六千人の命のビザ  杉原 千畝物語

蔵屋

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第一章 完結

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 六千人の命を救った外交官は、杉原ただ一人である。
世界広ろしと言えども彼のような偉大なことをした男はいない。

 第二次世界大戦中、ナチスドイツに追われたユダヤ人にビザを発給し続け、六千人余りの命を救った日本の外交官は 杉原千畝すぎはらちうねである。

 平成12年に公開された杉原本人が晩年に書いたメモがある。

私はこれを読んで杉原の偉大さを知ったのであった。
これまであまり語られなかった杉原の姿が浮かび上がってきたのだ。
満州国外交部に勤務していた彼が
軍からスパイの仕事を要求されながら
拒み続けていたことを伺わせるものである。
第二次世界大戦が始まる3日間前に赴任した。リトアニア領事館である。
【現在はリトアニア共和国 人口280万人】

 #薄緑がリトアニアです。


リトアニア領事館では、ドイツの秘密警察ゲッシュタポが潜んでいたことを杉原が知りつつ、ビザを発給していたことを伺わせるメモが公開されたのである。
領事館の閉鎖が決定した最中に突如現れた
可哀想なユダヤ人難民たち。彼らが日本国を通過し、海外に脱出するためのビザを発給するには国の渡航条例を守れとの国からの指令が杉原を悩ませたのである。
新たに公開されたメモを紹介する。
杉原が官僚的な手続きにとらわれることなく人道的な立場に立ち多くの命を救う決断を下したのである。
私はここに杉原の素晴らしさを見たのであった。
私は今の日本人に、果たして杉原千畝のような人材がいるだろうかと思ったときに
彼のような素晴らしい人材はいるのだろうか?と思うが皆さんはどう思われますか?
お伺い申し上げます。 

若者達よ!
杉原千畝のような素晴らしい人材になって
欲しい。
若者達よ!もっと社会の事を勉強して、日本国をより豊かな、幸せな国にしてくれ!

若者達よ!将来の日本を救う人材になってくれ!頼んだぞ!

そして、この日本国を支えていってもらいたい。
もう一度、読者の諸君に言う。
 杉原千畝すぎはらちうねのような素晴らしい人材になって欲しい。

私はこの杉原千畝と言う人物に出会って
非常に幸せな気分になったのである。
私はいつも大宇宙という神様と一緒に
この世に生かしていただいているので
それだけで大変幸せなのである。 

今日も、瀬戸内の海は輝いている。
太陽の光を大自然が浴びて、光明の光を輝かせている。
早朝から、小鳥や様々な鳥達がいろんな鳴き声をして私の耳を楽しませてくれている。
なんと気持ちの良いことであろうか!
南側の庭を見渡せば私の自宅の庭は、月桂樹が、高くそびえ立っている。
そうして様々な草木や花々が百花繚乱咲き乱れている。
私の心を和ませてくれているのである。

それでは、このユダヤ人六千人の命を救った外交官杉原千畝のお話をしていこう。

これは私がいろんな書籍を読んで得た知識であって若干私の記憶に留めている範囲なので申し訳ないが、誤字脱字等があれば
ご容赦願いたい。
それではお楽しみ下さい。

杉原千畝は岐阜県加茂郡八百津町税務署書院の家で父親が税務署員であった。  
明治33年(1900)の1月1日に生まれたのである。
千船の小学校時代の成績は全て「甲」という極めて優秀な生徒であった。
小学校卒業前に朝鮮総督財務部に出向していた父親の
好水よしみ は千畝が医者になることを期待していたが、千畝は後日その期待に応えることが出来ず勘当されたのである。
愛知県立醍醐中学校、元瑞陵高校卒業後、父親が希望した医学専門学校の入学試験では白紙答案を出している。医者になることよりも千畝は好きな語学の勉強を選んだのであった。
大正7年1918年4月。
千畝は英語教師を目指し
早稲田大学に入学する。
しかし、親の援助を受けずに暮らしていたので生活費を稼ぐだけでも大変だったのだ。
大学生活2年目の夏、
千畝に転機が訪れたのである。
ある日千畝は、外交官養成のための留学生の募集広告を見た。
3年間、海外に留学し大使館で語学を学びながら外交官になることができると言うものだった。千畝は大正8年(1910 )10月試験に合格した。
当時満州と呼ばれていた中国東北部のハルビンに渡ることになる。
ここで千畝は、ロシア人の家庭に同居し
翌年に創立される日露協会学院の春学院に通うなどして、ロシア語を学んだ。
大正13年(1924 )
千畝は外務省初期生としてハルビンで就職する。
7年後の昭和6年(1931年)満州事変が勃発した。
陸軍の派遣部隊である関東軍が自ら満州鉄道を爆破。
これを中国の仕業として軍事行動を起こしたのである。
翌年、満州のほぼ全域を占領した。
そして満州国を建国する。
昭和7年(1932年)の3月。
日本は清朝最後の皇帝、 愛新覚羅 溥儀あいしんかくら ふぎの執政として満州国を建国する。
杉原は満州国の外交部に派遣さた。
堪能なロシア語の力を生かし、
ソ連との交渉などの仕事に当たったのである。
当時、満州国では実権を握っていた関東軍。
鉄道建設などに反日運動が起こると、それを鎮圧していた。
杉原はこのことを後に回顧録に書いている。
「日本人は、中国人に対してひどい扱いをし
ている。同じ人間だと思うとそれが私は我慢できないんだ」
昭和10年(1935年)7月。
杉原は満州国外交部を辞任する。
そして、日本に帰国。
外務省への復職を希望した。
杉原の帰国は、満州での軍人たちの振る舞いに嫌気がさしたからだった。
当時の杉原の態度を伺わせる資料が残されている。
東京都渋谷で出版社を経営する渡辺勝正氏の事務所には、平成12年に公開されたときのメモが家族から届けられた。
メモは全部で30枚である。
これまで知られていなかった杉原の行動や考え方が浮かびあがる。
「他の工作費提案あり 
一切拒否」
このメモは、スパイ活動をすれば見返りに金を提供するという提案を杉原が拒否していることを伝えるものである。
当時の渡辺氏は次のように語っている。
「杉原さんがロシア語が上手いんで
軍部のスパイとして活用したかったんですよね。
外務省の職員としての誇りが高かったから
杉原千畝という名前で仕事はするけれど
名前も身分も隠したスパイになる事は拒否したのです。
平成5年(1993年)まで外交官として
ハンガリーの大使を歴任された作家の関氏とのある対談記事がある。
「他の工作と言うメモ、
これは一切拒否というふうに受け取ってよろしいのでしょうか?」
「当時、関東軍は、ソ連関係の情報収集に一生懸命になっていました。
あまりに成果は上がっていませんませんけど。
そこで、関東軍が杉原さんのロシア語の
語学力、分析能力に目をつけ、ぜひこの方をというふうに考えても、ちっとも不思議ではなかったと思います。ただ、杉原さん自身は、満州での軍部のやり方にも釈然としないものを感じ相当批判的であったようです。おそらく、そういう話があっても
「いや、自分はロシア語をこれまで一生懸命勉強してきたんで、初心を貫いて、それを使い、本来の外交の舞台で今後活躍するんだ」
と言う気持ちをさらに深められたのではないかと思います。
ですから、一切拒否と言う大変きつい言い方をされたのではないでしょうか?
後に、杉原さんは、満州国の外交部を自ら辞任しました。
「杉原さんは外交官はどういうものだというふうに考えたのでしょうか?」
私もハルビン学院出身の方にお目にかかったことがあります。
もちろん、時代がずれてますから、杉原さんに接するチャンスはありませんでした。
ハルビン学院を出られたロシア語選考の方の中には、大変立派な方がおられまして
絶えず攻撃を考えながら仕事に向かっておられると言う方が多いように思いました。
おそらく杉原さんもそういう方じゃなかったかと考えます。
日本に帰国し、外務省に復帰した年に杉原は将来の妻となる幸子さんと出会うことになる。
幸子さんによると杉原は決して毒舌な方ではなかった。
しかし、幸子さんが質問をすると「微笑みを浮かべて、言葉を選ぶようにわかりやすく答えて下さいました」と回顧されています。
戦時下であるその頃の日本は、今は男の人は優しいけれども、昔は威張っていて
男尊女卑が残っていましたよ。
主人と会ったとき、ちょっと違うなぁと思いました。海外で私は25人の男性とお会いしました。25人全員の男性の方々が女性に対する扱いが優しかったですよ。イギリスの紳士ですよね。
そういうところが日本の男の方とは違うなと思いました。
やがて、杉原と幸子さんは、結婚をします。
そして、昭和14年(1939年)8月。
二人に大きな転機が訪れたのです。
杉原がヨーロッパの東の国リトアニアの臨時首都カウナスに領事代理として赴任することになったのです。
当時、ドイツとソ連が不可侵条約ふかしんじょうやくを締結しました。
ヨーロッパ情勢は不安定でしたし、
両国の間にあるリトアニアでの杉原の最大の任務はドイツとソ連の情報を探ることだったと考えられています。
杉原が使っていた旧日本領事館の住居が^_^今も残っています。
もともと建物は、一般の人々が普通のアパートとして使っていたのです。
実際に今も人が住み生活を営んでいます。
この1階と2階を借りて、日本領事館として開設して。同じ建物の中に杉原が移り住んでいたのです。
杉原がリトアニアに赴任した3日後の9月1日にドイツ軍は、ポーランドに侵攻し、
イギリス、フランスはドイツに宣戦布告します。第二次世界大戦が始まったのです。
9月17日にはドイツと秘密協定を結んでいたソ連もポーランドに侵攻します。
9月28日にはポーランドはドイツとソ連に分割されました。
リトアニアの日本領事館にも、ドイツの影が忍び寄っていたのです。
リトアニア領事館で働いていたドイツ系のリトアニア人のグッチが、実はドイツの秘密警察ゲシュタポのスパイであったと言うのです。
幸子さんは、当時のことを次のように回想しています。
「彼は太っていて、優しい人で今回初めて知りましたが、主人からも聞いた事はなかったですね」
杉原のメモの中にも、グッチのことが消されている。
メモにはグッチの名前だけが残されていて、下の部分が切り取られている。
このメモの研究を進める渡辺和正氏は、おおやけにできない情報を隠すため、杉原自身が切り取ったと考えています。
グッチがですね、ドイツの国家秘密警察であると言う事は要するにゲシュタポですよね。
杉原さんは当然知っていたのではないでしょうか?
そして、ルーツに関することをメモにしていたと思うんですけど、やはり書き残すには抵抗があって
切り取ったんでしょう」
渡辺さんは、杉原千畝の行動はドイツのスパイに常に監視されていたと考えられています。
杉原千畝がリトアニアの領事館に赴任した
1年後の昭和15年(1940年)ソ連軍は、リトアニアに侵攻します。7月には、リトアニアはソ連に占領されます。
7月13日杉原千畝のもとに、ソ連から8月25日までに日本領事館を閉鎖し、明け渡せという命令が下ります。
5日の昭和15年(1940年)7月18日。
杉原千畝は領事館の周りが騒々しいのに気づきます。
窓の外を覗くと、そこには100人ほどの人々は集まっていました。
杉原千畝は当時のことを日記に次のように
書いています。
「とっさに、私は、これはただごとではないと思いました。
何か知らないが、とにかく領事館に用件があって、来集したものに違いないと直感したのでした」
集まってきたのは、ドイツに占領されたポーランドから逃れてきたユダヤ人の難民だったのです。
杉原千畝はピザの大量発給を始めることになるのです。11時前の事だったんです。
リトアニアの日本領事館というのは、当時新しく出たできた領事館でした。
杉原さんはリトアニア領事館を開設する任務がありました。情報収集と言うことで赴任したのです。日本人の補佐する方は1人もいませんでした。杉原千畝さんひとりで
会計から、電信など全部を自分で処理しなければならななったんですよ。非常に任務と責任が重くて、大変だったと思いますね。
そして開設した途端に、一年もたたないうちに、今度は領事館を閉めなければならないということになってきました。
その間に、ユダヤ人の難民問題が発生するというように本当に難しい状況に置かれたのではないでしょうか?
そして、領事館という事は、杉原さんのお家にドイツのスパイが入り込んでいたんです。これは杉原さんご自身はご存知だったと思いますよ。
奥さんは全くご存知じゃなかった。
奥さんが知っていたら、おそらく一緒に暮らせなかっただろうと思いますね。
このことを奥さんに知らせなかったという事は、杉原さんの優しいさでもあるんじゃないでしょうかねぇ。
外交の世界では、職員とか使用人に外部からスパイが送り込まれると言うのは決して珍しいことではありませんよ。
外交官としては、特に海外にいる場合は、絶えずそれは気をつけなければならないんですよ。
ただ、そうやって、送り込まれる方の人は
自分の本意でなくても、生活のためにということもあり、上から「やれ!」と言われれればやらざるを得ないというような状況だったのではないかと思いますね。
また、スパイ活動というのは同盟国であるとか、友好国であるとか、あるいは敵対国であるとか、そういうことと一切関係ありませんよね。
どのような国においても、情報活動というものを、どこかの国がやらされる恐れがあるわけですですよ」
リトアニア赴任の目的について、当時の情勢を含めて少し整理をしてみましょう。
昭和13年(1938年)、14年、
15年にかけましては、欧州の情勢というのは大変大きく動いていましたよ。
日本にとっては、ドイツとの関係、ロシアとの関係、これら2つの国についての両国はどう動いていくか、特にドイツとソ連との関係がどのようになっていくのか?
日本の国連にも、国軍にも大きく関わっている。
外務省としては、一生懸命情報収集を行っていたと思いますよ。
杉原さんがカウナスに送られたのも、そのためではないでしょうか?
リトアニアというのは、昭和15年にはもうロシアに併合されていましたからね。
つまり、飲み込まれてしまっていたのですよ。
そこで、リトアニア人の人たちは、情報に対する収穫が強くなっていたのではないかと思いますねぇ。
ドイツとかソ連についてのことをもいろいろ必死になって探っていたと思いますよ。
ですから、かなり良い情報がカルナスにあたんですよ。良い情報が得られたかも分かりませんが、残念ながら杉原さんがおられた期間というのは非常に短期間でした。
日本領事館前に集まったユダヤ人たちが、千畝さんにビザの発給を求めて来ました。
海外脱出を図るための、日本の通過ビザを発給してほしいということだったんですよ。
ポーランドを占領したナチスドイツの総統ヒトラーは兼ねてから人種差別政策を押し進めていました。ユダヤ人を迫害の対象としてきたんです。
ドイツが占領したヨーロッパの各地では、ユダヤ人たちがとらえられ強制収容所に送り込まれたんですよ。
犠牲者が四百万人以上とも言われるユダヤ人の大量虐殺が始まっていたんですね。
杉原千畝の前にいたユダヤ人は、ナチスの迫害から逃れようとして、ポーランド脱出してきた人たちだったんです。
日本を通過し、他国に脱出したい。そのためのビザの発給を求めていたんですよ。
杉原千畝はユダヤ人たちの代表者を呼び
事情を聞きました。
そして、彼らにこう伝えました。
「自分は与えた権限の許す範囲で
協力援助してあげたいが、なにぶん多人数
のこと故、外務大臣に伺いを立てるので
3、 4日待って欲しい」と。
当時の日本は、人種、平等を掲げていました。ユダヤ人も他の人と同様に
差別しないという方針をとっていました。
しかし、杉原千畝の前に集まったユダヤ人たちの大部分は着の身着のままでポーランドを脱れて来た人たちです。
ビザを受けるために、必要な書類やお金も持っていませんよ。
この頃の日本政府の方針を示す電分が残されています。
7月23日付で、外務省からベルリンに宛にに送られた電文には次のように書かれていました。
通過ビザは必要な書類と旅費を持たないものには発給してはならないと言うのですよ。
杉原千畝は外務省に電報を打ちます。
このときの電報は現存していませんません。
その内容は次のようなものだったんです。
ユダヤ人たちの申し出は
人道上どうしても拒否できません。
形式にこだわらず、領事館が適当と認めるものがあれば発給しても良いのではないでしょうか?
杉原千畝がビザを発給したユダヤ人のが記されるリストには通称杉原リストと言われる書類ですが、それによると7月9日からビザ発給が記録されています。
その数は、一日に数名から数十名程度でありましたが、あくまで、正規の書類を持つ人たちのみに発給していたことが判断できます。
やがて、外務省から回答が届きます。
記録によれば次のような内容でした。
「書類と所持金を持たない依頼人たちにビザを発給してはならない」というのです。
領事館の前に集まるユダヤ人たちの数は、日に日に増えていきます。
ソ連軍に命令された退去の日は近づいて
領事館が閉鎖されると、ビザ発給はできなくなります。
杉原千畝の一家は、毎日、窓の外のユダヤ人たちを見守ることしかできなかったんですねぇ。
ある日、5歳になる長男の大樹くんが幸子さんに尋ねます。
「パパが助けてあげるの?」
その言葉を聞いて、幸子さんは言葉に詰まりますが、やがてこう答えました。
「そうですよ。助けますよ。安心しなさい」
7月28日千畝は改めて外務省宛に領事館の様子を報告する電文を打ちます。
「ビザ発給を求め当領事館に押し掛けるユダヤ人達100名を超える」
千畝がユダヤ人達へのビザ発給を実行する1日前の事でした。

なぜユダヤの人たちは日本領事館に頼ってきたんでしょうか?








「昭和15年の頃です。7月から8月にかけて。
もう戦況が全ヨーロッパを覆っていました。
リトアニアあたりが、唯一可能な脱出ルートではなかったかと考えられますよ。
おそらく、シベリア鉄道で満州へ行き
中国へ逃げるという事しか残されていなかったんじゃないでしょうかね。
その場合、元来ポーランドは新日感情が非常に強いところでしたし、
ユダヤ人たちも日本に行けば迫害されないで、何とか生き延びることが可能じゃないかというような期待感があったと思いますよ。
しかも、それは、ポーランド人の人たちの信頼感というものが、根底にあったのではないかと思いますよね。
ヨーロッパ情勢は複雑でしたからね。
むしろ遠いと思われていた日本が一番近かったんですよ。彼らにとっては。
領事館の垣根が国境みたいな感じになっていたと言うふうに考えられるのではないかと思います。
杉原さんも本国の外務省からの圧力とそれから現地の本当に生死の境界をさまよっている人たちの間に立って大変ご苦労されたのではないかと思いますよ。
日本はナチスのような人種差別はしないということを国策として持っていましたからね。当時とすればこれは凄いことですよ。
国際連盟の設立当時ですね。日本は人種差別撤廃ということを国際連盟の柱として打ち立てているんですね。
結局それには失敗しましたけれども、それが基本国策の一つだったと言う事は事実ですよね。
問題は時間がない。
非常時であると言うことですよ。
本国の外務省からの命令はやはり原則的一般的なことが多く、現地とのやりとりを通して現実的な対策が浮かび上がって、実際実施されていくという過程がいくつもあるんですよ。
杉原さんの場合には、全く一つそこらで、物事が進んで結論がついてしまうというような状況でした。
また、当時は、通信事情も非常に悪く
本国の外務省との間で意見の交換や意思疎通を図るという事は大変難しかったと思います。
そういう困難な状況の中で、杉原さんは対処されたわけですからね。
杉原千畝は、妻の幸子さんのかたわらに立っていて、夫は行く日も眠らない夜を過ごしたことを幸子さんは知っていたんですよ。
幸子さんは、当時の二人の会話を述懐しています。
「ビザを出そうと思う。
どう考えるって?」私に聞きました。
我々も捕まえているユダヤ人を逃がすんですか?
「私たちも、ただでは済まないだろうな」
連れて行かれるかも知れないないよ。
主人も私も3人の子もみんな捕まるかもしれない。お前はどう思う」と言うんですよ。
そして幸子さんは、こう答えたといいます。

「私たちはどうなるかわかりませんけれども
ユダヤ人の人たちを助けてあげてください」

杉原千畝は妻のこの一言で決断したのであった。

昭和15年(1940年)7月29日。
領事館の扉は、門の前に立つすべてのユダヤ人の人々に向かって、大きく開かれました。ユダヤ人の人々はこの時のことを誰ひとりとして忘れた人はいません。この時、ビザ発給を受けて日本を通過して生き延びたユダヤ人の人々の子孫が3万人以上もいるのですから。「スギハラ」の名前は永遠にユダヤ人の子孫に受け継がれているのですから。(蔵屋日唱談) 
1940年7月29日からは1分間の休みもなく、ユダヤ人難民のための日本通過ビザ発給作業を開始したわけです。
ピザは手書きだったんですよね。
杉原千畝は食事もろくに取らず、朝から夜遅くまで手が動かなくなるまで書き続けたといいます。
杉原リストによると、7月25日に発給したビザは121枚、杉原千畝は以後1日平均、およそ100枚のビザを1ヵ月近くに渡って発給し続けました。
9月5日、ついにの杉原千畝の一家が、リトアニアを去る日が来ました。
一家はベルリンへ向かう列車に乗り込みます。ユダヤ人たちは、カウナス駅のホームに群がってビザの発給を求め続けます。
杉原千畝は1枚1枚ビザに変わる通行証明書を発給し続けました。
そして、ついに出発の時間になったんです。

「許してください。
もうこれ以上は書けないよ」

杉原千畝が発給した数の記録は2139 枚。
ビザによって命を救われた大人はおよそ6000人と言われています。
昭和15年(1940年)9月20 日。
日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結します。
翌16年(1941年)12月8 日。
日本は、ハワイの真珠湾を攻撃します。
戦火は世界に広がっていきました。
第二次世界大戦の突入です。
杉原千畝はプラハやドイツのケーニヒスベルク、ルーマニアのブガレストの領事館を
家族を引き連れて、終戦までヨーロッパ各地を転々としました。
昭和20年(1945年)5月。
ドイツは無条件降伏をします。
同じ年の8月日本は、ポツダム宣言を受諾します。
2年後の4月に杉原千畝は日本に帰国しました。
その時、千畝は47歳になっていたのです。
ある日杉原千畝は外務省の呼び出しを受けました。
それは退職勧告だったのでした。
昭和22年((1947年)6月13日付で正式退職の通知が出ました。
杉原千畝はその後、貿易会社に勤めたり、翻訳や語学指導に携わるなど、職を転々としていきます。
千畝はユダヤ人へのビザ発給については、自分からあえて語ろうとはしなかったといいます。
そして、昭和43年(1968年)8月9日ににイスラエル大使館から一本の電話がありました。
大使館で待っていたのは、千畝が28年前にビザを発給した1人のユダヤ人だったんですね。
ユダヤ人たちは、外務省を退職して、消息がわからなくなった10年間、ずっと杉原千畝を探し続けていたんですよ。
ビザ発給から45年後の昭和60年(1985年)11月1 日。
イスラエルのサイルの丘に杉原千畝の 顕彰碑けいしょうひが建立されることになりましたました。
この時、杉原千畝は病気のため、もはやイスラエルに行くことはできなくなっていました。変わって出席した息子の伸介さんから病床の杉原千畝に手紙が届きます。
手紙にはこう綴られていました。
「握手をする手も休めない。
皆、本当に心から感謝をしていました。目を見ると、それは感謝の涙で目が潤んでいたのです。僕はこんなに立派な両親を持って幸せだと改めて思いました」
その時千畝の目には熱い涙が溢れていたと幸子さんは書き残しています。
半年後の昭和61年(1986年)7月。
千畝は86年の生涯を終えたのです。
昭和15年(1940年)7月29日は
大量ビザ発給をし始めた時です。
杉原さんには既に領事館を閉めるようにと言う命令があったわけです。
それからそれに政府も早く閉めると言うようなことだったと思うんですよ。
そういう中で、ビザをもう発給出来ない。
さっさと領事館を閉めて、ホテルへ移るというような手段もありえたと思うんです。
杉原さんの手記にもそういう事は書かれています。
しかし、あえてできるだけ命令を広く解釈して、
この生死の境界をさまよっているユダヤ人たちを一人でも多く助けたいという決断を下された訳ですね。
その決断をする時は、家族にも何か迷惑なことが起こるかもしない。
あるいは、自分の将来にも不利が生じるかもしれないということなどをいろいろ心配されたと思うんですよ。
しかし、それよりもユダヤ人難民を助けてあげたかったんですね。
何によりも増して迫害されているユダヤ人の気持ち。
それから、国際情勢を的確に見ておられたということがあったと思うんですよ。
ナチスがどういうことをやっているかということもご存知だったと思います。
こういう気の毒な人たちに、何とか生存のチャンスを与えてあげたいものだという気持ちで、そういう決断を自分の責任でおやりになられたと思うんですね。
外交官というのは、国を代表して、それぞれ任地の責任者ですから。
それぞれの任地で国の方針とは違う決断をするというのは大変な悩みがあったと思いますね。

これは外交官のお仲間にとって、経験者としての関さんにお伺いするのですけれど、これはとてつもなく困難な状況なのでしょうね。
今でもそういう状況はあると思いますよ。
もちろん今は通信連絡が非常に便利になっていますけど。
そういう意味で、やはり杉原さんは立派におやりになった。
人道的、あるいは博愛主義の立場で
その決断を自分の責任で行われたという事は、やはり今の人々の心を打ちますよね。そういうことを通じて、私たちは今後の歴史の方向に間違いのないところへ向けていくということができるようになるのではないかと言う感じがしますよ。
語り継がれている話ですが、千畝さんは現代になり注目を集めるようになっています。
日本では、その行為を語り継ごうとする動きが、今始まっているますよね。
平成17年(2000年)10月10日
杉原千畝を称え記念のプレートを設置する式典が、外務省の外交資料館で行われました。

「勇気ある人道的行為を行った外交官、杉原千畝」とプレートには刻まれているんですね。

そして、「御無礼があったことを、ご家族に心からお詫びしたい」と
正式に外務省からの謝罪があったんです。
その2ヶ月後、大阪で杉原千畝生誕100年記念式典が開かれました。
式典には多くの大臣が列席して、かって
杉原千畝が命を救ったユダヤ人の子孫は
現在、全世界で32,000人余りに及ぶと言われています。

杉原千畝さんからビザを発給された人々の中の2人が、当時を振り返りました。

ジェイコブエドマンさんのコメントです。

「生きるか死ぬかの問題ででした。
彼は救世主ですよね」

シール・カムイさんのコメントです。

「私たちはとても幸運でした。今もこうして生き延びているんですから。
杉原さんは天使だったんです」


晩年の杉原千畝は自らが行ったことに関してこう語っています。

「私のした事は、外交官としては、間違ったことだったかもしれません。
しかし、私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかったんです。
大した事をしたわけではありませんよ。
当然のことをしただけです」

この小説を執筆した蔵屋日唱はこの偉大な人物のこの言葉に涙したのであった。
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前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
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