白鬼

藤田 秋

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第十八章 勿忘草

18-20 禁忌

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 鬼は着物の袖を引き、自分の腕を出した。
 月の光に照らされて、白さがより際立っているが、同時にこびり付いた血も浮かび上がっていた。

 空いた方の手の指を腕に沿わせ、流れるような動作で一本の線を引く。肌は鋭い爪に裂かれ、赤い線を滲ませた。
 自分の腕に傷を作った……?

「……っ!!」
 かずまが声にならない叫びを上げた後、暖かい血が僕の顔に降りかかる。
 鬼の動きが捉えられなかった。

 一秒も経っていない。その間に、かずまが宙にぶら下がっていた。
 胸には深々と鬼の腕が刺さっており、背中まで貫通している。

 状況を把握するまで、時間が掛かった。
 串刺しにされた弟は、だらりと腕を下げ、ピクリとも動かない。血がぼたぼたと滴り、僕はそれを浴びている。

 鬼は愉快そうに笑い、かずまを投げ捨てた。

 かずまは人形のように何も反応せず、地面にごろごろと転がって。大きな血だまりがそこに出来た。

 脚に力が入らない。歩くのは諦めて、這いながらかずまに近づいた。

 肩を揺らす。頭がぐらぐらと揺れるだけで、何も答えない。
 見開かれた目は焦点が合ってなくて、光が宿っていなかった。

「かずま……かずま、どうしたの? 返事、して……ねえ……」
 無視された。機嫌が悪いのかな。ごめんね。謝るから……起きてよ……。

「勇敢な片割れに敬意を表して、お前には手を出さないでおくよ」
 鬼は首をコキコキと鳴らし、退屈そうに欠伸をした。

「どうして……どうしてかずまを!」
「睨まないでくれよ。別に、殺すつもりでやったわけじゃあない」
 僕が精一杯の怒鳴ると、鬼は軽く笑って手を振った。

 串刺しだなんて、どう見ても殺すつもりじゃなきゃ出来ない。ふざけるな。

 そう抗議しようとしたが、鬼は自分の唇の前に人差し指を立てた。
 その仕草だけで、言葉は喉の奥に引っ込んでしまう。

「あたしだって、そいつには死んでほしくはないさ。ただ、元々死にかけだったからねぇ……戻って来ないかもしれない」
「……!」

 殺すつもりはない? 死んでほしくない? でも、戻って来ないかもしれない?
 こいつは人の命を何とも思っちゃいない。

「だが、お前さんは奇しくもそいつと魂の絆で繋がれている。もしかしたら、取り戻すことも出来るかもしれんな」
「……え?」
 こいつは何を言っているの? さっきから話が掴めない。

「つまり、そいつの命はお前さん次第ってことさ。残り時間は短いがね」
 鬼はくるりと僕たちに背を向ける。
 夜風に靡く長い白髪は、悔しいけど美しかった。

 暗闇の中に佇む白い鬼は妖しく笑い、溶けるように消えていった。

 ぽつんと僕たちだけが取り残された。あいつは、跡形も無く消えてしまった。
 そこには元々何もなかったんだと錯覚してしまうくらいに。

 夜風が吹いた。ザァザァと木々の枝が揺れ、月は雲に覆われた。
 途端に音が消え、闇に覆われた境内は静まり返る。

 僕はゆっくりと視線を降ろした。前には弟が倒れていて、指一本動かさない。

「……かずま」
 でも、呼び掛けには応えてくれない。手に触れると、指先から冷たくなってきていた。

「起きて」
 嘘だ。ついさっき、『生きたい』って自分で言っていたじゃないか。今、冷たくなってる場合じゃないでしょ?

「何か言ってよ……」
 かずまの手を両手で覆い、ぎゅっと握る。反応は無い。そして冷たい。元から体温は低かったけれど、こんなに冷たいのは初めてだ。

「ねぇ……」
 口数が少なくて、自分の意思も殆ど表さない。
 そんなかずまが、珍しく……そう、初めて言った我儘。『生きたい』——その言葉がどれだけ嬉しかったか、どれだけ悲しかったか。

 思えば、僕たちは生まれた時から不平等だった。

 僕が元気に外を走り回っているとき、かずまはいつも布団で横になっていた。
 自由な僕のことについて、自分の境遇について、かずまは一言も不満を漏らさなかった。

 こういうものだって、全て受け入れて諦めているように見えた。

 違う。

 かずまは僕に降りかかる筈の不幸を、全て引き受けていたんだ。さっき僕の傷を取っていった時にわかった。

 僕が病気にならないこと、怪我をしても軽く済むこと、その理由は……悪いものが全てかずまに

 僕たちは繋がっていた。考えていることも、抱いている感情も、離れていたってわかる。それだけだと思っていた。

 何でもっと早く気づかなかったんだろう。もしかしたら、かずまを止めることが出来たのかもしれない。

 並んで外の世界に出られたのかもしれない。
 不幸が意図せずに流れて行っていたのだとしても、何か方法があったのかもしれない。

 自分の不幸は自分が引き受けるべきだ。他人に押し付けて良いものじゃない。

 僕が失った不幸。かずまが失った幸福。それは、あるべきところに帰さなきゃいけない。

「かずま」
 もし、奇跡が起こるのならば、僕はそれに縋り付く——。

「今までの幸せを返すから……僕の不幸を返して」
 ドクン。と一回、かずまの胸が鼓動する。
 繋いだ手が蒼く光り、僕たちを包み込んだ。

 地面には僕たちを中心に円形の陣が刻まれ、光を放つ。

「……っ!」
 景色が飛び、全ては白となった。

 ——それが、例え禁忌だとしても。

***

 次の瞬間には、また暗闇の中に居た。
 足元もロクに見えない。ここも肌寒く、土の匂いがする。

「……あ」
 握っていた筈のかずまの手が無い。近くを見回しても、誰もいない。僕一人だ。
 かずまは何処へ行ってしまったんだろう。

 ——ひた……ひた……。

 微かに聞こえる足音と、後方から吹き抜ける風。振り返ると、薄っすらと光が見えた。
 ここはどうやらトンネルのような構造をしてるみたい。

 あっちだ。確証は無いけれど、かといって頼りになる道標もない。ならば、この直感を信じよう。
 僕は光の差す方へ足を進めた。

 ——ひた……ひた……。

 ゆったりとしたペースで聞こえる足音。僕は駆け足で追いかけているのに、なかなか追いつかない。

「待っ」
 足元がよく見えないせいで、時折転びかけてバランスを崩す。でも、なんとか堪え、また走りだした。

 うっすらと人影が見えた。右、左、揺れて揺れて、おぼつかない足取りで進んでいる。
 全身から殆どの力が抜け、歩くためだけに必要最低限の力を割いているように見えた。

 いつ倒れてもおかしくないその足取りは、見ていて不安になる。

「かずま! 待って!」
 アレが誰だかわからない。だけど、かずまだと信じて叫ぶ。
 人影は足を止めず、振り返らない。ただ幽霊のようにぼんやりしているだけだ。

 出口が近くなってきたのか、光ははっきりとしてきた。もうすぐこのトンネルも終わってしまう。

 ここから出る前に連れ戻さなきゃ、手遅れになる気がする。
 ちょっとずつ距離は縮んできてるんだ、まだ、まだ間に合って。早く、早く。

「かずま!」
 再三呼んでも、反応は無い。だけど、ある程度の距離まで近づいたのか、シルエットがはっきりとしてきた。

 やっぱりかずまだ。
 僕と同じ髪色、同じ背丈、僕より細い身体。見間違えるはずがない。

 かずまだと確信したのなら、尚更急がなきゃいけない。僕は疲れかけている身体に鞭を打ち、スピードを上げた。

「かずま!」
 かずまはもう光の終着点の近くまで来ている。
 駄目だ、そこに行っちゃ駄目! もう近いのに、手を伸ばしてもまだ届かない。

 大声を出して名前を呼んでも届かないなら。
 ——かずま!——
 心の中で名前を叫ぶ。意識を集中して、片割れの中に響くように。

 ——僕だよ、珀弥だよ。止まってかずま!——
 足が擦り切れそうになっても、息が苦しくても、僕は弟の名を叫び続ける。

 どうか、届いて。返事をして、かずま……!

 ——ひた……。
 足音が、止まった。ギリギリのところだ。光はすぐ目の前まで迫っていた。

 かずまはその場に立ち尽くし、ボーッとしている。ふらふらとしている姿には生気を感じられない。

 ——かずま! 目を覚まして!——
 あと二十メートル。
 かずまは肩をピクリと動かし、うな垂れた頭を持ち上げた。

 ゆっくりと首を動かし、周りを見渡している。

 ——かずま! 後ろだよ!——
 あと十メートル。
 かずまは身を翻し、こちらに振り向く。ようやく僕に気付いたようで、少し目を見開いた。

「かずま!」
 あと五メートル。僕は手を伸ばす。

「珀弥……」
 かずまも震えながら手を伸ばした。泣きそうになりながらも……笑っていた。

 手と手の距離はあと十センチ。もう届く——!
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