のものでも十分過ぎですから」
「いえ、思い返せばあまり作ったことがなかったのでいい機会です」
一旦水を止め、けれど手は濡れたままシンクの上にかざして半身だけ振り返る。
洗い物も残りわずかなのでそれをほっぽり出して目雲の傍に寄ることはできないが、ゆきも真面目に考えないと目雲がどこまでやるか気が気でない。
「じゃあ、その練習に私も付き合いますから、目雲さんにオムライスばっかり食べさせるわけにはいきません」
「味は問題ないと思いますが、見た目が悪い可能性があります」
食べられたらそれで良いと思っているのに、見目が悪いだけで不合格になるなど今後へのプレッシャーになってしまう。
「それでこそ練習ですから、味が問題ない時点で満点ですけど。むしろ目雲さんの失敗作の方を食べてみたいくらいです、いつか私が作ったものを食べてもらうときの安心材料になります。でも、失敗作の出来次第では目雲さんにご飯作るのとてつもなく緊張することに……」
「ゆきさんが作ってくれたものなら喜んで食べます」
オムライスの話が一先ず落ち着いたと感じ、ゆきは再び目雲に背を向け水を出す。
「言いましたね、不味くはないくらいは保証しますけど、私の料理は父に教わったものが基本なので繊細さには欠けるんです。大皿料理というか、一撃必殺みたいなメニューが多くて。自分で食べる分には十分なんですけど、お披露目するにはちょっと覚悟か工夫が必要だったんですけど、目雲さんがそんなこと言ってくれるなら、いつも通り出しちゃいますからね」
「嬉しいです」
その声色だけでゆきは呆れ気味に笑ってしまう。
「目雲さんは本当に甘いですね、その代わりがっかりした時はちゃんと言って下さいね。少しくらい努力しないと成長しないんですから」
「がっかりすることなんてないと思います」
水を止めて、布巾を手に取り、洗い終わったものを拭いていく。
「えー、そんなことないとは全然言えない人間性だと思いますよ、がっかりすることばっかりの可能性も大いにあります」
「がっかりではなくて、愛おしいです」
「……えっと」
返事に戸惑っているとふいに背後からそっと抱きしめられた。
ゆきがそれを感じ取った瞬間にはさらに甘い声がする。
「今日泊っていって下さい」
「えっ」
拭いているカップを落さないようにとぎゅっと握る以外ゆきにできることはなかった。
「激しい運動は控えた方が良いので、先週のようなことはできませんが、もっと一緒にいたいんです。ダメですか?」
耳に寄せるように話されるとゆきの心拍数は上がっていく。
「い、いえ」
「じゃあ泊ってください」
「はい、喜んで!」
昨今、居酒屋でも聞かないような返事に、目雲が笑う。
「照れてます?」
「……ちょっとだけ」
「可愛いですね」
それどこではなかったゆきは、いったい目雲には何が見えているんだと疑いながら少し気持ちを落ち着かせた。
「……元気になってきたようで良かったです」
「そうですね、ゆきさんの良いことが効いたみたいです」
目雲の腕の力が少し増す。
「そんなには効果ないと思いますよ」
「いいえ、寝る前に僕を思い出してくれていたということも含めて、とても素晴らしい薬です」
ゆきにはなかった着眼点で、そこに注目されると急に恥ずかしさが増す。
「あ、そ……でしたか、そこは想定外、です」
固まったままのゆきの手の中のカップを布巾ごと目雲が手を重ね、ゆきの手から逃がすと後ろからそのまま拭き始める。目の前で拭きあげられていく食器たちを眺め時折ゆきは振り返り気味に斜め上に視線を上げて目雲の表情を伺う。
どこか楽し気だ。
「散歩がてらコンビニに行きませんか? 何か泊まるのに足りないものがあれば買いましょう」
頭上から降り続ける声に、先週買ったスキンケア用品などは目雲の勧めで置かせてもらっていたゆきは、何が足りないか考える。
腕の間から逃れる隙がないままで、現実逃避も兼ねていた。
「えっと、えーっと、き、着替え、くらい」
「パジャマ代わりは先週のと同じでいいですか?」
「そ、そうですね。貸していただけると助かります」
「今後のためにも、いつでも泊まれるようにしておいた方が良いですね」
現実味が帯びるとゆきの思考は逆に冷静になる。目雲の体温にドキドキしていたのも受け入れ、そこにあるものとしてしまい、目雲の言う今後のための方をきちんと考えると、もういつものゆきだ。
「はい。コンビニの下着が増え続けるのは少し困るので良ければお願いします。意外と着心地はいいんですけどね」
それこそ二人の関係性が深まったような事柄なのに、ゆきは何を置いてもらったら目雲の生活に支障なく自分自身も快適になるかに集中しているから、もう腕の中でも関係なく、嬉しそうでも恥ずかしそうでもない。
「どこか買いに行きますか? 薬もお酒も飲んでもないので車出せますよ」
「疲れちゃったら大変なので今日はコンビニで大丈夫ですよ」
「では買い物は明日にしましょう」
その誘いにはゆきも頷き、そのまま家から持ってこれそうなものと買って置いたほうが良いものを考え始めた。
目雲が残っていたものすべて拭き終わるのをそのまま見届けたゆきはそっと首だけで振り返り見上げた。
「コンビニでアイス買っても良いですか?」
初めて聞く願いだったが、目雲が首を振る訳はない。
「いいですよ」
そのままゆきは同じトーンで尋ねる。
「食べてる時もくっついてても良いですか?」
「……」
今度固まるのは目雲の方だった。
「ダメですか?」
「ダメなんてことないです。ただゆきさんがそんなこというのは珍しいのでうっかり返事をできませんでした」
片付けが終わりそうだったから何か言わなくてはと考えた結果だったが、思いのほか目雲が動揺を見せたのでゆきの方も恐る恐るその理由を述べる。
「アイスは体が冷えるのですっごく温かい部屋か真夏の外でくらいでしか食べないんですけど、こうしてもらってると温かいなという色気も何もない理由だったりします。がっかりしましたか?」
ゆきは甘いものが好きだが、アイス単体で食べることはその後が悲惨なので普段はできない。酒を飲んだ時やホットドリンクを大量に飲める時とさっき目雲に伝えた状況など条件が揃わないと、ゆきは大の苦手な寒さと戦わなくてはならなくなるからだ。
買い物のことを考えている間、ゆきは目雲の体温が自分より高いことが知れてしまい、恥ずかしさもなくなればこの状況なら夕食後のアイスという密かな夢が叶うのではと頭をよぎってしまってつい口走っていた。
隣に座っていることはよくあったが、これほど長時間体を密着させたことがなかったから、今更気が付いたことだった。
「さっきの続きですか?」
目雲の方はがっかりという言葉に引っかかった。
「そういうわけではないんですが」
「ゆきさんがアイス食べる時は必ず抱きしめられるなんて嬉しい意外にあると思いますか?」
目雲に言われてまさか毎回のことになろうとは想像力が足りていなかったと、ゆきは少し反省した。
「なんだか隠語を作ってしまったようで、抱きしめての隠し言葉みたいな」
今後ゆきがアイスを食べたいと言えばそれは抱きしめてと同意義になる。
「隠し言葉……月が綺麗ですね、というやつですね」
愛してると言う代わりにそういえば、伝わる相手には伝わる。
かの文豪の都市伝説的逸話で言われる言葉に、ゆきも定番の返しを思い浮かべた。
「死んでもいいわって答えたら翻訳家としては失格かもしれませんね」
私もです、と言う代わりにそう答えるのだが、こちらもロシア語を訳した言葉なのでゆきの職業柄ひねりが足りないように感じた。
「そう答えてくれますか?」
ゆきは目雲を見上げつつ笑顔で頷く。
「できるだけ長く一緒にいたいので、死なないような台詞を考えておきます」
目雲はゆきをきつく抱きしめた。
「それだけで十分ですよ」
ゆきも目雲に背中を預け、その腕を胸に抱くようにしてその強さに答えると頬に手を添えられ、それに導かれてまたゆきが後ろを見上げると唇が重なる。
少しして離れると、ゆきは閉じていた瞼をゆっくり開けて、少し困ったように微笑んだ。
「うっかりアイス食べたいって言えなくなっちゃいましたね」
「言ってくれても大丈夫です、その度抱きしめられて僕は嬉しいだけですので」
「それは……私も、です」
これ以上は歯止めが利かなくなると自制が効いた目雲がゆきから少し離れる。
「アイス買いに行きましょうか」
出かける準備をしながら、ゆきは思い出す。
「あ、お泊りグッズも忘れないようにしないとですね。うっかりアイスだけ買ってきちゃいそうです」
「そっちの方が本来の目的でしたね。ゆきさんは本当に世界を一変させる天才です」
ゆきは立ち止まって、考える。
「それは、褒められ、てる?」
世界を一瞬で変えてしまうのは、良くない場合も多々あるが故にゆきには良し悪しの判断が難しい。
目雲の方を見ずに首を捻るゆきにお供のストールを掛ける。
「もちろんです。日が沈むとまだ肌寒いですから温かくして早く帰って来ましょう」
微笑む目雲を見上げた。
「そうですね、お風呂入る前にアイス食べないと体が冷えて眠れなくなるので早く買ってこないと食べる時間がなくなっちゃいます」
「……だからゆきさん」
突然俯いた目雲を下から伺い見る。
「ん? どうしました?」
目雲は徐にゆきの両肩に手を乗せると、その動きとは逆に勢いで顔を上げぐっと目を合わせる。
「僕が温めますから大丈夫って、誘ってることになりますよ」
「違います、違います! ただの事実の報告をしただけで」
発想が飛び過ぎだと思わないでもないゆきだが、話の流れを汲むなら仕方ないかと思わないでも無くて複雑な困り顔を浮かべるから、目雲は気合を入れ直してそのままゆきをくるりと回して玄関にいざなう。
「分かってます、行きますよ」
「はい!」
「手も繋いで行きますから」
「やった!」
小さく拳を上げる姿を見て、一つため息を吐いて目雲はゆきをギリギリ抱きしめずに済んだ。
「あー、押し倒したい」
「え!」
玄関前で驚きの表情で見上げるゆきを通り越して、先に靴を履くと目の前に立つ。
「今日ほど自分の体が憎らしいことはないです」
「え、えーっと」
視線をさ迷わせて狼狽えるゆきの足元に靴を差し出した。
「体調が安定したら覚悟してくださいね」
「……御意に」
ゆきが靴を履き終えると、玄関ドアを目雲が開け、外に出る。
「本当に、ゆきさんは。カギ閉めますよ」
「はい」
微笑み呆れる目雲をどこか伺いつつも、控えめに返事をして鍵を掛けるのを見守っていたゆきの手を握り、その手を見てにっこり笑ったゆきと二人、コンビニに向かう。
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無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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